「あの日の奇蹟」石井信明

 朝八時に自宅を出て、星川駅に向かう。いつもの家から連続テレビ小説のテーマ曲が流れてくる。平沼橋駅まで車窓からの景色を眺めながらなんとなく過ごす。幼いころ、星川駅から平沼橋駅の間は、ガラス瓶工場、化学工場、電線工場などが立ち並ぶ工場地帯だった。高校生になり通学するころには少しずつマンションに代わりはじめ、広い工場跡地が無機質に広がる光景となっていた。四〇年ほど昔のことである。
 平沼橋駅で列車を降りる。静かな駅が、その瞬間は高校生だらけになる。いつもの仲間とたわいもない話をしながら、ラーメン店と銭湯を横目に見て通りすぎる。この辺りは、JRと相鉄線をまたぐ陸橋の下にあり、空は見えず昼でも暗い。ラーメン店と銭湯は高層マンションに代わったが、あたりは今も薄暗く、当時のなごりを残している。その陸橋を抜けると程なく和菓子屋がある。角を曲がれば高校の校舎がいつもの姿でそこにある。当時の校舎は関東大震災の後に建てられた鉄筋コンクリート作りで、第二次大戦の空襲でも残った。壁は厚く丈夫で、重厚な作りである。災害には安心だが、廊下は暗く冬は寒い。横浜駅に近いこともあり周辺の交通量も多く、夏は窓を開けると騒音で授業に集中できない。隣に急患を受け入れる病院もあり、日に何度も救急車のサイレンがけたたましく鳴る。教室にエアコンなど考えられない頃である。騒音で窓を開けられない夏の暑さは、やはり厳しい。
 さらに、体育館ではバスケットのボールが自然と床の中央に集まる。当時の横浜駅西口あたりのビルはどこも地盤沈下の影響を受け沈下しており、校舎の床も歪んでいる。地理の先生の説明では、横浜駅周辺の土地は元々海だったものを、江戸後期から田んぼとして埋め立てられたとのこと。校舎の建つ土地はそのころに岡野家が埋め立てた土地で、平沼橋駅のあたりは平沼家が新田として埋め立てたらしい。平沼橋駅から高校までの間に流れる川も、正確には埋め立てで出来た運河で、高校のある一体は四方が運河に囲まれていることになる。そもそも、当時の技術で大きな建物を建てることに無理があったらしい。さらに追い打ちをかけると、黒澤明監督の映画「天国と地獄」では、平沼橋の当たりが「地獄」との設定であったらしい。一年生の時、数学の先生から聞いた話である。
 だいたいがこんな環境で、思春期の高校生が学ぶにはお世辞にも良いところとは言えない。ところが若いとはすごいことで、暗く落ち込みそうな気分になる環境にあってもなぜか前向きで、相鉄線で毎朝高校に通うことが楽しかった。自宅から徒歩圏内に別の高校もあったが、横浜駅方面に通学することが、当時の自分にどこか大人になった様な錯覚を持たせた。幼い頃、思いっきりよそ行きの服を着て、相鉄線で母と横浜の百貨店に買い物にでかけることにわくわくしたのと同じ感情かもしれない。下校後、たまに横浜駅まで寄り道をして地下街などをぶらぶらすると、大人になった気分を味わえた。当時の中学校では、横浜駅西口の当たりには危険な場所があるので一人では近寄らないようにと、先生からことがあるごとに言われていた。そのため不安で緊張し、そこらあたりを歩くこと自体に刺激があった。
 高校の一年間は、こんな調子で過ぎた。二年生になるとクラス替えがあり、新たな仲間が出来た。そのクラスの中に、少し気になる女子生徒がいた。特に目立ものを持っているわけではないが、何となく健康的な丸顔と口元のホクロが気になった。あるときおきまりの席替えがあり、たまたま隣になった。どことなく横から彼女を見ていると、授業中はノートにイラストを描くなど、なにやら内職をしている。休み時間には、女子生徒同士で楽しそうに漫画本を見ている。ただ、採点されて戻ってきたテストをのぞき込むと、結構出来ていた。成績はクラスで一番か二番の出来である。授業中に内職をしている割には優秀だなと感心し、ますます興味が湧き、自然に話をするようになった。彼女の自宅も相鉄線の沿線と言うこともあり、たまに横浜駅まで一緒に歩き電車にのることもあった。最寄りの平沼橋駅ではなく、横浜駅まで二人で歩くことが、デート気分だったのかもしれない。
 このように少し気になる女子生徒だったが、三年生では別のクラスとなり、話す機会もなくなった。大学受検を控えて、周りを見る余裕も無くなっていたのだろう。結局、二人はそのまま卒業し、その後会うこともなく別々の道を進む。
 そうして、十年余りが過ぎる。東京の大学を卒業後、地元横浜の会社に就職し、相変わらず朝八時ごろ相鉄線で横浜駅に向かう生活であった。そんなある二月の夕方、いつものように横浜駅から帰宅の列車に乗り、つり革をつかみ車内広告を眺めながらその日の出来事などをなにげなく考えていた。そこに声をかけてくる一人の女性がいた。それが、同級生だったあの時の彼女であることに気付くのにそれほど時間はかからなかった。十年前と変わらない丸顔と口元のホクロ、なによりそこに浮かべた笑顔がすてきだった。襟の周りにグレーの毛皮のついたコートのせいで首が隠れ、余計に丸顔に見えた。
 これがきっかけで交際が始まり、今年で結婚三十年が過ぎた。三人の子供もみな自立の年齢を迎えた。
 その間、相鉄線の車窓から見る星川駅と横浜駅の間の風景はさほど大きくは変わっていない。ただ、視線を車中に移すと、列車の中の様子はだいぶ変わった。新聞を広げるサラリーマンはいなくなり、乗客のほぼ全員がスマートホンに見入っているか、イヤフォンを付け自分の世界に入っている。高校生のころ、朝の列車は満員でも話し声がなく静かで、その異様さに怖ささえ感じたものだ。帰宅時は乗り合わせる知り合いが多いのか人々の声が聞こえ、ほっとする気持ちになった。いまでは、帰宅の時間でも以前のような話声は聞こえないように感じる。ふと、そこにはあの日に経験した奇跡のような出会いはあるのだろうかと思う。
 車窓からの風景と車中の過ごし方は変わっても、鉄道は「人」とその「人生」を運び続けることにこれからも変わりはない。そしてその空間には人々の日常だけでなく、わくわくするような出会いと奇蹟もあると信じたい。

著者

石井信明