「おもちゃのちゃちゃちゃ」長濱英高

 足元にまとわりついてくる猫が嫌い。
 ねっとりと絡みつく湿度が嫌い。
 湿度のせいでせっかく伸ばした髪のくせ毛が露わになるのが嫌い。
 嫌いなことを気にして唇がへの字に曲がっているのが嫌い。
 あれもこれも全部嫌い……。
 気がつくと「嫌いなこと」ばかりあげつらっている自分が一番、嫌い。
 夜九時を少し過ぎたあたりの電車に揺られていた渕上麻子は、ため息をついた。どうして自分は嫌いなことばかりあげてしまうんだろう。もっと楽しいことを考えればいいのに、と思うが、ふと気づくと嫌いなことばかりをピックアップして、自己嫌悪の堂々巡りをしてしまう。車窓に映った麻子の顔は、唇がへの字に曲がっているばかりか、眉は釣りあがり、眉間には皺が寄っていた。自分のことを美人だなんて思わない。せいぜいが十人並くらいだろう。だけど眉間に皺が刻まれるのだけは断じて許せない。そうじゃなくても最近は肌のハリツヤ感が衰えてきたと、否が応でも実感させられる年齢になってしまった。眉間に人差し指を当て少しこすって皺を伸ばした気になったあと、麻子は笑顔を作ったが、どこからともなく漂ってきた酔客が吐いたであろうアルコールを含んだ呼気が鼻につき、ささやかな抵抗はあっけなく打ち消された。麻子の唇から、より深いため息が漏れた。

 結婚生活三年目に、夫の浮気が原因で離婚して、それまでは、時折、スーパーのパートに出るくらいの専業主婦に落ち着いていた麻子が、セレモニーレディーと称される職に就くようになって、はや五年が過ぎようとしていた。
 セレモニーレディーとは、簡単に言ってしまえば、葬儀にまつわる全般のお世話をする仕事。見積もり、施行は担当者が担う。いわばそのアシスタント的な役割である。
「責任は全部担当者にあるんだから、私は気軽ね」
 最初はそう思っていたが、そんな軽々しい思いはあっという間に覆された。なにせ事は人が亡くなってから発生している仕事である。悲しみに沈む遺族と、じかに密に接するので、思いのほか気を使う。遺族にとっては、担当者、アシスタントなどという区別はなく、近しい人が亡くなって直後のことに気持ちは混乱していて、慣れない葬儀という一大イベントに、ほんの些細なことにも質問を投げかけてくる。そんな時に適切なアドバイスを与えてあげなければならないのだ。そこで答えを言いよどんでしまっては、不信感を与えてしまう。麻子は、仕事を始めてすぐに、生活のためとはいえ、軽々しい気持ちで臨んでいた自分の軽薄さを後悔した。
 それでも半年も経てば、麻子は、「毎日葬儀を行う」という独特の環境にも馴染み、遺族と接するのにも慣れた。葬儀というと、どうしても笑顔を浮かべてはいけない印象があるが、そんなことはない。会話の間に、ほんの少し微笑みを混ぜることで、対する人は安心する。最初のうちはギクシャクしてしまった微笑みが自然に振る舞えるようになった頃、ようやく麻子は仕事にやりがいを見出せるようになっていた。同時に、慣れて来るに従い、日々のルーティーンワークに文句が増え、個性的な人が多い葬儀業界の人間関係の面倒臭さにも愚痴を漏らすようになり、気づけば「疲れた」が口癖になり、知らぬうち「嫌いなこと」ばかりを考えてしまうようになっていた。

 麻子は、自動車運転免許試験場のある街の駅から、この都市最大のターミナル駅に向かって各駅停車に乗り六駅、そこから、駅前商店街を通り抜け、四、五分ほど歩いた国道に面した葬儀ホールに通っている。道路を挟んだ向かい側には、通称『ハマのアメ横』と呼ばれる、平日でも買い物客で賑わう活気溢れた商店街がある。最寄りの駅にも葬儀ホールはあったが、職場があまりにも近いと、オンとオフの切り替えができなくなるのではという危惧から、今の職場を選んだ。沿線には、この仕事を始めるまでは気にもかけなかったが、気にしてみれば葬儀ホールというのは、各駅ごとに必ず一つ二つ建てられていた。現在進行形で建設中の葬儀ホールもたくさんある。
「それだけ少子高齢化が進んでいるってことかぁ」
 不幸中の幸いと言うべきか、前夫との間に子供を授からなかった麻子は、どことなく自分もその一端を担ってしまっているような複雑な気分になってしまい、ひとりごちた。ほんの少しの寂しさが、心の隙間に何かの抜け殻のようなものを見た気持ちにさせた。

 それにしても様々な家族がいて、いろいろな形の葬儀がある。高齢で、明らかに天寿を全うした故人の遺族たちは、おかしな言い方かもしれないが、そこはかとない悲しみに包まれながらも、一様に心のどこかでほっとしているように見えた。
「おじいちゃん、おばあちゃん、私たちを産んで育ててくれて、今まで生きてくれてありがとう」
 皆、言葉にこそしていないが、そんな想いに満ち溢れているように麻子には感じらた。
 こういう葬儀は、「幸せな葬儀」と言えるのだろう。
「本当に色々お世話になってしまって、ありがとうございました」
 こちらは商売なのだから、お礼など言われる筋合いはなく、むしろお礼を言う立場なのに、大抵の遺族の人々は、遺骨を抱えながら、こう口にすることが多い。麻子は、最初の頃は、そう言われることに恐縮するやら、申し訳ないやらで複雑な気持ちにもなったものだが、最近は、「お役に立てて幸いです」と答えるようにしている。本当にそう思う。麻子にとって、遺族の役に立てたことが、この仕事のやりがいであり、充実感に満たされる瞬間なのだ。
 しかし、一方で、「幸せな葬儀」というのがあるとすれば、「不幸せな葬儀」というのもあるような気がする。
 不幸せな葬儀。麻子には、忘れようにも忘れられない出来事があった。
 その日は、見積もりをしてきた担当者の木村が、朝から脅かしてきた。
「今日の式、コレだから気をつけてな」
 木村はそう言って自らの首を絞める仕草を見せた。
「自殺……ですか?」
「うん。でも、訳ありなのはそれだけじゃないんだよ」
「え?さらに何か?」
「うーん。あまり大きな声じゃ言えないんだけど……」
 思わせぶりに始まった木村の話に麻子は驚いた。
 自殺したのは、六十代前半の女性。夫とは、離婚を前提に別居し、まだ健在な老齢の両親が住む群馬の実家に身を寄せていたという。それが共通の知り合いが亡くなり、葬儀に参列するため、群馬から出てきて、遅くなってしまったその夜は、夫が住む家、かつて自分が住んでいた家に泊まり、翌朝、リビングで首を吊って亡くなっているのを夫が見つけたと言うのだ。
「それってどういうことですか?」
「いやぁ、奥さんの家の方ではさ、旦那に殺されたんだって言ってるんだけど、一応警察の検分が入ってさ、遺書もあったし、自殺ということで処理されてるんだよね」
「遺書、ですか……」
「亡くなった奥さんの両親の話だとDV(ドメスティックバイオレンス)があったんだって。それが別居、離婚の原因だったって」
 返す言葉を失い俯くばかりの麻子に、木村はため息交じりで、「な、気が重いだろ?」と、肩を落として力なく微笑んだ。
 木村の言葉が思いのほか重たく肩にのしかかり、いつも以上に緊張して、麻子は、遺族がホールに来るのを待っていた。しかし、午後五時を過ぎても、誰も姿を見せない。午後六時からは式が始まると言うのにだ。緊張に身を固くしていた麻子の気が緩み始めた時、葬儀ホールの自動ドアが開き、故人の夫と思しき人物と、三十代半ばくらいの若い男性が入ってきた。
「川口様のご遺族でいらっしゃいますか?」
「そうです」
「もしかして、喪主様でいらっしゃいますか?」
「そうです。亡くなった多佳子の夫です」
「それは失礼しました。私、本日、葬儀のアシスタントを務めさせていただく渕上麻子と申します。よろしくお願いいたします」
「そうですか。こんな美人に葬儀をしてもらえるなんて運がいいな。な、光太郎」
 「亡くなった多佳子の夫」と名乗った川口雅彦は、微笑みを浮かべ、少し後ろについてきた「光太郎」と呼んだ若い男に声をかけた。光太郎と呼ばれた若い男は長男だった。麻子は、雅彦が微笑みを浮かべた瞬間、なぜか背筋に冷たいものが流れるような思いに駆られた。座りごごちの悪い椅子に、肩を押し付けられ、無理やり座らされているかのような気持ち悪さと、大きな真綿の塊の中に小さな鉄の玉が仕込んである球体で殴りつけられたかのような暴力的なものさえ感じた。
 『この人は自分の妻が自殺しているというのに、なんでこんな微笑みを浮かべ、バカみたいなお愛想を言うことができるのだろう?』
 麻子はそう思ったが、そんな気配は微塵も感じさせることなく、二人を遺族控え室へと案内した。ほどなくして故人の両親とその親戚一同が姿を見せた頃は、開式五分前になろうとしていた時だった。
「あんた、この式場の人?」
「はい、そうですが。ご遺族の皆さんでいっしゃいますか?」
「あのさ、これ、ここにいる人数分コピーしてきてくれない?」
 光太郎より少し若い感じがする男が、麻子の質問を無視し、かなり高飛車な調子で話しかけてくると、びっしりと文字が書かれた数枚のレポート用紙を、ぶっきらぼうに手渡してきた。
「かしこまりました。それは良いのですが、まもなくお式が始まりますのでお席に……」
「うるさいな!あんなヤツが喪主の式なんて席につけるか!いいからコピーしてきてくれよ」
 若い男は語気荒くそう言い放つと、その場にある椅子に乱暴に腰掛けた。他の遺族たちもそれに続き、その場に座るのを尻目に見て、麻子は預かったレポート用紙を手に慌て事務所へ向かった。
 渡されたレポート用紙。それは、震えるような文字で書かれた遺書だった。
「遺書なんて……」
 ドラマで見たり、小説で読んだことはある。しかし、現物を目にしたり、手にするのは、麻子の人生において初めてだった。麻子は、コピーを取りながら、好奇心には勝てず、悪いとは思いつつも、遺書を盗み見た。麻子の目に飛び込んできたのは、「あなたの身体的な暴力、言葉の暴力が、どれだけ私の心を傷つけ追い詰めたか、あなたには一生わからないでしょう」、「私はあなたを死んでも許しません」とか、「私が死んだ後、あなたはせいぜい長生きして、私が恨んで死んだということを思い知ればいい」などという、これ以上にない恨み節のオンパレード。麻子にとっては衝撃的な言葉の羅列だった。
 麻子がコピーを終えた頃には、通夜の読経はすでに始まっており、すでに二十分ほどが過ぎていたが、故人の家族は待合ロビーの椅子に座ったままだった。式に参列していたのは、喪主・雅彦と長男・光太郎だけという、なんとも寂しい有様。のちに知ったのだが、麻子にレポート用紙を渡したのは、故人の息子、次男の光二郎だった。故人の家族はこれで全てだった。
 通夜の読経は、無事に終わり、「このまま何事もなく今日が終わって欲しい」という麻子の願い虚しく、それは、遺族が通夜振る舞いの席に移った時に起こった。もっともこの時も、通夜振る舞いの席に着いたのは、雅彦と光太郎だけで、その様子も麻子の目には奇妙な光景として映った。あろうことか、「あー、腹減った」と言いながら、二人は、何がおかしいのか時折笑い、猛烈な勢いで箸を動かしていたからである。二人の笑い声がひときわ大きかった時、光二郎をはじめとする遺族が通夜振る舞いの席に姿を見せたから、もう大変だった。
「お前ら、母さんが死んだのが、そんなに楽しいのかよ!」
 部屋に姿を見せるなり、開口一番放ったのは光二郎。一瞬にして室内の空気は凍りつき、修羅場が始まった。ありとあらゆる罵詈雑言を並べ、聞くに耐えない言葉で互いを罵りあった。挙句には、遺骨をどうするかという話になった時、雅彦の口からは、「人間なんてどうせ燃やしてしまえば、残った骨はカルシウムの塊なんだ。なんの意味もない!好きなだけ持っていけ!」などと故人を愚弄するような言葉が吐き捨てられる始末。光二郎の手が、テーブルの上に乗せられたビール瓶に伸びた時、麻子は、遮二無二「やめてください!」と、両者の間に割って入ったが、呆気なく弾き飛ばされ、床に転がされ頭を打った。足を捻ったのか、よろよろとしながらも、なんとか立ち上がろうする麻子のもとに、「渕上さん、大丈夫か!?」と駆け寄ってきた木村の腕の中に崩れ落ちると、視界が徐々に暗くなっていき、意識が遠のいていった。その時、麻子の脳裏には、なぜか肩を落として力なく横を向いたまま遠くを見つめて話す別れた夫の姿が蘇ってきた。
「また眉間に皺が寄ってる。不機嫌な顔。キミは……。キミには人の痛みがわからないんだよ。優しさってどんなものかなんて、考えたことなんてないだろう。だから自分勝手なんだ」
 別れた夫の姿がだんだんぼやけ、麻子の視界は、完全に真っ暗になり、気を失った。幸い軽い脳震盪で済んだが、翌日は、大事をとって仕事を休んだ。

 この一件は、麻子の武勇伝となり、同時に担当者だった木村のおろおろするばかりだった不甲斐なさが、同僚たちにからかわれることとなった。それにしても、麻子が気になったのは、あの通夜に、自分が感じた奇妙な違和感だった。それは、自殺だからという理由ばかりではない。
 DVを行なっていたのは、喪主だけではなく、長男も同様に父と一緒になって、自分の母親にも関わらず「クズだ」とか、「臭いから近寄るな」など、言葉による陰湿な暴力を浴びせていたらしい。それなのに、なぜ喪主と長男は、あの場で平然と振る舞うことができ、なおかつ笑ってなんていられたのだろう?そもそもが、そういう質の人間だから、暴力を振るうことに疑問を持たなかったのだろうか?そして、確かに、次男以下故人の遺族たちは、夫に対して怒りをぶつけて当然だった。だけれども、いくら喪主に恨みを抱いているからといって、式に参加しないというのには違和感を感じた。だからからか、麻子には、彼らが最もらしいことばかりを並べ立て、怒りを爆発させるばかりで、故人が亡くなったことを悼んでいる風には見えなかった。もし、彼らが本当にあの時口にしていたようなことを思っていたならば、あるいは次男が、暴力を振るう二人に対して抵抗し、母を救うべく手を差し伸べていれば、故人は自殺なんて結論に行き着かなかったと思えてならない。更に言えば、故人を悼む気持ちがあったならば、怒りや恨みは押し殺して、式に参加するべきだったと思う。自殺してしまった人の気持ちを思いやるなんて出来ない。それでも、齢六十を超えてまでも、自らを死に追いやらざるを得なくなってしまったのは、彼女が、計り知れない絶望感と底が見えない真っ暗な孤独感に苛まれたからに他ならないのだとは想像できる。するとその原因を作ったのは、あの葬儀に来ていた全員に、何かが欠けていたからではないかと思えてならないのだ。
 それからしばらく、麻子は、自らの心の中で、出口の見えない堂々巡りをするばかりの問答に、曇りなんだか、雨が降るのか、はっきりしない天気が続くような、すっきりしない憂鬱な日々を送った。

 そんな悶々とした気持ちも、日々容赦なく訪れる仕事の波に、いつしか泡となり、記憶の彼方へとはじけて消えたある日のこと。
 麻子は、いつものように通勤電車に揺られていた。最寄駅を出てふた駅目に差し掛かろうとする時、進行方向左手には、小高い丘の斜面に張り付いたような長い階段を携えた住宅街が、線路脇に立つ建物の間から、見え隠れしてくる。休日を除き、毎日のように乗る電車だったが、その場所に来るたび、麻子は、「あんな急な階段、毎日登るの大変だなぁ」と思う。おそらく階段の先にはちゃんと道路もあって、そこで生活している人は、住めば都とばかりに、麻子が感じるほど大変には思っていないのだろう。考えてみれば、人生とは、毎日、急な階段を上り下りしているようだな、とも思う。そして、麻子が今乗っている電車は、これから先も、そんな様々な人生を乗せて、始発から終点までを行き来するのだろう。ずっと。不便なことが便利になったり、より遠くへ、路線と路線が絡み合ったりして。毎日のように何気なく乗っている路線だったが、そう思うと感慨も深くなった。それも、職場のある駅に近づく頃には、「今日も幸せな葬儀に当たりますように」なんて気持ちに変わるのだけど。
 麻子の職場がある駅に電車が止まろうと速度を緩めた時だった。視界の隅に見覚えのある男性の顔がかすめた。
「あれ?誰だっけ?」
 麻子は、それとなく二度見した。確かに知っている顔だが、どこでどう会ったか、全く思い出せない。そうこうしているうちに電車のドアは開き、麻子は乗客に押されるようホームに降ろされ、同じような色のスーツを着た人々に紛れた見覚えのある男性の姿を見失った。
 改札口を抜け、駅前商店街を横切る川の上にかかった小さな橋の上に差し掛かった時、「あーっ!」と大きな声を上げると、麻子は唐突に男性のことを思い出した。
 男性は、あの忘れられない不幸せな葬儀の長男、光太郎だった。
「なんだか……今日は幸先悪いなぁ」
 一度は客になった相手に対して、はなはだ失礼な物言いだが、それは置いといて、あの仕事のことを思い出すと、どんよりと沈んだ気分ならざるを得ない。職場に向かう麻子の足取りは一気に重くなり、知らぬ間に眉は釣り上がり、眉間には皺、唇はへの字に曲がっていた。
 地域密着を売りにしている葬儀ホールだから、駅や道端で、かつての客に出くわしたとしても不思議はないのだが、思えば今まで麻子にはそういうことがなかった。それがよりによって、奇跡的に出くわしてしまったのが、光太郎だとは。麻子は、その日一日、火葬場案内をしたり、事務仕事に追われたりしていたが、頭の中は、あの不幸せな葬儀のことでいっぱいで、今夜、何かが起こるに違いないと信じて疑わず、憂鬱な気分に塞いだ。
 そして、夕方になり、ホールに立ち、遺族を待っていた麻子の目に飛び込んできたのは、自動ドアが開き、元気良く駆け込んでくる四歳くらいの女の子の姿だった。
「莉緒ちゃん、走っちゃダメだって言ってるでしょ」
 追って入ってきた母親らしい女性は、女の子をつかまえると、バツが悪そうな微笑みを浮かべ、麻子に軽い会釈をした。
「遠峯様のご遺族の方ですか?」
 麻子は、普段通りの微笑みを浮かべると問いかけた。
「そうです。ごめんなさいね、この子きかない子で……」
「いいんですよ。お控室にご案内いたしますね」
「ありがとうございます」
 大人たちがやり取りする間、莉緒と呼ばれた女の子は、母親の腕の中で、好奇心に目を丸くして、双方の顔を見つめていた。麻子が、二人を控室に案内しようとすると、突然、莉緒が話しかけてきた。
「あのね、莉緒のおじいちゃん死んじゃったんだよ。今日はお葬式なの。リクくんやカイトくんとか、シオリちゃんとか、みんなみんな、集まるんだよ」
 心なしか莉緒の言葉には、葬儀に来たということよりも、いとこたちが集まるのを喜んでいるかのように感じられた。麻子は、莉緒に調子を合わせた。
「そうなの。みんな来るんだ。おじいちゃんも喜ぶねー」
「うん!」
 このくらいの年齢の子供に、「死」や「葬儀の意味」などわかるはずもない。無邪気は時に残酷だが、この時ばかりは、麻子は、莉緒の無邪気さに救われた気がした。
『今日は幸せな葬儀になりそうだ』
 そんな予感に、今日一日の憂鬱だった気分も吹き飛び、麻子は、ほっと胸を撫でおろした。
 昨今は弔問客を呼ばず、家族親族だけの少人数で葬儀を済ませる傾向が著しい。葬儀にはお金がかかる、身内だけで送り出せばいい、有名人でさえ少ない人数で葬儀をしているのだから、などというのが、その大きな理由だろう。今夜、麻子が携わる通夜も例外に漏れず、総勢でも二十名ほどのささやかな式だった。
 式が始まる三十分前には僧侶も到着した。遺族の様子を見ると、故人を懐かしむ話に、時折、うっすら涙がにじみ、「好きなことやって生きて、おじいちゃんは幸せな人だったよね」などの言葉も聞こえた。
 つつがなく式は始まり、十五分ほどが過ぎた時だった。麻子の耳に、僧侶の読経に混じって、別の声が聞こえてきた。囁き声に似たそれは、少女の歌声。声の主は、慌てている母親の様子ですぐに分かった。莉緒だ。莉緒は、僧侶が叩く木魚のリズムに合わせて、『おもちゃのちゃちゃちゃ』を歌っていた。
「……ちゃちゃちゃ、おもちゃのちゃっちゃっちゃっ。そらにきらきらお星さまぁ……。みんな、すやすやねむるころぉ」
「ちょっと……。やめなさい」
 母親は、小声ながらも語気強く諫めていたが、莉緒は、一向に意に介する気配を見せない。
「やめなさいってば!」
 抑えていた声が、少し大きくなってしまった時、僧侶の読経が止まり、室内には、静寂に包まれた莉緒の歌声だけが響き渡った。
 母親は一層慌てて、体を小さくし、泣きそうな声で「もう……。ほら、お坊さんも怒ってるじゃないの」と言った。麻子も、同じに気持ちになったが、ここでしゃしゃり出て、同じく歌うのをやめさせようとでもしたら、母親に恥をかかせてしまいかねない。じっと見守るしかなかった。すると、祭壇を向いて、遺族たちには背を向けたままの僧侶が口を開いた。
「お母さん……」
「はい」
「いいんですよ」
「はい……。えっ?」
「あのですね……。きっとですけど、きっとおじいさんは私のお経なんかよりも、お嬢さんの歌声の方が喜んでいらっしゃると思います。だからそのままで。歌わせてあげてくださいな」
「そんな……」
 僧侶は少し自嘲気味に、「まぁ、坊主がこんなこと言っちゃうと身も蓋もない話なんですけど」と、穏やかに笑い、少女の歌声に合わせて、さり気なく木魚を叩き始めた。そして、「さぁ、子供達、みんなも一緒に!」なんて、コンサートの人気歌手よろしく、そこにいた莉緒以外の子供達に歌うのを促した。厳かであるはずの通夜の席が、一変して、賑やかな少年少女合唱団のお披露目会のようになった。
 あり得ない異例の出来事に、麻子は目を丸くして、担当者の木村と顔を合わせると、肩をすくめて苦笑した。しかし、二人ともこの雰囲気に悪い気はしていなかった。
 今日の通夜は充分すぎるほど、幸せな葬儀だった。この調子ならば、明日の告別式もうまく運ぶことだろう。
 こんな日は、帰りの電車の揺れも心地よく、麻子は、この上ない充実感に包まれ、人知れず顔は綻び、ふと我に返って、気恥ずかしくなり、今のニヤけた顔を誰かに見られやしなかったかと姿勢を正した。

 二十四時間営業しているスーパーで買い物を済ませ、アパートに続く緩やかで長い坂道を歩いていた時、どこからともなく現れた野良と思われる尻尾をピンと立てた猫が、麻子の足元にすり寄ってきた。いつもなら避けて通るところだが、この日の麻子は違った。何も考えず、自然としゃがみこみ、猫の頭を撫でた。麻子は、思いもよらない自分の行動に戸惑ったが、それが、今日の通夜で予想外の僧侶の優しさに触れたおかげだと、優しさのおすそ分けをもらったおかげだと思った。しかし、そう思ったのもつかの間。不意に麻子の目に涙が溢れた。
「なんで?」
 ちっとも悲しくないのに。全く寂しくもないのに。全然苦しくもないのに。何かにすごく感動しているわけでもないのに。
 またしても戸惑うばかりの麻子。
「私、壊れちゃった?」
 自問自答する麻子の頭に浮かんだのは、別れた夫の言葉。
「また眉間に皺が寄ってる。不機嫌な顔。キミは……。キミには人の痛みがわからないんだよ。優しさってどんなものかなんて、考えたことなんてないだろう。だから自分勝手なんだ」
 同時に、あの自殺した女性の通夜の有り様が、麻子の心を支配した。
 遠く、電車の走る音がやけにのんびりして聞こえ、麻子の鼓膜を微かに震わせた。
 足元にいた猫は、現れた時と同じように尻尾をピンと立てたまま、麻子に尻を向けると、どこともなく、ゆっくりとした足取りで姿を消した。
 朝になれば、身支度を整え、麻子は、明日もあの電車に乗る。明後日も。きっと、ずっと。

                  了

著者

長濱英高