「とおる」匿名希望

 好きな景色がある。下には緩やかに流れる川、広がる青い空、ふわりと浮かぶ雲、私の頭上の橋梁を電車が走り抜けていく。
 その8両編成の電車は銀色で、青とオレンジのラインが入っている。
 朝5時半。私の走る川沿いのサイクリングロードは早朝は人が少ない。起きたての顔で、髪を一つにギュッと束ね、帽子にランニングウエア、そしてシューズ。ほとんど毎日、決まり事のように準備をして、私は、ランニングに出掛ける。空は水色とオレンジのマーブリングのようで色が溶け合った部分が美しい。川には親子であろうカモが連なって泳ぎ、空には無数の真っ白な鷺が羽ばたいている。この景色だけ充分だ、といつも感じる。
 音楽を聴きながらでもなく、レースへの出場を目指すわけでもなく、ただ無心に前へと進む。時間にしたら40分というところか。仕事に行く前のこの時間は、いつの間にか私の習慣となり、欠かせない時間になっている。
 ランニングウエアを新調することにした。派手な色や柄には抵抗があったけれど、スポーツウエアなら冒険しても良いかもしれないという大きな気持ちなって、自分の好みのものを次々と手に取った。自分の気持ちのままに買い物をするというのは、とても楽しい行為だ。家のクローゼットは、地味で落ち着いた色の服ばかりが並んでいるけれど、その時、私が抱えて帰ってきた紙袋の中は、薄紫やピンクや淡いグリーンの見ているだけで嬉しくなるようなパステルカラーで、そういえば、私はこんな感じが好きだったなぁと改めて気が付いた。そんなお菓子のような甘くふわふわした色合いは、今の私の心情を表している。そう気付いて、嬉しくなる。
 買い物をしながらも、今も、私は同じことを考えている。そのことが間違いなく私の心を弾ませているのだから。
 明日は、あの人に会えるだろうか。
 人気の少ない早朝だけれど、私と同じように運動や散歩をしている人がいる。その人とは、銀色の電車の走る橋梁の下で何度かすれ違った。顔をしっかり見たこともなければ、もちろん挨拶を交わしたこともない。装身具はシックで、何か特徴があるわけでもない。上下共、黒っぽいウエアでシューズは蛍光のイエロー。一見地味だけれど実はすごくお洒落な人なのかもしれないと思わせる着こなしだ。帽子を被っているので、どんな髪型なのかもわからない。年齢は私と同じくらいだろうか。それも推測でしかない。
 ただ、走っているそのフォームの流れるような綺麗さや、すらっと背が高いところ、纏っている雰囲気がとても魅力的で、初めて見かけた時から、私はその人のことが気になっていた。
 橋梁を電車が走り抜けて行く様を見上げて、その人が数秒立ち止まっていたことがある。眩しそうに目を細めて微笑んでいるような表情で。一瞬だったけれど、その表情は私の目にしっかりと焼き付いた。見上げるその顔の角度、そして、あの目が、頭から離れない。忘れられない。私を包む空気が変わった気がした。
 私は退屈な毎日に、パッとしない自分に、
うんざりしていた。仕事、恋愛、人間関係、どれをとってもうまくいかないように思えてならない。特別困ったこともないけれど、浮き浮きするようなことも起こらない日々。それは安心にも繋がっているし、自分一人で生きている分には安定もしている。けれど、心の中は空っぽで、いつも不安だ。ひとりぼっちの寂しさに飲み込まれてしまうことがある。
時に、それはとても苦しい。早朝のランニングは、心を軽くして助けてくれる、私の薬だ。
 27歳、格好良くバリバリ働く友人もいる。結婚し、家庭を持ち、すっかり母となった友人もいる。学生時代と同じ顔ぶれで集まっても、いつの間にか話が合わなくなって、会話が上滑りしていく。笑って騒いで、昔と同じように、私たちは楽しいですよ、というように皆が振るまっているのがわかる。まるで確認するように。少し虚しく淋しいけれど、不思議とその淋しさに対して皆が納得していることも伝わってくる。私たちは、きっと大人になったのだろう。
 そんな日々の中、あの人と会えることで、私は少しだけ、ほんの少しだけ退屈な毎日の始まりを楽しみにできるようになった。
 あなたに会えると少し嬉しい。いや、とても嬉しい。あなたは私のことなんて眼中にないだろう。それが良い。一方的に好意を持ってただ見つめていたい。
 このよくわからない募る想いは、果たして「恋」と言えるのか。一目惚れということなのか。それとも、こんな早朝に、毎日のように同じコースを走っているという仲間意識が芽生えているだけなのか。
 ああ、私は片思いの始まりのような久々の感情に振り回されているようだ。ともかくも、朝が、次の日が、待ち遠しくて仕方ないという現実。

 ステンレスの銀色の電車が滑るように颯爽と走って行く。私の住む緑豊かなこの街から大きな駅に向かって。
 朝早くから、この電車に乗って、自分の目的地に向かう人々がいて、誰もがそれぞれのリズムで1日をスタートさせている。この当たり前の日常の風景を見届けることで、元気をもらう。
 
 いつも通りの橋の下。
 すれ違う一歩手前であなたはふと立ち止まり、上を見上げた。私も思わず足を止めた。胸の鼓動が、みるみるうちに速くなる。
「自分が乗っているのと、こうして外から眺めているのは違いますね。」
初めて、彼の声を聞いた。
「え?何のことですか?」
私は咄嗟のことに驚き、慌てて聞き返す。
「あ、すみません、急に。電車のことです。」
「そっか、電車か。電車のことですね。」
「ここで良くお会いしますね」と本当は言いたいけれど、どんな返事が返ってくるのかが怖くて言えない。ランニングで息が弾み、心臓はものすごい速さで鳴っていて、本当は立っているのもやっとだ。足が震える。私は自分を落ち着かせながら何とか会話を続けた。
「私は、ここの橋の下から走っていく電車を見るのが好きで、ランニング中に電車が見れた日は、ラッキーだなって。嬉しい気持ちになるんです。」
「わかります。僕も、朝ここで電車を見るのがすごく好きなんです。電車がタイミング良く見れた日は、よし、今日はツイてる日だって思ったりして。僕は子どもの頃から、すっごく小さな頃から鉄道が好きで、電車を眺めるのが好きなんです。この電車はデザインが潔くて、格好良いなって。毎日仕事に行くのにも、栄えている方面に出掛ける時にもよく使うから、好きな電車の中でも一段と愛着があります。」
「栄えている方面て面白い言い方ですね。横浜あたりってことですか?」 
「あ、そうです。そうです。横浜です。ランニングを中断させてしまってすみません。僕、余計な話、しすぎましたね。」
 ランニングの最中、思わぬ形で、私たちは初めて喋った。私も彼も額に汗が流れていて、私は、この日に限って、あまりお気に入りでない、上下ちぐはぐなウエア姿で。
 彼は、良く通る声で、自分のことを「僕」と言い、屈託のない笑顔で思いっきり笑う人だった。汗が流れているのにもかかわらず、その肌はさらりと清潔で、きめ細やかだ。キョトンとした表情から、笑顔に変わる瞬間、目が細まり、口が横に均等に広がって、シャープなあごのラインの線上に深く笑くぼができる。喋りながら動かしている手にも目が留まる。大きくて、美しい手だ。思わず触れたくなってしまうような。初めて話す私に少しの警戒心も見せず、自分の好きだという電車の話をしてくれた。他愛のない会話だったけれど、まるで子どものように目をキラキラさせて、真剣なまなざしを持って。
 自分の好きを偽ってない人の熱量というのは、自然と相手に伝わってくる。正直で、まっすぐな人だ。私もこんな風になれたら、と思うような羨ましくなるような人。
 道で可愛い犬にすれ違った時、目が合った赤ちゃんがにっこりしてくれた時、飛行機雲を見つけた時、ショーケースの中の美味しそうなケーキをどれにしようかなとわくわくしながら迷っている時・・・のような。
 それは、そういう時の気持ちにとても似ていて、私は心が和らいだ。
 ずっと気になっていた人と話す機会が、突然巡ってきたことにも、胸中とは裏腹に、冷静に話をしている自分にもびっくりしている。この世界で、この時間に、この場所に、居合わせている人と関わることができた偶然の温かさに、心が、ただ感謝している。
 私は、孤独で、淋しかっただけなのかもしれない。名も知らぬこの人を見掛けるようになってから抱いていた淡い想い。けれど、今、ここに、恋や愛の気配はなかった。この人は素敵すぎて、私には手の届かない人だ。格好良くて、私には絶対に手に入らない人だ。はっきりとそう思った。
「じゃあ、失礼します。」
「はい、失礼します。」
どちらともなく片手を上げながら、さよならをした。私たちは走り、進んで行く。
 なんてすっきりと清々しい朝なのだろう。さっぱりと振っ切れて、生まれ変わったような気持ちだ。
 様々に形を変えながら、たまに原点にたち返る。退屈な毎日も、冴えない自分も相変わらずだけれど、今の自分が在るのは、自分自身が、ちゃんとここまで、生きて、歩んできた証。
 大丈夫。安心しよう。色んな感情を携えて、これからも、築いていこう。私が見ている景色。私の走って行く道。
 今、ここにあるのは、今日も一日が始まるという確信だけ。
 背後でまた、あの電車が走っていく音が聞こえた。空は青く、風は少し冷たい。
 明日もまた、同じように、私はここを通るだろう。

 あの時、思いも寄らなかった未来。新しい風が吹く。人生は、わからない。
 繋いだ手と反対の自由な片方の手を振り上げて指をさす。
 深い深いブルーの電車が橋梁を走り抜けて行く。新しい車両だ。とても美しい。思わず見入ってしまう。私も電車に詳しくなった。   
 電車に向かって、大きく手を振り、叫ぶ。顔中に広がる、満面の笑み。繋いだ小さな手から伝わって来る途方もなく大きなエネルギー。目を細めて、嬉しそうに笑う表情は、あの人にそっくりだ。そして、電車が大好きなところも。
「パパ!」
と、あなたを呼ぶ、あなたを求める声。
 向こうからあなたがやってくる。その笑顔は、あの朝と変わらない。
 少しずつ変わっていくもの、大きく変わっていくもの、その中で、ちっとも変わらないもの。
 私たちは、家族になった。
 この子をギュッと抱き締める。お日様の匂いがする。いつまでもかいでいたい。あなたと同じ匂い。愛しさは、溢れて止まらない。
 積み重ねていく毎日の中で、ぶつかったり、心が離れたり、共に悩んで、涙することも数え切れないほどあるだろう。その度に思い出したい。私たちの始まりは、この場所だった、と。あの日、ここであなたと出会えた奇跡。
 大切な人と生きる、退屈で平凡な日常は、とても尊い。
 ここが私たち家族の暮らす場所。素敵な電車の走る街。愛する人と歩む日々。

著者

匿名希望