「どこまでも、続いていく」山下町生

 工事中の横浜駅西口をジョイナスのほうへ進み、鈴一でコロッケそばを腹に入れる。うん、うまい。気取っていない、まっすぐなうまさだ。最後に食べたのは定年を迎えた年だと思うから、かれこれ十七年も前になるのか。確かその時は同窓会から帰る途中で、学生時代を懐かしんで寄ったんだった。いつ食べても変わらない美味しさってあるもんだな。それが老舗の秘訣なのだろう。
 終点までの乗車券を買い、改札をくぐる。高校生だろう、師走の寒さをものともせずに太ももをあらわにして闊歩する制服姿の女の子たちに追い越されていく。歳を、とったものだ。横浜ネイヴィーブルーの車体に猫背の姿が映り、私は背筋をのばす。人生120年時代に突入などとテレビでは騒いでいるが、火星旅行が高額ではあるが珍しくなくなった現在とはいえ、科学技術の進歩に私の肉体が追いついていないことが悔しい。ひらかれたドアから乗車し、革張りのボックスシートに腰をおろすと、はっきりと革の匂いがした。張り替えたばかりのようだ。

「本日も相鉄線をご利用いただきまして、ありがとうございます。この電車は急行海老名行きです」
 女性の声でそう響いたアナウンスを聞いて、私は後悔した。各駅停車を選べばよかった、と。天王町で下車したくなったのだ。駅前公園を訪ねたくなった。深く考えずに終点までの切符を買ってしまった自分に腹が立った。
「急ぎの用でもないのに……」と、言葉が口をついた。独り言が多くなったと亡き妻によく言われたのを思い出して、余計に腹が立つ。
 長年行っていないから今もあるのかどうかは知らないが、天王町駅を出てすぐ右に、広重が東海道五十三次之内『保土ヶ谷』で描いた辺りに可愛らしい公園があった。園内に植えられた松の木に見守られながら、まだ高校生だった私と妻はベンチに隣り合って座り長いこと話したものだ。その当時も丈の短いスカートをはく女子はいたが、妻はきちんと膝下まで丈のあるスカートをはいていた。いわゆる美少女ではなかったが、その身だしなみで妻を信用したのだ。人を外見で評価してはいけないことは承知しているが、私は、当時の自分をほめてやりたい。おまえの選択は正解だった、と。
 日が暮れる頃に私たちは別れる。妻は徒歩で家族の元へ。私は天王町駅から相鉄線に乗って横浜駅で降り、腹が減っていれば鈴一でそばを食べてから、岡野町のアパートへ歩いて帰っていく。高校二年生の時に同じクラスになり、好きな洋楽や洋画について話すようになったのがきっかけの、ささやかな恋のはじまり。生活の苦労を知らずに、ただただお互いを想い合っていた、おめでたくも幸せな日々。
 そんな二人だから自然と大学も同じところを目指した。学力は妻のほうが上だったので、私が努力せねばならなかった。二人して親に経済的負担をかけたくないと、国立を第一希望に、私立を第二希望に選んだ。

 十二月のある日、一枚の乗車券というものを妻が私にくれた。「希望ヶ丘→ゆめが丘」と印字されている、相鉄線の切符だ。日付の押印がその翌年の三月十三日になっていたので、尋ねると、
「合格発表日でしょ」
 と嬉しそうに妻は微笑んだ。希望に輝いていたその瞳を、その笑顔を、今でも憶えている。日付は駅員にお願いすれば自由に選べるのだという。
「絶対に希望の大学に受かろうぜ」
 と私が言ったことも憶えている。夢は、と続けようとして、やめたことも。
 内心、すぐにでも結婚したかった。
 そう、夢は幸せな家庭を気づくこと。
 しかしそれを口にするにはまだ早すぎると頭でも心でもわかっていたから、その時は胸にしまっておいたのだ。
 私と妻の二人分、ゆめきぼ乗車券を用意したのにもかかわらず、私は国立と私立の両方とも受かり、妻は私立しか受からなかった。しつこく何度も国立へ入学するよう妻は説得してきたが、私は譲らなかった。「思い出のほうが大事」だの「二人のほうが勉強もはかどる」だの、私は反論したが、本音は別のところにあった。妻が他の男子を好きになってしまうのではないか、と不安だったのだ。
 四十歳の時にひらかれた大学の同窓会で飲みすぎ、つい妻にその本音をしゃべってしまったら、「馬鹿ねぇ」と笑って、泣いた。そして「ありがとう」と言うから、私も「ありがとう、ママ」と言って、抱きしめた。その頃、私たちには十二歳になる長男がいた。親戚に預けて正解だった。いっしょに連れてこなくてよかった。両親がボロボロと涙を流している姿はとても見せられない。ちなみに私たちが目指したのは天王町から近い横浜国立大学である。

 私たちは大学を出た後、子供ができるまで共働きをした。勤め先は別だけれど、夫婦で英語の翻訳を仕事にした。家をもつための資金をためようと二人して固く決心したので、結婚式もレストランを借り切って、身内とごく親しい友人だけを集めて済ました。そのレストランは、大学時代に知り合った妻と共通の友人の実家で、鶴ヶ峰ではちょっと有名な洋風レストランだった。緑の多い閑静な地域にあったお店で、結婚後に何度も訪れたのだが、残念ながら今はもうない。妻は「『はじめてのおきゃくさん』みたい」だとよく言っていた。
 私は知らなかったのだが、妻が幼い頃に読んだ絵本だという。後に、私は、長男に読み聞かせることになる絵本だ。お客さんのまったく来ないレストランに、森中の動物がやってきて、シェフがその動物たちにごちそうを振る舞ったら、動物たちがお礼にお客さんをたくさん読んできてくれるという、子供にも理解できる簡単な内容なのだが、その絵のタッチがあたたかくて、妻の家で代々、百年以上にわたって受け継がれてきたという。私のことだから、まるで鈴一だな、と思ったかもしれない。そして相鉄線は今月の18日に開業200年目を迎えるという。よいものは、続いていくのだろう。

 さて、希望ヶ丘駅に着いた。私は駅室のガラス窓をノックして、ゆめきぼ乗車券を二枚、購入した。一枚は火星へ旅行へ行く息子のために、もう一枚は亡き妻の元へ辿りつけるよう、私自身のために。
「ゆめが丘駅から希望ヶ丘駅の乗車券もありますので、よければどうぞ」
 と駅員に教えられ、私は二俣川駅に戻るのは面倒だと思ったが、ゆめが丘駅へ向かった。まぁ、急ぎでもないし……。もし妻がゆめが丘駅からの乗車券も買っていたら、二人とも横国に受かっていたのかもしれない、なんて言ったら天国で怒られそうだ。息子には、無事に地球に帰ってきてもらわなければならない。私はいずみ野線でゆめが丘駅まで行き、再び二俣川駅に戻り、改めて海老名駅へ向かった。
 火星へ飛び立つシャトルは大和駅からそう遠くないのスペースターミナルから出る。息子が参加したツアーの代理店は海老名にホテルの部屋をとっていた。そこからバスでスペースターミナルへ直行するのだという。片道一年半かかるというから、息子と会うのはこれで最後かもしれない。なに、そしたら天国から見守ればいいだけだ、妻といっしょに。
「まもなく、海老名、海老名、終点です。お出口は左側です。小田急小田原線とJR相模線はお乗り換えです。お忘れ物のないようご注意ください。本日も、相鉄線をご利用いただきまして、ありがとうございました」

著者

山下町生