「とある土曜日、最寄り駅にて。」健人

「新しいコンビニが出来たみたいよ」
 と、妻が言った。
「ふーん、どこに?」
「駅の中。――あなただって、毎日使ってるじゃない。気付かなかった?」
 読んでいた新聞から目を離して、私は最寄り駅の構造を思い出す。
「ああ、前に売店があった所か」
「そうそう、ずっと工事中だったじゃない? そこに出来たんだって。今日から開店」
 と、チラシが目の前に飛んで来る。「行ってみたら? どうせヒマなんでしょ。沙也ちゃんも連れてさ」
 とある土曜日の朝。少し遅めの朝食を終えた、落ち着いた時間。だが落ち着いた、と思っていたのは私だけだったようで、妻はこれから後片付けやら掃除やら色々とやる事が溜まっているのだと言う(念の為に言っておくと、食洗機に食器を入れるくらいの事は、私もやったのだ)。
「ついでに、何かお昼に食べる物とか買ってきてよ。ローゼンもいいけどさ、たまには違うものもいいでしょ。そのチラシ持って行くと、何かくれるみたいだよ」
 やれやれ、と内心ため息をつきつつ、椅子から立ち上がる。
「コンビニって、何? まさかローソンじゃないだろ?」
 元々、駅の近くの通り沿いにローソンがあるのだ。
「ファミリーマートだって。相鉄だからね」
 ファミマか。そういえば以前に提携のニュースを見て以来、いくつかの駅で見た記憶がある。いよいよおらが駅にもやってきた、というワケか。
 まぁ、確かに何の予定も無い土曜日。ファミマはこれまで近くに店が無く、あまり行った事が無い。せっかく出来たのなら、覗いてみてもいいだろう。
 身支度を整えて、三歳の娘に一緒に行こうか、と声をかけようとすると、既にいそいそと靴下を履いているところだった。

 駅迄は、娘にとっても勝手知ったる道だ。駅を挟んだ向こう側に通っている保育園があるので、毎朝私と一緒に駅前を歩いているのである。
 女の子のくせに――というのも最近はどうなのかもしれないが――娘は電車を見るのが好きで、以前は登園時にも改札口に私を引っ張り込もうとして、抑えるのに苦労した。ある程度分別がついてからは帰宅時だけになったので私はホッとしたのだが、お迎え担当の妻としては時間が遅くなるので閉口しているとの事。
 まぁ、そんな事ができるのも結婚と同時に駅徒歩圏内のマンションに入居できたからで、第一希望の保育園に娘を入れる事ができたのも、幸運な事だった。
 少し歩くと線路のそばに出る。しかし線路は掘削された一段低い位置を走っていて、高い塀が立っているのもあって電車の姿を見る事はできない。だから娘は駅に入って、ホームから電車を見たがるのである。
「そうにゃんのでんしゃ、くるとおもう?」
「来たらいいねぇ」
 娘の問いに答えつつ、そういえば相鉄は昔からいろんなヤツが走ってるよなぁ、と私は記憶を辿る。
 小学校低学年の頃だったか、「ほほえみ号」を見た時の衝撃は、今でも忘れられない。当時は父の仕事の都合で神奈川を離れており、殆ど電車を使わない生活だった。そんな私にとっての「電車」とはほぼイコール国鉄であり、新幹線に代表されるツートンカラーのシャープなカラーリングがカッコイイ! というイメージであった。
 そんな少年の思い込みを完膚無きまでに破壊した、花の絵満載のどぎつい――良く言えばカラフルな――色使い!
 初めて見たのは、どこでだっただろうか……。
「ね、みて。あっちになにかたってるよ。ファ、ミ、マ、だって!」
 と、娘が言った。指す方を見ると、幾つか緑色の旗が立っている。そうか、ファミマだ。いや、ファミリーマートそのものでなく、入店時に鳴る音楽で思い出した。それは以前上星川にあった母の実家の呼び鈴と、同じ曲なのだった。
 母が実家を訪ねる際には駅前の亀屋万年堂でお土産を買うのが常で、その間ヒマな私は外に出て、踏切の側で電車を眺めていた。―
―その時に初めて、あの衝撃的な電車を見たのである。
 後に「アートギャラリー号」や「緑園都市号」といった別のカラフルな車輛にも遭遇したが、「ほほえみ号」程のインパクトは無かった。もし娘が「ほほえみ号」を見たら、どんな感想を言うだろう? 少し、興味がある。

 
 信号待ちで立ち止まる。道を渡れば、そこが駅だ。失礼な言い方になるが、平日のラッシュ時でも起こり得ない人集りが出来ている。駅の入口では、おそらく私が持っているものと同じチラシを配っており、思っていた以上にオープンセールは盛況のようだった。
 信号が青に変わると娘はチラシを配っているお姉さんに駆け寄り、チラシを受け取る。そのまま店内に――かと思ったら、店を通り越して改札口へ一直線に向かってしまった。……まぁ、予想はしていたが。
 私は苦笑しながら定期券を取り出し、娘に渡す。彼女はそれを受け取ると迷う事無くタッチセンサーにかざして、悠々と改札口を通過する。
 全く、いつの間に憶えたのやら。自分が初めて自動改札機というものを経験した時の事を思い出す。相鉄線では無かったが、それまで人に渡していた切符を一体どうすれば良いのか分からずにその場に呆然と立ち尽くして、先に行った母に怒られたのだった。今となっては、笑い話なのだけど。
 当時の私は、この子よりもずっと年上だった筈なのだが……これが、現代っ子というヤツか。
 手を繋いで階段を下り、ホームへと降り立つ。ホームドアがまだ設置されていないそれは幼児にとっては危険なのだろうが、電車を見るには都合がいい。次の電車が来るまで、しばらくあるようだ。
 ベンチに座る。平日は殆ど座らないので、考えてみると貴重な機会だ。車内の広告で見た「親子で座れるベンチ」とやらは、確かにこんな時には具合が良い。私の体が大きいので娘は多少窮屈そうではあったが、急に飛び出さない為にもそれでヨシ、という事にしておこう。
「ねぇ、まだでんしゃこないの?」
 ふと、娘が私を見上げて尋ねた。
「まだまだ、もう少しかな」
「ふーん」
 娘はしばらく退屈そうに脚をぶらぶらさせていたが、
「ねぇ、まだこない?」
「まだまだ、もう少し」
「ふーん」
 それから十秒もしない内に、
「ね、まだ?」
「えぇ? そんなすぐには来ないよ」
 私は電光掲示板を確かめ、「――あと、五分位かな」
「ごふんって、どれくらい?」
「沙也ちゃんが、一から六十までを五回数えたら、電車が来るよ。数えてみる?」
 んー、と娘は何やら唸っていたがやがて得意気に、
「さやちゃんねぇ、いちからにじゅうまでなら、数えられるんだよ」
「凄いな! じゃあ、二十までを十五回数えたら、電車がくるかもよ」
「えー! おおくない?」
 そう言いつつ、「いーち、にーい、さーん、ホラ、パパも!」
 所々抜けていたり、順番が変わったりしている所を直しつつ、一緒に五、六回程数えたところで、ようやくスピーカーが音を立てた。
『まもなく、三番線に各駅停車、横浜行きが、十両編成でまいります。黄色い線までお下がりください。この電車は――』
「キタ!」
 歓声と同時にポン、とベンチから飛び降りた娘の肩を慌てて掴み止めた。
「あまり乗り出すと、落ちちゃうかもしれないよ」
 ホームの向こう側からやってくる電車を早く見ようと、できるだけ身を乗り出そうとする娘を抑えつつ、私は言う。
「おちないよ!」
「パパは昔、落ちたことがあるからね」
「え! ウソだぁ!」
 いささか曖昧な記憶しか残っていないが、事実だ。横浜駅で、止まっている電車の連結部分の隙間に落ち、母と駅員さんに引っ張り上げられたのである。しかし一体どうしてそんな事になったのかは、全く覚えていない。連結機を見たかった、とか、大方そんな理由なのだろうが。
 こんなヤツがいたりするので、やはりホームドアが必要なのかもしれない。といっても、落ちたのは「ほほえみ号」の衝撃より、さらに昔の出来事だと思われるのだが。

 到着した電車は、残念ながらそうにゃん電車ではなかった。しかし紺色の最新車両だったので、
「これ、あらたしいんだよ!」
 と、娘はそれなりに満足したようだった。
 扉が閉まり、娘はバイバイ、と手を振る。電車は次第に速度を上げる。最後尾の車両が通り過ぎる瞬間、身を乗り出した車掌がチラッとこちらを見たかと思うと、娘に向かって手を挙げてくれた。
「ね、みた、みた?」
 余程嬉しかったのか、トンネルに消えて行く電車を見送りながら、娘は何度も飛び跳ねた。
「いい車掌さんで、良かったねぇ」
 そう言いながら私は、そういえば記憶に残っている上星川の亀屋万年堂は今、どうなっていただろうか、と考えていた。まだあるのか、それとも無くなってしまったのか。毎日通勤で横浜まで通っているにも関わらず、どうなっているのか全く憶えていない。
 最近は以前に比べて、窓の外を見なくなった。その代わりに、スマホの画面を睨みつけている。月曜に、ちょっと気にしてみるか。ネットで調べればすぐ確認できるのだが、直接確認するのが礼儀のような気がした。――何に対しての礼儀なのか、よく分からないが。
 じゃあそろそろ行こうか、と手を引いて階段へ向かおうとすると、娘は先に立って階段をスルーし、どんどん歩いて行く。そうか、上りはエスカレーターだったな……。
 何故か分からないが、彼女の中には「下りは階段で、上りはエスカレーター」というルールが厳格に存在しているようなのだ。久し振りだったからすっかり忘れていたが、そういえばホームに下りる時も、階段脇のエレベーターに見向きもしなかったな、コイツ。
 エスカレーターに並んで乗りながら、時計を見る――いつの間にやら結構時間が経っていた。何か食べるものを買ってこい、と言われているが、何を買ったものだろうか。まぁ、モノを見ながら考えるか。
 改札を抜けると、店の混雑も落ち着きを見せていた。
「ね、フエラムネかってもいい?」
「いいけど……ファミマに売ってるのかね? ローゼンにはあるけどさ」
「みてくる!」
 制止する間もなく娘は入り口に駆け寄る。
「ほら! 危ないって――」
 丁度出て来る人がいて、慌てて娘を脇にどけた。ドアが開いてチャイムが鳴り、同時に、例の音楽が聞こえてくる。
 私がそれに気を取られた隙に娘はパッと店内に入ると、菓子棚とおぼしき前で立ち止まった。
「パパぁっ!」
 早く来い、と手を振る。「フエラムネ、ないかも!」
 私は苦笑して、店内に入った。再びピロピロとチャイムが鳴って、音楽がかかる。
 ――ああ、やっぱり同じだった。
 私にしか分からない懐かしさを感じながら、私は娘の元へと歩いて行った。

著者

健人