「にんにくと青い鳥」匿名希望

 私はにんにくが嫌いだ。いや、本当は嫌いではない。むしろ好きだ。好きすぎて、食べ始めると止まらなくなる。でも、にんにく臭い息で仕事をするわけにはいかない。大好きだからこそ、嫌いということにして、にんにくと距離を置くようになった。
 このことは、行人だって知っているはずだ。大学時代からの付き合いなのだから。それなのに、にんにくの匂いをプンプンさせて迎えに来るなんて、ちょっとひどいと思う。息がだけじゃなくて、行人の体ににんにくの匂いが巻きついている感じ。おかげで、年季の入ったジムニーの隅々までにんにくの匂いが充満している。
 私は疲れていた。自宅から八王子駅までバスで二十分、八王子駅から職場がある横浜駅まで電車で片道一時間十分。そして、横浜駅から職場まで早足で歩いて五分。仕事だけでもハードなのに、往復三時間超の通勤で、私はいつも疲れていた。できればいつもの休日みたいに昼まで眠っていたかったし、午後からは調べ物をしたかった。けれど、珍しく強引な行人に押し切られてしまった。
 ただでさえテンションが低めなのに、にんにくの匂いにイライラが膨らむ。でも、ここでイライラに負けるわけにはいかない。
 私は今、夢の入り口にいる。新卒の時には入れなかった、小さいながらも通好みのラグジュアリーなホテル。この憧れの職場に転職できた上に、念願のホテルコンシェルジュになれたのだ。といってもまだ見習いだけど。
 だからこそ、やらなければいけないことがたくさんある。コンシェルジュはホテルの顔だ。いつも冷静沈着に物事に対処すること。帰国子女でもなく、留学経験もない私が努力だけで身につけた英語力を維持すること。職場のホテルの周辺のレストランや観光情報をもっと仕入れること。
 コンシェルジュとして一人前になるために、もっと頑張らなきゃ。中途入社の上に、私は要領が悪い。コツコツ頑張ることが最大の強み。と言うより、それしか武器はない。
 ああ、考えただけで焦ってしまう。休みだからってのんびりしている場合ではないのだ。
 それなのに。八王子の我が家から走ること一時間半。車から降ろされた私は何が何だかわからないまま森の中を歩かされている。おまけに、灰色の空からは今にも雨が降ってきそうだ。
 車を停めた駐車場に「大和 泉の森キャンプ場」と看板があったので、どうやら自然公園にあるキャンプ場らしい。こんな街中にキャンプ場って。しかも森が広すぎて、キャンプ場は完全におまけって感じ。ここ、本当に神奈川県なの?
「ねえ、私たち、どこに向かっているの?」
 イライラを押し殺しながら、私は前を歩く行人に尋ねた。
「もうちょっとだよ」
 先を歩く行人は振り返ると、いつもの笑顔で呑気に答えた。
 もうちょっとって何よ。毎日鍛えまくっている消防士の「ちょっと」と、毎日疲れきっているホテルコンシェルジュ見習いの「ちょっと」が同じはずはないのに。
 時間にして何分なのか、距離にして何メートルなのか、もっと具体的に言って欲しい。
 だめだ、またイライラしてきた。
 こうなったらアレだ。修行僧プレイだ。ここはもう、「無」になるしかない。
 ひたすら無言で随分歩いた。先を歩く行人は池の周りの道を止まったり早歩きをしたりと、落ち着かない。何かを探しているらしいけど、修行僧プレイ中の私は「無」を貫いた。というより、何か喋るのも面倒だ。
「あ」
 ?に当たる雨粒に、さすがに私も無ではいられない。
「雨、降ってきたよ」
 私の言葉に、行人は初めて雨に気づいたように空を見上げた。
「ごめんごめん。もうこんな時間か。腹減ったよね」
 ちょっとズレた答えに、イライラの波が再び押し寄せる。落ち着け、私。
 言われてみれば、もう午後の二時だ。このイライラは、空きっ腹のせいかもしれない。うん、そういうことにしておこう。
 再び広い森の中を引き返し、やっと駐車場に着いた頃には、雨は本降りになっていた。
 やっと帰れる。どこかいい感じのカフェで美味しいコーヒーが飲みたい。そう思って助手席に乗り込もうとすると、ラゲッジスペースをガサガサあさっていた行人に呼ばれた。
「七美、これ持ってきてー」
 クーラーボックスや大きな箱を両手で抱えたまま、小さなダンボールを顎でしゃくる。
「え、ちょっと、どこ行くの?」
「いいからいいから」
 相変わらず上機嫌なまま、行人は雨の中をさっさと歩いて行く。「いいからいいから」って、こっちは全然良くないんだけど。
 恐れていた通り、行人はキャンプ場の炊事場で荷物を下ろした。
「屋根があって、助かったねー」
 いや、そういうことじゃなくて。無邪気すぎる笑顔に、私は言葉を飲み込んだ。
「うまいもの作るから。期待していいよ」
 わざわざ自分でハードルを上げなくても……。日勤の時、消防署で昼食にうどんを作る以外に、行人が料理をしたなんて話、聞いたこともないのに。きっとコンロでうどんでも作るのだろうと油断した私が甘かった。
 行人が張り切って持ってきたダンボールの中から炭を取り出し、かまどにキレイに並べた時、またいやな予感がした。
 案の定、持ってきたはずのライターが、どこを探してもないと言う。仕方なく、行人が車でコンビニまでライターを買いに行く間、私は留守番する羽目になった。それならいっそ、撤収でもいいのに。
 誰もいない森の、誰もいないキャンプ場。聞こえるのは、雨と葉がこすれ合う音だけ。せっかくの休みに、私は一体何をしているんだろう。いや、考えるな。「無」になれ、と自分に言い聞かせる。
 テーブルや椅子を並べ、荷物を片付けていると、行人が戻ってきた。
「あれ? 早かったね」
 行人は「それがさあ」と嬉しそうに握りしめていたライターを見せた。
「散歩してたおじさんに、近くにコンビニがあるか聞いたら、『やるよ』って」
 行人は昔からこうだ。相手が年上でも、知らない人でも、気軽に話しかけて仲良くなってしまう。この人のこう言うところは、素直に羨ましい。この人懐っこさは、大家族で育ったせいだろうか。大学時代、海老名にある行人の家に遊びにいくと、「七美ちゃん、これ食べな」「こっちも美味しいよ」と歓迎してくれたおじいちゃんとおばあちゃんの笑顔を思い出す。
「ああ、いたいた」
 駐車場の方から、傘をさしたおじさんが現れ、行人に親しげに話しかけた。
「にいちゃん、さっき俺がやったライターじゃ、使いにくいだろ。うちにこれがあったからさ、使ったらいいよ」
 おじさんが差し出したのは、柄の長いライターだった。
 使ったらいいよ、と言いつつ、おじさんは持ってきたライターでさっさと着火剤に火をつけ、炭まで起こしてくれた。
「わあ、すげえ!」
 はしゃぐ行人に、おじさんは満足げだ。行人がお礼にとクーラーボックスからノンアルコールビールを二本渡すと、おじさんは「お、悪いな」と一本だけ受け取って帰って行った。
「はい、七美はこれ」
 行人はクーラーボックスから小さい紙パックを一本取り出して私の手に乗せた。
「え? なんで牛乳なの?」
「いいからいいから」
「私、いらない」
「なんで?」
「別に好きじゃないし、気分じゃないし」
 紙パックの牛乳を押し戻すと、行人はそれを残念そうにしまい、代わりに大きなタッパーをクーラーボックスから取り出した。
 蓋を開けた瞬間、溢れ出る悪魔の匂い。その匂いを嗅いだ瞬間、私の中で何かがパチンと弾けた音がした。空きっ腹のせいなのか、違うのかなんて、もうどうでもいい。
「もう、何なの?」
「何って、肉だよ」
「わかってるよ! 何でわざわざにんにく味なの!? 私がにんにく断ちしてること、知ってるでしょ!?」
 そうまくし立てて、すっきりしたのはほんの一瞬だけだった。そして、押し寄せる罪悪感。やっちゃった。私の悪い癖。行人に悪気はないって私もわかってるのに。
 それなのに。
「よかった」
 行人は一言そう呟くと、ニッと笑った。
「え?」
「いやー、よかったよかった。最近の七美、笑わないし、怒らないでしょ。そういう時の七美って、ちょっとヤバいんだよね。大学時代にバイト先でパワハラされた時も、就活のストレスでじんましんになった時もそうだったじゃん」
 そういえば、そんなことがあったかもしれない。
「そうなんだけど……。私、感情が顔に出やすいから……」
「わかるよ。俺も、現場ではいつも『冷静になれ、感情的になるな』って自分に言い聞かせているもん。でもさ、俺といるときくらい、素の七美を残しておいてよ」
 自分で言っていて恥ずかしくなったのか、行人は私に背を向け、油を敷いた鉄板の上に豪快に肉を広げた。にんにくの焦げる香りがふわっと立ちのぼる。つられたように、私のお腹が鳴った。振り返って笑う行人に、今度は私が照れ笑いを返す。
「ほら、これ飲みな。にんにくを食べる前に牛乳を飲むと、臭わないんだって」
 行人はクーラーボックスの牛乳をもう一度取り出し、ストローをさして渡してくれた。
 私は反射的に受け取った牛乳を口に運んだ。飲み終わると、今度は右手に割り箸、左手に焼きたての肉の皿を持たされた。火の通った肉とにんにくが放つ、かぐわしい香り。理性を脅かす魅惑の香りをこんなに間近で嗅いだのは、いつ以来だろう。ああ、この匂いの中に飛び込んでしまいたい……。
 いや、待て。ここで食べたら負けだ。
 誘惑に負けそうな私と、意地っ張りな私が頭の中で戦いを繰り広げる。
 見かねたように行人が「大丈夫だから!」と私の口に焼肉を押し込んだ。
「ちょっ、ゆき……美味しい……!」
「でしょ!? 我ながら、にんにくとリンゴと玉ねぎの配分が絶妙だって感動したもん」
 得意げな顔は、お母さんに褒められた小学生男子みたいだ。きっと、何度も作り直したのだろう。行きの車の中のにんにく臭さを思い出して、口元が緩んだ。
「でも、どうしてここなの?」
 バーベキュー場やキャンプ場なら、お互いの家からもっと近い場所にもあるのに。
「ちょっと見せたいものがあってさ」
「見せたいもの? 何?」
 行人は「いや、いいんだ」と首を振った。
 いや、こっちが良くない。気になる。しつこく食い下がると、行人は根負けして口を割った。
「幸せの、青い鳥」
「幸せの青い鳥?」
 言ってしまったら気が楽になったのか、行人は得意げな顔になって続けた。
「さっき歩いた池に、カワセミが来るんだって。すごくない?」
「それってすごいの?」
 トレイルランが趣味の行人と違って、アウトドア方面に疎い私にはよくわからない。私の反応の薄さに行人は呆れながら力説した。
「すごいよ! カワセミって、清流の宝石って呼ばれているんだよ。しかもね、この泉の森でカワセミを見ると幸せになるって噂があるんだって。まあ、噂だけどね」
「何それ! 見たい!」
 思わず叫ぶと、行人の顔がパッと明るくなった。私は慌てて牽制する。
「でも、しょっちゅうは来られないしね」
 冷水を浴びせられたように、行人が黙る。沈黙の中、雨音だけが響く。
 ちょっと冷たかったかな。私のためにこんなに頑張ってくれたのに。ちらりと行人を見ると、行人は怒ったような顔で私を見ていた。
「だったら」
 行人は怒った顔のまま続ける。
「いっそのこと、七美はここに住んじゃえばいいと思うんだ、俺と二人で」
「へ?」
 驚いて、間の抜けた声が出た。予想外の反応だったのか、行人の顔がみるみる赤くなっていく。
「いや、その……この辺りなら大和駅か相模大塚駅から相鉄線で横浜まで二十五分で行けるしさ。七美も楽になるかなって思って。大和駅の周りは、新しいマンションも増えているみたいだし。もちろんただの同棲じゃなくて、その、ちゃんとするつもりだし。いや、七美が同棲の方がよければ、それでもいいけど……。どっちにしてもちゃんと七美の家には挨拶に行くつもりだし、それで……」
 さっき怒っているように見えたのは、緊張していたせいだったらしい。変なスイッチが入ったみたいに、行人は一人でまくしたてた。と思ったら、今度はふっとスイッチが切れたように黙り込んだ。
「海老名じゃなくていいの?」
 相鉄線の終点は海老名駅だったはず。行人の職場は厚木だから、実家のある海老名の方が近いはずだ。
 行人は私の目をまっすぐに見て頷いた。
「うん、いいんだ。せっかくなら、二人とも初めての町で一緒に始めた方がいいかなって思うから」
「なるほど」
 頷いた私の顔を行人が心配そうに覗き込む。
「じゃあ、あの、よろしくお願いします」
 私はすっかり冷めたお肉のお皿と割り箸を置き、ぴょこんと頭を下げた。
 行人は安心したように大きく息を吐いてから、「よろしくお願いします」と私の真似をしてぴょこんと頭を下げた。
「あーあ、できたら青い鳥を見て言いたかったなあ」
「また来ればいいじゃない。近くに住むんだから」
 そう返しながらふと空を見上げた私は、弾かれたように立ち上がって空を指差した。
「見て、虹!」
 いつの間にか雨は上がり、夕空に大きな虹がかかっていた。しかも、ダブルレインボー。
「本当だ」
 行人もつられて立ち上がった、その時だった。鮮やかな虹の前を、鳥が横切って行く。思わず二人で顔を見合わせた。
「見ちゃったね、青い鳥」
 興奮気味の私に、行人が苦笑い答える。
「カワセミじゃないけどね」
 青より薄い、空色の鳥。どこかの鳥かごから逃げたセキセイインコだろうか。狭い場所から解き放たれた喜びを確認するように、空色の美しい羽をのびのびと広げている。
「でも、いいことあるよね」
 私の言葉に、行人はいつもの笑顔で「あるよ、絶対」と頷いて、私の手を握った。
 いつの間にか、イライラは消えていた。私と行人はお互いの手の温もりを感じながら、空色の鳥が虹の向こうに飛んで行くのを眺めていた。

著者

匿名希望