「くーちゃん」小田文男

 「相鉄線」ご存知ですか?
 あたしは、東京育ちなので知らなかったのですが、夫の幹ちゃんは、「ハマっ子」なので、子供の頃からよく知っていたようです。
 中村久美子 六十歳。          平成になってから、この「相鉄線」緑園都市に引っ越してきました。
 子供達も独立して、夫の幹ちゃんとのんびり暮らしていますが、最近、昔のことをよく思い出します。

 「相鉄線」は、子供の頃、母に連れられて親戚の家に遊びに行く時、いつも乗っていた楽しい思い出につながる電車です。母は「じんちゅうせん」と呼んでいました。
 中村幹二 六十三歳。
 いまだに建築設計の仕事をしています。内向きで不器用な私を、明るすぎる性格で支えてくれた妻のくーちゃんには、感謝しきれません。

 あー やっちゃったー。
 幹ちゃんが、下向いて黙り込んじゃった。
 「佐藤さん、ヨーロッパ旅行だって」まではよかったのだけれど、「私たちも一度は行ってみたいね」がまずかったのだろうな、多分。

 また、やってしまった。
 不機嫌が顔に出てしまったな。自分の能力のなさを怒っているだけで、くーちゃんにではないのだけれど。
 「誰もあなたを責めてない」のもわかっているけれど、押さえが効かないなあ。

 こうなると、しばらく口を聞いてくれなくなるのよね。
 幹ちゃんと付き合うようになってからしばらくして、幹ちゃんのおじいさんから「幹二は、子供の頃から、ちょっとした言葉で僻む・いじける・ふて腐れる子で、きっとあなたも苦労すると思う」と言われていたから、初めてその場面になった時もなんとかなったけれど。
 でも、幹ちゃんのおじいさんも変なひとだった。突然、ほんとに突然現れて、「くーちゃん、いや、久美子さん」とあたしを懐かしそうにじっと見つめて、「幹二の祖父ですが、
幹二は子供のころから・・・」とさっきの話を始めて「だから」って続けたと思ったら、苦渋の選択みたいな顔で「他の人を探したほうがいい」だって。
 突然だったけれど、初対面だったけれど、確かにおじいさんになった幹ちゃんという感じだったし、あたしのことを思ってくれているのは伝わったから、あたしも、きちんとお話しさせてもらった。

 どうもこうなると、普通に会話ができなくなる。八つ当たりとはわかっているけれど。
 くーちゃんなら、私なんかと結婚しなければもっと幸せになれたのに、海外旅行だって何回でも行けたのにと思うと、気持ちがどんどん沈んで、また浮かび上がるのに時間がかかって、くーちゃんを悩ませることになってしまう。直らないなあ、ほんとに困った性格だなあ。

 おじいさんにも言ったけれど、あたしは、偉そうな人や自信満々の人とか、あたしの話をきちんと最後まで聞いてくれない人は苦手なの。
 だから、幹ちゃんとはうまくやっていけると思ったし、幹ちゃんだったら、きっとあたしを幸せにしてくれる、あたしの目に狂いはないとまで言ったら、おじいさんは「ありがとう」って下を向いてしまったけれど、泣いているみたいだった。

 くーちゃんは「あたしの目に狂いはなかった、よくがんばったくれた」と言ってくれるけれど、自分でも、よくがんばったと思う、能力なりに。
 一番は、この緑園都市に住めたこと。手が届く金額とは思えなかった。
くーちゃんの実家がある西武線沿線のアパートから、仕事場に近い相鉄線沿線で引越し先を探した時、くーちゃんが気に入って「どうしても緑園都市」と言い切るから、限度いっぱいまでローンを借りたけれど。
 融資限度ってほんとにうまく計算されていて、「海外旅行とか贅沢をしなければ返済が滞ることはありません」ということだったのだな。
 でも、確かにいい街で、「緑園都市に住んでいる」ことが誇りでまたがんばることができたのが大きかったかもしれない。

 おじいさんはもう一度「ありがとう」と言ったあと、「そう言ってもらえるならお願いが」「緑園都市に住んでくれませんか。幹二もきっとがんばれるから」と、まるで自分のことのように言いながら、また頭を下げられてしまった。
 幹ちゃんにがんばってもらいたいから、緑園都市に住もうとその時決めた。でも、緑園都市ってどこだろう?
 『幹二には黙っていて』と頼まれたから、このことも、おじいさんのことも、幹ちゃんには言っていないけれど、あれっきりおじいさんには会っていない。結婚式にも居なかった。

 「緑園都市」なんて名前は、ちょっと恥ずかしくないか?「田園都市」のパクリだろうと思いながら駅前に降りた。
 オー「山本理顕」だ。
 「山本理顕」が、「都市計画」されて四棟も建てられ、その独特のデザインを際立たせている。
 電柱がない、無神経な看板がない。
 フェリス女子大がある、相鉄文化会館がある、展覧会までやっている。
 確かに「都市」だ。同じ新しい街でも、他の鉄道沿線とは、コンセプトが違う、志が違う。言い過ぎかな。

 そもそも、相鉄線なんて、東京じゃ誰もしらないよ。言い過ぎかな。
 「緑園都市」って名前もちょっとなあと思いながら駅前に出たら、幹ちゃんが「ヤマモトリケン」「ヤマモトリケン」って連呼して感激している。
 そんな人前で恥ずかしいと顔を赤くしてしまったけれど、人前で連呼しない方がいいのは「オカモトリケン」だった。危なかった、口に出してしまわなくてよかった。
「ヤマモトリケン」って有名な建築家なんだってね。
 幹ちゃんと街をぶらぶらしてみた。
 電柱がないから街路樹の緑が青い空に映えている。並んでいるマンションも緑の大きな木に包まれている。廻りの森も間近にあって、すてきなおうちが緑の生垣に囲まれている。
 うれしくなって隣の弥生台駅まで歩いたら、畑まであった。確かに「緑園」だわ。

 『相鉄線なんて』とまで言われて、思い入れのある私は弁護するために、『大手私鉄だよ』と言ったけれど、心配になって調べたら、関東大手私鉄九社に入っていた。よかった。
 「総営業距離が最短の大手私鉄」とわざわざ書いてあり、確かにダントツで短かったけれど、見なかったことにした。「唯一、東京につながっていない」も無視してくーちゃんには教えなかった。
 茅ヶ崎と橋本間を走るJR相模線が戦前に国有化されるまで、最初の相模鉄道だったと初めて知った。だから「相模」なのか。

 相鉄線は「相模鉄道」なのね。
 「相模」と言えば「東海大相模」が有名だから、近いのかと聞いたら、小田急線なので離れているって。じゃあどこまで「相模」なのかと思ったら、ほぼ神奈川県全体が「相模」で、横浜は「武蔵」だって。
 だからなのか、横浜の人って偉そうなひとが多いよね。
 あたしが「東京です」と言うと「神奈川県は他人です」という顔で「ヨコハマです」と威張る。東京はどちらと聞くから練馬と答えると、勝ったという顔をする。「武蔵」のはずれのくせに。
 でも、そういう人が多いのからなのか、住んでみたら「自治会」なんて偉そうな名前の町内会の役員さんが、とても熱心で親切で前向きで、お祭りや運動会、コンサートやバス旅行まで企画して、家族みんなが楽しめるよう盛り上げてくれる。あたしもお手伝いさせてもらったけれど、きっと皆さん「緑園都市
」に誇りを持っているんだと思う。

 くーちゃんは、神奈川県の土地勘がない上、
話が飛ぶから、付いて行くのが大変。
 「相模」は誰も知らないから「相鉄線」じゃなくて「ヨコハマ線」にすればいいと言う。。
すでに、JR横浜線があって、東神奈川から八王子までと説明したら、横浜始発ではない上、東京の八王子まで行くのに「横浜線」はおかしい、「武蔵野線」にしてもらえ、「武蔵」なんでしょと強調する。
 JR武蔵野線があると指摘すると、つなげてしまえばいい、同じ「武蔵」なんでしょと、やけに絡む。
 でも地図がまったく頭に入っていない。あきらめず、「湘南」は有名だけど・・・などと、つぶやいている。
 「相鉄線」の名前を変えようと考えているようなので、「ブルーライン」も「グリーンライン」も横浜市営地下鉄にとられちゃったよと先回りして教えてあげたけれど、妄想モードに入ったようで、遠い世界へ行ってしまったような表情をしている。

 「相模鉄道」なんて古い名前を使っているのがよくないのよ。せっかく「緑園都市」とか「ゆめが丘」なんて攻めの駅名をつけたのに。「希望ヶ丘」も、こんなベタな名前の駅は他にはないわよ、きっと。
 西武線と違って、豊島園も西武球場もないし、多摩湖も長瀞も川越もないのだから、も島根県を見習って、何もないのを売りにしないと。
 だからね、『世界遺産もテーマパークもありません。有名観光地も山も海もありません。
でも、夢と希望とみらいがあります鉄道。略略して ゆめ鉄』で全国に名前を売るのよ。恥ずかしがっている場合じゃないしょ。
 海老名行が「ゆめ鉄 きぼう・みらい線」湘南台行が「ゆめ鉄 ゆめ・みらい線」で決まり。
 「みらい」の駅がない?あるじゃない「みなとみらい」
 始発駅横浜を「よこはま・みなとみらい」に変えてしまえばいいの。「立っていれば親でも使え」「バカと鋏は使いよう」っていうじゃない。そのうち「はま・みらい」になるわ。
 ゆるキャラの「そうにゃん」もがんばっているけれど、かわいい女の子の「ゆめにゃん」も欲しいわね。うちにも、ゆるキャラみたなとぼけた顔の犬がいた。

 くーちゃんのパワーと明るさ・行動力は、やはり、私にはもったいない。どうしても「私なんかと・・・・」に戻ってしまう。
 タイムマシンがあれば過去の戻ってやり直し・・は無理か。性格が変わらないからな。 私と付き合わないように仕向けるしかないかな。
 問題はタイムマシンだけれど、発明されそうもないから、未来から突然出現するパターンを期待するか。
 隣の広瀬さんの庭にあるドームは、そのために造ってあるという話も聞いたことがあるし。あれは過去からという話だっけ。
 その時に頼んで使わせてもらおう。って何を真面目に考えているんだ。「夫婦は似てくる」のかな。

 緑園に引っ越して来た時は、アパートで飼えなくて実家に預けていた犬のかん太も連れて来たけれど、ほんとに喜んでいた。あの頃は、空き地がいっぱいあって、自由に駆け回ることができたから。
 かん太が実家に来た時の話をしたら、幹ちゃんも、あたしが遠い国へ行ってしまったような顔をした。でも、最後まできちんと聞いてくれた。
 あの日、「家の前で犬が誰かを待っているよ」と言われて出て行くと、知らない犬が、やっと探し当てたというような感じで懐かしそうにあたしをじっと見つめて、「くーちゃん」って言ったの。ずいぶん汚れていたけれど抱いてあげて、「くーちゃんだよ、あなたのお名前は」と聞いたら、「かん」だって。
 「クーン」「きゃん」と鳴いただけだと、
家族みんなが笑って、あたしの話をまともに聞いてくれなかった。それでも、お願いしてうちの犬にしてもらった。「かん太」って名前にした。

 緑園に引っ越して来てからは、かん太に連れられてよく街を散歩した。かん太の方がこの街をよく知っているようだった。
 でも、くーちゃんの実家でのかん太との出会いは、最悪だった。まるで仇を追い払うように吠えまくられた。
 会うたびにあまりに吠えられるので、「くーちゃんを取られると思っている」のだろうからと、くーちゃんが言い聞かせてくれた。
 「あたしは、幹ちゃんと一緒に幸せになるけれど、かん太もずっと一緒だよ」って。
 かん太は俯いて黙ってしまったけれど、なんだか泣いているみたいだった。
 その後のかん太は、うらやましいくらい、性格の良いやつで、大好きなくーちゃんとずっと一緒に暮らせて、いつもうれしそうに尻尾を振っていた。

 幹ちゃんとテレビを見ていたら、通りがかりのご夫婦に、「生まれ変わって、まためぐり会ったら結婚するか」をインタビューしていた。
 幹ちゃんに聞いても、きっと「する」としか言わないだろうから、話題にしなかったけれど、あたしは、もう一回結婚したい。
 今度は、あたしもしっかり稼いで、幹ちゃんを楽にしてあげる、気持ちの方をね。また
この緑園都市に幹ちゃんと一緒に住もう。
 「どちらにお住まいですか」と聞かれたら
「ヨコハマ」とは言わない、「緑園都市です、ゆめ鉄の」って威張ってやる。「勝った」って顔をしてやる。

 テレビでは「生まれ変わって、また、めぐり会ったら」と聞いているけれど、「結婚する」にしても「しない」にしても、みんな、自信たっぷりだな。
 「他の人を探してください。もし、誰も見つからなかったら、声を掛けてください、待っていますから」なんて男とは結婚したくないよな。結婚できなくていいのだけれど。
 そうか。タイムマシンがだめなら、生まれ変わるという手があるな。性格も生まれ変わってくれれば一石二鳥だし。
 でも、生まれ変われたと思ったら、人間じゃなくて犬だったなんて・・ことないよな。
                 終

著者

小田文男