「ちぎれ雲」増田辰弘

残っていたアパート

 「まだ、このアパートはまだ残っていたんだ。なつかしいな。本当になついかしいなあ」思わず声を出していた。大変貌を遂げた大和駅にもびっくりしたが、3階建てのアパートがまだ残っていたのにはもっとびっくりした。多少空き室はあるものの自分の住んでいた201号室にはちゃんと洗濯物が干してあった。
 もう齢60歳も近くなって、世の中の酸いも甘いも噛み分けて来たつもりの杉田恵介にも今日はこみあげてくるものがあった。おかしいぞ。いつも間にか目頭が熱くなっている。ここは相鉄大和駅から徒歩8分のという深見台にあるどこにでもある鉄筋コンクリート2階建てのアパートである。
 杉田は島根県の出身であり、上京して最初に暮らしたのがこのアパートである。言わば、彼の人生はここから始まったと言えた。当時はこのアパートは彼が最初に就職した会社が独身の社員用に借り上げのアパートであった。
 このアパートには夜行列車の特急「出雲」(現在はサンライズ出雲)で横浜駅に着き、相鉄線に乗り換えて着いた。こう書くと簡単そうだが、田舎から初めての旅である。ともかく横浜駅が田舎の有名な山である大山のように大きかった。降りて相鉄の乗り場を探す。当時はいずみの線はまだないので横浜駅から海老名駅までの一線で解りやすく、ここなら自分のペースで動けるとほっとしていた。
 杉田が最初に就職した会社は、電話工事を行う通信建設会社である。昭和40年代は高度成長期のど真ん中、急増する多くにニーズに対応するためどんどん電話の工事を行っていた。この会社の主な仕事はケーブルの新設、増設と電話線の新設、増設である。

給料が2倍の会社

 そのアパートに着くと管理人のおじさんが、「杉田さん荷物がついておりますから部屋に入れておきました。)と告げられた。お袋が用意して送ってくれた布団袋には布団と着替えや下着が到着していた。
 案内されて201号室に入ると、2DKの部屋で佐世保から来た水田さんと同室であった。「よろしくお願いいたします。」大変如才ない人ですぐに仲良くなった。「この会社の給料はうち高校の卒業したクラスののなかで一番良かったですよ。」と水田さんはうれしげに話す。その代り新入社員の80人は順番に3ヶ月の研修を受けると全国の現場に配置されるという。さて自分はどこに行くのか楽しみだとも話す。
 杉田はとりあえず海老名の工事事務所に配置されたが、入社早々このことに悩んだ。会社に勤めながら夜間大学に通うという目論見が大きく崩れ出したからだ。東京本社で図面でも書くぐらいと軽く考えていたのだがとんでもない。杉田の研修は後の方であったが、研修を終えた社員が名古屋だ九州だどんどん地方に赴任して行く。
 ほかの新入社員はみんなその気になっている。杉田だけが情報不足であった。今ではこんな旅費の支払いの仕方は制度的に出来ないが、当時この会社は地方に赴任すると(本社勤務の社員以外は)出勤する度と毎日定額の出張旅費が出る。そのため給料がほぼ倍になるため人気のある会社だということを水田さんから聞いて始めて知った。そのため、この会社には通勤手当はなかった。
 杉田は、翌年この会社を辞めて中堅の専門商社に入ることになるが、手取りの現金がほぼ半分になり余りの少なさにこれは何かの間違えではないかと思ったほどである。当時はそれほど電話の需要が多く、会社は幾らでも仕事があり儲かってしかたがない状況であった。

手取りの7割を貯金

 しかし、いくら給料が倍になっても全国の工事現場を転々とする訳にはいかない。大学に入り将来は世界をまたぐ仕事をするのだ。自分ながら心に決めていた。ここで杉田は2つの方針を立てる。ひとつは大学受験の勉強をする。もうひとつはそのお金を貯めることである。
 大学受験の勉強は、周りの雰囲気からアパートでやることは出来ないので大和市の図書館と神奈川県立の青少年会館(現在は大和市青少年センター)で行った。2つをうまく組み合わせるとほぼ毎日夜の9時まではそこで勉強が出来た。
 お金の方は節約し貯めた。なにしろ、この年に杉田が買った高価なものは背広1着とラジオぐらいである。給料が2倍の会社だからおもしろい様にお金が貯まった。その後の大学の入学金も授業料はほとんどこの時期も貯めたものである。
 お金もかからない。アパートの家賃、1階に食堂がありここの朝食も無料である。自分で支払うのは昼食と夕食費ぐらいである。その夕食費も週に1、2回は打ち上げや歓送迎会と称して事務所でパーティを行う。
 新入社員がその設営をまかされていてオードブル、寿司、そば、中華料理となんでも好きなものを注文しでよかった。残業をすると好きなものを夜食に頼んでよかった。事務所のクリスマスパーティーの抽選会では1等賞の賞品がなんとオートバイであった。今から考えると一体あの予算はどこから出していたのであろうか。
 「社会の風は厳しいと聞いていたがそうでもないな。」当時の杉田が感じた実感である。後でこの会社がきわめて特殊な状況であったことを知るが、当初はそう思っていた。現在はデフレの鬱経済である。会社も家庭も財布のひもを締める。当時は躁経済で会社も家庭もみんな財布のひもを緩める。そうすると社会全体がおおらかな社会になる。この会社はその躁経済の代表的な会社であった。だから杉田は手取り額の7割も貯金ができた。
 アベノミスクで経済の好循環が叫ばれるが、デフレスパイラルでなかなかうまくは行かない。当時は、まさにこの好循環で会社も家庭もすべてがうまく回る構造であった。ここから浮かんで来るヒントは比較的ゆとりのあるセクターがまずどんと財布のひもを緩めた振りをすることではないか。
 新入社員に予算は青天井で会社の懇親会の設営をまかせる。クリスマスパーティーの抽選会で1等賞の賞品は乗用車にする。現在のように政府だけが財布を緩め、会社も家庭も財布のひもを締めていている、この財布の締め癖を直さないとなかなか経済の好循環は生まれて来ない。日本人特有の生真面目なしみったれ文化がいかに経済自体を痛めていることをそろそろ知るべきである。

横浜駅から海老名駅まで2往復

 4月から3か月海老名工事事務所に通い、7月に転勤になり相鉄西横浜駅近くの横浜工事事務所に通うことになる。海老名が30人のこじんまりした事務所であったが、ここは下請会社を入れると100人を超える大きな事務所である。事務所に着任早々庶務の担当者から10月から3ヶ月研修だとの連絡を受ける。
 ここで杉田は幼いながらも考えた。もう辞めるのに会社の金で3ヶ月間も研修を受ける。これはいかにもまずいのではないかと。しかし、今やめてすぐに次の職を見つけ受験勉強ができるのか。このまま知らないふりして研修を受けた方が良いのではないか。
 会社から見れば随分自分勝手な話であるが、何日も、何日も考えた。そして、自分なりにやはり研修は受けない方が良いという結論に達した。あるミシン会社の営業の仕事の求人があり面接を受けいた。給料は減るものの幸い西谷に独身寮がある。とりあえずここにもぐり込むか。そう心に決めて辞表を書いた。
 しかし、なかなかそれを実行できない。会社はいい人ばかり、仕事は猫の手を借りるほど忙しい。、会社の業績は絶好調そんな中で場違いな話を持ち出す。その違和感に自分の心のなかはもんもんとする。
 皆の反応がまた心配でもあった。もう研修の日時は近い、今日には所長に話をせねばならない。どう言っても話を切り出すのか。どうにもその日は踏ん切りがつかず、会社に急用ができたと連絡し、とうとう相鉄線の横浜駅から海老名駅まで2往復した。この時相鉄の若い車掌はけげんな顔をして何度も杉田を見ていた。この2往復でやっと覚悟を決め所長に面会した。

自分の持っているカードは大事に使え
 
 横浜工事事務所の宇野所長は、所長室で杉田から話を聞き辞表を受け取ると顔色ひとつ変えないで「今夜空いているか。少し付き合えよ。」と一言だけ話した。宇野所長は、現場からのたたき上げの前の照井海老名事務所長と異なりまだ若く本社の労務畑から来たエリートである。現場に足を運ばないで本社や電電公社の幹部と宴会やゴルフばかりしていると事務所内の評判はあまり良くはなかった。
 宇野所長は杉田を横浜駅西口のなじみの焼き鳥屋に連れて行ってくれた。軽く乾杯をした後、「杉田君、自分の持っているカードは大事に使うのだよ。会社のことなどは考える必要はないよ。それは会社が考える。君が大学に行きたいならそうすれば良い。君が来年の3月まで横浜工事事務所にいることはおれが保証するよ。会社には大学に合格してから話すのだよ。それまでこの辞表は預かっておくよ。」と話した。
 彼が杉田が辞めるかどうかについて話したのはわずかにこれだけだった。後は田舎の話とか、彼女の話とかたあいもないない話であった。お金を貯めることに集中し節約していた杉田には焼き鳥も、ビールも酒もとてもおいしかった。大人の人にこんな風にごちそうして貰うのも始めてでもあった。焼き鳥は1人で30本も食べた。
 杉田はこの時宇野所長の配慮と生き方に感動した。それは今までの人生で見たことのない人物であった。会社はともかく彼にはこの借りは返さねばならないと密かに思った。
 杉田が宇野所長と話をしたのはこれが最初で最後であった。翌年の3月の会社を辞める時も宇野所長は出張で会えなかった。彼に丁寧な礼状を書いたがもちろん返事はなかった。
 その後、数年間杉田は宇野所長に年賀状を書いたが返事は来なかった。それからしばらく経ち彼が専務になったということを日経新聞の人事欄で知った。杉田は自分のことのように喜び、現在の自分の近境と専務になったことのお祝い文を相当思い入れ込めて書いて手紙で送ったが、これにも返事は来なかった。
 杉田と宇野所長の2人の関係はわずかこれだけである。宇野所長にとっては他愛もない出来事だが、杉田にとっては今から思えば都会に出て始めての大人、オーバ―に言えばものの考え方、生き方を教えてくれた言わば恩人である。

ミスタースパイダー

 杉田は、その後大学受験の勉強もしたが仕事もがんばった。杉田の仕事はスパイダーという仕事である。当時は高度成長期で電話線はどこもたこ足配線であった。ケーブルが足りないのに店や住宅ができる。電柱を2本も、3本もまたいで配線する。時には電柱を5本もまたいでどんどん配線する例もあった。
 それに、会社の引越しや倒産で電話線は配線されているものの使われていない線がかなりあった。当時の電話帳の元帳は手書きであり、パソコンやエクセルもない時代である。担当者の見落としや記憶違いで電話線はあるのに使われていないものも数多くあった。これを再チェックするのである。
 このようにスパイダーは文字通り蜘蛛の糸になっている電話配線を新設のケーブルの敷設時に合わせて合理化する仕事である。こう言うと聞こえはよいが、1日中図面と電話帳を自転車に乗せ、しらみつぶしに電話番号ごとの配線状況を調べる仕事である。
 だから杉田は、今でも当時自分がスパイダーを行った海老名市と保土ヶ谷区、 旭区の地理にはめっぽう詳しい。海老名市の国分北、中新田、杉久保、保土ヶ谷区の星川、桜ヶ丘、岩崎町、旭区の万騎が原、さちが丘、今川町と地名と番地を聞いただけで街の景色が蘇って来る。約3ヶ月でひとつの地区をまわり終える。これを繰り返す。
 この仕事は大事な仕事だが、1人でやる仕事で比較的手抜きが出来る。見落とし、勘違いも起こりやすい。しかもそれに気が着くのは下請けの工事会社が電話工事をする数か月後である。その時には当のスパイダーをした本人はもう事務所にはいない。別の事務所に行っている。
 「ミスタースパイダー」その後に杉田につけられた愛称である。杉田のスパイダーは社内で評判を呼ぶほど完璧であった。それが彼なりに考えた宇野所長への、会社への恩義である。今から考えて見ると、宇野所長はさすがに労務畑のベテラン、杉田にもしっかりと1年分のお返しはさせたとも言える。
 
横浜、相鉄線は行きたいけど行きたくないところ

 その後の杉田にとって横浜、相鉄線は行きたいけど行きたくないところであった。だから、東京の私立大学の夜間部に入り、秋葉原にある中堅の金属部品関係の専門商社に勤めた時、住まいは埼玉県の浦和に移した。これは浦和を選んだと言うよりも横浜、相鉄線から遠い場所に住みたかったとうのが正確なところだ。その後、仕事で横浜に出かけてもとうとう40年間相鉄線には乗らなかった。
 これは前の会社の社員ともう会いたくなかったこともあるが、あまりにも自分が未熟で幼かった過去と決別したかったのであった。これは杉田に取っては大きなこだわりある。長い間相鉄線を避けてきた。
 その後、杉田はこの取りあえずで入ったこの専門商社で重宝にされ、結局定年近くまで勤めることになる。と言うのも1985年にプラザ合意があり日本企業のアジア展開が本格化したからだ。
 就職の時は、大学の近くにあるとして選んだ会社だが、ユーザーのアジア展開に合わせてこの会社も強力にアジアを目指さざるを得なくなり、杉田に取って願ってもない経営環境になって来た。世界をまたにかけた仕事をするという杉田の出番であった。彼はその後希望して台北と上海で4年、バンコクに5年赴任し。上海とバンコクでは同社の子会社の社長を務めた。
 そして、バンコクに赴任した時に隣国のミャンマーに何度か仕事で出向くうちこの国に興味が湧いて来た。両国とも鎖国が長かったせいかミャンマー人は日本人と感性がよく似ていて杉田は昭和の時代の懐かしさを感じた。「ここが自分の人生最後の戦場かも知れないな。」と感じ、何も不満はなかったが専門商社を早期退職し、ヤンゴンでフリーペーパーの会社を作った。
 主に現地の日本人向けにビジネス情報や求人、政府の政策変更などの情報を提供するフリーペーパーは、上海やバンコクでは30紙ほどあるが、当時のミャンマーではまだ本格的なものはなかった。杉田はここに挑戦した。現在ではミャンマーと日本とで1万部発行し、ホテルやレストラン、JETRO,大使館などに置いてある。
 
なつかしい大和の街へ直行

 このフリーペーパ―がミャンマーの政治が軍政から民政移管で、経済開放が進むことと相まって奇跡的に大当たりした。今では杉田の会社はフリーペーパ―の発行を中心に今では不動産仲介業、人材紹介業、レンタルカ―業、ネット配信業、コンサルタント業など様々な事業を行なっている。社員も総数で30人、日本人社員も5人おり、わずか数年で堂々たる規模となった。
 特に、これまでほとんどの現地の日本企業が前政権の軍政人脈との付き合いであったが、杉田は最初から現政権のNLD、アウンサン・スーチ人脈との付き合った。今の活動にはこれが利いている。このところ日本政府を始め多くの企業から様々な依頼が急増している。
 この度、杉田はこれらの活動を通じて日本とミャンマーの交流で大きな成果があったと評価され外務大臣から表彰を受けた。これは海外で活躍する日本人や団体が毎年表彰されるもので、今回も各国別に何人かの日本人や団体が表彰された。言わば、海外で活躍する日本人のノーベル賞のようなものえある。
 杉田は今回この表彰式のためヤンゴンから帰国した。そして、表彰を受けた後ほかの面会などを断り、ただちに向かったのが彼の人生をスタートさせたなつかしい大和の街である。
 40年振りにかって自分の住んでいた深見台のアパートとそのまわりを見た後、ひとしきり大和の街を歩いて見た。歩いていると不思議なもので昔の様々な出来事が昨日のことの様に蘇る。相鉄線大和駅は地下化がなされ、そのあとには新しい図書館の入る大和市文化創造拠点シリウスがある。また、ここには合築で大和天満宮も入っており、そこにエスカレーターに乗りお参りできる。杉田はこれらには真から驚いた。
 この相鉄の地下化の社会経済効果は大変大きい。東プロクナード周辺の駅前広場はイベント広場となっていて、大和市や民間企業、ボランティアなどが資金や知恵を出し会い、現在実に様々なイベントを行っている。
 杉田が行った時には「ふるさとやまとサマーフェーティバル」の準備をしていた。イベント広場では毎週の様に何かイベントを行っている。特に、やまと古民具骨董市や大和市阿波踊りなどは他の都市から多くの観光客を集める程の人気のイベントである。
 鉄道の地下化という事業は、単に踏切りを無くして交通の利便と安全を確保することだけではない。このような新たなまちづくり、街のにぎわいを創り出すソフト効果がもうひとつの目的である。大和の街は相鉄線大和駅は地下化でハードとソフトを劇的に変えた画期的な事例と言える。
 杉田には、大変失礼な話だが町役場から毛が生えたような当時の大和という街の事情を知っているため、とてもすぐにはこんな政策力がある力をつけた都市とは正直思えなかった。それは、あたかも宇野所長から「杉田君、君がまさかアジアでこんなにやるとは思わなかったよ。」と言われている様にも思えた。当時から見ると思いがけない大和の街の成長と自分の成長とを重ね合わせていた。
 
 菊華飯店で一人の祝杯

 しかし、このような信じられない位の大変貌を遂げた大和の街にあっても変わらないものもいくつかあった。まず、駅前の横浜銀行、三菱銀行(現在は三菱東京UFJ銀行)、それに南口の中華料理店の「菊華飯店」、その2階の純喫茶「フロリダ」その脇の惣菜店、トンカツ屋などが並ぶ南店街である。
 杉田は迷うことなくこの菊華飯店に入った。当時は値段が高くてなかなか行けなかった店だ。大和市を去る時、もし人生で成功しこの店が残っていたらひそかに祝杯をあげようと思っていた店である。
 店に入ると、すぐにビールと八宝菜、餃子、春巻きを頼んだ。「小さなサイズの中華ごはん」など新しい料理は加わっているものの、メニューそのものは当時とほどんど変わっていない。味付けもほとんど変わっていなかった。そんな感傷的な事情など知るよしもない若い女性のアルバイト店員の事務的な対応が杉田には妙にうれしかった。「こんな考え深い酒はあの宇野所長の時以来だよな。」思わずひとり言をつぶやいていた。
 「誰の見送りもなく、ひとりで急行横浜行きに乗って行ったよなぁ。」、「それほどのコネも能力もないのに良くここまでやって来たよなぁ。」、「人生というのは人と人との縁で元はほとんどなくても拡るのだなぁ。」、アジアビジネスはテンポが速くてまた鋭い。第一線の国際ビジネスマンとなりアジアでの暮らしが長い杉田にとって日本のこのゆったり、もったりしているビジネス風土はあまり好きではなかった。また、そのことを何回か公の場で発言もしていた。
 しかし、その杉田が今日は演歌そのもの、その日本のゆったり、もったりした文化、風土に充分に浸っている。これからもう余程のことがないかぎりこの大和の街に来ることはないであろう。もうこの菊華飯店で酒を飲むこともないであろう。そう思うとビールのおいしさもひとしおであったs
 たった1人だけの大和の街の郷愁に充分に浸った後、杉田は自分の人生の節目を確認するかのように、何度も何度も振り帰りながら今度は特急横浜行きに乗り大和の街を後にした。そこには高度成長の時代を風のように駆け抜けて行った大和の街とひとりの男の人生の後ろ姿があった。
 
 あとがき
 
 人は両親を選ぶ事が出来ないが、時代をもまた選ぶ事が出来ない。しかし、これらの限られた条件のなかではあるものの自分の個性を発揮しつつそれなりに工夫して生きることは出来る。杉田は、島根県の田舎の出身でそんなに豊かではない家庭で育った。
 しかし、その貧しさゆえに自分の目標にあせらずにひとつひとつ固めて着実に進めて行くノウハウを自然に身に着けて行った。時代の風もうまく活用して行った。
 一見厳しそうな人生であるが、最初が貧しく本人は自分はたいしたことは出来ないと思ってスタートしているので生き方に無理がない。予想以上に高度成長という時代の風が背中を押してくれたので、比較的若者が生きて行くには楽な時代であった。
 現在はどうか。子供の頃からディズニーランドは行っている。特上寿司も食べている。テレビも、車モ、スマートフォンもある。毎日洪水のごとく商品と情報が入り、それを処理できないうちに、次の商品と情報が入る。お金がなくて手に入らないと言う人がいるかも知れないが、少なくとも情報だけは入っている。
 すなわち、イチローや藤井四段の様にこの様な時代のなかで自分の能力、居場所を素早く見着けられることの出来る人は本当に少数である。杉田の様などこにでもいる若者が、ひとつひとつ周りを固めて着実に人生を進めて行くことが数倍難しくなったことである。今の若者の生き方の難しさは一見何でも出来そうなのに、何をするのにも難しくなったことである。出来にくい環境が揃っていることである。
 しかも、宇野所長の様に少々ピントのずれた若者を助けてくれる人や装置も少なくなくなり、脱落させる装置のみ強化されている。現在は一見豊かで親切そうに見えるが実は高度成長時代とはまったく逆の社会になって来ている。
 そして、このことを教えてくれる人も少ない。私が子供の頃いじめられて家に泣いて帰ったことがある。その時祖母がかんかんになって怒り、すぐに仕返しをして来いと言う。そこで彼らが建物のなかにいるのを幸いに私は15人分の履物をすべて海に流して仕返しをした。祖母の指導の仕方は決して褒められたものではないが、人の生き方、物の道理は教えてくれている。
 現代の問題点のひとつに、幼い若者達に複雑になった世の中の構造を解りやすく話す努力も怠っていることがあげられる。勘の悪い子も多い。説明の仕方に工夫は必要だが、現在は昔に比べるとはるかにみんなよい子の偽善化した社会になっている。このことをきちんと知らせる努力をすべきである。
 今から50年後の相鉄の鉄道小説大賞にはどんな作品が応募して来ているのであろうか。これから迎える50年はどんな時代であろうか。きっと新しい時代の生き方、ノウハウを反映した鉄道小説が応募して来る筈である。興味は尽きない。それぞれの時代の中で繰り広げられる人間ドラマはどの時代となっても面白い。ただ、それを我々には見ることが出来ないのは少し残念である。
 
 

著者

増田辰弘