「おかえり天使」やぐちひろかず

 もうじき春がやってくる。
 花開く間際の桜の蕾も、まだちょっと寒そうに身をすくませている。道行く人を見下ろしながら、華やかな開花の時がやって来るのを待っている。
 時計柱のあるタイル張りの広場には、まだ朝も早いこの時間、通勤や通学の人たちが、足早に行き来している。
 背の高いマンションや、スーパー、ドラッグストアその他もろもろの店舗。そんな建物たちに囲まれた広場から目を移す。そのまま線路沿いに続くフェンスの横を歩いていくと、瀬谷駅の四番線ホームが見えた。
 まだ肌寒い風が吹き抜けるホームの人ごみの中に、うぐいす色のマフラーをゆるく首に巻いた制服姿の女の子が、どこか思い悩む表情で立っている。
 あのコは、小日向悠希(おびなたゆうき)。瀬谷駅からふたつ離れた希望ヶ丘の学校に通う高校一年生だ。
 悠希は、俯き加減に線路をじっと見下ろしていて、フェンスの向こうにいる僕には気がつかない。
 線路を軋らせながら、相鉄ご自慢のネイビーブルーの車体がホームに滑り込んできた。
 悠希の曇った表情は、あっという間に電車の向こうに見えなくなる。
 あのコには心配ごとがある。僕はその心配ごとが、どんなコトなのか知っている。
 
 あの日、悠希は車椅子を押していた。
 瀬谷駅の大和側に一番近い踏切から真っ直ぐ北へ伸びる直線道路。通称『海軍道路』と呼ばれる環状四号線を、あのコたちはゆっくり移動していく。
 三キロにも及ぶ直線道路には、四百本ものソメイヨシノが立ち並んでいて、桜花の季節になると、辺りは薄桃色の霞がかかったように淡く染まる。
 その淡い桜花の天蓋の下を、誰も彼もがのんびりとそぞろ歩き、さもなければ車中からウキウキと見上げて楽しむ。そんな時期がもうすぐやって来る。
「天使が、なあに?」
 車椅子にちょこんと収まる小さな背中に悠希が優しく聞いている。僕はあのコたちの後ろを偶然歩いていた。
 長い直線道路に沿って立つソメイヨシノの枝々には、まだ固い蕾の濃い紅色がポツポツと見えている。
 車椅子には、真っ白な頭の老婦人が背中を丸めて座っている。悠希の祖母である住江は、去年の夏からああやって車椅子で外出するようになってしまった。
 長く生きるということは、生き物の器である体を、泣きたくなるくらいに変えてしまう。長い時間を経たその生身の器は、燃え尽きた後の灰のように脆く壊れる。崩れてやがて失われるという、残酷な結末が待っている。
「天使が、いない」
 住江の口がモゴモゴと繰り返すと、悠希は困った顔で祖母の白髪頭を見つめた。
 認知症という病は、患っている当の本人だけじゃなく、その家族にも困惑と不信感と屈辱を与え続け、終わりのないそんな日々に、誰もが消耗していく。
「そっか。どこに行ったんだろうね」
 首を落として押し黙ったままの祖母にそっと声をかけた悠希は、車椅子を押す手に力を込めた。
「お祖母ちゃん、天使に会いたいの?」
「うん」
 ふと尋ねてみると、期待もしていなかった答えが、予想外にはっきりした声で返ってきて、悠希は目を真ん丸にする。
「天使って、どこで見たの?」
 どうしちゃったんだろ、と驚いたからか、ちょっと高い声で聞く悠希に、祖母の背中はもう何も語らない。
「天使って言われてもなぁ」
 まだひんやりと肌を刺す風が、悠希の長い髪を揺らして吹き抜けていく。僕はそんなふたりの後ろ姿を眺めながら、桜の花びらが踊る中に舞い降りた天使の姿を想像していた。

          *

 自動改札機を通過した帰宅する人の群れは、相鉄線の線路を跨ぐようにして建っている瀬谷駅の自由通路へと流れていく。
「天使って言われてもなぁ」
 帰宅する人の流れに押されるように自由通路をトボトボ歩く悠希は、また同じセリフを繰り返した。
 結局のところ、住江はあれきり何も語らない。祖母の言う天使というのが果たして何なのか、悠希には全く分からず終いなのだ。
 そもそもふたりで散歩に出かけた時に、あんな不思議なコトを言われた。だからもしかして何か意味があるのかも、と年頃なあのコ
の想像は飛躍する。
 ひとりになると、悠希は瞳を右に左にゆっくり動かしながら、そんなコトをあれこれと考えているに違いない。
 リンリンリン! と弾けるような着信音が鳴り響く。悠希は制服のスカートのポケットからスマホを取り出し、ディスプレイをチラリと見た後で、気ぜわしく耳に当てた。
「なに~?」
 人ごみに紛れて進む僕は、立ち止まった悠希の背中を見て、自由通路の脇へ寄る。
「いま? 瀬谷駅だよ。改札出たところ。お母さんこそ何処にいるの? え、家?」
 家路を急ぐ人の波が、悠希を取り残して過ぎ去っていく。しばらくすると、自由通路はほんの一時静けさを取り戻した。
「お祖母ちゃん、どうかしたの?」
 悠希の声が急に冷めた。スマホを強く握りしめた彼女の肩が強張っていくのが、見ていてはっきり分かる。
「救急車って、なんで! だって、今朝は全然普通だったのに」
 見回すと通路には人の気配は消え、悠希のイライラした声が耳にピリピリと響く。
「え? お祖母ちゃんがなに?」
 自分で出した大きな声に、ちょっと眉をひそめた悠希が声を詰まらせて、
「や、知らない。ただ、私は……」
 しばらく考えている様子だ。
「うん。この前散歩している時に、天使がいないって言われた。何のことだろうって思ったんだけど」
 悠希は自由通路の壁に背中を預けて、う~ん、と低く唸る。
「それより、お祖母ちゃんの具合は? 病院から今帰ったところなんでしょ?」
 うん、うんと短く繰り返して、
「分かった。じゃあ、夕飯の材料を買って帰ればいいんだよね。マルエツに寄ってから帰るから。うん。じゃあ、後で」
 スマホをスカートのポケットにしまうと、悠希は盛大にため息をもらす。
「散歩の時に娘に言った、か」
 住江のことなのだろう。娘と孫娘の区別もつかないことか。あるいは天使に会いたいなどと繰り返していることか。とにかく祖母のことを想って、悠希は表情を曇らせている。
「天使に会いたいって、どうする?」
 壁にもたれたまま、悠希が顔を横に向けると、相鉄のゆるキャラが『映画のセットみたいな駅だにゃん』とか、のん気なことを言って、昔の瀬谷駅前の写真を眺めている大きなポスターが目に入る。
「探してみますか、天使」

          *

 泉区から斜めに入り込む細い県道は、縦に長い形の瀬谷区を斜めに上りつつ、瀬谷駅前と瀬谷中学校を過ぎて海軍道路と交差し、その後は緩やかに下っていく。
 下り坂の途中で方向を北へ転じる辺りが本郷と呼ばれていて、その曲線の端に桜の木々に囲まれた白い建物がある。直線的な造りと大きなガラス窓が目に付く瀬谷図書館だ。
 僕は細い道路を挟んだ向かいの空地に立つ古いヨメイヨシノを見上げながら、ボンヤリと陽射しを浴びていた。
「あれ、悠希じゃん」
「あ。智香ちゃん。久し振り~!」
 弾むような若い声が聞こえて、僕は視線を瀬谷図書館の入口へ向けた。
 今日は春らしい淡い色合いのチュニックにスキニーパンツ姿の悠希が、同年代らしい女の子と笑顔で向き合っていた。
 あのコは、確か悠希の小学校時代からの友だちだったはずだ。通っている高校は違っても顔を合わせれば、ああやって昔に戻って笑顔で話せる仲らしい。
「や~、元気だった? なに、図書館でお勉強ですかぁ?」
「ん。そんなトコ。悠希はどしたん?」
 ポンポンと飛び跳ねるような女子トークが、小路を挟んで聞こえてくる。僕は黙ってそれに耳を傾けている。
「ちょっと調べものでさぁ」
「へえ。宿題かなんか?」
 それがね、という悠希の顔がどうしようか、というように少し曇る。
「もしかして、なにかあった?」
「お祖母ちゃんのことで、さ」
 智香はあぁ、と察したようにため息まじりに頷いた。あのコは住江の病気のことを知っているみたいだ。
「なんか、天使に会いたいって言ってさ」
 テンシィ~、と智香の口から引っくり返った声が飛び出した。
「なんでまた、天使なの?」
「分かんないけど、この前ふたりで散歩してる時に急に言い出したんだ」
「散歩中に天使に会いたいって?」
「そう。でね、一昨日家の中で倒れてるのを仕事から帰ったお母さんが見つけて、ビックリして救急車呼んだりして、もう大騒ぎ」
「え! お祖母ちゃん大丈夫だったの?」
「転んで腕を怪我しちゃってさ。それで意識もなかったみたい。その後、なんかすっかり落ち込んでて、天使が見えないからかねぇ、とか言ったらしいんだよね」
「や~、お祖母ちゃん可哀そう」
「だからさ、元気になってもらうのに、天使に会わせられないかなって思ったの」
「それで?」
 なんで図書館なの、と智香は不思議そうな顔をしている。
「いやあ、なんか海軍道路の辺りでそういう昔話とかがあるのかなって、ちょっと調べてみようかな、とか」
「民話とか、伝承とかっての?」
 ふむ、と智香があごに手を当てて、納得したように首を縦に振っている。
「うん。それで何でもいいからヒントがないかなって、調べてみたんだけど」
「どうだったの?」
 悠希の顔がクチャッと歪んだ。
「ぜ~んぜん、ダメ。なんだかタヌキの話くらいしかなくて」
「タヌキかぁ。この辺、今でもいるもんね」
「なんか火事の時に家の人を助けた話とか、お坊さんに化けてお月様の絵を描いていった話とかはあるんだけどね」
「へえ、いいヤツじゃん、タヌキ」
「でも、タヌキと天使は関係ないよね」
 そうだねぇ、と智香が答えると、ふたりの少女はお互いにププッ、とふき出した。
「悠希、ご苦労さん」
「うん。ありがと」
 ケラケラと思い切り笑い合った後で、智香は悠希の肩をポンと手のひらで叩く。
「諦めないで頑張んなよ。悠希、お祖母ちゃん大好きなんでしょ?」
「大好き」
 迷わず繰り返して、悠希はニッコリと笑う。
「智香ちゃんさ、この近くで神社ってどこがいいと思う?」
「今度は、なんで神社なの?」
「探してダメだったら、神頼みかなぁとか」
「う~ん。この近くだったら、日枝神社とか瀬谷神明社かな」
「日枝神社って、大きいケヤキが横にあるトコだっけ」
「そだよ。あそこって、夏でも涼しい風が吹くし、ちょっと不思議な感じがするスポットじゃない?」
「神明社の方も割と近かったっけ。どっちがご利益あるのかな」
「う~ん。どっちもそんな大きな神社じゃないもんね。昔からの村の鎮守さまみたいな話だったと思うけど」
 智香の言葉に、悠希は首を傾げて、
「まあ、片っ端から頼んでまわろうかな。大きさはともかく、地元の神様ってことが大事だよね」
 悠希がふとこちらへ目を向けて、満面の笑みを浮かべた。
「あ。ソウジロウ!」
 キラキラと目を輝かせて、悠希がこちらへ手を振っている。
 僕はそれに応えずに、黙って背中を向けて歩き始めた。

          *

 見上げると梢の蕾がひとつふたつと開いている。雨が降ったりしなければ、この週末にはこの辺りの桜も見ごろを迎えそうだ。
 古びた石造りの鳥居の横に、摂社のお稲荷様が鎮座している。
 その真向いに立つ桜の古木の枝ぶりに見とれていた僕は、拝殿正面に下げられている鈴がガランガランと鳴る音に気をそらされた。
 そっと摂社の小さな社の陰から覘いて見ると、悠希の真剣な背中が二拝二拍をしているところだった。そっと足を忍ばせると、僕は
境内を横切って拝殿に近づいていく。
「あたし、お祖母ちゃんが好きなの」
 柏手を打った姿勢のまま、悠希が瀬谷神明社の神へそう告げる。
「お父さんもお母さんも、仕事が忙しくて、幼稚園の時も、小学校でも中学校でも、あたしがひとりで家に帰ると、迎えてくれたのはいつもお祖母ちゃんだった」
 悠希は、キリッと視線を拝殿へ向けて、
「その日あった、嬉しいことも悔しいことも、全部お祖母ちゃんが聞いてくれた。『おやつ食べな』って言って、いつだって優しく笑ってくれた」
 いつものお菓子だけじゃなくて、季節になると実をつけるミカンやブドウ、その日の朝に畑でとれたトウモロコシ。ホックリ茹でてもらう落花生にサツマイモ。どれもこの周辺でとれる地元の味だ。
 グッと唇を噛んで、悠希は口をつぐむ。
「そんなお祖母ちゃんが元気を失くしたのは、お祖父ちゃんが亡くなった時から。あたしにとっては、無口で頑固なちょっと怖いお祖父ちゃんだったけど、お祖母ちゃんにとっては、心から大事な人だったの」
 それでね、と悠希は言葉を選びながら、瀬谷の産土神に語り続ける。
「お祖母ちゃん、すごく可哀想だった。悲しく悲しくて、病気になっちゃって。でも、私にはそんなグチとか全然言わないまま、ひとりで苦しんで、閉じこもって」
 まもなく春がやって来る空を、悠希は深く息をしながら見上げる。
「そんなお祖母ちゃんが、天使がいないって、天使に会いたいって言うの。私、お祖母ちゃんが元気を取り戻すきっかけが、天使なんだと思う。だから、それを叶えてあげなくちゃいけないの」
 真剣な眼差しが、拝殿の奥に鎮座する神を、そして僕の心を射抜く。
「日本の神様に、天使に合わせてってお願いするのは間違いかもしれない。でも、お祖母ちゃんの為だから、どうかお願いします」
 もう一度、悠希は深々と頭を下げた。
「お祖母ちゃんを、天使に会わせてあげてください」
 真っ直ぐな祈りがそこにあった。
 でも、あのコは知らないのかな。神というのは願いを叶える存在ではなくて、人に寄り添うだけのものだっていうことを。
 軽やかな春の風が境内を吹き抜けて、悠希の髪を撫でていく。そんな様子を眺めながら、僕はあのコの願いが行き着く先を考えている。
 あのコは気付いていないのかな。どこに天使がいるのかを。
 体の中をグルグルとうねるような感覚が満ちてきて、だんだんと熱を帯びる。我慢できなくなって、僕は思い切り自分の体を打ち振わせた。

          *

 海軍道路の桜並木が、淡い桃色に靄がかったように色づいている。あと数日のうちにはここの桜も満開を迎える。
 暮れなずむ桜並木を眺めながら散歩をしていたら、学校からの帰り道らしい学生服姿のあのコたちの姿を見かけた。
「天使は見つかりそう?」
 深緑のブレザーにチェック柄の制服を着た智香の声が聞こえる。
「探して見つかるもんじゃないし」
 ハハハ、と紺地のブレザー姿の悠希が力なく笑う。
「この辺に天使の話なんてあったの?」
「ネットなんかでも調べたけど、ないよ」
「じゃあ、お祖母ちゃんの見たのって、なんなんだろうね」
 智香が聞くと、悠希は首を振った。
「ホントに見たのか、見たと思っているだけなのかも分からないから」
「でも、場所はこの海軍道路なんでしょ?」
「うん。この辺を散歩してて思い出したみたいだから、関係あると思うけど」
「ふうん。じゃあ、散歩していたのはきっかけってだけで、関係ないかもしれない?」
「かもしれない」
 話の展開にガッカリしたように、ふたりの声のトーンも低くなる。
「ところでさ、この道路ってどうして海軍道路なんて言うのかな。アメリカの基地があったのと関係ある?」
 あぁそれはね、と悠希が思い出しながら、
「お祖母ちゃんが昔言ってたよ。アメリカ軍のじゃなくて、日本のだって」
「日本のって、じゃあ第二次世界大戦とか、太平洋戦争とかの頃のヤツ?」
「うん。アメリカ軍の基地のあったまんま同じ辺りに、日本軍の基地があったって。しかも、この道路沿いに線路もあったらしいよ」
「線路って、相鉄の?」
「じゃなくて、軍隊が使う専用の。なんて言うんだっけ、そういうの」
「ヒキコミセン、とか」
「あ、それだ。戦争の後でなくなったみたいだけど」
「今も残ってたら、ウチの近くに駅とか出来てたかな」
「なに駅よ、それ」
「中央公園駅とか、瀬谷西高前駅みたいな」
「めっちゃ近所じゃん。そこで終点?」
 言い合いながら、ふたりは笑う。
「もうすぐ満開だね」
「うん」
 智香が桜並木を眺めながら言うと、隣を歩く悠希は手のひらを差し上げて、指の隙間から桜花を見上げた。
「またお祖母ちゃんと散歩してみるよ。桜が咲いているうちに」
「うん?」
「もしかしたら、天使に会えるかもしれないからさ。ちゃんと地元の神様にもお願いしてみたし」
 これからいっぱいに花開くだろうソメイヨシノの梢を見上げたまま、智香はそっか、と呟いた。
「会えるといいね」
 僕は知っている。天使がどこにいるのかを。
 それでもって、あのコたちの会話を聞きながら、ちょっとしたイタズラを思いついた。

          *

 サクラが咲いた。
 全長三キロに及ぶ海軍道路の直線に沿って立つソメイヨシノの並木には、その淡い桃色の花が今が盛りとばかりに咲き誇っている。
 この週末は、天気にも恵まれて、満開の桜を愛でながらそぞろ歩く人々が、普段は人影もまばらなこの街道を行き交っている。
 どうして桜の花はこんなにも人の心を惹きつけるんだろう。その淡色の花が梢を埋める頃、人は別れと出会いを繰り返す。僅かな時間で散っていくその花に、自らの人生のひとコマを重ねて、春の記憶を仕舞い込んでいくからなのか。
 そんな桜並木の下を、車椅子に乗った老婦人と、それを押す孫娘の組み合わせがゆっくりと進んで行く。
「お祖母ちゃん、見て。キレイだよ」
 もう何度目かのセリフ。三角巾で左手を吊る痛々しい様子の祖母の白髪頭に、悠希は無意識に繰り返している。
 住江はその度に顔を上げて、風に吹かれて舞う桜の花びらをじっと目で追う。
 淡い桜花の魔力なのか、悠希にそう言われる度に、住江はどこか意思を感じさせる瞳で桜を見つめ、なにがしかの感情が、その表情に揺らいで見えた。
「――桜はね」
「え?」
 住江の声がしっかりと耳に届く。スマホを取り出して桜並木を撮影しようとしていた悠希は、思わず目を真ん丸に見開いた。
「この海軍道路の桜は、戦争の後で植えられたの。軍隊が立入禁止にしていた場所は相変わらずアメリカさんが閉じてしまったけど」
 悠希からは白髪頭が見えるだけで、祖母がどんな顔で語っているのかは伺えない。
「軍隊は、戦争に使う道具をあれこれとこの土地に仕舞い込んでいたんだけど、そういうモノがこの土地をきっと傷つけていたんだと思うんだよ」
「土地を、傷つける?」
「沢山の人を傷つける道具だもの。そんなものがあったら、この土地に住まう神様も精霊も、きっと迷惑だっただろうからね」
 なにかのスイッチが入ったように、住江がしっかりとした声でそう言った。
「お祖母ちゃん」
 思わず息を呑んだ悠希の言葉に、僕は今がチャンスだと感じた。
 すぐ傍の桜の幹を駆け上がり、梢を揺らして宙に飛ぶ。
 フワァア、と桜の花びらが舞い、まるで吹雪のように辺りを漂う。
「あっ!」
 ちょうどぴったり。
 悠希の傍に飛び降りた僕は、すれ違いざまスマホを口に咥えると、あのコの手からもぎ取った。
 何が起きたのか理解出来ないでいる悠希は、それでも僕がスマホを口に咥えたまま走り出すと、
「こ、こらぁ! ソウジロウ!」
 声を上げ、慌てて駆けだす。
 淡く降り注ぐ午後の陽射しの下。白く映える並木道に、ゆらりゆらりと桜吹雪が舞う。
 そんなため息の出るような景色の中を、長い髪をなびかせた悠希が駆ける。
 祖母を車椅子に置いて、あっという間に遠ざかっていく。それは、そうまるで――。

 あの日も、並木道を春風が吹き抜ける度に、桜吹雪が海軍道路を舞っていた。穏やかな陽射しが差すセピア色の光景に、小さな後ろ姿が遠ざかっていく。
 辺り一面に舞い散る花びらに大喜びした幼子が、笑い声を上げながら駆けていく。取り残された大人たちは、微笑みながらあっという間に小さくなっていく後ろ姿を見つめて、
「まるで天使だね」
 誰ともなく呟いていた。
「あの子は、あっという間に大きくなって、あたしたちの目の前から、ああやって駆け足で巣立っていくんだろうねぇ」
 しみじみと言い、思いがけず住江の目が潤んでいくのが見えた。
 それは十年以上前に、僕がやっぱりここで見かけた光景だった。

「あ!」
 背後で短い叫びが上がる。振り返ると、駆ける姿勢のままで、悠希も首だけ振り返っているのが見えた。
 咥えていたスマホを、そっと地面に置く。
 僕はその場に座って、慌てて祖母の元へ駆け戻っていく孫娘の背中を眺めた。
「おかえり天使」

               ( 了 )

著者

やぐちひろかず