「さくら」山田太郎

「きれいだね、桜」

相鉄線の瀬谷駅を過ぎ、交差点を右折して環状4号線に入る。海軍道路と呼ばれるその道路脇の歩道に、450本もの桜の木が植えられている。この辺りでこれほど長い直線で桜を楽しめる場所を私は他に知らない。

妻がドライブに行きたいと言い出したのは、ある日曜の午後、よく晴れた春の日だった。
特に用事もなく、たいして見たくもないプロ野球の試合をただ眺めるように見ていただけだった私は二つ返事でその誘いに乗った。

鮮やかに咲き誇った桜を車の運転席から横目で眺める。風に負けた花びらがゆらゆらと地面に向けて落ちてゆく。歩道には仲良く手を繋いだ高校生が、世界中の幸せをかき集めたような顔をして歩いている。ふと、古い記憶が脳裏をかすめる。胸が軽く締め付けられるような感覚に襲われるが、決して不快ではない。逃げ水のような、淡く切ないあの記憶。

「咲いている時は本当に綺麗なんだけどねぇ・・」海軍道路を瀬谷西高校に向けて歩いている途中で彼女はグチるようにそう呟いた。すでに桜は散り、今は上から降ってくる毛虫に戦々恐々としながら歩道を歩いている。「ずっと咲いていればいいのに。」「そうだけど、春の短い間だけ見れるからこんなに綺麗だと感じるんじゃないの?。」「そんなことは君に言われなくても分かってるわよ、ばか」

彼女は僕のことを君と呼んだ。苗字や適当なあだ名を勝手につけられて呼ばれていた時もあったが、どうもしっくりこないということでこの呼び方に決まったらしい。そしてこんな他愛もないやりとりをしながら歩くこの時間がとても好きだった。胸に淡い恋心を抱きながら歩くその時間が。

地元が一緒で小中と同じ学校に通っていたが、話したことは一度もなかった。高校に入って同じバスケ部に所属したことで初めてお互いを認識するようになった。 「君、同中だよね」「はい」  確か最初の会話はそんな感じだったような気がする。二人とも身長が低かったので同じガードというポジションをやっていた。そういうこともあってか、練習が同じタイミングで終わるような時は、たまに一緒に帰る仲になった。学年は彼女のほうが一つ上なので一応先輩なのだが、敬語を使って喋ったのは最初の一ヶ月くらいだけだったと思う。会話はやはりバスケの、特に練習内容についての話しが多かった。「シャトルって本当に辛いよねぇ」とよくボヤいていたのを覚えている。シャトルとは笛の音に合わせてターンを繰り返すダッシュのことで、バスケの練習というよりは罰ゲームに近いものだった。

ある日のシャトルで彼女は足首を強く捻ってしまい、まともに歩けない状態になってしまった。基本的に男女の練習は別々なのでどのような状況だったかは分からないが、その足首はまるでパンクの修理をした自転車のタイヤに空気を入れている時のように見る見るうちに腫れていった。「ごめんね」彼女は耳元で囁いた。いつもの海軍道路を瀬谷駅に向けて歩いている。帰る方向が同じという理由で顧問から一緒に帰るように命じられたのだ。最初は肩を貸しながらゆっくり歩いていたが、いつ雨が降ってもおかしくない怪しい空模様だったので、途中からおんぶをした。彼女の弱い息づかいを肩越しに感じる。「しょうがないよ。僕もよく捻る」もう少し気の利いたことを言いたかったが、うまく言葉が出てこなかった。「君は優しいね」 そう言われた瞬間、少しだけ胸が熱くなった。誰にでも優しい訳じゃない。僕は心の中で静かに呟く。

そして彼女は先に卒業し、県内の女子大に進学していった。この想いを伝えることはなかったが、そんなことはどうでも良かった。多分、散るのが怖かったんだろうと思う。

「ずっと咲いていればいいのに」  桜も、人を想う気持ちも。

「君は何が食べたい?」そう聞かれて我に戻った。妻も私のことを君と呼ぶ。その理由を聞いたことはないが、今の彼女にはその呼び方が一番しっくりくるのだろう。「なんでもいいよ」そう答える。「それが一番困るのよね」と妻は少し怒った声を出した。他愛もない会話をしながら、車を家へ向かって走らせる。私はいつもより少しだけアクセルを強く踏んだ。

著者

山田太郎