「「あした」この樹の下で」内村 誠一郎

  わたしの夫、淳一はこう言ったことがある。
「今の自分の考えと行動を変えないで、生き方を変えようとするなんて無理な話だよ」

 桂子さんの読書会のことは久良岐書店の立花さんから教えてもらった。
 そして、そこに参加したのは、この夫の言葉が心にかかっていたからだった。
 横浜では梅雨入りをしていたけれど、六月の第二月曜日はよく晴れていた。
 わたしは教えられた通りに平沼橋駅を出て、商店街を抜け、長い坂道を登り、県営住宅の階段を二階まで上がった。
 ドアの前に立ち、ひと呼吸を置いてチャイムを鳴らした。
 すぐにドアが開いて小柄な老婦人が現れた。
 次の瞬間、彼女はわたしを見て驚きの声を上げた。
「まあ、いらっしゃい!やっぱりそうよ。桂子さん!また来てくれたわよ!さあ、上がって、上がって」
 わたしを誰かと勘違いしている。
「今、ちょうど桂子さんと鉢植えの月下美人を見ていたのよ、今年は咲きそうだと言っていたでしょ」
「あの、わたしここに来たのは初めてで・・・」
 わたしは彼女にグイグイと手を引かれ、ダイニングキッチンを抜けベランダに連れ出されてしまった。
 そこには銀縁の眼鏡をかけた老婦人が立っていた。
「こんにちは、いらっしゃい」
 それが桂子さんだったのだが、まったく驚いた様子もなく笑みを浮かべていた。
 足元の大きな素焼きの鉢には、白い八重咲きの花がひとつ咲いていた。
 これが月下美人?孔雀サボテンでは?花まで勘違いしていると思った。
「日野さん、その人は赤松さんじゃありませんよ、人違いですよ!」
 よく通る声が台所から響いた。見ると和服姿の男が立っていた。

 読書会とは静かに始まるものだと想像していた。
 ところが、人違いの件で挨拶や自己紹介もそこそこに盛り上がってしまった。
「日野さんは本当にそそっかしいんだから、あなたアチコチで人違いしているんじゃないの?」そう言ったのはこの会にいちばん長く来ている三好さんだった。
「だってさ、玄関は薄暗かったし、見た目も声も似ている気がしたんだよね・・・」
「なに言ってんのよ、ぜんぜん似てないじゃない、あたしはすぐにわかったわよ」そうピシャリと言ったのは、二番目に長く参加している富樫さん。
「日野さんらしいわね」
 そう言ったのは物静かな大内さん。
「参ったわね、私としたことが・・・でも、あなたの方がずっと美人よ、そうだ、だから月下美人が咲いたのよ!」
 日野さんは何を言われても一向に平気らしく、アハハハハと笑った。
 そして、和服姿の細川さん・・・彼は何も言わなかった。
 婦人たちはみな七、八十代だったけれど、彼はわたしより三つ年下の三十二歳だった、見るからに無口そうで、妙に老成したような雰囲気を持っていた。
「日野さん、また変なことを言って初めて来た人を怒らせたりしないで頂戴よ」
 最後に桂子さんが笑いながらも釘を刺すように言った。
 いったい何を?わたしは少し心配になった。

「さあ、みなさん、お喋りはこれくらいにして、目を閉じて黙想してから始めましょう」
 本を読む前に目を閉じて心を静める、それはわたしにとって新鮮なことだった。
 桂子さんの「読書会」は毎月第二と第四月曜日の二回開かれ、それが二十年も続いていた。
「いろいろな人が来てくれてね、何年も加わった人もいたし、一度きりという人もいたわ、みんな不思議な縁だわね」
 読書会では古典から現代の作品まで幅広く取り上げられて来ていた。
 そして、それらの作品をひとり何章と決めて輪読をすることになっていた。
 わたしには声を出して本を読むのは中学生の時以来だった。
 音読することは黙読するのと違い、本と向き合う気持ちがまったく変わる。読み方は人によってさまざまだった。感情を込めて流れるように、あるいはそれとは逆に棒読みというように。
 けれども、どんな読み方であってもそれに耳を傾けていると、桂子さんの六畳の居間にその本の世界が立体的に浮かび上がって来るのを感じた。

 決めたページまで読み終わると、それぞれ感じたことについて話をする。
 ある人は多弁に、またある人はぽつりぽつりと言葉を選びながら。
 ときどき本のテーマから脱線すると、桂子さんがそれを上手に本題に戻すのだった。
 やがて感想が出尽くした頃合いを見計らってまた黙想をする。
 そこから後はお茶の時間となり持ち寄ったお菓子などを頂きながら、あれやこれやと自由なお喋りをした。
 細川さん以外はみんな言いたいことが沢山あって話は尽きなかった。
 そして、時にはわたしが最後まで残って桂子さんと一緒に晩ご飯まで一緒に頂くこともあった。
 大根の煮物、肉じゃが、焼豚、カレー・・・桂子さんは長く調理の仕事をしていたので、そのどれもが美味しかった。

 桂子さんの読書会に参加するようになって五ヶ月が過ぎた。
 その日もわたしは楓の落ち葉を踏みながら長い坂道を上って行った。
 チャイムを鳴らすと、ゆっくりとドアが開いた。
 桂子さんが左手首に包帯を巻いていた

 わたしは溜まっていた食器を洗い、テーブルの上を片付けた。
 大難が小難で済んだのよ、わたしが淹れたお茶を飲みながら桂子さんは言った。
 聞けば、一週間前に買い物に出かけた時、商店街で転んだのだという。
「急に地面が無くなったような気がしたと思ったら、転んでこの姿よ」
 周りに居た人たちは、救急車を呼ぼうと言ったが、ご主人の頃からかかりつけになっている医院に連れて行ってもらったのだという。
 「そこの先生はいい先生でね、お母さんが読書会に来ていたことがあったんだけど、その縁でもしあたしに万が一のことがあったら何とかして上げるよって普段から言ってくれていてね。それでわたしが倒れて担ぎ込まれた事を方々に伝えてくれたの。そうしたら、その話がどこでどう取り違えられたのかしらね・・・先生、どうしたものかと迷ったけど、これが届きましたって持って来てくれたのよ」
 桂子さんは一枚の紙を差し出した。

 三富桂子様の葬儀に詩一篇を捧げます
                     相原 晴雄

寮の食堂で
寮生たちと楽しそうに笑っていた おばさん

寄り添ったご主人を看病して
不平ひとつなかった おばさん

あなたは人をひたすらに愛することを
露一つ疑わなかった

今、天国で神の家族に会って
どんなに喜んでいるか顔を見たい

多分、あの童顔のおばさんの
にこにこ顔と変らないでしょう

「これは・・・」
 何と言っていいかわからなかった。
「あたし、この人に電話したの、向こうはビックリして謝ってたけど『ちょっとあたしを持ち上げすぎじゃないの』って言ったら『おばさん、本番の時にはもっと感動的なのを書きます』だって、お互いに大笑いよ。でも、これを見せて上げるのはあなただけ、他の人には言わないでね」
 そう言って桂子さんは悪戯っぽく笑った。

「でも、不思議だったわ。ねえ、転んで気を失いかけたんだけど、そのとき誰のことが頭に浮かんだと思う?」
「ご主人ですか」
「そうじゃなかったの、なぜかずっと前に別れた女の子のことなの、その子のことは忘れていたんだけど」
 わたしにはご主人や親兄弟でもなく、心の奥底に隠れていた女の子が咄嗟の時に顔を出したことが不思議に思えた。

 六十年前、桂子さんは静岡県にある結核療養所の炊事場で働いていた。
 所内にはそこで働く職員たちの住宅があり、桂子さんもまた、母親と二人でそこで暮らしていた。
 桂子さんの家の隣には事務所で働く山名という三十代の男の家族が住んでいた。
 彼には妻とちえ子という四歳の女の子、そして、生まれたばかりの男の子がいた。
 この男の子は二人の間に生まれた子供だったが、女の子は亡くなった先妻との間に生まれた子だった。
 この夫婦は諍いが絶えず、ある日、妻は自分の産んだ子を連れて家を出てしまった。

 療養所には託児所があったので、ちえ子はそこ預けられた。ところが、全くそこに馴染まず、たびたび「脱走」を繰り返しては大人たちを困らせた。父親は叱ったり宥めたりしたが一向に言うことを聞かなかった。
 そんな時、山名は思いつきで隣の桂子姉ちゃんのところだったら行くか?と聞いた、すると、なぜかちえ子は「行く」と返事をした。
 そこで昼間の間、それは主に桂子さんの母親だったが二人で、彼女の世話をして遣ることになった。

 三ヶ月ほど経って、山名の妻は戻って来た。
 ところが、間もなく夫は親戚が横浜で経営する会社で働くことが決まったといって療養所を退職した。

「そういういきさつがあってね」
 桂子さんは立ち上がると隣の部屋から「随想日記 昭和三十年」と記された緑の日記帳を手にしてページを開いた。
「ここに、その時のあたしの気持が書いてあるの」

 十二月十七日 土曜日 大風
 午後一時、山名一家は園を出た。
 見送ってやりたい、でも、行けば辛くなるのは分かっていた。
 立ち去る際にひと騒動あった。
トラックが来て、出発という時、ちえ子の姿が消えた。
 辺りを探し回ったが見つからない。
 私は園の菜園まで行った、すると、そこに笹薮を背にして立つちえ子の姿があった。
 手を引いてトラックまで連れて行った。
 途中で「また会えるから心配ない」と言ってしまった。
即座に「ほんとう?あしたまた会えるの?」ときかれた、私はうなずいてしまった。
 ちえ子は行ってしまった。
 涙も出る暇が無かった。
 手探りで時計を引き寄せて見ると、午前二時だった。
 ちえ子は何処で仮寝の夢を結んでいるのだろう、そのことが思われてならない。

 私にとってちえ子は愛しい子でした。
 今日わかれて、再びまみえる日があるとは思えません。
不覚にも、「また会えるから心配ない」と言ってしまいました。
 願わくば彼女の人生の安からんことを祈ります、家庭に恵まれぬ彼女にあたたかき人生の導きをお与えください。
 彼女によき友と学びの場を与えて下さい。そして、よき伴侶をお与えください。そして、温かき家庭を。
 人の世の荒波を揉まれ、恐るべきことごとにその行く手を立ちはだかれても、ひとりのこころ強き女性として生き抜く力をお与えください。
 その人生が如何に試練に満ちていようとも、その与えられた生を中途で擲つことなく、その生涯を全うさせて下さい。
 そして生き抜いて来て好し、と回顧し得る人生をお与えください。

 「この子がもし元気なら、今頃どうしているかなって思うの」

 わたしは以前、生き別れになっていた兄弟がネットで互いの所在がわかって再会したと聞いたことがあった。
 あるいはその子だって。
 わたしは家に帰るとパソコンの前に座った。
『ちえ子 結核療養所 四歳 実の父 継母 横浜、親戚』と思いつくままにキーワードを打ち込んで検索をした。
 予想した通り、ズラリとそれらの言葉を含んだ候補が現れた。そして、そのどれもが違うものばかりだった。
 こんな思いつきで見つかったなら奇跡だ、わたしには心の中でつぶやききながら、延々と続くブログのタイトルを飛ばし読みし続けた。
 そもそも、ちえ子が今も健在で、自分のブログを持っている、あるいは、他人のそれに何か「あしあと」を残している可能性はどれくらいの確率なのか?

 どれぐらいの時間探し続けたのだろう。
 もう、いい加減に止めようかと思った。
 けれども、不意に夫が本で読んで教えてくれたひとつのエピソードが心に浮かんだ。

 ある男が朝、海岸を散歩していると無数のヒトデが打ち上げられていた。
 やがて死んでしまうだろうと思っていると、ひとりの少年がそれを拾っては海に投げ返しているのに出会った。
『こんなに沢山いるのに無駄なことだぞ』
 男は言った。
 ところが、少年は『でも、このヒトデには大きな違いだよ』と言って、更に一匹のヒトデを海に向かって投げた。

 奇跡?
 これをそう呼んでいいのだろうか?
 わたしにはわからない。
 けれども、確かに「ちえ子」はいた。

 私には実の母の思い出はありません。
 私の記憶は実の父と継母、その間に生まれた弟とで暮らしていたサナトリウムでの暮らしからおぼろに始まっています。
 そこは松林に囲まれた土地で、むかし、ここで大きな合戦があった所だと教えられました。そして、遠くに大きな湖が広がっていました。
 父はそこで働いていましたが、仕事が変わり私たちは引っ越しまた。
 やがて次第に両親は不仲となり、ある日、父は家を出てついに戻りませんでした。
 継母は弟を連れて出て行ってしまい、私は施設に入ることになりました。
 そして、十歳の時、アメリカ人夫婦の養子となり、ミッションスクールに通うことになりました。
 私は高校を卒業して就職し、そこで出会った夫と結婚して二人の男の子を授かりました。
 私たち家族は、夫の転勤であちらこちらと移り住んだけれど、今はこの再びこの横浜に住まいを定めることが出来ました。
 自分のことを話すとき、私と病気との関わりがあります。
 三十八歳のとき、右乳房にウズラの卵ほどのしこりを見つけました。
 大学病院の産婦人科に行くと「検査入院してください。手術をして良性なら早く終わりますが、悪性なら六時間以上かかります」と言われました。
 手術はリンパまで取る大手術となり、太ももからの皮膚移植で足はヒリヒリと痛く、呆然としてしまいました。
 退院して家に帰ると、夫と子供たちのことを考え、悲しくわるいことばかり想像して、遺書を書きかけました。
 すると、それに気付いた夫から『死に急いではダメだ』とたしなめられました。
 十年間は静かに過ぎました。しかし健康診断で再検査となり、転移していることがわかりました。
 更にその直後、長男が突然死しました。二十五歳でした。
 次男は長男の枕元にあった養父母の遺した聖書を開き『朽ちるものは、朽ちないものに変えられる、兄ちゃんは死んだんではなく、天国に行ったんだ』と、私を慰めてくれました。
それでも、悲しくて、辛くて、どのようにして毎日を過ごしていたのか、あまり覚えていません。
 それでも、夫と次男、そして長男を悲しませたくなくて必死になって前向きに生きようと努力しました。
 夫はこんな言葉を見つけて渡してくれました。
『つめたいお墓の中にには僕はいかない、あなたの温かい心が僕のいるところ』
 抗がん剤の治療は私には辛く、髪の毛は抜けカツラをかぶりました。
 検査の数値は上がり下がりを繰り返しました。
先生は治療の継続を勧めてくれましたが、私は「同じことの繰り返しになるので」と断りました。天国がとても近くに感じられました。
 すると、先生は「それなら新薬で、まだ認可されていないが」と別な薬を処方してくれました。
この薬は劇的に効きました。
 感謝で毎日が幸せでした。
 もちろん、生きてゆく中で、さまざまな出来事があり、悩みや悲しみむこともありますがそれでも幸せです。
そして、生きている幸せを少しでもお返ししたいと地域のボランティアも始め、体力を維持するため近くにある「こども自然公園」を夫とウオーキングしています。
 この公園は横浜の西郊、旭区の大池町にあります。
 緑ゆたかな森には蛍が舞い、静かな水の流れはカワセミの飛び交う大小ふたつの池をつくり、その水は帷子川から横浜港へと注ぎます。
 大げさな言い方かもしれませんが、ここは私にとってのある意味「聖地」なのです。
 うれしい時、悲しく辛い時、私は夫と共にここに来ます。
歩きながら、立ち止まりながら、今まで沢山のことを森の中、池の畔で夫に話しました。
 でも、それはほとんどの場合、答えが欲しいのではなく、ただ聴いて欲しかっただけでした。それを夫は黙って聴き続けてくれました。
 私と夫は心待ちにしている季節があります。
 それはこの公園に桜の季節が訪れるときです。
 ここは桜の名所でもあり、花の季節にはひとつの丘が地上に降りた桜色の雲と見まごうばかりに変身をします。
 公園内の数ある桜の中、私がとくに愛する一本の樹があります。それは公園の奥に広がる水田を見下ろすように立っています。

 春は三月、花は一分咲きから満開へ、そして桜吹雪は土の道を花の道に変えます。
 そして、若葉はホトトギスの啼く声を聴きながら更に緑を濃くしてゆきます。
 やがて、子猫の毛のような細い雨が太い幹を濡らす梅雨を迎えて送り、蝉時雨のバックコーラスと暴風雨に身をよじらせる夏もやがて尽き、ひと雨ごとに秋は深まり、桜紅葉の舞うフィナーレとなります。
 そこには、巡る季節を共にしたひと葉、ひと葉への愛惜が紅く染付けられています。
 私はその一枚一枚を拾い上げます。
 紅く染まった葉のどれを見ても、虫に喰われ、風に破られた穴や欠けのないものはありません。
 どんなに美しく染まった葉にも、それはあるのです・・・

 わたしは桂子さんにプリントアウトしたブログの記事を届けた。
 彼女はそれを読み終わると、余りにも符合し過ぎていてこわいみたい、と言って息をついた。
 ブログには、並んで座っている夫婦の後姿を撮った写真もあった。
「この人がそうなのかしら・・・」
 桂子さんそこに指を置きながらつぶやいた。
「このブログ、コメントが出来ますから、ケイコさん、尋ねてみたらどうですか」
 わたしは勧めてみた。
 しばらく考えていた桂子さんだったが、首をふった。
「まだ今は『その時』ではないような気がするの、理由はハッキリとは説明できないけれど、もしこの人が本当にちえ子ちゃんで、再会するならその時と場があると思うの」
 だから、今はこの人となりを知っただけでいい、このままにして置きたい・・・でも、この公園には行ってみたい、そして、この桜の樹を見てみたい、と桂子さんは言った。

 はじめ、わたしには桂子さんの気持ちが理解できなかった、もしかしたら、すぐにレスポンスがあってすべてが明らかになるかもしれないのに。
 けれども、次第にその気持ちが分かる気がしてきた、桂子さんは決して急がない人なのだ。いや、急がない人だからこそ今があるのかもしれない。
 だからこそ二十年もの間、ひとつの場所に集まり、集う人たちとの出会いを大切にし、一冊の一冊本を慈しみつつ読み、語り合う読書会を続けて来ることができたのだろう。
 桂子さんはこの出合いも一冊の本と同じように大事にしたいのだと感じた。

 昼休み、わたしはカフェテリアで午後、実験室に納品される試薬のリストを確認していた。
 白衣のポケットの中から呼び出し音が鳴った。
 その時もまた、別な研究棟で働いていた夫からだと錯覚をしてしまった・・・わたしには今でも夫が実験室で実験に取り組み続けている気がしてならない・・・
 桂子さんからだった。
「昨日、細川さんが仕事の帰りに立ち寄ってくれてね、ちえ子の話をしたら、えらく感心していたから『来週の土曜日、その公園に行くから一緒に来てみる?』って誘ったの、そしたら、ご一緒させて下さいっていうの、いい?」
 いいもわるいも無いので、はい、とわたしは返事をして待ち合わせの時間と場所を決めて電話を切った。

「細川さんはね、時間に正確なのよ」
「そんなタイプですね」
 時計の針は間もなく一時を指そうとしていた。土曜日ということもあり、相鉄線横浜駅の改札口は混んでいた。でも、わたしには人波の彼方から近付いてくる細川さんがすぐに分かった。
「あの人、いつもあの格好なんですか?」
「そうね、もちろんお勤めの時は違うだろうけど、ウチに来る時は大抵あの姿ね」
 和服を着ている理由は何なんでしょうかね?
さあ?という返事だった。

 ホームには濃紺のボディカラーの電車が見えた。
 桂子さんが言った。
「あら、この電車なかなかイカしているじゃない、これに乗るの?」
 桂子さんを真ん中にして車両の中ほどの座席に座った。
「この電車は新型?ネイビーブルーっていうの、なんだか懐かしいような、それでいてスマートな感じね」

 発車まではまだ間があった。
 とりとめのないの会話が途切れ、沈黙がながれた。
 すると、この時と場を待っていたよう桂子さんが小さく咳払いをして話はじめた。
「相鉄線には・・・忘れられない思い出があってね、もう、四十年も前・・・その頃、あたしは海老名まで仕事に通っていたんだけど、長く患っていた母が亡くなったの。もう、喪失感が大き過ぎて、立ち直れないと思ったわ」
 車内に停車駅を告げるアナウンスが流れた。
「精一杯看取ったつもりだったんだけど、母の亡くなったあと後悔してばかりでね」
 桂子さんは言葉を切ると小さく鼻を鳴らした。
「ひとりになった時が辛くてね、考え込んでしまって・・・
そんな時、仕事の帰りに電車に乗って、前の席に座っているお爺さん,お婆さんたちをボンヤリと見ていたら気が付いたの」
「何をですか?」
「あたし『この年配の人たちはみんな、自分の親を見送ったことのある人たちばかりに違いない、きっと、とっても辛くて、悲しかっただろうけれど、それを乗り越えて生きて来て今日はこの電車に乗っているんだ』って、そしたら、なぜか今までの悲しい涙とはちがった涙が滲んで来てね・・・その時から、気持ちが少しづつ切り替わったのよ、だから、この電車に乗るとそのことを必ず思い出すの」

 わたしの夫、淳一は六年の結婚生活を遺して逝ってしまった。
 その日の朝が永遠の別れになってしまった。
 それは思いもかけなかった突然の別れだった。
 わたしは、日々の暮らしのなかで、不意訪れるに悲しみや後悔、そして、言いようのない怒りに襲われていた。
 あの日、車ではなく電車で行くことを勧めていたら、家を出る時間が前後に何分か違っていたら・・・生前、夫には研究者として取り組みたいアイディアがあった、本当ならばそれをわたしが引き継ぐべきなのだろう、しかし、それも手付かずのままだった。
 このわたしの遣り場のない気持ちはいったい何処に持っていったらよいのか・・・夫は言っていた「人間の頭脳はとても優秀に出来ているから、『なぜ?』と問いかけると必死になってその答えを出そうとする、けれども人生にはその質問に答えの出ないものもある、その結果、そう問いかけることで余計に悩み苦しむことがある、だからと『なぜ?』問いかけるのではなく『何のために?』『どうしたらいいのか?』と問いかけたら好い・・・と。
 そして、その答えは自分の身近にある・・・とも言っていた。
 わたしは車内の男女をひとりひとりを見つめてみた。
 発車のベルが鳴り、ドアが静かに閉まった。

 わたし達が降りた二俣川の駅は大きく様変わりしようとしていた。タワー型のマンションは建築中で、駅は工事の途中だけれども、白い綺麗なビルに建て変わろうとしている。
 桂子さんは駅前には昔、大きなゴルフの練習場があった、と言ったがとても想像が出来ない。
 わたし達はバスに乗り、色づくイチョウの並木と商店街の続く道を抜けてこども自然公園に向かった。

 わたしは小学生のとき、ここに遠足で来たことがある、お弁当を食べたのはどこだったのだろう?一つ目の静かな池に沿って歩きながらを見回してみたが思い出せなかった。
 二つ目の池を左に見て過ぎると、森と森のあいだにた水田が開けていた、そして、それが尽きた土手の上にに大きな桜の樹があった。
 桜の樹は大人三人で抱えるほどの太さがあった。
「本当にこの場所があったんだねえ」
 わたしもそう言う桂子さんと同じ思いだった。
 わたし達は樹の下で写真を撮った。
 風が吹くと葉が舞い落ちて来る。
 わたしはその何枚かを拾い、陽に透かして見た。葉脈に沿って燃えるような紅色に染まった葉には、一枚として穴や欠けのないものはなかった。
 わたしは何気なくスマホを取り出してちえ子さんのブログを開いて見た。
「ちえ子さんのブログ、更新されていますよ」
「本当?それじゃ、聞くから読んで頂戴」

 来週、検査のために主人と病院へ行くことになりました。正直、病気のことを考えると不安になります。
 検査の数値は基準内なのに、半年前から少しずつ上がりはじめています。先生は問題にしないかもしれませんが、でも、私は怖さを覚えるのです。自分の弱さに情けなくなります。
 けれども、癌と言う肉体の棘を与えられて。創られた生命の不思議さ、この世界の素晴らしさに感動を覚え、人が会いしあう大切さも教えられました。自分の内にある弱さと傲慢さも知りました。癌とともにあることは、私にとって恩恵でもあるのです。
 主人はいつも私の不安や愚痴を聞いてくれてます。そして、共に心配してくれています。だから、自分のためだけでなく、主人のためにもできるだけ元気で共に生きたいと願っています。
 思えば、多くの人たちの温かい思いやりと祈りの中でこれまで支えられて来ました。
 時に応じて、苦しみの中にも慰めが与えられ、今日まで来ました。
 これからも私は今までのように迷うことでしょう。
 でも、聖書を前に祈りながら、検査数値に振り回されず、明日のことを思い煩わないで一日一日を大切に歩んでゆきたいと願っています。
 いま、私は公園のあの桜の樹を思い出しながら書いています。
 今は花よりも美しいという人さえいる桜紅葉の季節です。
 来年も、そしてその先もまた、私はそこに立ちたい。
 明日、私はあの樹の下に立ってみようと思っています。

「桂子さん、お返事してみますか?」
 わたしはあえて訊いてみた。
 桂子さんは微笑みながら首を振った。
 そうだ、これでいいのだろう。
 この先、桂子さんは自分のことを明かすかもしれないし、明かさないかもしれない、それはどちらでもよいことなのだ。
 ただ、自分が祈ったことがどうなったかを知り、その人が愛している場所を訪れることが出来たので十分なのだ。

 桜の樹に別れを告げ、私たちは森の道を抜けて南万騎が原駅まで歩いた。
 駅前にはスーパー、ドラッグストアー、ベーカリーがあり、「みなまきラボ」というまちづくりのイベントやワークショップを行っている拠点があった。
 それらを見て過ぎると、緩やかな段差のある白い広場が駅へと続いていた。
 細川さんが淹れたてのコーヒーと温かい緑茶を買って来てくれた。わたしたちはそれを手にして広場を見下ろすベンチに座った。
 「今日は本当にありがとうございました」
 桂子さんは左右のそれぞれの手でわたしと細川さんの手を握った。

 細川さんを見ると、彼は何か言い出そうとして、それをためらっているようだった。
「僕は・・・社会人になりたての頃・・・この駅から電車に乗って勤めに行っていたんです・・・」
 そして、コーヒをひとくち呑むと意を決したように更に話しはじめた。
「もう十年も前になるけど、仕事がうまくゆかなくて、悩んでました。その時、毎日親父が黙って車でこの駅まで送ってくれました・・・」
「そう」桂子さんがうなずいた。
「・・・それまでも随分と僕は心配をかけっ放しでした・・・親父は仕事を大事にして欲しいと願って、そういうかたちで僕を応援してくれていたんです、でも、それに気が付いた時のは親父が亡くなった後でした、親不孝ですよね・・・」
「そうだったの・・・でも、この世に親不孝な子供なんてひとりもいないんじゃないの」
 細川さんは意外な顔をして桂子さんを見た。
「だって、子供を育てるってこの世の中で最高のエンターテイメントじゃないのかしら、そう思わない?」
 子育てがエンターテイメント?
「子供を育てることは、いったい何が起きるか分からないハラハラドキドキの体験よ、でも、振り返ってみれば、それが出来ることは幸せなのよ・・・細川さんは生まれて来ただけで十分に親孝行の使命を果たしているのよ、そう考えなさいな」
「子育てはエンターテイメントですか?」
「そうよ、細川さんは最高のエンターテイナーよ、生まれながらにしてね、子供はみんなそうなのよ」
「そうですかねえ・・・」
 細川さんは腕組みをして黙り込んだ。
 広場の木立から黄色い欅の葉が舞い落ちて来ていた。
 それを五歳くらいの男の子がキャッチしようと段差の上で懸命に飛び跳ねていた。
でも、なかなかうまくつかめない。
 桂子さんはそれを面白そうに見つめていた。

 月曜日、桂子さんから速達で手紙が届いた。
 手紙には赤く染まった桜の葉が一枚添えられていた。

 前略
 今日は私の勝手なお願いにお付き合い頂き、感謝に堪えません。
 心にかかっていたちえ子さんのことを知り、また彼女の愛する場所を訪れることが出来たことは幸いでした。
 祈り願うことは本当にきかれるのか それは単なる気休めと言う人も世にはあります、また、私自身もしばしばそのように考えていました。
しかし、今度のことを通して、私もは何ごとかを教えられた心地がしております。

 ですから・・・唐突ではありますが、私はこの御手紙を借りて、あなたへの思いを記させて頂きます。

 あなたとの出会いを感謝します。
 今、あなたは人生の大きな試練のうちにあるかもしれませんが、やがてその波と風は静まり、進むべき針路が明らかにされ、その働きをもって多くの病める人たちを助ける働きを成し、多くの人たちに慰めと励ましを与える者としてください。
 そして、人として享くべき喜びを溢れるばかりに得たと言い得る人生でありますように。

 わたしは紅く染まった桜の葉を灯りに透かした。
 欠けも破れも、そしてインクの滲んだようなシミさえも愛しく見えた。
                                            終

著者

内村 誠一郎