「これからもこの街で」きーこ

 「かわいい赤ちゃんね。何か月?」
スーパーの野菜売り場ですれ違った50代の女性に話しかけられ、「え。あ、4か月です」としどろもどろになりながら答えた。もう少しスマートに受け答えができればいいのに……。
 見知らぬ人に話しかけられると警戒してしまう。それなのに、この街に越してきて1か月。外に出ると必ずといっていいほどだれかに話しかけられる。
「髪がふさふさ。かわいいわね。男の子?」
「手をバタバタさせてうれしそう。いいね」
「あら、泣いてる。おなかすいたのかな」
そのたびに、驚き、とっさに言葉につまってしまう。他人と会話のキャッチボールをすることに、まだ、慣れない。

 夫の転勤でこの街に来る前、東京の繁華街に小さなマンションを借りていた。朝は通りを行き交う車や人の声で目がさめ、ひと晩中ネオンが輝く街。みな足早に目的地へと急ぎ、空を見上げることも、道端の小さな花に目を配ることもない。建物が密集した地にそびえ立つマンションは日当たりが悪く、2LDKの古い部屋は昼間も電気が欠かせない。住民は顔を覚える前に入れ替わり、目が合っても会釈すらしない人もいる。時間に追われ、効率よく暮らすことばかりを考える。それが当たり前。そして、その生活をとくに不満に思うこともなかった。ただ淡々と、淡々と、過ぎゆく日々。

 それなのに、この街といったらどうだろう。娯楽施設はなく、映画を見るのも、ショッピングをするのにも、わざわざ相鉄線で横浜まで行く必要がある不便な街だと思っていたのに、2週間が経つ頃にはだいぶ慣れ、むしろ平和すぎるこの雰囲気がすっかり気に入ってしまった。今では、いつかマイホームをもつことになったらこのあたりにしたいと話すほど。夫婦ともに都会暮らしが長かったのでそんな気持ちになるなんて信じられないけれど、そういえば私たちは九州の片田舎で育ったんだった。川でザリガニを獲り、あぜ道を走って汗だくになり、花を摘んで花輪を作り、木のぼりをしたり、虫を捕まえたり……。いつも自然が近くにある暮らし。子どもができたら自然の中でのびのびと育てたいと思っていたのに、東京で長く暮らすうちに少しずつ忘れかけていた。それが今、思いがけず叶いそうにある。

 朝。寝室に注ぐあたたかい光で目が覚める。ゆったりとした気持ちでコーヒーを淹れ、サラダとトーストをいただく。野菜は、無人販売所に並んでいたもの。見たこともない販売スタイルに最初は戸惑ったものの、新鮮な野菜が安価に手に入るのでときどき利用するようになった。店員はおらず、料金は備えつけられた木箱へ。手書きの値札があるのみで、完全に信頼で成り立っている。よそ者の私も温かく受け入れてくれているような気がして、お金を入れるとき、なんだかうれしい。
 
 駅に向かう夫をベランダから見送ったら、洗濯物を干す。太陽の光で乾いた服は、いいにおいがしてふんわりとやわらかく、そでを通すたび、タオルに顔をうずめるたび、しあわせを感じる。そして息子の小さな産着が並ぶ光景は、幸せな家族の象徴だ。ここでは当たり前かもしれないけれど、前の家では、車の排気ガスが気になるし、ベランダは日当たりも悪いので、もっぱら浴室乾燥機を使っていた。だから外に出て物干し竿に洗濯物を並べる時間はまだちょっぴり不思議な気持ち。パタパタとはたいてしわを伸ばし、丁寧にピンチでとめていく。散歩中のだれかの目にとまるかもしれないから、美しく干したい。
 
 買い物は午前中。商店街に並ぶ魚屋や肉屋、八百屋などの専門店に行く。何度か通ううちに顔を覚えてもらうことができ、旬の野菜や調理法などを教わっている。東京ではだれとも会話をしないまま一日が終わることも多かったので、何気ない会話がとても、とても、新鮮だ。「あら、いらっしゃい」。その挨拶で、覚えてもらっていることを実感できてつい買いすぎる。息子を連れていなかったら、こんなに早く顔見知りになることもなかっただろうと思う。
 
 買い物を終えたら、散歩がてら公園へ。都会の小さな公園はサラリーマンの休憩所と化し、子連れでは近づきづらい場所だったけれど、ここは違う。午前中は幼児連れのママ、午後は学校帰りの小学生が集い、笑い声が絶えない。その光景を遠くに見ながら、のんびり過ごす時間がとても好き。ベビーカーで眠る赤子を眺めながら夕飯の段取りを考えたり、図書館の本を読んだり、夫にメールをしたりして過ごす。少しずつ風が冷たくなってきた。季節の変わり目を以前はどうやって感じていたのか、思い出せない。
 帰宅してポストをのぞいているとき、同じマンションの住民に会うと、たわいもない会話が生まれる。駅前にできた新しい店や、マンションの花壇に咲く花や、寝がえりを始めた息子のこと……。少しずつ、上手に会話ができるようになってきた気がする。
 
 テレビドラマで見たような、当たり前すぎる平和な暮らし。何も起こらないし、何も起きそうにない。東京での生活もそれなりに楽しく、充実していたけれど、180度異なる暮らしにどんどん馴染んでいくのが不思議。
 この先、夫はもう転勤希望を出さないことにしたらしい。私もそれでいいと思う。三人で、この街で生きていく。

著者

きーこ