「『汽車と砂利線と僕の終の駅と町』―上星川・和田町」音一平

 鉄道についての、僕の最初の記憶は、汽車だ。
ボー ボー ボー っと、汽笛を鳴らして、しゅっぽしゅっぽ 走る。
席は、すべて木製で、ボックス席。窓枠も、木製で開閉は手動。冬は、車内にストーブが赤々と炎を燃やしていた。汽車がトンネルに入ると、夏など、窓を開け放していた窓から、黒煙が急に流れ込んできて、あわてて両手を広げて窓を閉める。僕の顔は、黒煙が張り付いて黒くなった。
久保内ー壮瞥ー伊達紋別を走る、北海道南部の、「胆振線」だ。
僕は、小学生だった。
 この文章を書いていて、ふと、昔読んだ、漱石の「三四郎」の冒頭に書かれてある、車内の描写が脳裏にうかんだ。さらに、つい最近、読み始めたドストエフスキーの「白痴」の冒頭、ミシュキン公爵が、モスクワに向かう車内の描写も、うかんだ。あの汽車に揺られた少年だった僕の記憶と重なった。
 「今は山中 今は浜 今は鉄橋渡るとぞ 思う間もなく トンネルを 闇を通って 広野原 ♪」

 僕は中学生になって東京に出てきた。大田区、雪が谷町。
電車の記憶の最初は、なぜか、池上線だ。五反田ー戸越銀座ー石川台ー雪谷大塚ー蒲田。
家々の間をくぐるように走る、少し小型の3両の電車。ボックス席はない。客は、向き合って並んで座っている。立ち客は、片方の腕を上方に伸ばして、手で、つり革を握っている。僕が座っている姿勢
の前か後ろに向かって汽車は走っていた、のに、この電車は、左か右に向かって横に走っている。まるで、蟹になったみたいで、変な感じがしたのを覚えている。こんなに真近の家々の間を走って、大丈夫か・・。時々、カンカンカンカンという音が聞こえてくる。踏切を通過した時だった。警笛だ。
 「今は山中 今は浜・・」ではない。「今は家々 今は家・・」だ。しゅっぽしゅっぽ、も、ボーっという汽笛も聞こえない。ただただ、走るだけ。時折、カンカンカンカン、の警笛。

 高校生になって横浜に移ってきた。神奈川区三ツ沢町。
高校、大学と、通学は、トロリーバスに乗って、横浜駅へ。横浜駅西口広場は、砂利の山だった。まるで、ピラミッドのような砂利の山だ。駅舎は、小さなトンガリ帽子のような屋根の下に、改札があって、制服制帽の駅員が、手にペンチのようなハサミを持って、乗客の切符を、チョキンチョキン、切ってくれる。東口の駅舎は、天井が高く、どこか、異国風だった。
 横浜駅から、東海道線か横須賀線で、品川へ。山手線に乗り換えて、高田馬場で下車。
10年間、通った。

 7年もかかって大学を卒業して、僕は高校の先生になった。職場が、金沢八景。
初めての、京浜急行線。横浜ー上大岡ー金沢八景。なぜか、僕にとっての京急は、赤い電車、というイメージだ。

 中年になって、見合いをしてやっと結婚が決まった相手と、住居を探した。
見つけたマンションが、たまたま、保土ヶ谷区釜台町、だった。駅は、上星川。
上星川駅北口に降りると、バス停の広場があり、その一角に不動産屋があった。そこの職員が、マンションへ案内してくれた。あれから30余年。通勤や生活の折々に、最初入った不動産屋のある北口駅前広場は、すっかり馴染みの場所となった。駅前から、国道の大通りに出るまで20mほど。道幅はバスが2台すれ違えるほどお広さだ。その両側に、個人商店が並んでいる。右側には、てんぷらとウナギの店「花しん」「スパゲッテイの店」スナック「アクア・マリーン」焼き鳥の「秀芳」が並ぶ。
左側には、「食堂」「本屋」「不動産屋」昔、寿司屋だったが、主人が高齢になり店をたたんで、今、「個人病院」が建っている。駅前バス亭右側に、相鉄会社の社屋と社員寮が建っている。反対の左側は、昔、菓子屋だったが、携帯電話の店にかわり、今は、「薬局」、その隣に、喫茶店「M]、ミュージックパブ「未来」、昔、は紅茶の店だったが、今は、スナック「リプトン」と並んでいる。
 この店店の、主人や女将やママさんと、顔馴染みになった。
「先生、そろそろ、夏休みだね。先生は、いいねー。」
「いや、実質の休みなんて、1週間ぐらい、ですよ。部活に、研修、・・忙しいんだよ」
そんな会話を、何度かわしただろう。
南口には、10年前に、スーパー銭湯「満天の湯」ができ、スーパー「相鉄ローゼン」ができた。
昔からあった踏切横の、銭湯、はめげずに、健在。踏切を渡ると、上星川商店街だ。昭和29年からの商店街。飲み屋「真砂」、「魚屋」「生花店」「パチンコ店」が並ぶ。少し、人通りが心なしか少ない、この頃。
上星川駅北口と南口の町は、こじんまりしていて、いろいろな個人の店があり、かわいらしい。小さな町の風情が匂う箱庭のようだ。

 56才。僕は、先生を辞めた。毎日の通勤はない。
60才から、ギター弾き語りをボランテイアで、始めた。
今72才になった。初めて12年たった。
呼ばれると、出かける。老人ホーム。障害者施設。デイケア。街のイベント出演。など・・。
今の僕の活動範囲は、相鉄沿線。それも、主には、和田町、星川、上星川、だ。
脚はもっぱら、相鉄線のみになった。
≪上星川ー和田町ー星川ー天王町ー≫と≪上星川ー西谷ー鶴ヶ峰ー二俣川≫
 先生を辞めて、人様の前でギター弾き語りをするようになって、しげく、係わってきたのは、和田町駅前広場だ。スーパー「きたむら」「セブンイレブン」「英会話学院」に囲まれた広場。すぐ横の踏切を電車が、ひっきりなしに通過する。そのたび、カンカンカンカン、警笛が鳴り響き、ゴー、っと、車輪の音が地を揺らす。広場は、10年前に、リニューワルされた。広場の両端に、高い樹木が一本植えられ、その周囲にベンチが4つ置かれた。タクシー乗り場を前にして、買い物客がベンチに座って、のんびり、ひと休みしている風景は、なんとも微笑ましい。
この広場で、毎年、夏、地蔵祭りに、ライブをやってきた。夕暮れコンサートライブ。夕方5時から9時まで、老若男女の6-7組のミュージシャンが出演する。僕は、企画運営出演する。
 もう一つ、しげく係わってきたのは、和田町商店街、だ。
帷子川にかかる和田橋を渡ると、商店街仲通りが、100mほど続いている。その先、国道にT字にぶつかる。この商店街の路上で、年に3回ほど、商店街を歌で元気にしようライブ♪をしてきた。
個人商店主とも、顔馴染みになった。
 3代目になる寿司屋がある。「竹世寿司」。そこの2代目の店主は、僕と同世代。息子が3代目。
こんな話を聞かせてくれた。
「わしが、子供の頃はね、相鉄線は、じゃりせん,といったんだよ。砂利を運ぶ。」
「砂利を運ぶ。ああ、砂利線、ですか」
その時、ふと、僕が横浜に移ってきた高校生の頃見た、横浜駅西口広場のピラミッドのような砂利の山、を思いだした。あー、あの砂利を運んでいたのかも。砂利線。
16才の僕が見た砂利の山。50余年後に、まさか、あの砂利を運んでいた鉄道と出逢うとは。
僕が、高校生の頃、あの砂利を積んだ列車が、上星川、和田町、・・を走っていたとは・・。
と思ったら、なんだか、おとぎ話のような気がしてきたのだった。
「わしが小さい頃はね、和田町から星川、天王超あたりには、遊郭があってね、幼心にも、街は、それはそれは、色鮮やかでしたよ。糸の工場があってね」
 和菓子の「盛光堂」の店主も、2代目で、僕より、年配の方だ。
「≪里の秋≫知う曲をね、おふくろが歌ってくれてね。親父のことを想って聞いたもんだよ。
一平さん、今度歌ってくださいな」と、盛光堂前の路上で、歌ったとき、目を細めて、僕に言った。
 おまんじゅうを、出演者全員に、1個づつ、くださったこともあった。

今や、僕の生活の足は、相鉄線、だ。僕の、終の住処は、この町だ。
北海道の久保内から汽車に乗って、たどり着いた横浜。そして、上星川が、終点。
上星川駅の北側も、南側も、帷子川を挟んで、丘陵が昇っていて、線路は、その川沿いに、が敷かれている。丘陵は、高台に達する。その高台、釜台に、僕は住んで30余年になった。
 駅に名が、地形を表しているのだろうか。西谷の「谷」。鶴が峰の「峰」。星川、上星川、二俣川の「川」。「和田」「天王」「浜」・・・・。しかし、帷子川と星川と上星川と二俣川と、どれがどうなっているのだろう。誰か教えてくだされ。この渓谷の底に流れているのは、帷子川、ですよね。

 釜台から、横浜港のランドマークタワーのてっぺんが、マッチ箱ほどに見える。どこかの大学の時計台みたいだ。散歩がてら、小さな公園の片隅に、見つけた弥生時代の住居跡遺跡。2000年近く昔の話だ。釜台の隣、常盤台には、横浜国大がある。大学のキャンパス奥の森に、一歩足を踏み入れると、原始林の中に迷い込んだようだ。高い樹木が林立して、地球の歴史を蘇らせてくれる。世界でも、これほどの種類の樹木と草草が混生生息している、都会の森は、まれである、と和田町路上のライブで知り合った国大の先生が、話してくれた。昔は、国大の敷地は、保土ヶ谷カントリークラブのゴルフ場だったそうで、自然を、そのまま残して、校舎やキャンパスを設計したのだそうだ。

 上星川の釜台が僕の、終の住処だ。
 上星川釜台庵。
 この先、西谷駅には、新幹線への路線がつながる、とか、二俣川駅は、全面改修工事中だ。

 黒煙を吐き出して、走る汽車の汽笛を聴きながら、
 砂利を運ぶ鉄道に想いを馳せて、
 僕は、今日一日、与えられた命を、使い切りたい。

著者

音一平(おといっぺい)