「きらめく岩はなに色に」藤田拓未

 ものごとを思い出すとき。私の場合、大体において、それらは色彩豊かな人の声をともなって顕れる。
「希望ヶ丘って名前、よかねぇ。希望にあふれとる感じねぇ」
 と言ったのはお母さん。新しい家で迎える初めての夜。そして、
「おう、横浜にいくとか! 横浜と言ったら、これやな! 街の灯りの、えらいきれかねヨ・コ・ハ・マ……」
 と突然歌い出したのは長崎の理科の先生。学校最後の日の、職員室。先生の歌で悲しい雰囲気も少しだけ明るくなった。
 私はその歌をまだ聞いたことがない。

 中学二年生の秋、私は希望ヶ丘の中学校に転校してきた。
「はじめまして、山下ゆきです。長崎から来ました。よろしくお願いします。長崎では――」
 以下、略。
 私のように、自己紹介を何度も何度もやってくると、自動音声みたいに上手に喋れるようになる。ハジメマシテ、ヤマシタユキデス。ナガサキカラキマシタ。ハジメマシテ、ヤマシタユキデス。ナガサキカラキマシタ……。
 クラスの視線が私に集まる。先生になった気分で、少しだけドキドキする。それを一瞬で現実に引き戻す控えめな拍手の音。いつもと同じだ。
 私は教室の床に視線を落とし、与えられた自分の席につく。ふくらんだ期待が、失敗したパンケーキみたいに、しゅん……としぼんでいく、そんな感じ。
 お母さんは、
「 希望ヶ丘って名前、よかねぇ。希望にあふれとる感じねぇ」
 と言った。
 そいけど、んなわけなかよ。どうせいつもと一緒変わらんのがオチ。
 必要最低限の会話を除いて、私は教室の中で、ずっと黙っていることができた。特に会話する話題もないし、私を取り囲むクラスの人も私と話したい話題などなさそうだった。つまり、誰も私に興味がないのだ。
「山下さんってさ、なんか、話しかくんなオーラが出とっとよね」
 熊本に越してきたばかりの頃、クラスの男の子にこんなことを言われたこともある。
 だけど、心配する必要はない。どんなポジションに落ち着くかは、その時々で違うけど、半月もすれば自然とクラスに馴染んでいく。自分の輪郭が消えて、透明になっていくみたいに。
 私は、カメレオンのようなものなのだ。べつによかか、保護色。
 そんな中、私に積極的に声をかける子が現れた。引っ越して10日前後で、大抵こういう子が出てくる。
「ねえ! 図書館行こうよ」
 岩島リナ、という子だった。すらりと細長く、いつもハーフツインテールで、目は少しツリ目。でもどこか奇妙な雰囲気を持った子だった。それは、その捉えどころのない顔立ちから出ているのか、それとももっと別の原因に拠るものなのか、私にはわからなかった。
「あたしね、本が好きなんだ」
 転校してきてはじめに話しかけてくれる子は大抵おしゃべりだった。みんな、私がしゃべる隙を与えず、ラジオDJのように口をまわす子だった。
 そして岩島リナは、彼女たちよりも本当に本当によくしゃべる子だった。
「あたしね、東野圭吾を今読んでるの。
 あたしね、今はまってるアニメがあるんだけど。
 ねえゆきちゃん、筋肉少女帯って知ってる?
 最近になって初めて見たんだけど、インディ・ジョーンズって面白いんだよ、古いのにさ」
 私はどれもよく知らないし、あまり興味もわかなかった。
「ナウシカは映画より、漫画の方がいいんだ。映画、見たことある?
 カルチャー・クラブ、っていうバンド、これ最高! 最近のより全然いいんだ。
 寺山修司の戯曲……っていうの? 文庫で読んだんだけど、価値観変わったよ。
 南総里見八犬伝、意外に読めちゃうんだよ、これ。
 あたしね、コンビニのおでん好きなんだ。
 実はね、サイモンとガーファンクル大好きなんだ。歌詞が。
 ロスト・ワールド。知ってる? 手塚治虫の……」
 希望ヶ丘に来てから半月が経っても、私に友達はできなかった。岩島リナを除いて。
 リナはひたすらにしゃべり続けた。
「ねえ、ゆきちゃん。トイレ行こ。
 ねえ、ちゃんゆき。お弁当は?
 ねえ、ゆっきー。次移動教室だよ。
 ゆきりーん。班、同じにしよ」
 私に、彼女以外の友達がほとんどできなくても、先生や他のクラスメイトは特に気に留めていないようだった。――ひとりぼっちじゃないから、いいだろう。少なくとも、これはいじめというわけではない。そんな声が聞こえてきそうだった。
 別に困ったことはない。いつものこと。
 そして半月も経つと、そのクラスの細かな状況が、私の中で少しずつ解明されていった。例えば、スクール・カーストもそのひとつ。
 哀しいことに、岩島リナは、間違いなく、スクール・カーストにおいて、最下層の女の子だった。誰からも見向きもされ、どの層からも断絶された、孤独な子。
 その状況は、いじめのように問題視されるようなものではない。もっと潜在的なで、悪意のない、それゆえにより深刻な、クラスの空気そのものだった。
 簡単に言えば、岩島リナは、他に溶け込むことのない、圧倒的な個性の持ち主だった。言いかえれば、強烈にヘンな子。
 私は岩島リナに好かれることによって、いつものように、カメレオンのように、色を失うことができなかった。
 迷惑? わからん。
 移動教室から戻るとき、閉じられることのないリナの口からこんな話が出た。
「今日さ、あたし、横浜行きたいんだよね。アニメイト。わかる?」
 私はうなずいた。でも、アニメには全く興味がなかった。まだ前にリナが語っていた寺山修司の本の方が読んでみたいと思えた。
「行こうよ、ねえ」
「うーん、どうしようかな」
「ね、行こう。楽しいよ。今日の放課後」
 横浜までは急行に乗ればすぐだが、私にはなんだか遠く感じられた。大体のことは二俣川で済ませられる。
 私が明確な返事をする前に、昼休みとなり、リナは委員会の仕事で教室を離れた。
「ゆきんこ、すぐ戻ってくるからね!」
 私は一人になった。
 教室内は、なんだか幾つかの独立国家の寄せ集めみたいに思えた。元気があり余って教室後方と廊下を走り回る元気男子の国。流行が大好きなミニスカート女子の国。静けさを愛する文系男子の国。すみっこで絵を描く眼鏡女子の国……。
 私は?
 希望ヶ丘って名前、よかねぇ。希望にあふれとる感じねぇ。
 横浜と言ったら、これやな!
 山下さんってさ、なんか、話しかくんなオーラが出とっとよね。
 ――うるさい。
「ねえ、山下さん!」
「は、はい?」
 ぼうっとしている私に声をかけたのは、リナではなく、ミニスカートの国の三人組だった。
「山下さんってさあ、スタバ好き?」
「うん……、まあ……、どうしたと?」
「山下さん、それ、方言? うける」
「え……、なまってた?」
「少しね。それでさ、私たち、今日二俣のスタバの新作飲みに行くんだけど……、一緒に行かない?」
 スタバ? ミニスカートの住人が? 私を誘って?
 長崎にもスタバはあったけど、家から遠くてほとんど行ったことがなかった。
 まさか、田舎者の私をおちょくっとっと?
 でも彼女たちの様子から、私をおちょくる意図は見えなかった。戸惑いが私の顔に出ていたのか、ミニスカートのうちの一人が口を開いた。
「ほら、私たち、なんどか声かけようとしたんだけど、ずっとあの子が近くにいたでしょ、だから……」
 あの子? ――リナか。
「あの子、ちょっと変わってるでしょ。山下さん、嫌だったらはっきり言ってもいいんだよ」
「いや……」嫌ってわけじゃ、ない。
 ただ、声をかけられたのがうれしかったのか、やっと今まで見たいにクラスに溶け込むことができると思って安心したのか、私は放課後、彼女たちと二俣川に行くことを約束した。
 リナには家の用事があると言って、私はそそくさと家路についた。
 4人そろって16時台の電車で二俣川に向かった。
「ねえねえ、この前バニラクリームにオレオカスタマイズしたら、めっちゃ美味しかったよ!」
「へー、めちゃいいじゃん、それ」
「うち抹茶フラペチーノが一番好きだなー」
「あ、それ、ホイップ追加したら、チョー美味しかった!」
「山下さんはいつもなに飲むの?」
「えっ……私?」
 知らない単語ばかりなので、話半分で聞き流していたら、ミニスカのひとりから話を振られた。や、やばい。
 話の意味がわからん。フラペチーノってなに? スタバってコーヒー屋さんやろ? コーヒー屋さんに抹茶?
「わ、私も、抹茶……かな~?」
 そうこうして、私たちは南口の西友1階に入っているスターバックス・コーヒーにやってきた。
 4人とも同じものを注文し、その豪華な見た目と派手な甘さにはしゃいだ。どんなことを喋ったかはあまり覚えてないけど、私は久しぶりに声をあげて笑った。
「山下さんって、こんなに明るいんだ」
「山下さん、第一印象と違うね」
 よく言われる、と私は答えた。いい意味か悪い意味か分からないけど、本当によく言われる。私は環境への対応だけはできる。保護色。
「また遊ぼうよ、山下さん」
「うん、ゆきでよかよ」
「あ! また方言。 ゆき、おもしろいね」
「あ、つい……。ゆきで、いいよ」
「そんな、言い直さなくても! 方言でもいいじゃん! おもしろいし」
 おもしろい? わからん。
 でも、嫌じゃない。たぶん。
 夕飯に間に合う時間に、私たちはさよならをした。
 私は一人になってから、ふとケータイを見た。すると、岩島リナからメッセージが届いているのに気が付いた。
「うそつき!」 ――1時間前
 私は慌ててリナに電話を掛けた。予想外に、リナは5コールくらいで電話口に出た。
「……ゆきぽん」
「リナ!」
「……」
「……」リナはしばらく黙っていた。私も。
 電話口では、時が止まったみたいな沈黙が続いた。けれど、空はそれを待たずにどんどん暗くなっていった。
「ねえ、ゆーきゃん」
「あ、あの、ごめん」
「ううん、もういいよ。それよりさ……」
「なに?」
「わたしね、今、横浜いるんだ」
「今?」もう、すっかり暗くなっている。
「そう、今。来ない?」
 晩御飯と、心配する母のことを考えた。
 ――うそつき!
「ゆーきゃん。来てよ、ゆーきゃん、どぅーいっと!」
 私は、再び改札を通った。
 横浜についたころには、日は完全に沈み、世界は私に馴染のない姿に変貌していた。長崎のアーケードは、21時ころにはすっかり閑散としていたし、その横浜の人混みは祭りとも違う性質を帯びていた。スマートフォンには家から何度も着信が入っていたが、出なかった。
 私は川をのぼる魚みたいに人混みを抜けた。いろんな灯りと音が四方八方で飛び回る五番街を抜け、私はムービルへ続く青い橋の急な階段を駆け上った。
 橋の上まで登ってしまうと、繁華街の賑やかな雰囲気は足の下だった。
 岩島リナは、その青い橋のまん中から、下を流れる幸川と、留まることを知らない人々の往来を眺めていた。
「リナ」私が呼びかけると、リナは顔をこちらに向けた。
「ゆきゆき、来てくれたんだ」
「あの……私」
 私はリナの隣に立った。私の謝罪の言葉を、リナはさえぎった。
「ほら、見て見て。面白いよ」
 リナはそう言って、欄干に両手を乗せ、眼下に広がる横浜のひどく賑やかな繁華街を覗いた。私はリナの隣に立って同じ格好をした。
 そうやって、私たちはしばらくの間、足のずっと下を流れるどよめきと、違う場所から発せられる色彩豊かな輝きを眺めていた。
「ねえ、今乗ってきた、相鉄線。何色だった?」リナは橋の下を見つめたまま喋った。
「え……」色? わからん。
「シルバーの車体に、青とオレンジのラインのやつか、全身ネイビーブルーか」
「えっと……たぶん銀色のほう、かな」
「シルバーに赤いラインのもやつも、もう全然見ないけど、たまに走ってる」
「……」
「みんな、どんどん、新しい色に塗り替えられてく。
 全身ネイビーの座席は気持ちよくて快適だよね。
 見た目もかっこいいし。電光掲示板もきれい。
 でも、青とオレンジのラインのも嫌いじゃなかった。
 赤いのだって」
「リナ」
 それから、リナは黙って黒い水面に張る油膜によって虹色を写す幸川と、知らない大勢の人々の行先を見守った。リナのまつげは長く、その下には控えめな瞳が収まっていた。
「あたしってさ、浮いてるよね」
 リナは唐突に口を開いた。
 私は黙っていた。
「あたしさ、うまく人と喋れないんだ。ずっとそう。人と馴染めないっていうか」
「リナ、今日は――」
「ううん、いいの。あたしって、みんなと趣味も合わないし、みんな何考えてるか分からないし……」
「そう……かな……」
「だけどね。だけど、おゆきは、おゆきだったら――」
 リナは私の顔を見て少し考えた後、
「――わかんないや」と言った。
 そして、「今日は来てくれて、ありがとう」と続けた。
 リナはそう言って、泣いた。私も気づいたら同じように泣いていた。
 それからしばらくして、私はクラスに溶け込むように馴染んでいった。引っ越してから1ヶ月過ぎた頃にはいつもそうなる。きっかけはわからない。あのときのスター・バックスだったかもしれないし、違うかもしれない。
「ゆきー! 今日二俣いこ!」
「うん、いいね! いこいこ」
 ある人とは仲良くなり――
「あのう、山下さん。次の数学の宿題やりました?」
「やったけど……なに?」
――ある人とはそうでもない。
 晴れて、希望ヶ丘色の、山下ゆきの完成だった。

 そうして、中学生活の残り1年と半分くらいはあっという間に過ぎ去った。その中で、岩島リナとの仲は古い写真が色あせていくように、次第に疎遠になっていった。
 次の環境では、またその環境にあった生き方があり、私はまた、うまい具合に保護色を見つけて生きていく。
 私は、そこにある関係性でしかない。

「山下さんってなんかさあ、話しかけんなって感じの雰囲気……あるよね」
 うるさい。
「山下さん、なんか最初の印象と違う!」
 またイチからだ。

 今では西谷からの都心直通線が開通し、横浜に行く機会はずいぶん減った。でも、横浜の街が照らす光の中を行き交う人々の数は、それほど減っていない。
 私は今でも時々、岩島リナと横浜駅西口の繁華街で見た鮮やかなきらめきを思い出す。そして、決してかすむことのない芯のある光を持った、リナのことを思い出す。
 希望ヶ丘って名前、よかねぇ。希望にあふれとる感じねぇ。
 そっと目を閉じて、私の中のどこかでひっそりと細く輝き続けている光を探す。その光がどんな色味を発しているのかは、まだ知らない。

著者

藤田拓未