「かしわ台駅~秋夕の道」裏谷ゆきむ

 木が強く香る駅舎を出ると、道は遙か彼方へ伸びていた。コンクリートの補強とフェンスに挟まれた通路は三百メートルあるという。プラットホームには、その道を歩ききった先にある跨線橋を上り下りしないとたどり着けない。会社を定年退職した直後、その距離を長いと感じた。茅野菊雄が自分自身の老いを認めたのはその時であった。
 自分の後に改札を通った青年が追い越していく。長袖のワイシャツにスラックスという、秋口の格好である。前を行く者への気遣いも何もなく追い越していったが、脇目も振らずに進んでいく背中には、自分もかつて持っていたたぎりを見る思いがした。
 警笛が聞こえた瞬間その背中はいっそう速まったが、フェンスを隔てて走る電車に追い抜かれると歩みは緩んだ。その時には、頭が幾分低い位置にあった。
 菊雄は通り過ぎていく列車を、歩みを止めて見送った。速度を緩めてはいたものの、列車の停止位置はまだ遠い。駅舎とプラットホームがつながっていた時代には走っていなかった濃紺一色の車両から、菊雄は磨かれたような輝きを感じ取った。
 遠いプラットホームから届くアナウンスを聞きながら再び歩き出す。少し歩くと道が傾斜していて、そこから伸びる道は少し低くなっている。かつて大塚本町駅のプラットホームだった場所から、当時は立ち入り禁止だった場所へ降りていくことになる。
 菊雄が高校時代に通っていた大塚本町駅は既にない。相鉄線かしわ台駅が新設された約四十年前に廃止されたのだが、当時使われていた駅舎は残され、新駅であるかしわ台駅へ続く通路の入り口となったのだ。
 杖をつき、傾斜を慎重に下る。後から来る人々に何度か追い越されながら、菊雄はその背中を追うことはしない。抜き返すことなど自分の足ではもうできないし、長い道を歩くのは見ず知らずの人と競うためでもないのだ。やがて道の終わりが見えた時、さっきと反対方向からやってきた列車が停まるのを見た。
 道の終わりで待ち構えるのは、プラットホームへ降りるための跨線橋である。それを上る前に、菊雄は跨線橋の直前に置かれた椅子に腰を下ろす。座面にかなり余裕があってくつろいだ気分になれた。
 それまでフェンスと補強で狭かった視界は、跨線橋付近で少し開ける。玉砂利と石灯籠に飾られた日本庭園風の空間に日差しが降り注いでいるのだ。日陰の中で力を抜くと、乾いた風に包み込まれるのが思いの外心地良く、帽子で視界を遮るだけで寝入ってしまいそうだった。
 最後の客が通り過ぎてからだいぶ遅れて、跨線橋の階段を降りてくる気配があった。くつろぎの時間を邪魔されたようで微かな不満を禁じ得なかったが、降りてきた相手を認めると、雑多で掴みきれない感情が一瞬渦を巻いた。
「何だお前、何で西口から出ないんだ」
 率直な感情を乗せた声が出ると、心は不思議と空いた。
「俺の勝手だ。お前こそ、何でここにいる」
 その男も杖を突いて歩み寄り、椅子に腰を下ろした。当たり前のように傍へ座る。何ヶ月か、その距離で相手を迎えられない日々が続いた。しかしその程度の時間など些末だと思えるほど、相手との距離は自然に感じられた。
「休憩中だ。さすがにこの距離を歩くのは疲れてな」
「年を取ったな」
「今更、事実を言われても気にならん。お前もそうだろう」
 男はそこで破顔した。
「よく帰ってきたな」
 菊雄も破顔した。
 そのしわに覆われた顔が、まだ滑らかな肌だった頃から、彼の笑顔は変わらない。今も昔も、その笑顔は輝かしかった。
「死に損ないやがって」
「あいにくだったな」
 そうして憎まれ口をたたき合いながら、その奥にあった感情を確かめ合って、心強い気持ちになることができる。茅野菊雄にとって稲葉宏茂という男は、五十年前からそういう相手であった。

 予定を遅らせていることの後ろめたさが、菊雄に背後で通り過ぎる列車の本数を数えさせている。電車に乗ろうと思って来たつもりが、既に二本見送っていた。
「見ないと思ったら、入院してたのか」
 宏茂はそう言って、ショルダーバッグからペットボトルを取り出した。水分が欲しくなったが顔には出さない。
「階段を降りている時に落ちてな。手首を折ったんだ」
「命に別状がなくて良かった」
「頭を打たないように気を付けたからな。でも入院中あまり歩けなかったから足がなまった気がしてな」
「それでリハビリか」
「そうだ。お前は、孫のところに行くのか」
 宏茂は表情を緩めた。似通った行動を手がかりに親しくなっていった間柄だが、家族の出来方やその頃合も似ている。宏茂の孫は、菊雄の孫より一歳上だった。
「子供は良いよな。自分の子供じゃないから、気楽に愛でられるし」
「そうだな。面倒があっても、お前たちの頃もそうだったって突き放してやれる」
 共感が胸に温かみを生む。孫に会うために駅を降りる宏茂と道ですれ違うことさえいつものことで、時には椅子に座って語らうこともあった。言葉にはしなくても、会えない間張り合いがなかったと訴えている。
「お前は元気だな」
 孫のことを話す宏茂は、お前こそもう少し元気にしたらどうだ、と言ってきた。
「本調子じゃないんだろうが、声を張らないと外へ出る元気もなくなるぞ。せっかくけがが治っても今度は病気になったんじゃつまらんだろう」
 そうして宏茂は声を上げて笑う。その声が、病魔をはじめとする悪い物事を遠ざけていくような気がした。
 腕時計に目を落とすと、予定より二十分が過ぎている。ほぼ十分間隔で来る列車が、もうすぐやって来るはずだ。
「そろそろ行かせてもらうが」
「そうか。まあ、行った先で転ぶなよ」
「そこまで間抜けじゃない」
「どうかな。高校の頃もそう言いながらけがをしたことがあっただろう」
「そんな昔のこと、忘れろよ」
 宏茂は底意地の悪そうな笑みを見せ、席を立った。速くはないが、杖をついて、一定のペースでその背中は遠ざかっていく。決して急ぎを感じさせない動きだった。
 宏茂の背が見えなくなると、菊雄は跨線橋へ足を踏み入れた。ホームへ列車が滑り込んでくる音が聞こえた。

 その日かしわ台駅に着いたのは日暮れの後だった。家路に就く人々の最後についてゆっくり歩く。跨線橋から降りると、すぐ近くの椅子に宏茂の姿を見つけた。
「こんな時間に何やってるんだ」
 宏茂と通路で会うのは珍しくないが、日が暮れてから顔を合わせたのは初めてだった。
「ああ、孫のところに行ってたら遅くなってな」
 宏茂は笑みを見せたが、いつもの輝きを感じない。返事も力が抜けて聞こえた。
「どうしたんだ」
 宏茂の隣に腰を下ろすと疲れを強く感じ取った。会社を退いて久しく、その手の人間関係からは解放されている。考えられるのは近所づきあいか、あるいは自分自身のことだ。
「癌、らしくてな」
 その声は次の電車が背後を通り過ぎる直前に聞こえた。
 どこで、どれくらい進んでいるのか。疑問は湧いたが、追及はしなかった。
「そうか」
 菊雄は息をつき、努めて短く返事をした。
「入院を勧められたが、どこへ行くかはわからん」
「近いのか」
「近ければ海老名、遠ければ箱根だ。特急にでも乗らないと時間がかかりすぎる」
「そのことを話してきたのか」
「ああ。俺一人ではどうしても決めきれない」
「生きていきたくないのか」
 もしもそうなら、考える余地はないはずだ。空気のきれいな場所で、できるだけ穏やかに死を迎える。それを目指したい気持ちは理解できた。
「そろそろ良いんじゃないかという気持ちになっている」
 一息ついてから紡がれた言葉に、菊雄は無言で頷いた。まだ得たいものがある年代でもなし、遺される人々も、宏茂がいなくなって困窮するほどでもない。宏茂が置いていく悲しさや寂しさを我慢するだけの時間と信頼があるのなら、彼の言葉を身勝手と断じることはできなかった。
 さっき背後を通り過ぎた列車に乗っていた客だろうか、跨線橋から人が降りてきて、遠い改札口を目指していく。何とはなしに、その背中が見えなくなるまで見送った。
「この道を歩くのは辛かったのか」
 宏茂にとって不意だったのか、うつむいた顔を上げてから戸惑いがちの返事をするまで間があった。
「いや、この長い道を歩いて、階段を上り下りしていくのは、病身には辛かったのかと思ってな」
「昔は何てことなかったんだけどな」
「それは俺も同じだよ。若い頃、会社勤めをしていた頃も歩いていたが、やはり違うよ。歩くと自分の老いを感じる」
「それこそ辛くなかったのか」
 宏茂の言葉に、菊雄は首を振った。
「時間が経ったってだけだ。それに、老いて足が遅くなればゆっくり歩くこともできるようになった。その方が性に合うと思える」
 現役時代より使える時間が増えたというだけかもしれない。かつては少しでも余裕を持ちたくて歩いた道を、今は他人に追い越されながら歩いて、むしろそれを望むようになってきている。
「ここでお前と時々会って話をするのも悪くなかったよ。昔の、現役時代だったら考えられないことだった。ただ急いでいた頃だったら見向きもしないような場所だったのにな」
 座って休むことさえ罪悪に感じていた頃は、とても考えられないことをしている。途中で休まなければ駅までたどり着けないと思ったこともあるが、道をただ通り抜けるだけでは済まさないことを、楽しみと捉えるようになった。それも老いであろうが、効能と捉えれば悪い気分にはならなかった。
「道の途中で休んでも良いと思えるなんて、お前歳を取ったな」
「お互いだろう。たとえ悩みがあっても、こんな場所で休むような人間じゃなかった」
「そうだったか」
 宏茂は曖昧な笑みを見せた。
「どちらへ行くにせよ、また帰ってきてほしいよ」
 菊雄は椅子から立ち上がった。立ち止まらずに帰るつもりが、いささか多く時間を過ごしてしまった。空気の冷え込みも厳しくなっている。
「病気でもしない限り、俺はここを通り続けるからな」
「昔と同じということか」
「駅の周りに住み続けていれば、自然なことだ」
「だからこそ、俺と会うこともあったか」
 それを望んでいたのだろう、とは言わなかった。
「またな」
 踵を返した後、宏茂も立ち上がったのがわかった。これが最後の会話になるような予感がして、菊雄は会話が惜しくなって振り向いた。
 既に宏茂は跨線橋の中へ消えていた。そしてホームにそれらしい人影が降りたのを見た。
「またな」
 宏茂が帰ってくるための呪文のように、菊雄は呟いた。

 季節が冬へ近づくにつれ、駅舎の匂いは薄れていくような気がする。そんなことに気づくようになったのも、仕事から退いてプラットホームまでの道に別の意味を抱くようになってからだ。
 冷え込みのせいか、秋口に比べて追い越す人の足取りは速い。背を追わず、あくまで自分のペースを保つ。そうして歩くことにも慣れた。
 そして跨線橋の直前に置かれた椅子にたどり着き、腰を下ろす。場所が悪いのか、この椅子を使う人を見たことはない。休憩のためという意図は伝わるが、それならもっと、改札と跨線橋の中間地点に置いてほしいと、菊雄は思った。
 椅子に腰を下ろし、近づいてくる列車の音に耳を澄まし、遠ざかる気配を感じ、その列車に乗り降りする人々を眺める。一本か二本の電車を乗り過ごしてからプラットホームへ降りる。宏茂と再会してから何となく癖になってしまった。初めはただ、疲れたから休んでいただけなのだが、そうしていると宏茂が帰ってくるような気がするのだ。退院後宏茂と再会してから、間もなく一ヶ月になる。彼の消息はわからない。
 高校の頃に知り合ってから、何となく共に過ごし、その後は一度会わなくなったものの、お互い社会に出てから付き合いは復活し、定期的に連絡を取り合っては会うようになった。物理的にも精神的にも同じ道を歩いていた相手が、不意に現れなくなった。その意味はもうわかりきっている。それでも、願掛けじみたことでも、やってみれば何かが起きるような気がする。それこそ奇跡のようなことが。
 季節の冷え込みはいっそう厳しくなって、ただベンチに座っているだけでも辛くなってくる。霜が降りるようになった頃、列車の音を聞くまで待つことに耐えられなくなることもしばしばとなった。
 その日も菊雄は椅子に腰を下ろしたが、長居するつもりはなかった。遠くで列車が到着した音を聞き、跨線橋から客が降りてくる。それを見届けてから立ち上がろうと思った。
「本当にいたんだ」
 その何気ない声が、浮いた菊雄の腰を止めた。
 三十代か四十代か、年代はわかりかねたが、眼差しに見覚えがあった。
「あの、失礼ですけど、茅野菊雄さんですか」
「そうですが」
 慎重な問いかけに、菊雄は無愛想にならないよう注意して返事をした。
「わたし、稲葉宏茂の娘で、ゆず子と申します」
「宏茂の」
 その名が口を衝いた後、何を言うべきかわからなくなった。
「ここにいるはずだって、父が言っていたんですが、本当だったんですね」
「俺を探していたのか」
「はい。父が、伝えてほしいと」
 宏茂に似た、つり上がり気味の両目が、少し揺らいだ。
「もうすぐ二ヶ月になると思う。あれから会っていないが。海老名か箱根かで迷っているとあの時は聞いた。結局どちらへ行ったんだ」
「箱根です」
「宏茂はどう過ごしていた」
「元気、とは言えませんが、それでも穏やかな毎日に満足しているように見えました」
「そうか」
 菊雄は立ちっぱなしの相手に、座るよう言った。彼女は戸惑いを見せながら腰を下ろす。宏茂と同じように距離を置かずに座った。初めて会ったはずの相手に、不思議な親近感を覚えた。
「わざわざそれを伝えに来てくれたのか」
「はい、ここで伝えて欲しいということだったので」
「どうして。手紙や電話でも構わなかったのに」
「それはわたしには何とも」
 ゆず子は首を振った。宏茂の思いはもはや想像するしかないが、ゆず子が継いだ言葉が手がかりになる気がした。
「ここで語らえたことは嬉しかった。そう父は言ってました」
 この道は、思いでそのものだ。
「ありがとう。その言葉を聞いてみたかった気がするよ」
 ゆず子は一礼して立ち去った。それから少し間を置いて、跨線橋から客が降りていく。菊雄の前と後ろで、何かが通り過ぎていく気配がある。その時、目には見えない何かも、離れていったような気がした。
 人が全て通り過ぎてから、菊雄は椅子を立ち、杖を突きつつ跨線橋を上っていった。
 
 〈了〉

著者

裏谷ゆきむ