「あと、ほんの数歩の距離」巧塚 幸

 あ、タカハシだ、と思った。
 帰宅ラッシュに引っかからないよう、もっと早い電車に乗るつもりでいたのに、人と会ったり買い物に寄ったり、思ったより時間がかかってしまった。ヒールの低い靴に足がむくんで、ちょっと疲れやすくて休み休み歩いたせいもある。
 それでもなんとか人の邪魔にならないよう、そこそこ混み合う車両の隅の座席に座ることができた。横浜駅が始発で助かった。
 人と人との間から、ロングシートの斜め向かいの席に座る顔に見憶えがあった。発車のベル、ドアが閉まって動き出したはずみに、吊革につかまって立つ人たちが振動でふらついて、すぐに隠れてしまったけれども。
 本当にタカハシだったかどうかはわからない。確かめるには、席を立ってちょっと人混みをかきわけて、彼の前まで行って声をかけるだけだ。
 でも、なんて? そして人違いだったらいたたまれない。だって、顔を合わせなくなって十年以上経つ。同じ町内会のご近所さんで、一緒の小中学校に通って、でも高校が違ったら電車通学の時間帯がまるっきり違って、勤めるようになったらなおさらで、つまりはそれっきりってことだ。
 こんなふうに昔の近所の知り合いと同じ電車に乗り合わせる確率はどれくらいだろう。高いのか、低いのか、でも埼玉や千葉まで繋がって入り組んでいる東京の私鉄より、横浜駅から一本の、他の路線と乗り合わせることがほとんどない、横浜市内の住宅街を走る各駅列車なら、確率は意外と高いのかもしれない。
 そんな、どうでもいいことを考える。
 タカハシとは小中学校が一緒で、何度かクラスも同じになったことがある。だから呼び方としては名字の呼び捨てが一番しっくりくる(名前呼びはさすがに男女の間では小学校に入って早々になくなった)。とはいえ通う塾の曜日や部活が違うと共通の友達もいなくて、親からの話で相手の事情を知ることのほうが多かった。
 幼なじみとしか表す言葉がなくて、でもそこに含まれる意味ほど親しいわけでもなく、もしかしたらただの知り合いとしか言いようがない気もする。それで十年以上も会話を交わすことがなかったなら、いったいどういう関係だろう。
 でも、あの時、高校に入学して慣れない朝の通勤ラッシュで、声をかけてくれたのだ。
 一駅一駅停まって進む各駅列車は、朝途中の星川駅で急行の通過待ちと快速の待ち合わせをする。各駅に乗ったままだと四つ、快速に乗り換えれば終点の横浜まで一駅だから、わずか五分かそこらの違いでも、終点まで行くたいていの乗客は快速に乗り換える。もともと混んでいた上にみんなが押し合って乗り込むから、相当な混雑で、車両の端の方に追いやられると、まるで身動きがとれなくなる。
 だから誰かの手が身体に触れるのも、なにかのはずみだと思っていた。電車が動き出してからも、なんとか身体を動かして、腕を動かして、でもその誰かの手が執拗にこちらの身体から離れないとわかって、困惑した。こちらの勘違いかもしれないとも思い、恥ずかしいとか怖いとかいったことも考えられず、ただ、「なんだろう、これ」と、思考も身体も固まってしまったのだ。
 タカハシが声をかけてくれたのはそんな時だ。
 ただの朝の挨拶と、久しぶり、とかすごい混んでるね、とかそんな他愛のない会話で、でも身体に触っていた誰かの手が離れたから、やっぱりそうだったのかと思う。駅に着くとみんな先を争うように電車を降りたから、その誰かの顔を確かめることはできなかったし、したくもなかった。
 自分がちゃんとお礼を言えたかどうか、憶えていない。タカハシがこのことに気づいていたのかどうかもわからない。
 そのあとからは電車に乗る時間も乗車口も変えたから、タカハシとは本当にそれっきりだ。星川駅での乗り換えも、いつの間にか朝の時間帯の快速の本数が減って、そのまま各駅列車に乗っていくことのほうが多くなった。
 一緒の電車で学校に通うようになっていたら、幼なじみ、ただの知り合いとは違う関係になっていただろうか。そんなことをぼんやりと思う。今更思っても仕方のないことで、そしてそんなことを考える自分を狡いとも思うけれど。
 あの時の彼は、とても、恰好良かったのだ。
 帰宅ラッシュの電車は何駅か停まり、あの頃から改装してすっかり様変わりした駅で、朝と同じように急行の通過待ちをする。混み具合は横浜駅を出発した時と変わらず、向かいの座席は人の影に隠れたままだ。
 立って、ほんの数歩の距離。
 ただ、後から快速列車が到着したから、そちらに乗り換えるために人が動き、快速からは人が乗ってくる。そうして出発するわずかな間に、人と人との間に隙間ができて、向かいの座席が目に入る。
 スマートフォンで時間を潰すサラリーマンなんて、電車の中では日常の風景だ。
 数駅を過ぎて、降りる駅になる。座席を立ったから、ああ、やっぱりタカハシだと思う。否、実家を出ていたとしてもおかしくはない年齢だから、住んでいた駅で降りたとしても当人とはいいきれない。実家が引っ越した可能性だってある。目が合ったけれど、こちらに気づいたようには見えなかった。
 向かい合わせのボックスシートの座席に乗り合わせていたら、もっと距離が近かったら、声をかけることができただろうか。
 そんな「もし」を考える。
 電車を降りると、外は意外と空気が冷たく乾いていて、秋も半ばを過ぎたことを実感する。
 狭い階段を昇って改札を出て、また狭い階段を降りる。改装工事でエスカレーターが使えないのはやっぱり不便だ。タカハシかもしれない背を目で追いながら、下に着くと、駅前のスーパーのひとつが入っていたマンションごとなくなって駐車場になっていて、すっかり見晴らしがよくなっていた。電車通学を始めた頃にはなかった小さなロータリーに、うちの車が入ってくる。横浜を出るとき連絡したから、時間を見計らって迎えに来てくれたのだ。うちまで歩いても十五分ほどの距離だし、バスだってあるけれど、やっぱり助かる。
「ただいま」
と運転席の父に声をかけながら、持ってきた荷物を後部座席に置いて、車に乗り込む。
「お父さん、帰り早いんじゃない」
「昔みたいに忙しくはないからなあ。ちゃんとシートベルト締めろよ」
「うん、わかってる」
 とりとめのない会話。
「隆明くんはいつ来るんだ」
と父。
「今度の土曜に顔出すって」
 答えて、産み月近くになってもワンピースとコートでそれほどは目立たないお腹を撫でる。
「実家でのんびりしてこいって」
「隆明くんも甘やかしすぎだなあ」
 そう言う父も、初孫を楽しみにして機嫌がいいのだ。
 職場で知り合った相手との恋愛結婚は、普通に祝福されて、だから幸福に文句はつけようもない。「もし」を考えるのは、きっと、幸せだからだろう。
 それでもあの頃、朝の駅でもう一度会えないかと、時間を見計らって改札に向かう階段の手前で少し待ってみたり、ホームを見回したりしたことが、何度かあったのだ。
 動き出した車はタカハシかもしれない人を、追い抜いていった。
 

著者

巧塚 幸