「きぼうの丘」金子和之

「今度、このクラスでみんなと一緒に勉強することになった、大橋哲夫君です。愛知県から転入して来ました。」
 新しい担任である小村先生は、僕を手招きし、教壇の中央へ立たせた。履いていたスリッパで、パタパタ音をさせた僕を見て、クスクス笑い声が聞こえた。
 何か挨拶をしないといけないのであるが、緊張した僕は、
「よろしくお願いします。」
と言うのが精一杯であった。
5年5組の全員の視線が、僕に刺さる様に向けられていた。

 ちょうど一週間前、
「大橋君はお父さんのお仕事の都合で、横浜へ引っ越す事になりました。今日が最後ですので、次の道徳の時間は、大橋君へさよならの手紙を書いてあげようね。」
とメガネを指先で上げながら、オールバックの大川先生は、5年い組の生徒へわら半紙を配り、それに書くよう指示を出した。
 僕はというと、座席周りの友人が、
「お前ホントかよ。」
とか、
「横浜へ行っちゃうの。」
というザワザワした気配を感じた事で、ちょっとした英雄気分になってしまった。
クラスのみんなが、わら半紙に鉛筆で書いている音を聞きながら、ひょっとして誰か女の子が、
「大橋君の事が好きでした。」
なんて書いてくれたら良いな、と思いながら、頬杖をしてニヤついしまった。
 小学校5年生というと、涙を流してさよならをする訳もなく、
「手紙を出してくれよ。」
と言う様な言葉だけであっさり別れてしまう。
 ダンボール箱が、山積みになっている自宅に戻ると、5年い組のクラスメートが書いてくれた手紙を、早速読んでみた。
「手紙を出すから、大橋君も出して下さいね。」
と自宅の住所を書いたものが多く、
「光化学スモッグには、負けないで下さい。」
「ヘドロには、気をつけて下さい。」
「カンカンとランランの写真を、送って下さい。」
と懸命に書いてくれたのか、わら半紙が毛羽立つくらいに、消しゴムで何度も消して書き直した筆跡が、有難く感じた。
 ようやく、この手紙を書いてくれた友人等には、もう会えないという思いから、悲しい気持ちが溢れだしてきた。この手紙を失くさない様、ランドセルと一緒にダンボール箱へ収納した。
 そんな愛知県での出来事から4日後に、神奈川県の横浜への転居が終了した。

 新しい住所は旭区の南希望が丘。前の住居と違い、近隣には住宅が密集しており、庭の土は真っ黒。井戸まである。
 古い家に戸惑いこそあったが、雰囲気は新鮮なものとして捉える事が出来た。
 3日かけてダンボールの開梱と、荷物の整理を終え、明日から新しい学校へ行く段取りになっていた。
 夕方には母と食品の買い出しに出掛けた。希望が丘の駅からは、商店街が通っており、人通りも多く賑わっていた。
 愛知県にいた頃は、電車に乗るのに、最寄りの駅まで、自動車やバスで二〇分の移動が要されたが、ここ希望が丘では、歩いて電車が見られる駅に行けるなんて、都会を感じてしまった。
 十一月の夕方は、暗くなるのが早い。見慣れない風景の中では、尚更日暮れは、早く感じた。しかし、商店街は街灯の白い光線で、震える寒さも麻痺させるくらいに眩しかった。
 それだけではない。焼き鳥の香ばしい匂い、カメラ屋のきれいなショーウインド、洋菓子屋の白いクリーム、履物屋の金魚、キョロキョロしながら歩くのは、愛知県でいうデパートの店内を、見ながら歩いているに等しい。
 相鉄ストアは、特に賑わっており、夕食の材料を買いに来るお客で混雑していた。
 ここでは手作りパンのコーナーがあり、好きなパンをトレーに取り購入をする方式で、袋入りの菓子パンばかり食べていた僕には、初めてのシステムであった。コロッケやメンチカツ、ハンバーグが挟まっているパンや、溶けたチーズやトウモロコシが載ったパンがとても鮮やかに見えた。
 その中で、大きいコロッケの形をしたパンが目に入った。
「カレーパン?」
こんなパンが世の中に存在して良いのだろうか。食べたら、ダラーッとカレーが垂れてしまうのではないだろうか。ひょっとして、ご飯も一緒に、入っているかも知れない。などと考えている内に、母は、翌日の朝食べる食パンを買って、店員に包んでもらっていた。

 眠たい目をこすりながら、昨日相鉄ストアで買った食パンを、朝食にした。
 身支度は、ランドセルに、愛知県で使っていた教科書を詰め込んだ。ここで、愛知県の学校へ、上履きを忘れて来てしまった事がわかり、母にスリッパを用意してもらった。
初めての学校であるので、母も一緒に付いて行った。
 職員室で待っていると、女の先生がやって来て、母と軽い会釈をした後、僕を見た。「大橋君は5組で勉強することになります。 私が担任の小村と言います。 よろしく。」
小村先生は、夏木マリ風の化粧をしており、母と同年代と推測した。
「お母さんは、これでお引き取り下さい。」
母は帰宅してしまい、これから先は、僕一人であった。
長い廊下を小村先生と歩き、下駄箱の位置確認だけの話で、教室の前まで来てしまった。
 愛知県での「いろはにほへと」のクラス名が常識となっていた僕は、5年5組なんてNHKの道徳ドラマみたいで、少し恥ずかしかった。

 クラスへの紹介が終わり、5年5組は授業の体制に入った。
 僕の席は、窓際の前から2列目。隣は戸部さんという、お下げ髪の女の子。僕の教科書が違う為、授業では戸部さんに教科書を見せてもらった。二人分でひとつの机の形状が、非常にドキドキさせられた。
 おまけにストーブがあった事から、頭の中はカッカしっ放しだった。そのせいもあるのか、半ズボンをはいている男子が多い。
 これが標準語なのか、と思わせる言葉が飛び交っており、これが都会の子供なんだなと、初日から変に納得した。
 
 十日もすると、少しは教室の雰囲気にも慣れ、話をする友人も増えてきた。学校が引けた後も、遊びに誘ってくれ、南希望が丘周辺の地理にも詳しくなった。
 ビックリしたのは、富士山が見えた事。富士山は、そこへ行かなくては見えない山であると、ずっと思っていた。その姿は、朝は雪をまとって凛々しく、夕日時には哀愁を感じさせるのである。
 また、新幹線もすぐ近くを走っており、「ひかり号」や「こだま号」が通るたびに、轟音と一緒に、周りの空気も入れ替わってしまったと思うくらいに、余韻が残った。
 友人との遊びにも、真新しさを感じていた。 じゃんけんの、掛け声が違うし、鬼ごっこの呼び名も違っていた。また家の中で遊ぶ時は、ほとんどが電車の模型を走らせる遊びで、この時初めて「HOゲージ」「Nゲージ」という言葉を聞いた。線路を、部屋いっぱいに繋いで、それに乗せた模型の電車に、ツマミをひねって電気を送り、走らせる。乾電池の電源で遊ぶおもちゃしか知らない僕は、コンセントからの電源で遊ぶ希望が丘の同年代の友人に、劣等感を感じてしまった。

 次の日曜日に、電車の写真を撮りに行こうという誘いがあり、僕も連れて行ってもらうことになった。
 母に、おにぎりを作ってもらい、父にはカメラを借りた。
 斜向かいに住んでいる加田君と、集合場所である希望が丘駅に向かった。朝早い時間であったが、希望が丘駅は、お出掛けする家族連れで、横浜方面の切符売場周辺が、賑わっていた。
 電車なんか、滅多に乗る機会が無かった僕は、他の二人の友人が来るまで、切符の自動販売機の上に据え付けてある、路線図を眺めていた。迷路のような路線図と、聞いた事のない駅名、そして、距離感が無い事も相まって、
「今日は友人とはぐれたら、エライ事になってしまう。」
と思わず唾を呑んだ。
 やがて、四人が揃い、出発となった。
何事も初めての僕は、 
「僕らは子供料金だから、大人の半額だよ。」「ここにお金を入れて、小人と書いてある板の下にある料金ボタンを押すんだよ。」
と教わった。藤沢までの、小の赤文字が入った切符を、買う事が出来た。 
 次に改札口で、切符にハサミを入れてもらうのだが、駅員の、ハサミの捌き方に、見とれてしまった。西部劇映画のガンマンが、拳銃を回す様に、その駅員はハサミをクルクル廻し、そして廻す合間には絶えずチャッチャッチャッと、リズムを刻んでいるのだ。切符にハサミを入れる時も、リズムが崩れない。
 踏切が鳴った。友人達は、もうカメラを構え始めている。海老名行きの電車が、構内に入って来るのを撮影するのだ。
誰かが、
「おっ、五〇〇〇系じゃん。」
小さいカメラで、真剣に撮影している友人の格好に圧倒され、僕は出遅れてしまっていた。
 海老名行きが、出発してすぐに、僕達が乗る横浜行きが、ホームに入って来た。車内は混雑しており、つま先立ちで、つり革につかまっているのがやっとであった。
 横浜駅に着いて、今度は東海道線に乗るため、どこをどう歩いて行ったのか、みんなに付いて行くのがやっとだった。国鉄の改札口やホームは、着飾った人達が大勢いた。何だか、アタフタしている自分が、田舎から出てきた家出人に思えてきた。
 国鉄の、ホームに立っていると、いろんな形や色の、電車や貨物列車が通った。並びには私鉄のホームもあり、赤や緑の電車も引っ切り無しに走っていた。友人は、写真の合間に、線路の幅の違いや、電車の型番について、僕に説明してくれたが、周りの雑音に友人の声が消されて、理解できずに生返事をしていた。
 このあと藤沢、相模大野、海老名と乗り継いで行く事になるのだが、僕はこの横浜駅で疲れきってしまい、気持ちがグッタリ。この誘いを受けたのは、失敗だったと後悔してしまった。
 気分の悪いまま、やっとの事で海老名駅まで到着した。遅い昼食は、小田急線を降りたホームのベンチでとった。このホームは、乗降客が少なく、僕たち専用の遊び場になった。母の握ってくれたおにぎりを食べたら、なぜか元気になってしまった。何だったのだろう。
 僕は持って来たカメラを、この海老名駅で初めて使った。何を写したかと言うと、音楽を鳴らしながら飛ばしていく、赤い色をした特急。愛知県でパノラマカーという特急電車があるのだが、それにそっくりだったからだ。「小田急ロマンスカーと言うんだよ。」
と教えてもらった。僕は通過するロマンスカーを、何枚も撮影した。撮影している内に、ロマンスカーにも種類がある事がわかった。ウルトラセブンの様な顔をした車両、もうひとつはモスラの幼虫の様な形をした車両。
 友人達と一緒に、ホームの先端から先端へカメラを持って、走りまわり撮影した。風が冷たくなる夕方まで、小田急線のホームにいた。
 帰りの相模鉄道も、海老名駅構内では僕達の専用電車であった。
「やったぜベイビー、五〇〇〇系。」 
車両に乗り込み車内を歩いて移動しながら、「あれ? これ自動窓なの?」
これが今日初めて自主的に発した僕の言葉だった。
多分。
窓ガラスには、自動窓と表示がされており、脇には二つの押しボタンが設えてあった。 僕は、ボタンを押して、開けたり閉めたりして窓を上下させた。こんな窓は初めてだった。他の友人も、僕と同じ様に開けたり閉めたりして遊んだ。大和駅までは、ほとんど人は乗って来なかった。
 希望が丘駅に到着した時は、もうすでに暗くなっていた。駅で友人二人と別れて、朝と同じように加田君と帰路についた。駅前から少しは見なれた街並みに、ホッとしてしまった。
「加田君、ちょっと遠回りだけど、商店街から帰らないかい?」
と誘ってみた。朝は何もしゃべらないで駅まで来たのだが、帰りは違っていた。加田君は「行こうか。」
と帰路から外れて、僕と商店街の坂道を登り始めた。
途中、相鉄ストアの、手作りパン屋に寄った。僕は、カレーパンなるものを二つトレーに載せて、包んでもらった。
「僕、カレーパンって食べた事無いから。」
と加田君に一つカレーパンを手渡した。初めてのカレーパンは、うまかった。ドーナツの様な油っぽい匂いはしたが、カレーの辛味が疲れた体に、確実に元気をくれた。二人は、カレーパンをかじりながら商店街を外れ、希望が丘高校通りの、暗い路地の帰路へ戻った。 

 家に着いて、晩御飯を食べながら、今日の出来事を両親に話した。
父は
「そんな遠くまで行ったのか。」
母は途中グッタリしてしまった事に
「お腹が空き過ぎたか、人ごみに酔ってしまったんじゃないの?何にしても、引越しや慣れない学校での疲れもあるのよ。今夜は早く寝なさい。」
と、早く晩御飯を食べる事を促しながら、言った。
 ふとんの中で、今日の事を思い返した。
愛知県とは違うこの横浜で、僕はやっていけるのだろうか。
でも切符を買う事が、出来たぞ。
一人で電車に乗る事だって、出来る。
そうだ、今日希望が丘駅に帰って来た時に、商店街を見た時の懐かしい様な安心感。
あれは何だったのだろう。
これから、ここで生活をして行かなければいけないのだという気持ちの芽生えだったのだろうか。 
頑張ってみよう。 
とりあえずここで頑張ってみよう。
ここは希望が丘なのだから。

著者

金子和之