「ひかりとあかり」いづみ玲

 踏切の遮断機が降りるのに先んじて警報器が鳴り始めた。
 右手に巻いた腕時計に目をやると、午後五時二十八分。迎える予定の相手からは「五時半ごろに着く」と連絡が入っている。たぶん、今から来る電車に乗っているのだろう。
 時間に遅れなかったことに安堵して、やや早足だった歩調を緩めた。
 商店街の小さなアーチを抜けた先は橋の架かった川に行き当たる。左右の建物が失せて視界が開け、目を上げると、とろりとした飴色の夕焼け空が広がっていた。
 その空を自らのシルエットで切り取るように、橋の向こうには鐡色の駅舎――和田町駅が構えている。
 数年前、まだ高校生だったころに初めて降りた和田町駅は今とは違う門構えだった。
 それが大学生になったころ鈍色に塗装を変えた。漆塗りの弁当箱に似た形も相まって、駅は昼間に見ると威圧感さえ覚える。
 ところが不思議なことに、夜になると印象が変わった。薄闇の中、漆黒の駅舎にぽかりぽかりと空いた窓から温かな光が漏れる様子は、なぜか郷愁を誘う。家路を急ぐ子どもが、自宅に灯りがともっているの見てほっとするような、そんな気にさせられた。
 
 ――ともあれ、小さな橋を渡りきって駅前の小さな広場を見回す。目的の人物の姿がまだないことを確認して、そのまま駅舎の階段下のエレベーター脇に身を納めた。
 改札は二階にあるが、そろそろ帰宅ラッシュにさしかかることもあり、階上は混雑する。向こうは荷物を抱えているだろうからエレベーターを使うと踏んだのだが――。
 電車が着いて利用客が一斉に階段を降りる波が引いても、待ち人は現れなかった。その間にエレベーターは二回ばかり往復したが、降りてきたのはベビーカーを押す女性だけだ。
 再び腕時計を見る。
 この時計をくれたのは他ならぬ待ち合わせ相手だ。大学の合格祝いに贈られ、入学式から毎日着けているうちにすっかり「着けていないと落ち着かない身体の一部」になってしまった。
 三年間の保障が切れないうちにと最近調整したばかりだから時刻は正確なはずだ。先ほど見たときからさほど針は動いてないが、約束の時間には違いない。
 もう一本後の電車だろうか。それとも向こうが、改札前で待ちぼうけているのだろうか。
 携帯をチェックしたが新しいメッセージは入っていない。
 もう少し待つか、こちらからメッセージを送るか。
 考えていると、とつぜん背後の階段で何かが転げ落ちる音がした。ごん、がん、と二度ほど派手な音がして、そこに悲壮かつ諦めたようなうめき声が重なる。
 聞き覚えのある声に、もしやと振り返った。すると案の定、階段の踊り場で困り果てている見知った顔を見つけた。
 「あかりさん」
 すぐに何段か上って声をかける。足下に転がるスーツケースを恨めしげに見ていた女性はぱっと顔を上げ、呼びかけられた方へ目を向けた。
 「ひかりくん!」
 肩より少し長めの黒髪がさらりと流れる。涼しげなコットンのブラウスに、明るいブラウンのフレアスカート。腰より少し高めの位置で結ばれた細いベルトはライトグリーンで、今の季節によく馴染んでいた。
 姉のあかりは嬉しそうに顔をほころばせ、しかしすぐに失態を見られたことを思い出したのか、決まり悪さを誤魔化す笑いに転じた。
 「……見た?」
 「見てないけど、想像はつくよ」
 誰がどう見ても階段を降りようとしてスーツケースを落としたことは明白だ。
 落ちた先に誰もいなくて良かったと胸をなで下ろしながら踊り場に到着し、転がったままのスーツケースを立て起こす。
 一泊二日程度の旅行に使われそうなそれは、取り立てて大きいと騒ぐほどのサイズではない。が、いかにも女性が好みそうな凝ったアンティーク調のデザインに似合わず、持ち上げるとずしりと重さが腕に響いた。
 いったい中に何を入れているのかよほど訊こうかと思ったが、答えを得たところで呆れるだけだろう。仕方なく言葉を飲み込み、彼女の代わりにスーツケースを持って先に階段を下る。
 「なんでエレベーター使わないの」
 「ベビーカー持ったママさんがいたから」
 「待てばいいじゃん」
 「たった一階だし、いけるかなって思って」
 「結果、駄目だったってわけ」
 「ちょっと躓いちゃったの! 大阪からここまでは平気だったんだってば」
 あかりは子どものように口をとがらせる。幼いころから見慣れた表情に、つい顔が笑うのを隠し損ねた。からかわれていると思ったのか、姉は頬を紅潮させ、ますます幼女のようにふくれる。
 「もう。ひかりくんは意地が悪くなった」
 「俺が意地悪なんじゃなくて、あかりさんの登場が派手だっただけだよ」
 階段を下り終えて、先ほど来た商店街へ道を引き返していく。アーチをくぐると、商店街の中でいつも流れている、由来のよくわからない音楽が耳に滑り込んできた。
 空はまだ茜色のままだ。夏至に向かって日が延びていくこの時期、夕暮れ時は長い。
 スーツケースは値段も質もそれなりという品なのだろう。引いていると、ちょっとした出っ張りや段差にすぐに車輪が引っかかる。商店街の煉瓦の歩道でも何度もひっくり返りそうになった。
 男なら力任せに扱うこともできるが、女性の力では人混みの中で引き回すのは骨が折れるはずだ。
 人に――特に他人に頼るのが得意ではない姉が、転勤先の大阪からここまで一人ぽっちで奮闘してきたのかと思うと、少し面白いような寂しいような、不思議な感覚だった。
 会社の連休に有給をつけて帰省してきた姉に、振り返って予定を尋ねる。
 「仕事はいつまで休みなんだっけ」
 「カレンダー通り、連休終わりの月曜日まで。でも月曜日は混むから、向こうに戻るのは火曜日の朝一にしようかなって」
 「平気なの、それで」
 「特に大事な案件もないし。どうせ連休明けでみんなぼけてるから、午後から行くぐらいでちょうどいいの」
 あかりはなんてことないように言うが、実際には上司と喧嘩してきたからと知っている。
 東京で就職した姉は志望業界に入ったはいいものの、当初希望していた総合職ではなく営業職に回され、慣れない仕事ながらもなんとか成果を上げてきた。
 ところが苦労して東京での地盤を固めたと思ったとたん、就職五年目を前にして急に大阪への転勤が決まった。未婚の彼女に拒否は許されず、年明けにドタバタと引っ越しを済ませたのだった。
 すべてが振り出しに戻った挙げ句、生まれた時から住んでいた関東を離れることは相当なストレスであるらしく、最近は連絡をとるたびに「帰りたい」とこぼしてきた。
 そこへ来て上司と意見が衝突したので、連休に入るのをこれ幸いと帰省したらしい。
 海老名の実家ではなく和田町で一人暮らししている弟の家に転がりこんだのは、会社でのことや未だ結婚の気配がないことを親に根掘り葉掘り訊かれるのを避けるためだろう。
 「夕飯は?」
 「新幹線でスナック食べただけ。あ、これ、おみやげ」
 そう言って肩にかけたバッグから袋を取り出す。オレンジ色に独特の模様が入ったパッケージは子どもの時から見慣れたものだ。呆れて見返すが、あかりは悪びれることもない。
 「シウマイって。ふつうおみやげって、出発地のものじゃないの」
 「だって食べたかったんだもん。向こうじゃなかなか食べられないでしょ」
 「いいけど、それだけじゃ足りないよ。なにか他に食べたいものは?」
 「ひかりくんがつくってくれるならなんでもいいよ」
 甘えているのか、考えるのが面倒なだけなのか、あかりはあっけらかんと言ってのける。
 「誰かが自分のためにつくってくれるご飯って、それだけですごいことだよね。わたし、一人暮らししてからしみじみ思った」
 商店街のスーパーの前で、買い物を終えて出てきた親子に道を譲りながら姉が言う。これから親子で夕飯の準備をするのか、母親の手にまとわりつく子どもは楽しげだ。
 「実家じゃ親がつくってくれるし、親がいないときはひかりくんがつくってくれたし。一人の時につくっても、結局食べるのが自分だけだとつまんない」
 「……彼氏つくって一緒に食べればいいじゃん」
 「――それができれば苦労しないんだよ、もう!」
 ばしりと背中を叩かれる。ちらりと見えた姉の顔は笑ってはいたが、その言葉にはただ恋人ができないという以上のなにかが混じっていたように思えた。
 
  スーパーに入ると、会計を終えて荷物を整える人に知った顔があった。大学の友人だ。
 向こうもこちらに気づいたらしく、片手を上げてアピールしてくる。近づくと、大量の総菜パンや弁当を袋に詰め込んでいた。
 いまは五月の学祭の準備期間だ。毎年気合いの入った出店を開く彼のサークルでは、この連休中が作業の佳境なのだろう。
 「今日は泊まり?」
 「そ。佐藤ん家で内職」
 荷物をまとめ終えた友人が、隣にいるあかりに気づいて驚いたように瞬いた。
 自分たちと同じ学生か――或いは友人の恋人かどうか――判断に迷ったのだろう。説明を求めて向けられた視線に、「姉だよ」と短く返す。
 「いつも弟がお世話になってます」
 「あっ、いえ、こちらこそ」
 微笑んで会釈するあかりにつられて慌てて友人が頭を下げる。社会人の姉と対すると、学生の彼がお辞儀をし慣れていないことがひと目でわかった。
 本人もそれを自覚しているのかどぎまぎとしている友人に、そばの荷物を指し示す。
 「荷物運ぶの手伝おうか?」
 「いや、バイクで来てるから平気。ていうかお前も荷物あるだろ」
 友人はおざなりに首を振ると、きつく紐を結んだたくさんの袋を一人で持ち上げた。
 「じゃあ、俺はこれで」
 すれ違いざま、あかりには聞こえない声で「今度改めて紹介して」と耳打ちされた。黙殺することにすることにして、にこやかに見送る。
 「学祭の準備? ひかりくんも手伝わなくていいの?」
 友人の背を見送って、あかりが首をかしげる。弟がサークルに入っていることは知っているので、もしや準備を邪魔してしまったのではないかと心配になったようだった。
 「俺はまあ、後方支援だから」
 「なにそれ?」
 「出し物の企画運営には関わらないけど、必要なら宿泊場所と食事を提供するってやつ」
 姉は意表を突かれたようにぽかんとしたが、すぐに「ひかりくんらしいね」と目尻を下げた。そして、はっとしたように手を叩く。
 「それって、わたしも後方支援されてるってこと?」
 「そうかもね」
 頷くと、あかりはしばらく「いいねえ、後方支援」などと言いながら嬉しそうだった。
 そんな姉を引き連れて買い物を終え、再び商店街に出ると、空はいつの間にか藍色が濃くなっていた。
 商店街を抜けて国道を渡り、銀行の脇道に入っていく。
 大学の最寄り駅は二つあるが、和田町から来る学生はたいていこの細い道を縫って住宅街を抜ける。大学は丘の上にあり、どちらの駅から来ても坂を上ることに変わりはないのだが、和田町側は特に傾斜がきつい。駅から大学までは二十分ほどの距離があり、体力が有り余っている学生でも、慣れていなければ登り終えたときに息が切れるほどだ。
 したがって大学付近に下宿をする学生はあまり和田町方面には降りていかない。ただ、比較的高低差の少ない海老名で生まれ育った身には坂道がむしろ新鮮で、好んでよく行き来している。
 学生でもなく体力自慢というわけでもない姉は、以前弟の家を訪れた時にへとへとになった印象が強いらしく、坂道の入り口にある寺の前で足を止め、顔をしかめた。
 「やっぱり、のぼらないと駄目なんだよね」
 「当然」
 さすがに姉を担いで上るわけにはいかない。スーツケースを引くので後ろを歩くと言うと、しぶしぶ彼女から階段に足をかけた。
 段差の間隔が違うので注意深く上っていたあかりはふいに、道ばたによけられた葉や枝の中から茶色く変色した桜の花びらを見つけて振り返った。
 「ねえ、今年桜見に行った?」
 「……花見っていうか、花見にかこつけた宴会なら友だちとしたけど」
 大学の構内にも桜は多い。防犯対策の照明も多いので、夜には夜桜目当てに近所の住民が訪れるほどだ。大学に通っていればその気がなくても桜は目に入る。
 「いいなぁ。向こうじゃ全然見られなかった」
 「大阪でも桜ぐらい咲いてるだろ」
 「そりゃ咲いてるけど、仕事で忙しくて花見どころじゃなかったの。いつ咲き始めて、いつ咲き終わったのかも知らなかった。こっちにいるときはそんなことなかったのに」
 場所の問題ではなく、姉自身の環境の問題だろうとは思ったが、口には出さなかった。
 「そうそう。相鉄の電車から、横浜に向かう途中に桜並木が見えるところがあるでしょ」
 「川沿いのマンションの?」
 「それそれ。この時期は大きな鯉のぼりがかかってる――ああ、来るときに見るの忘れちゃったな。毎年あれを見て、春だなぁって思ってたの」
 確かに、言われてみればその光景はすぐに浮かぶ。秋は紅葉、冬は雪――電車から見える景色で、あれほど季節を感じるスポットはなかなかない。
 最近は電車に乗っても携帯か本に没頭してしまうが、改めて考えると無性にあの景色が失いがたいもののように思えた。
 「電車っていえば、来るときに乗ったのが真っ青なネイビーの車両で、びっくりしちゃった。初めて見たんだけど、あれ、いつからなの?」
 坂道を半分ほど上ったところで車道に行き当たり、しばし息を整える。あかりは裾の広がるスカートが汚れないように片手でまとめていた。
 「さあ、いつだったかな。去年ぐらいだった気がするけど」
 新しい車両が走っているということはもちろん知っているのだが、いつ頃かまでははっきり思い出せない。姉はなぜか楽しそうに「相変わらずのんびりしてるね」と笑った。
 「あれ、横浜駅に入ってきたのを見たときはなんだか辛気くさいなあって思ったんだけど、乗ってみたら椅子がふかふかしてていいねえ。落ち着いちゃって、つい寝過ごしそうになったんだよね」
 無防備に電車で寝入る姉の姿が思い浮かんで、ついため息がこぼれる。
 「危ないから電車で寝るなよ」
 「平気だよ、日本だもん。それに、横浜で、相鉄だよ? 危ないことなんて何もないよ」
 何を根拠にしているのかわからないが、あかりは事も無げにころころと笑う。
 
 そうこうしているうちに、ついに坂を上りきった。
 さすがに小さな米俵ほどはある重さのスーツケースを持って上がると普段通りとはいかず、同じく息を弾ませている姉とともに、階段横の手すりにつかまって少し休憩する。
 すぐ近くにはテニスコートなども入る広い公園がある。そこから漂う新緑のみずみずしい香りが体を落ち着かせてくれた。
 振り返ると、街が一望できる高さまで来ていた。
 つい先ほどまでいた国道が遥か眼下に横たわる。
 空は闇色に溶けきる寸前の蒼に染まり、無数にきらめく星とともに街をすっぽりと覆っている。そしてその下では数え切れないほどの家に灯りがつき、人々の帰りを待っている。
 ――この景色が、とても好きだった。
 家や街は灯りをともし、働く人や学ぶ人、さまざまなかたちで生きる人たちを出迎える。
 何の変哲もない風景だけれど、だからこそ人の営みを感じる。自分にとってここはそんな場所だった。
 ふと横を見ると、姉も同じように街を見下ろしている。そのまなざしは懐かしいものを見るように優しい。
 「……いいなあ」
 柔らかくこぼれた声を風が包む。
 「なんだろうね。なんかね、いいなぁって思うの。うまく言えないけど」
 そう言って笑うあかりの横顔は、街灯の光を受けて白く美しく輝いていた。
 姉とその向こうの街並みを見つめながら、自分は遠くから聞こえる電車の音にいつまでも、いつまでも耳を傾けていた。

著者

いづみ玲