「それは、移り変わる頁の様に」せつ原 萩な

 横浜の駅は洪水だ。
 長いことこの駅と付き合ってきて、混雑を避けて電車に辿り着くという奇跡を起こせた試しがない。先日クリアしたばかりの高難易度なゲームが頭を過ったが、目の前の光景は確実にそれよりも攻略の難しい大災害に思えた。ちょっとした妄想を浮かべながら、押し寄せる波にもまれ、なんとか帰路へ続く車両に身体を捩じ込ませた。
―お、今日は新しい。
少しオレンジがかった灯りが腹一杯に押し込めた人々の顔を照らす。普段よりも近い距離に他者の不快感が飛び込んでくる。始発のはずである車内にはほんの少し湿気が居座っていて、まとわりつく気持ち悪さを倍増させていた。
鏡を見ている気分になる。皆同様に覇気のない顔。光を感じない黒い目。
同情の念が胸にせり上がる感覚を誤魔化そうと、新品車両のどことなく誇らしげな光に意識を向けていた。
 白く濁った指紋の跡、頭でも押し付けたらしいつむじの柄。そんな具合に曇ったガラスの向こうに緑が流れ出す。横浜駅を完全に抜けきったらしい、そんなことを思いながら、波打つように繰り返す緑を意識のない目で追いかけた。迷路のような坂道が時折惑わせるが、そもそも求めるゴールの無い視線はぐるぐる回るだけだ。こうして自分の意識は、幻夢に誘われたまま、ふわふわとさまよっていった。
 横浜は「坂の街」だ。華やかな港町、休日に訪れる娯楽地帯なんて連想をする無邪気な歳ではなくなってしまったし、レポートの締切りで心が支配される頃には「ただ賑やかな駅」になっていた。そうして空いた席に滑り込むように居座りだしたのが、坂だ。友人のいる大学の学園祭へ足を伸ばしたときもひたすらに坂を登ったなと、急行電車が置き去りにした駅を見送りながら古い記憶を呼び出した。

―――

 上星川駅。少々懐かしい趣の店が並ぶ賑やかそうな駅前の空気を抜けてしまえば、登山の開始だ。急かと思えば緩やかに、緩やかと思えば急になる気紛れな斜面が、歩むリズムを狂わすようだ。それでも、斜面に器用に腰かける住宅の合間をくねくねと道が通っていく風景はアニメ映画で見たものを思わせ、眠っていた子供心が揺り起こされる気がしてくる。
 数段分しかない階段がちびちびと現れ、人ひとり分のスペースを残して建物がひしめく。個人で経営しているような雑貨屋を見かけると、いよいよ画面の向こう側の人物にでもなった気分だ。猫でも追いかけて、不思議の国にでも招待されようか。心なしか頻繁に目にするようになった猫たちに手を引かれる心地で、ため息の出る様な斜面を切り抜けていった。
 そうして心が迷路にハマっていくうちに、坂は緩やかに、道は車道となって広々と開ける。学生で賑わうコンビニや、楽しげに流れる音楽、彩られた校門が目について意識が戻る。
 「悪いね、今日は先約アリ、だ。」
 こちらをじっと見つめる三毛猫に、伝わるかもわからない言葉をかけてから、華やかな装いの学舎に赴く。近代的な建物と一際大きな木々が秋の丁度いい気温の風に揺れた。出迎えのお辞儀とでも言うように。
 
―――

“二俣”の名の通り、ここは乗客の別れ道。
満員御礼地獄も、ここでやっと消滅する。二俣川駅の到着を告げるアナウンスと共に地獄の門が開けば、申し訳程度なエアコンの風に割り込んで、駅の活気が走り抜けた。それを合図にして、まるでダムの水が放流されるように、帰路かどうかもわからぬ道へ無数の足が踏み出していった。自分のスペースなるものに余裕を感じれば、気を失っていた脳が突然覚醒する。
 ここからは一定のペースを刻むように駅に止まる。ラッシュの時間帯に差し掛かる車両は、こういった急行であることがほとんどだ。建物と建物の合間を抜けていく川、ひな壇のように座り込む集団住宅地、波のように上下する緑。時には真っ赤な光の中、時には青みのかかった闇を背景にそれを眺める。

愛すべき我が家へ辿り着くには乗り換えが必要だった。この駅も昔馴染みだ。
 車内が少し暗くなり、ライトのオレンジに気付けば、電車がトンネルへ吸い込まれていく。進行方向から右、扉横の手すりに寄りかかる、いつもの定位置からそっと背を剥がす。車掌の独特なアナウンスが駅名を告げれば、乗り換えまでのルートを頭に思い浮かべ、帰宅ラッシュの波に身体を任せながら、次の車両へ滑り込む算段をたてる。
押される感覚を背中に受けて、開け放たれた扉から飛び出る。このまま流れていけば、改札へ向かうエスカレーターに導かれるはずだが、今日ばかりは違った。急ぐ用でもあったのか、後方にいたサラリーマンが身体いっぱいを使った強烈なタックルを繰り出してきのだ。流されるままの体勢をとっていた自分の身体は、確固たる力を受けきれず波に打ち上げられた魚のごとくホームの中心部に弾き出されてしまった。
「あれ?」
間の抜けた声が思わず漏れる。力の根源は足早にエスカレーターを駆け上がり、危険運転の自動車さながらの動きで、波を蹴散らして姿を消してしまった。次々に波が押し寄せ、大盛況となったエスカレーターを呆然と眺めていると、車両のドアを閉める警告音とホーム中側へ寄ってくれと呼び掛ける駅員の声が、自分の意識を掴んで引き戻した。そのまま、しゅーっと空気が漏れていくドアの音を目で追う。ほとんどの乗客を吐き出した車内まで視線を泳がせると、そこには一人、まだ乗客が残っていた。

 その人物は、嵐が去った後の涼やかな顔で座席にたっぷりと身体を預け、手元の本へ視線を落としていた。悠々とした手つきで本のページをめくる。その動作だけ時間の流れが違うのかと思うほどゆっくりとしていて、言葉を味わっているかのようだった。
 
 目標を失った視線は、穏やかで緩やかに走っていく青い車体が闇の向こうにぽつりと見える外光へ吸い込まれるまで、名も知らぬ旅人を追いかけていた。音が遠退き、気配が消えるまで立ち尽くした。
 「…よい旅を」
 無意識にそう呟いた。自分でも驚くほど低く、恨めしい声だった。最後の車両が光に飲み込まれていったのを合図に、呆然としたままの空っぽの体に気付いた。
 「どこへ行けばいいんだろう」
 素直にそう思った。
 覗いた車窓から見えた人物が強烈にうらやましく思えた。いや、先ほど強烈な勢いで波をかき分けたあの人も、自分には遠く思えた。あんな風に突き進むほど、自分には帰りたい場所があるのか。明日、目覚めたら行きたいところはあるのか。
 坂の迷宮を思い出したからか、今の自分がつまらないようにも思えた。最近、あのように「旅」をしたことがあっただろうか。
 立ち尽くす大和駅のホームでは、まだ改修の続く作業の音だけが自分を見ていた。

別段変わったこともなく、投げ出されたあの日に中身を置いてきてしまったのではないかと思うほど軽くなった身体を、なんとか地に立たせて歩く日々は続いた。風は鋭さを持っていて、急かすように背中を刺し続けていた。単純に目の前にあったという理由で羽織ってきコートは、顎をはさんでしまうのではと思うくらいに、きっちり上までジッパーがしめられていた。静かな朝焼けは熱を持たず、ただただ霜を輝かせただけだった。
 ”二俣”の名の通り、ここは乗客の分かれ道。
 お店の入れ替えだの、リニューアルだのと貼り紙が飾られた駅ビルは、白い布を纏っていた。駅のそこかしこも白のフェンスで覆われ、中途半端な改札が人々を見送っていた。結局「どこへ行っていいのかわからない」自分は、中途半端にあふれている景色を眺めて、「自分と一緒だな」という言葉を他人事のように吐き出した。
 特に寄り道もなく、ひたすら道なりに歩いていくだけの朝の風景にも段々慣れが映る。学生の多いタイミング、進行方向に朝焼けの見える瞬間、日陰が一層寒く感じる時。改札から出ていく人々の間をかい潜ることも、昔熱心にやったテトリスの感覚だ。同じようにせかせか歩く顔も、懸命に脚を動かす曲がった背中も、こんこんと軽快な音と共に跳ねる白い杖も、意識しないようにして追い越した。空っぽを見透かされたら、今度こそ本当に何処へ行きたいのか思い出せない気がしたからだ。緩やかな坂を踏みしめながら、見つかるはずもない落とし物を求めた。

「本日より開店です。キャンペーンやってまーす。」
 きちっと着こなされたスーツが、連絡橋で踊っていた。ダンスパートナーは喫茶店のチラシらしい。目をこらすとクーポン券がついているのがわかった。内装がよく見える大きなガラス戸の向こうには、チェーン店としてお決まりの景色だったとはいえ、冷えきっていた空気に熱意を染み込ませるような活気と元気が溢れていた。この駅で降りるようになってから、初めての感触だ。未だに空っぽを引きずった身体は煽られやすかった。

 単純なことだ。空っぽが虚しければ注げばいいし、目的地が無いなら何処へでも、新たな場所へ行けばよかった。

 地を踏みしめる感覚が足の裏を走った。わずかに春の匂いを帯びた風に誘われて顔を挙げてみれば、少しだけだったが、白い布が取れた新しいビルの壁が朝の陽ざしに輝いた。穴を埋める為に流し込んだ音楽も、ゆるゆると体をめぐりだす。その日は遅刻を承知で違う道を選んだ。慣れきったはずの道にも発見が生まれる。意外とひらけた道路は景色を広く見せ、緩やかに続く坂は穏やかな雰囲気を思い起こさせた。いつか見た迷路とは違う、静かに受け入れるような、大きな坂だった。

 今日の横浜駅も程よく洪水を起こしていた。
 改修が進んでいるのかいないのかわからない西口周辺は、たっぷりと人を吸い込んでいた。むせかえる熱気を避けるように、駅の手前にひっそり構えた地下への階段を下り、今日の迷路に挑んだ。新品の黒いランドセル集団が横をするりと抜けていくと、なんだか競争を挑まれた気持ちになる。気取った雑貨屋、最近できた服屋、喫茶店、ドラッグストア…。幼い頃の記憶と完全に違えた風景は、少し眩しい。
 天井にぶら下がった黒い看板を頼りにしつつ、なんとなくの足取りであの改札をめざす。最近できたパン屋の匂いが、帰宅中のすきっ腹に無慈悲な刺激を与える。駅を出る人と電車に乗る人とが交差する危険な場所を慎重に抜けて、誘惑を拭いながら、なんとか家路へ続く車両に身体を捩じ込ませた。
―お、今日は新しい。
 いそいそと定位置に体を持っていきながら、オレンジの柔らかい光を見た。
 猫の耳を付けたつり革が、視界の端でゆらゆら揺られていたのが少し面白くて、顔が緩んだ。進行方向から右、扉横の手すりに寄りかかる、いつもの定位置。顔を少しそらせば、ゆっくりと駅が遠ざかる。お世辞にも綺麗とは言えない川が見えてくると、それが横浜、などといったモノローグが勝手に再生された。そうして流れていけば、緑の迷路までそうはかからない。

 車内が少し暗くなり、ライトのオレンジに気付けば、電車がトンネルへ吸い込まれていく。独特なアナウンスが、イヤホンから流れる曲に不思議な味付けをすれば、ちょっとした大発見になる。家路の中で最も長い線路の旅は、こうしてゆっくりと終わりを告げていった。
 押される感覚が迫ってくる。扉が開くのを合図に、洪水の先端に波乗りを仕掛ける。うまいことホームの中心に着地できれば、急かされずに乗り換えできるだろう。ただただ流されるだけの人々の混雑を一歩後ろから眺めて、時間の余裕がある優越感、なんてものをぶら下げた顔で少し伸びをした。
 車両のドアを閉める警告音とホーム中側へ寄ってくれと呼び掛ける駅員の声が、飛び込んでくる。しゅーっと空気が漏れていくドアの音を目で追っていると、風が自分の横を駆け抜けた。ハッとなって、閉じかけている車両の扉を見ると、少しだけ腰の曲がったおじいさんが、まさしく「するり」と電車に入り込んだ。人ひとりいない車両にご満悦の表情で椅子に腰かけるおじいさんを車窓から覗く。
「よい旅を」
 思わず笑いそうになる声を抑えながら、見送りの言葉をかけた。行先を示す小窓に「回送」と記された電車の旅を少し想像する。きっと見たことのない景色が見られるだろう。貸し切り電車で流れていくおじいさんが少しうらやましかったが、この瞬間を見送ってあげられた自分もきっと今日の特別だ。
 人通りの少なくなった階段を上って、今日の特別な相鉄線を後にした。

悠々とした手つきで手元の本の裏表紙をつまんだ。
その動作だけ時間の流れが違うのかと思うほどゆっくりと、最後の言葉の余韻を感じながら物語を閉じる。
 
ホームのベンチにたっぷりと体を預けたその人は、少しだけ新しくなった後姿を見送ってから、どこからともなく別の本を取り出した。
 
表紙に手をかけ、見えてくる始まりのページに視線を落とす。
 
真新しい青の車両は、トンネルの向こう、うっすらとした光の中へ吸い込まれた。

著者

せつ原 萩な