「おばあちゃんの冒険」岩﨑宏風

「ちょっと牛乳入れたんだよ」
 七枝のかぼちゃの煮物は、やや濃い目の味付けで、木場(こば)勉は、郷里の鹿児島で一人暮しをしている母を思い出した。
 南警察署の交番に勤務する勉は、30歳の巡査部長である。
 七枝は82歳、管内のアパートの独居老人で、二人は知り合って2年になる。
 七枝は、豊かな白髪を後ろで束ね、小柄だが眼鏡の奥の目は柔らかい光をたたえている。
 七枝の部屋の小さなテーブルには、引き伸ばされて額に入った七枝の写真が置かれ、七枝は「葬式用の写真だよ」と笑った。
 子供から同居を持ち出されも拒否し、遺影まで準備している七枝からは、昔の女性の凛とした芯の強さが感じられた。
 七枝は、会う度に「私に孫がいるんだけどどう?」と言っているが、まだ半人前だと感じている勉は、仕事優先だと思い、「うん、そのうちね」などと言って断っていた。
 3月初旬、木場は瀬谷警察署への異動が決まり、七枝に報告に行くと、少し震える声で「寂しくなるねえ、寂しくなるねえ」と繰り返すばかりだった。
 勉は、自分の名刺の名前に「こば」とふりがなをつけ、また瀬谷警察署と書き入れてから七枝に渡し、「自分の名前はきば、じゃなくてこば、だからね、こば」と念押しした。
 勉は、異動しても会いに来られない距離ではなかったが、「もう七枝と会うことはないだろう、残りの人生を精一杯生きてほしい」と願った。
 勉の通勤経路は、横浜で京浜急行から相鉄線に乗り換え、三ツ境駅で降りて徒歩で瀬谷警察署まで行くという形になった。
 相鉄線は、横浜と県央地区を結んでいるが、横浜を出てしばらくすると徐々に緑が多くなり、車窓から四季折々の自然の息吹を感じることができた。
 勉は、中原街道に面する南台交番で鶴田巡査と一緒に勤務したが、鶴田巡査は、三ツ境駅からの通勤途中、不審な車のナンバーをメモしていたことが、後日発生したひったくり事件の解決に繋がったことがあった。
 将来は、本部の捜査第一課での勤務を希望しているが、刑事に必要な独特の嗅覚を持っており、希望を叶えるのは間違いないだろう。
 南台交番には隣接するように市営の南台住宅が広がっており、木々の緑に囲まれ自然の豊かさを感じることができる。
 勉は、交番に帰ってきてこの緑を目にすると、しばし心の安らぎを感じることができた。
 9月半ばとなり、どことなく秋の気配を感じるようになった頃、勉がパトロールに出ようとしたところ交番の電話が鳴った。
 瀬谷駅前交番の津川巡査からで、「部長、上田というおばあちゃん知ってますか?ここにキバという人がいるはずだから会いに来たって言うんですけど、ひょっとしたら木場部長のことかも知れないと思ったんです」
 七枝は元々方向音痴で、ここ何年も電車など乗ったことなどないはずだった。
 瀬谷駅前交番まではバイクで6、7分の距離で、勉は瀬谷駅前に続く銀座通り商店街を抜けていく。
 以前は公園通りと呼ばれたこの商店街は、相鉄バスも走っていたらしいが、今でも昔ながらの和菓子屋、床屋、八百屋等が軒を連ねている。
 花屋の店先に射す光もどことなく秋気を含んで柔いでいるようだった。
 交番のガラス戸を開け、背を向けて座っていた七枝に「おばあちゃん」と声をかけるとびっくりしたように振り向き、大きく目を見開いた後、くしゃくしゃの顔になり、「ああ、あんた久し振りだねえ」と震える声で呟いた。
「どうしたの、おばあちゃん」
「いやね、交番行ってもあんたいないし、つまんなくてね。もう一回だけ会いたかったんだよ。それに孫のともちゃんのこともあるし」
 話を聞くと、七枝は何とか相鉄線に乗ったが、あまりの陽気に車内で寝てしまい、二俣川で乗り換えできずに行ったり来たりし、結局女子高生が二俣川から乗せてくれたらしい。
「ほれ、みんなで食べな」
七枝が差し出した紙袋には、12、3個のおにぎりが入っていたが、半分くらいは潰れて中のシャケが飛び出していた。
 あと3年で定年を迎える大下部長が、ニコニコしながら「おばあちゃん、大冒険だったね」と言うと、七枝は「冒険なんて若い人のもんだよう」と呟いた。

10月の日曜日、勉は七枝の孫、上田智美と会った。
「怒らないで下さいね、おばあちゃんの紹介だからどうせ変な人だろうと思ってたんです」
「で、どうでした?」
「そうじゃなかった…みたい…です」
 二人は顔を見合わせて笑った。

 七枝は結婚式には参列してくれたが、2人のひ孫の顔は見ることなく旅立った。

 10月の天気のいい日、空は見上げると体ごと吸い上げられそうなほど深い青をたたえている。
 タッパーからかぼちゃの煮物を取り出し頬張った智美は、「牛乳入れてどうかと思ったけど、案外いけるね」と呟いた。
 ちょうど相鉄線の電車が通りかかり、子供2人は芝生の上を駆けて行った。

著者

岩﨑宏風