「この丘に幸ありて」スティーブ 葉山

第一章 希望の丘
 その家は丘の外れの見晴らしの良い、ある高台に建っていた。簡素な平屋の建売住宅で、自慢できるところと言えば広めの庭と溢れるばかりの陽光が注ぎ込む丘の上にあったことだった。洋平は昭和の時代の真っただ中にこの家に生を受けた。
 この丘が分譲地として開発されたころ、それまで横浜の下町で粗末な借家住まいをしていた洋平の父謙三は、なけなしの貯金を振りはたき、この丘に移り住んで家族の城を構えた。そこは縫うように走る小路を抜けて急坂を登り切り、住宅地を見下ろす東に開けた角地にあった。晴れた日には青空の下で朝日を燦燦と浴びるその家は、小さいながらも夢と希望を予感させるかのようにきらりと光り輝いてみえた。
 リビングには四本足のブラウン管テレビとセパレート型のステレオが鎮座して、日曜日には七十八回転に合わせたプレーヤーからは謙三が好きなダイナ・ショアの『ボタンとリボン』が流れ、軒先の鳥かごでは流行りの白いカナリアが軽やかに歌い、広々とした芝生の上ではコリーの親子が元気よく駆け回っていた。
 丘の上の商店街は活気のある店が軒を連ね、食材から日用品まで何でも手に入る品ぞろえがあった。八百屋、魚屋、肉屋にはじまり米屋、パン屋、乾物屋、更には金物屋、玩具屋、文房具屋、はたまた布団屋、写真屋、電気屋、小鳥屋に至るまで何でも揃っていた。それらしい看板や店のしつらえと、職人かたぎで個性的な店主たちが丘の上の商店街を仕切っていた。
 夕刻、商店街は買い物かごを下げた若いお母さん達で賑わい、路地では学校帰りの子供たちの歓声がこだました。お風呂を準備する家々の煙突からは薄っすらと黒煙が立ち登り、耳をすませば、隣近所の窓越しに食卓を囲む団らんの語らいや食器の擦れる音、習い始めのピアノの練習曲がどこからともなく聞こえていた。
 風薫る五月には甍の波間に大きな鯉のぼりたちが銀鱗を輝かせ、秋祭りには町内会の手作りの神輿や山車が住宅地を練り歩いたこの丘を、『希望が丘』と呼ぶようになったのは、いったいいつ頃からのことなのだろうか。この丘には、いつも人の賑わいと温もりが溢れていた。
 丘の外れの野原からは、開通間もない東海道新幹線を一望することができた。遠くの地平から小さな閃光が現れて、一瞬のうちに接近し一気に走り抜けていく「超特急」の迫力に丘の人々は皆釘付けになっていた。
 雑木林の坂道を抜け切ると、丘陵の谷間を縫って西側に細長い水田地帯が開けていて、傍らに走る小川や沼地ではたくさんの水辺の生き物たちが暮らしていた。この場所には、世界に誇る鉄道の先端技術と豊かな自然が共存する独特な風景が広がっていた。

 謙三は元々船乗りだったが、知人が起業した小さな横浜の船会社に夢を託して転職し、高度成長期の日本を支えた海運業の片隅で、地味ではあるが体を張って仕事に生き抜いた典型的な昭和の会社員であった。
 通勤は決して楽ではなかった。駅までは砂利道の坂を下っては登り、登ってはまた下るという厄介な道程を経なければならなかった。車は急坂の大砂利に行く手を阻まれ、雨が降れば泥水が押し寄せてスリップし、そこでそのまま立ち往生したりした。
 今日に比べれば決して豊かな時代でも便利な時代でもなかったが、皆が夢と希望に心を膨らませ、必死に頑張って生きていた時代だった。
 謙三の得意様には酒豪が多く、社用の宴のその果てに車に乗せられて、辛うじて帰宅はするものの前後不覚で泥酔した謙三の醜態を、洋平は幼少のころから目の当たりにしていた。寝床でしどろもどろになった謙三の口からは、戦争を経験した者としての死生観や父親としての人生観など、説教じみた終わりの無い弁舌が延々と繰り広げられた。洋平は幼心にも酒飲みだけにはなるまいと心に誓った。
 そんな謙三の苦労を肌身に感じてか、妻の美代子は我が子にこそはと安定志向を強くした。家系に医者が多かったこともあり、洋平には医者を志すことを強く望んでいた。そんな親の希望と期待を背負いこみ、洋平はやがて私立の小学校に通うことになり、その後の長い電車通学が始まった。

第二章 ふるさとの丘
 それは幼い洋平にとって、地元の丘を離れる最初の大きな出来事の始まりだった。電車は快走する街なかのアトラクションだった。車窓に広がる四季折々の風景とその移ろい、人や車の往来や街の表情を観察するのが好きだった。エアコンなど未だ完備されていなかった時代に車両の中を自由に吹き抜けていた風の匂いを感じるのが好きだった。先頭車両の運転室越しに前方を眺め、運転手になりきって線路や周囲の構造物を目視確認する真似ごとをするのが好きだった。
 河川の蛇行や水の流れ、新幹線との立体交差、巨大なガスタンクやガラス工場に積まれた廃棄ガラスの山など、見たことも、聞いたこともないあらゆる外界の事物全てが洋平を魅了した。
 運転席で魔術師のように何かを唱えながら、電車という巨大な乗り物を操る孤高のヒーロ―に憧れた。沿線の景色、聞こえる音、伝わる振動などすべてを感じながら電車通学という特別な体験を日常的に楽しんでいた。
 謙三は、いつもの通勤時間より少し早めに家を出て、洋平の電車通学に付き添うことがあった。外が見えない満員電車の人垣に囲まれて、洋平は線路の継ぎ目の音、踏切の警報音を聞きとって、今どこを走っているか言い当てて見せる特技があった。謙三は、大げさに驚いて見せると、そんな父親の反応が嬉しくて、洋平は電車という乗り物が益々好きになった。
 通学の独り立ちを促すために、謙三が密かに洋平を追跡することもあった。ある朝、通勤ラッシュの横浜駅で、決められた通学路である地下街に、別の入り口から入ろうとした洋平は、突然誰かに肩をグイと鷲掴みにされた。振り返れば、いるはずの無い父親がそこに立っていた。厳しい父親の視線と言葉のいくつかが容赦なく飛びこんできて、不意を突かれた洋平の記憶に奥深く鋭く刻み込まれることになった。
 なぜそこに父親がいたのか、勘のよい洋平にとってその理由を理解するまでにそれほど時間は掛からなかったが、子供が知り得ぬところで我が子を守り抜く、親のあり難さを本当の意味で理解したのは、なんと洋平が人の子の親になった五十路を過ぎてからのことであった。
 夏休みには、地元を遠く離れて田舎で暮す楽しい出来事があった。南房総にある母美代子の実家に家族で滞在した。洋平は田舎暮らしが好きだった。海岸近くに広がる雑木林、果てしなく続く砂浜、小川のせせらぎが洋平を懐深く迎い入れた。実家は小規模ではあるが農業と畜産業を営んでおり、その日に収穫された野菜や生み立ての鶏卵を販売する仕事を祖母の傍らで手伝うのが好きだった。
 祖母は、鶏舎の鶏や、洋平たちが近所の小川で釣ってきたザリガニ、裏庭で収穫したシイタケを手際よく料理しては気前よく振る舞ってくれた。太平洋の荒波が押し寄せる九十九里の海岸で心行くまで海水浴をした午後は、蚊取り線香が漂う広い座敷に寝転んで、縁側越しに広がる田園風景を眺めながらいつしか午睡の中に迷い込み、夜はクロマツの林を吹き抜けて来訪する微かな潮風を感じながら四角い蚊帳の寝床で眠りに就いた。
 そんな夏休みの田舎の生活は、いつも「いちばん」と称する始発電車に乗り込むことから始まった。それは母親の前夜の出発準備から始まった。外泊に必要な少し多めの荷物をボストンバックに用意しながら、
「明日はいちばんで行くからね」
といって、子供たちに早めの就寝を促した。「いちばん」の響きには何か特別な出来事の始まりを感じさせ、幼心に大きな想像力を膨らませる不思議な力を持っていた。
 起床は夜明け前、道行く人も疎らで、朝というよりは夜の続きだった。いちばん列車のホームに漂う空気、電車を待つひと、いつもとは様相が違っていて新鮮だった。いちばん列車が到着し、大きな荷物をもってガランとした車両に乗車した。それは、待ちに待った特別な時間と空間へ足を踏み入れる、旅の始まりの瞬間だった。いちばん列車が繋いでくれる、その先の世界に広がる風景と未知の体験に、洋平はどれだけ心を躍らせたことだろう。いちばん列車の出発は、期待と興奮に満ち溢れた旅たちへのプロローグだった。
 小学5年の夏、洋平は淡い恋をした。同じ学校に通う二つ年下の子であった。かつて経験したことがない不思議な力で自分を惹きつける、そんな子が同じ学校にいることに心を時めかせた。同じ電車で通っているということだけで小躍りをして喜んだが、自分の気持ちを告げる勇気など更々無く、ただ帰りの電車が一緒になるのが楽しみで、十数分間の幸せな自分だけの世界に浸っていた。
 毎朝、彼女は二つ手前の駅から乗ってくる。乗っているはずの電車が、ホームに滑り込んできただけで胸が高まった。しかしどの車両に乗っているのか定かではなかった。横浜駅で一斉にホームに流れ出した乗客の中に、彼女の制服の白い帽子を発見したときは、見失わないように、そして気づかれないように一定の間隔を保って歩いた。信号待ちでタイミングがずれてしまい接近してしまったときは、知らないふりをして格好をつけてはみたものの、実のところ心臓はバクバク、足はガクガク震えていた。洋平は人一倍多感で繊細な少年だったのかもしれない。
 教育熱心な母親の影響からか、洋平は、勉強ができることが格好いいことの絶対条件だと信じ込んでいて、いざ彼女の視野に自分が入りそうになると、あたかも勉強家、読書家であるかのように振る舞った。だから毎朝、ホームで電車を待つ洋平の片手には必ず難しそうな文庫本があった。理科が好きだったせいかもしれないが、それは一応『科学史』に関する本だった。しかし、読んでいるふりをするための小道具でしかなかったので本の中身など本当はどうでもよかった。
 小学生とは言うものの、幼いなりに真剣だったりすることもある。電車が到着してドアが開き、乗客が一斉に降りてくる日常の風景のなかに、洋平は、彼女を必死で探していた当時の自分がいるような錯覚に陥ることがあった。初恋が懐かしく、時に切なく想起される人の心のメカニズムは、洋平の場合も例外では無いようだ。
 やがて、洋平は受験の洗礼を受けることになり、何の疑いも無く熾烈な受験戦争に巻き込まれて行った。電車の往復は参考書や問題集の読書の時間に費やされ、車両は、輸送という目的を果たす鉄の箱に変わった。電車の早さと正確さは受験戦争を勝ち抜くための合理的な交通手段であり、塾通いの小学生を戦場に送り届ける良き援軍だった。レールと車輪が紡ぎ出す絶え間ない四拍子のフレーズは、孤軍奮闘する洋平をして戦意高揚させる唯一無二の応援歌にも聞こえた。
 深夜に及ぶ塾から解放されて帰宅した洋平は、密かに謙三の所有していた軍歌のレコードを持ちだしては聴き入って、自ら口ずさんでは闘志を鼓舞していた。友人からゼロ戦や戦艦大和に関する子供向けの解説本を借りては貪り読んで、大和魂の気概を自分に注ぎ込んでいた。父親の酒席で歌わされた軍歌で大いに場が盛りあがり、珍しい小学生だと評判になって以来、宴席には欠かせない余興になってしまった。
 電車は洋平の豊かな感性を育んだ。旅とは何か、ふるさととは何なのか。そして、人を好きになるということはどういうことなのかを教えてくれた。孤独な受験戦士の良きパートナーだった。出発が何で、到着が何か、そしてその先の出会いと感動を教えてくれた。
 その頃の洋平にとって、鉄道は地元と外界をつなぐ社会の架け橋であった。そして、「ふるさと」とは、外界を意識することによってはじめて醸成される地元に対する一連の概念であることを、おぼろげながらも感じ始めていた。
 隣の駅からは支線が延伸し、鉄道沿線の大規模な宅地開発と住宅やマンションの建設が進んだ。新しい街が生まれ、大型スーパーが進出し、人の流れが変わった。道路が整備され新しいロードサイドショップが次々に出店した。時が過ぎ、時代が変わり丘の上の住人たちも、暮らし方も少しずつ変わって行った。
 丘の外れの雑木林にも開発が進んで、あたらしい分譲地が現れた。謙三は、家族の成長と共に手狭になったそれまでの家を手放して、緑豊かな向かいの丘と新幹線を眺め視る丘の外れの新しい分譲地に移り住むことを決意した。
 それまでの家が取り壊されることになった。家族は住み慣れたかつての家を訪れて別れを惜しんでは思い出話に花を咲かせた。空き家となった廃屋は全く別の空気が支配する建物だった。ガランとした人気のない空間で、壁や柱に残されたキズや汚れだけが、そこに生活があったことを雄弁に物語っていた。光沢を放つ木目のフローリングや漆喰壁に造り込まれた陳列棚と木枠の本棚、小さな暖炉と広めの出窓など改造を施した謙三の思いと拘りが込められていた。そして、溢れるばかりの日差しが差し込んだリビングの窓辺は、家族が夢を語り、希望を描いて集まった掛け替えのない一家の思い出の場所だった。
 時は過ぎゆき、場所は姿を変えてしまう。しかし、思い出は、人と共にあり、人の心の中の記憶や温もりの中で、命ある限り生き続けるものなのだ。自分が生まれ育った家が無くなるという現実を前にした洋平は、「ふるさと」とは、人の心の中に宿り続ける地元への豊かな思い出そのものなのだと思った。
 やがて、洋平は進学校に進み、電車通学が継続した。思春期を迎えた洋平は、心を許せる親しい友人を求め、友情を育み、部活動や勉学に没頭した。電車通学は、掛け替えのない友人たちと心を開いて語り合う貴重な交流の場になった。大学時代は自由な時間を謳歌し、交友関係も、関わる世界も一気に広がって、親しんだ鉄道との関わり方も少しずつ変わっていった。ライフスタイルも一変し、住人との繋がりも次第に希薄なものになって行ってしまうのを感じていた。地元の丘の商店街も時代の変化に逆らうことはできないまま、店がひとつ消え、二つ消え、かつての賑わいと絆が消えていく連鎖を誰も止めることはできなかった。
 社会人となった洋平には心に秘めた目標があった。まずは、日本を飛び出して海外で仕事をしてみたいと思った。これと言って理由はなかったが、こじんまりと育ってきた自分の可能性に対する挑戦でもあった。アメリカの先進的なビジネスや開放感あふれる西海岸へのあこがれ、西洋音楽に傾倒しヨーロッパの芸術や文化に対する畏敬を抱いていたことがあったのかもしれない。そしてお金が貯まったら、大好きな海でいつか自分だけのヨットを手に入れたいと安直に画策をした。
 洋平は、命がけの恋愛をするのだと豪語してはいたが、交際相手がいる様子もなく、周囲への説得力に欠けていたのは、彼が奥手でロマンチストだったという単純な理由だったからなのかもしれない。
 とにかく洋平は夢の実現に向けて一気に走り出した。そして、その夢が大きければ大きいだけ、心は未来や世界の時空へ向けて羽ばたいて行き、自分を育んだ地元から離れて行ってしまう事実に一抹の寂寥感を禁じ得なかった。

第三章 追憶の丘
 父謙三が急逝した。この丘に初雪が舞う真冬の寒い朝だった。
 それは、ある日買い物から帰ってきた謙三の異変に気がついて、洋平が検査を勧めたことから始まった。頑固な謙三に休養を説得するのは容易ではなかったが、異変が胸部であったことと大病院の名医の紹介を受けることができたことなどで、やっとのことで入院に同意をした。結果は重篤で、一か月間の入院後心臓手術を受けた。しかし術後の回復が捗々しくなく、意識が回復しないまま一か月後に帰らぬ人となった。
 負荷が少ない内科的な処方もありはしたが、根治の可能性のある外科的手段を選んだ。主治医から安全な手術とは説明を受けたものの、一旦は心臓を止めて生命を人工心肺に託す大手術だったので家族も躊躇した。しかし最後に決断したのは本人だった。謙三は中途半端が嫌いな性格だったので、危険を冒しても完治させてしまおうと決死の覚悟で臨んで逝ってしまったのかもしれない。
 一連の葬儀が終わり、張り詰めていた心の緊張が緩んだせいか、久しぶりに見上げた、丘の上の空の青さに、洋平は突然咽び泣いた。父親のいない空の下は初めてだった。父親のいない丘の上は吹き抜ける真冬の北風が心に染みてひと際寒く、冷たく感じた。
 机の中からは病床にあった謙三が記していた日記帳が見つかり、中にはサミュエルウルマンの「青春の詩」と記されたいくつかの走り書きが残されていた。
『人は信念と共に若く、疑念と共に老いる。人は自信と共に若く、恐怖と共に老いる。希望ある限り若く、失望と共に老い朽ちる』
 洋平は、夢だとか希望だとか、人の心を躍動させる前のめりの言葉が好きだった謙三の生きざまと、家族の夢を託して希望が丘に家族の城を構えた心意気をすこし理解できたような気がした。旧いアルバムから剥がれ落ちたセピアな写真のなかの若き日の謙三は、遠く細めた眼差しの中に、果てしない希望や幸せな未来への予感を伺わせていた。
 時は過ぎ、幸いにも洋平が若き日に抱いた自己実現の目標はひとつずつ叶えることができた。命がけで恋愛をした相手にめぐり合いはしたが、結ばれることなく孤独な人生の航海は更に続き、最愛のパートナーにめぐりあうことができたのは、洋平が五十を過ぎて間もないころであった。
 結婚嫌いだったというわけでは決してなかった。平凡なサラリーマンの家庭に生まれ普通に暮らしてきた。普通でないところと言えば、幼いころの電車通学と、自分を育んだ地元が好きだったということだろう。
 三度の海外勤務で、婚活のタイミングを逃してしまったという事情があったからなのかもしれない。物事への好奇心が旺盛でいろいろとのめり込む性格ゆえに婚期を逸してしまっていたのかもしれない。好きなヨットも手に入れて、仕事の合間に仲間と共に風まかせの海の生活を楽しんでいたりもしていた。気がつくと人生の折り返し点をすでに過ぎてしまった自分に気付き、五十を迎えた年の春、海で知り合った二回りほど年下の菜々美と結婚した。
 決して軽い気持ちで結婚したわけではなかった。洋平の勝手気ままな生活にピリオドを打つにはそれなりに重い覚悟も必要だった。現実に妥協せず、何十年も理想を追い求めてきた自分の拘りもあった。しかし、もはや尖っていたころの洋平ではなかった。
 この世に生を受けて半世紀を記念する一大事業なのだと嘯いて自画自賛した。自分の遺伝子を残そうとする生物が本能的に感じる危機感からだったのかもしれないし、せっかく授かった一度の人生、一度くらいは結婚してみようか、と開き直っていたのかもしれない。菜々美はたまたまそのころ、洋平のヨット仲間が連れてきた女友達の一人だった。知り合って三か月後に入籍を済ませ、五か月経った新緑のころ、山手の教会でささやかな結婚式を挙げた。早々に授かった長女に小百合、年子で生まれた長男に真太郎と命名し、二人は健やかに成長していった。
 洋平は、子供たちには知性と感性の両面で豊かな人間になってほしいと願った。それは父謙三の影響であることを洋平自身も自覚していた。生前の謙三は自ら絵筆を取って美代子の肖像画や港の風景画を描いていた。繁く画廊に足を運び気に入った手ごろな絵画を手に入れては猫の額ほどの自宅の壁に飾っては楽しんでいた。自宅から遠望する富士山や丹沢山系を愛でながら、少々大げさな形容詞で修飾し、感動を家族と共に分かち合うことを良しとしていた。
 決してクラシック音楽に詳しいわけでは無かったが、巨匠と称される演奏家のレコードを持っていた。洋平が自らピアノに興味を持ち演奏するようになったのも、ヴァン・クライバーンのショパンを聴いたのがきっかけだった。ドーナツ版から聴こえるポロネーズとエチュードに子供ながらに感涙し、以来黒光りするレコードが擦り減るくらい何度も繰り返し聴いていた。
 そんな幼少期の体験からか、人生に豊かな彩を与えてくれるのは音楽を愛する歌心と、花鳥風月に心を寄せる絵心だという信念を持っていた。だから、自分の子供たちには、美しい自然や日本の文化、一流の芸術に触れさせて豊かな体験をさせることが洋平の子育ての基本になった。その結果、週末は家族で外出することが多く、休日は平日以上に忙しくすることになってしまった。
 幸いにもこの丘の周りは、そんな家族の望みを叶える原風景に恵まれていた。長屋門の古民家では、古式に則った祭りや催事が催され、桃の節句にはひな人形が蔵に並び、端午の節句にはたくさんの鯉のぼり達が藁ぶき屋根の上空を気持ちよさそうに泳いでいる。初夏の大池公園には蛍が乱舞して、瀬谷の渓流ではメダカやよしのぼりが元気に活動し水面を輝かせている。広大な相模野の台地に続く緑豊かな自然の中でのびのびと成長していく子供たちの姿を見つめながら、洋平はこの丘で暮らせることの幸せを改めて子供達から教えてもらえているような気がした。
 小百合が山手の学校に通うことになり、我が子の電車通学が始まった。学校が始まって間もないある朝のこと、アメリカ山公園の緩やかな坂道で、新品のランドセルを背負った小百合の手を引きながら、洋平は学校への道順を考えていた。小百合を振り返り、どことなく不安そうな娘の面持ちが幼い頃の自分と重なって、洋平の脳裏には心配そうに自分を見守る父親の、あの五十年前の記憶が蘇ってきたのだった。自分はこの子の成長を、いったいどこまで見守ることができるのだろうか。我が子を愛おしく思えば思うほど、無力な自分に対する救いようのない絶望感に襲われて万感の思いで天を仰いだ。
 もはや祈るしかなかった。子を思う親心とは空よりも広く、海よりも深く、祈りにも似た深淵で崇高なものなのだ。洋平は、そんな当たり前の真実を今の今まで理解していなかった自分自身に気がついて、再び愕然とした。
 子育てに専念しながらも、洋平の家には高齢の母親の介護という現実があった。晩婚という選択肢には、子育てと親の介護を同時に背負うそれなりの覚悟が必要だった。しかし、それは歳の差婚の妻側にしてみれば、到底理解を得られるものではなかった。
 親の老化や介護を最初から素直に受け入れられる家族は少ないかもしれない。あるとき自助の努力に限界を感じ、途方に暮れていた洋平を受け入れて、家族のように親身になって相談に応じてくれる地元のケアマネージャーがいた。その助言を受け入れて自宅と通所、地域の応援を活かしながら、やっとのことで子育てと介護を両立できるレベルに漕ぎつけることができた。
 周囲の支援もあったことで菜々美も少しずつ協力してくれるようになった。週末には、美代子にふさわしいディケアの施設を家族で見て廻った。病院と主治医は一件ずつ電話をかけて診療方針を確認した。次第に変化する介護状況に合わせて、訪問診療に変更してみたり、処方の薬を変えて美代子の健康状態に注意をはらった。それを支えてくれるヘルパーたちの家族のような献身的な姿勢に感服した。とりわけ妻、菜々美の精神的・肉体的負担の大きさは計り知れず、洋平はいつも頭が上がらず申し訳ない気持ちでいた。美代子がインフルエンザで倒れたときに手際よく処置し、救急車を手配して一命をとりとめることができたのも、医師を志し家事と両立させながら勉学を続ける菜々美だからこそ成し得たことと感謝をしている。

「バラのお花が綺麗ですね」
送迎のヘルパーが、かつて謙三が愛でていた深紅のバラに目をやりながら、いつものように美代子の手を引いて送迎車に乗り込んでいった。
「おばあちゃん、気を付けて行ってきてね」
真太郎が満身に気持ちを込めて美代子に手を振った。車の窓越しに応える美代子の表情にには、純真無垢な子供と同じ笑顔が満ち溢れていた。洋平はそんな母親を身近で支えながら、嬉しそうな表情を見ることができることの幸せの形にまたひとつ気づかされてしまった。
 洋平はこの丘で、周囲の温かい人々に囲まれながら、家族と共に暮らし、子供を育て、母に寄り添えることを誇りに思った。そして、これからもこの丘で暮らす人々の絆と温もりを感じながら生きて行きたいとつくづく思った。
 そこに人と暮らしがある限り、絆は世代を超えて繋がり合い、この丘にいつまでも平和で幸せな風景が描かれ続けていくのだと確信した。

第四章 伝説の丘
 今日もこの丘に朝日が降り注ぎ新しい朝がやってきた。洋平は仕事へ、菜々美は子供たちの手を引いて学校へと向いそれぞれの日常が始まった。やがて小百合と真太郎は成長し、いつの日かこの丘から羽ばたいていくのだろう。そしてその時、この丘が再び彼らにとって良きふるさとになってほしいと心から願った。
 人の想いは、人が生きたふるさとと共にあり続けるのだと思った。人がいて、人と人が絆で結ばれ、人々の想いがその場所ふるさとに宿り続けるという悠久の流転を信じたいと思った。
 そんな思いを込めて、小百合と真太郎がもう少し幼かったころ、昼寝をさせるため二人の枕もとで、洋平は自作の伝説を聞かせてやったことを思いだした。
 『その昔、相模と武蔵の国ざかいで、希望の神と幸の神が勢力争いを繰り広げていました。あるとき、美しい村の娘が、叶わぬ恋の病に陥ったという話を聞きつけて、二つの神は何とか娘の夢を叶えようと要らぬちょっかいを出しあって災いし、娘を更に苦しめることになりました。恋の患いに加え、神様の争い事に心を痛めた娘は、ついに病の床に伏しやがて息絶えてしまったのです。その後、娘は夢の神となって近くの夢が丘に宿り、希望の神と幸の神を仲裁して平定し、村人たちの夢と希望を叶え、いつまでも平和で幸せな暮らしが続くように見守っていました。村人は希望の神、幸の神が宿した小高い丘をいつしか希望が丘、さちが丘と呼ぶようになり、夢が丘とともに三つの丘には今でも多くの人々が訪ねて巡り歩くのです。』
「ダディー!」
 寝付かせるはずだった小百合が、寝落ちしてしまった洋平の耳元で叫んだ大声で目を覚ました。午後の酔夢から引きずり戻された洋平は、約束していたテレビゲームの相手をさせられながら、子供と戯れる小さな幸せを噛みしめていた。

著者

スティーブ 葉山