「うつろいの夏」押本靖貴

 相鉄線さがみ野駅南口から道路を渡り、東に少し行くと、まっすぐ南へ延びた道路が、夏の日差しを反射するように輝いて見えた。
 克也はノースリーブ姿で前を歩いている妻の美加の背中を見ながら、もうすぐ一歳になる息子を乗せたバギーカーを押して歩いている。しかし、暑い。そう思った。
 街路樹に貼り付いたアブラゼミの鳴き声が、暑さを一層際立たせている。
「ねえ、いくらイベントがあるからって、この暑さの中、アメリカ空軍の基地に行こうなんて、どうしたのよ。おじいちゃんが亡くなったことと何か関係があるの?」
 克也は黙って空を見上げた。八月中旬の夏空には入道雲が似合っている。
「ねえ、あなた、おばあちゃんと一緒に何か手紙のようなものを焼いていたでしょう。気が付いていたわよ。知らんぷりしていたけどね」
 克也は視線を地上に落としながら。
「封筒には斬込特攻隊請願書と書いてあった。
いわゆる血判状だな」
「おー、やだわ。血が付いていたの」
「とても古くて、何十人か分の、みんなの署名の下に拇印が押してあったけど、血なのか朱肉なのか、とにかくまっ黒なだけだったよ」
「斬込特攻隊って何のこと?」
「俺もおばあちゃんから聞いて、初めて知ったんだけどね。昭和二十年八月十五日に天皇陛下の玉音放送があって日本は降伏したんだけど、それに従わず戦争を続行しようとした部隊が日本各地にあったんだそうだ」
「へー」
「海軍厚木飛行場を拠点に首都防空にあたっていた何とか航空隊というのがあって、おじいちゃんもそこにいたらしい。司令官の小園さんという大佐を中心に有志たちが、八月十四日のポツダム宣言受諾後、玉音放送のあった十五日から戦闘継続を呼びかけていたそうだ。飛行機からビラを撒いたりしてな」
「じゃあ、おじいちゃんもそれに加わっていたのかしら」
「終戦の年、おじいちゃんはまだ二十歳になったかならないか。少年飛行兵だったみたいだから、大人たちの行動についていかざるを得なかったんじゃないかなあ」
 目の前に米海軍厚木基地のゲートが見えてきた。

 綾瀬市と大和市にまたがる米海軍厚木航空施設、通称「厚木基地」では、今年も八月中旬過ぎの土曜日に「日米親善アメリカンフェスティバル&盆踊り」が開催される。基地の入口ゲートはこうした日だけはオープンだ。
基地の中はいろいろな肌の色の人たちで賑
わっていた。
「やっぱり米軍基地内のマクドナルドね。い
つも行ってる他の店とはちょっと雰囲気が違
うわ。アメリカに行ったみたい」
 そう話しながら、美加は白亜の建物の前に広がる芝生広場で、ハンバーガーとマックシェイクを持ちながらすわった。
「七十年以上前に、ここに二十歳のおじいちゃんがいたんだ。時の流れって不思議だね」
「そうだな」
 応えながら克也は芝生に寝そべった。
 美加は話を続ける。
「でも、その頃はまだ、おばあちゃんと結婚していないはずでしょ。どうしておばあちゃんがそんなに詳しく知っているの?」
「それを話すと長くなりそうだ」
 そう言って克也は、寝返りしながらどこまでもスカイブルーな夏空を見上げた。

 克也の祖父俊平の父親は、昭和二十年五月二十九日の横浜大空襲で、横浜駅のあたりにいて焼夷弾に焼かれ大やけどを負った。その頃の横浜駅前は倉庫や資材置場ばかりで、数軒の商店があるだけだった。
 当時、俊平の家族は横浜駅から少し離れた天王町のあたりに住み、雑貨商を営んでいた。天王町駅の帷子川沿いは紡績や化学、ガラスなどの工場地帯で、朝夕の駅前は通勤の人たちでごった返していた。その頃も相鉄線は庶民の足だった。
 終戦時、横浜から品川方面へは鉄道が通じていなかった。爆撃で線路も破壊されていたからだ。相鉄線は東急厚木線と呼ばれていたが、何とか細々と運行していた。
 その頃、戦時中の燃料不足の影響もあり、蒸気機関車から気動車、電車と目まぐるしく変わって行った。電車の色も蒸気機関車の黒から、エンジ色、チョコレート色と変わって行った。
 大やけどを負って自宅で療養していた父親が玉音放送直後に亡くなった。俊平は父の葬儀のために家に一時戻ることになった。飛行場では人の出入りを厳しく制限していたが、特別に外出、外泊が認められてのことだ。
 父親の通夜と葬儀が終わり、俊平は翌日に基地に戻る予定でいた。その晩、母親トキは航空隊の状況を心配していた。終戦したのに、さらに戦闘を継続しようとする動きには反対だった。
 玉音放送の後も部隊に「日本は神国、降伏はない、国体に反するごとき命には絶対服さない」と訓示を行う小園大佐のもと、徹底抗戦を主張する厚木航空隊の若い隊員たち。トキには反乱状態に陥っているとしか思えなかった。
 米内光政海軍大臣の命により、寺岡謹平海軍中将や高松宮宣仁親王海軍大佐などが厚木航空隊の説得に当たったが、状況は打開していない。
 克也の話から、千葉県館山の陸軍東京湾兵団司令部と連携を取って、日本占領にやって来る連合国軍最高司令官マッカーサー元帥の搭乗機を撃墜しようと図っていること、撃墜した後で三浦半島と房総半島で呼応して兵力を集中し、本土決戦の本拠にしようとする計画があることも知った。
 トキはこうした画策から俊平を切り離す方策を寝ずに考えた。そして、明け方近くにある方策を思い付いた。

 その日、トキはあれやこれや俊平に頼んで出発を遅らせる。
「母ちゃん、俺は今日までしか外出許可をもらっていないんだよ。いい加減にしてくれよ」
「親不孝な子だね。これは父ちゃんの供養でもあるんだよ」
 俊平は怒ったような低い声で返した。
「俺は父ちゃんの仇を取るよ」
 夫を亡くしても気丈夫にふるまう母親が不憫に思えた。
 トキはため息をついて見せた。
「戦争は終わったんだよ。このうえ、お前までいなくなったらと思うと生きた心地がしないよ。もう殺し合いはご免こうむるね」
 俊平が弟妹に送られて天王町の駅に来たのはもう夕方だった。
 見送りを改札口で返して、ホームに出ると
幼馴染みの徳子がベンチに座っていた。
 俊平は少し迷ったが、意を決して近づいて行った。徳子は通夜にも葬儀にも来てくれていた。トキの話だと、父親の見舞いにもよく来てくれていたようだ。
「親父のことではいろいろありがとう。世話になったな。礼を言うよ」
「何を言うの、水臭い。お父さんのこと、本当に残念だったね」
 そう言って立ち上がった。ほのかに石鹸の匂いがする。徳子はそうした女だ。
「まあ、座れよ。こうして話すのも久しぶりだな」
「そうね。俊平君が航空隊に志願してからは、
会うこともなかったね」
「それどころじゃなかったからな。ところでどこに行くんだい」
「海老名の親戚に届け物があるの」
 それは嘘だった。
 下り電車がゴトゴトンとやって来た。
 車内は空いている。終戦直後の混乱と不安で人々が動いていない。そんな風に俊平は感じた。ふたりは空いている四人掛けのボックスシートの窓側に向かい合って座わった。
「こうしていても、もう誰も非国民だなんて言わないね」
 徳子がはにかんで言った。
「そうか」
 ゴトゴトン。焼け跡の目立つ市街地から電車はだんだん郊外に向かって行く。徳子は窓の外を眺めている。
 俊平もぼんやりと窓の外を眺めていた。沿線の家々に灯りが点き始めている。
「人が人を殺すことが良しとされる戦争なんて早くなくなって欲しい」
 ぼそっと徳子が言った。それに応じた。
「大東亜共栄圏の建設のための戦争だった。欧米の植民地からアジアを解放しようとしたんだ。そう皆信じて軍人を志願した。死ねば神になる、そう言われて皆出撃して行ったんだ」
「この国をもう、平和にして下さい」
「平和って」
 俊平が口ごもる。
「たくさんの人たちが焼夷弾で焼かれて死んだ。防空壕に隠れていても原子爆弾が落ちれば、みんな一瞬で死んでしまう。マッカーサーの乗った飛行機を攻撃すれば、東京や横浜や横須賀、どこかにまた原子爆弾が落ちるかもしれない。私の大好きな街、大好きな人たちはどうなるの。戦争は終わったのよ」
 さらに強い口調で。
「誰にもそれを覆させない」
 俊平は一瞬息を飲んだ。徳子の目を見つめ返す。徳子の目は潤んでいた。
「戦争が終わり、やっと灯火管制が解除されて、窓という窓に垂らしていた暗幕をみんなで一斉に取り外したの。涼しい風が入って来て、私は生まれてはじめてと思えるくらいの開放感を味わったわ。それを守りたいの。私の大好きなみんなのために」
 徳子は黙って窓の外を眩しそうに眺めている。
俊平は、まだ戦争が終わったという実感は
なかったが、灯火管制解除で窓の黒い幕が取り払われ、久し振りに眺める相鉄沿線の家々の涼しげな灯りに、長く暑かったその夏の終わりを感じた。
 自分が生きているとはどういうことか?自分とは何か?人間とは何か?考え始めるなら、この至極当たり前のことが深い謎であることに俊平は気がついた。
 そして、この当たり前の謎の前には、自分たちの考える天下国家など小さいことだと思えた。
 それまでの自分にとっては奇跡ともいえる出来事だった。
 そして、それは終わりの予感であると思った。どんな夏も必ず終わり、同じ夏は二度とやって来ることはない。

 厚木基地からの帰り、克也たちは相模大塚駅の方に向かった。もうひとつの厚木基地への最寄り駅だ。昔から航空燃料タンク用の貨物列車の引き込み線がある。
 もう夕方近かった。駅の階段を息子の乗ったバギーカーを抱えて昇り降りして、上りホームから横浜駅行の電車に乗った。
 車内は比較的混んでいる。乗客は基地のイベントからの帰りなのか、若者のグループ、どこかのプールからの帰りの子供たちのグループ。ふたりは扉のガラス越しに、夕やみに包まれはじめた景色を見ていた。
「それで、結局どうなったの?話の続きは」
 美加が訊ねて来る。
「小園大佐がマラリアにかかって、横須賀の野比海軍病院に運ばれて軍の監視下に置かれたそうだ。航空隊は武装解除、鎮圧されたということになっている」
「ふーん、偶然の病気で一件落着かあ」
「でもな、本当はマラリアではなく、誰かが夜中に大佐の寝室に特攻用のロケット戦闘機秋水の燃料をまいて、その揮発や匂いで錯乱状態にしたんだって」
「ふーん、そんな裏話があるんだ」
 一瞬の間を置いて驚いたように。
「それって、もしかして、俊平おじいちゃん…」
「さあな、少なくとも徳子おばあちゃんはそう思っている」
「おじいちゃん、臭かっただろうね」
 そう言って、美加は鼻をつまんで見せた。
「記録を調べたら、八月二十二日に航空兵たちが強制退去させられ、八月三十日にダグラス・マッカーサー連合国軍最高司令官の乗った輸送機が厚木飛行場に着陸したそうだ」
 美加は窓の外を眺めながら。
「俊平おじいちゃんにとって、昭和二十年の夏はとびっきりの夏だったんだ。愛する人たちを守っていける、そんな未来が欲しいと言われ、自分が自分であることの意味を百八十度変えたんだ。すごいことだね。私たちにもそんな時がいつか来るかしら」
「そうだな。来るかな。この子のために」
 窓の外、沿線の家々に灯りが点き始めている。

著者

押本靖貴