「ひとりぼっちじゃないよ」木村昌資

 三月下旬の夕暮れ時のことでした。部屋の真ん中に大きなダンボール箱を置き、僕は引越しの準備をしていました。明日、考古学を勉強するために京都にある大学へ進学するのです。
「夕ご飯、できたよ!」
 階段の下から、甘辛い匂いと一緒に姉の声が聞こえてきました。今日は姉の得意料理の肉じゃがです。
「今、行くよ」
 明日から姉の手料理が食べられません。そう思うと、鼻の奥がツーンとしてきました。
その時です。一冊のアルバムが本棚の奥から出てきました。アルバムを開いてみると、母と姉、そしてまだ小学生の僕の三人が笑顔で写っている写真がありました。その写真の横には、押し花にされた四つ葉のクローバーが貼り付けてあります。
 今も色あせずに、緑の色が瑞々しい四つ葉のクローバー。それを眺めていると、今から
九年前の出来事が、一つの物語のように脳裏によみがえってきました。

 四葉のクローバーと出合ったのは、僕が小学校三年生の時のことでした。場所は上星川あおぞら公園。公園の丘からは富士山を見渡すことができます。その原っぱは、三つ葉のクローバーで緑一色。三枚の葉っぱを持ったクローバーたちは、春風にのって、まるで歌をうたっているかのように明るく元気に咲いていました。
「春っていいわね。お日さまは暖かいし、風もさわやか。そして、お友だちも一杯!」
「本当! でも、あそこに変な子がいるわ。葉っぱが四枚もある子が」
 三つ葉クローバーたちが、四つ葉のクローバーを一斉に見つめます。
「私たち、みんな葉っぱが三枚なのに。おか
しいね。フッフッフ」
 笑っている三つ葉のクローバーたち。原っぱに何千、何万と咲いているクローバーの中でたった一つの四つ葉のクローバー。彼はどんな気持ちだったのでしょうか? ひとりぼっちで寂しくはなかったのでしょうか?
 ひょっとしたら、笑っている三つ葉のクローバーたちのかげで、一人で泣いていたのかもしれません。
 でも、お日さまは、そんな四つ葉のクローバーを励ましたに違いありません。きっと。
「泣くことないよ」
「あっ、お日さま」
 四つ葉のクローバーは、顔を上げてお日さまを見つめました。
「君はこの原っぱの中でたった一つの四つ葉のクローバー」
「やはり、僕はひとりぼっちなんだ」
 四つ葉のクローバーの葉っぱに一筋の涙が滴りました。お日さまは、励ますように言葉を続けます。
「大丈夫。君はみんなを幸せにすることができる不思議な力を持っているんだよ」
「幸せ? 不思議な力? それは一体、どんな力なんですか?」
 四つ葉のクローバーには、お日さまが話してくれた言葉の意味がわかりませんでした。
「そのうち、その不思議な力がわかるよ」
 お日さまはそう言うと雲の中に隠れてしまいました。
「不思議な力って言われても」
 四つ葉のクローバーはつぶやきました。でも、少しだけ嬉しい気持ちになりました。
 その時、ひとりぼっちだったのは、四つ葉のクローバーだけではありませんでした。小学生だった僕もひとりぼっちでした。
「あっ、触っちゃった! お前の手に触ると病気がうつる!」
「そう。ぜぇっ、ぜぇっ、とゼンソクが」
 僕は、小児ゼンソクでした。そのため季節のかわり目や、体育の授業で少し無理をすると、ゼンソクの発作が起きるのです。そんな僕の姿を見たクラスの男子たちは、そう言って、からかったものでした。さすがに、発作を起こして苦しんでいる時は、誰もそう言いませんが、元気な時に、誰かがそう言いはじめるのです。
「かわいそうなこと言って。そんなこと言うのやめなさいよ!」
 正義感の強い女の子がそう言って助けてくれることもありました。
「お前、こいつのことが好きなんだろ!」
「そうだ。二人仲良く握手しろよ!」
「そう、握手! 握手!」
 男子たちがはやし立てると、その女の子は同情したように僕を見つめてから、その場から離れて行きました。
「悲しい思いをしただけ、相手を思いやることができるんだよ。大人になったら、優しくて誰からも愛される人になれるんだから」
 そう言って励ましてくれたのは母でした。しかし、僕にとってお日さまのような存在だった母は、半年前に病気になり、横浜市内の総合病院に入院していました。
 ある日、残酷な現実を聞かされることになるのです。学校帰りに、相鉄線に乗って総合病院を訪れた時のことでした。母は一週間前に手術をして、無事に成功したはずでした。母が入院している病室の階でエレベーターを降りると、姉は廊下のつきあたりのロビーで、先生と向かいあって座っていました。姉は真剣な様子で先生を見つめていました。僕は声をかけることもできず、ジュースの自動販売機の影から、二人の話を聞いていました。
「実際のところどうなんでしょうか? 母の容態は」
「全力をつくしています。今回の手術で、とりあえずの危険を回避することはできました。しかし、今回の手術はあくまでも応急措置です」
「応急措置?」
「はい。お母様の体力が回復次第、再手術を行う必要があります」
 先生がそう言うと、姉は、一語一語しっかりとした口調で先生にたずねました。
「それで、手術が成功すれば完治するのでしょうか?」
 先生は、長い間、口を開きませんでした。
「こう見えても私は、母に代わって家を守っています。この春、専門学校を卒業して歯科衛生士をしています」
 父は、僕が生まれてすぐに交通事故でこの世を去っていました。母は、保険の外交員をしながら姉と僕を育ててくれました。姉の就職が決まって、ほっとしたのもつかの間、母は病魔に襲われたのです。姉は落ち着いた口調で話し続けました。
「たとえ、どんな話であっても、全部、受け入れます」
 先生はその姉にうながされて重い口を開きました。
「手術が成功しても、五年以上生存できる確率は」
 姉と先生の話を聞いているうちに、僕の喉はからからに乾いていきました。
「本当に申し上げにくいのですが、三十パーセントです」
 その後、しばらくの間、姉と医師は無言で向いあっていました。姉の肩が小刻みに震えています。僕はその場から走り去りました。
 気が付いたら、病院近くの上星川あおぞら公園の原っぱに一人で立っていました。原っぱ一面に咲いているクローバーたち。僕の気持ちとは裏腹に、三枚の葉っぱを持った三つ葉のクローバーたちは春風にのって元気一杯でした。
「みんな幸せそう。いいなぁ」
 僕はため息をつきながら、原っぱにしゃがみこみました。その時です。ひとりぼっちで咲いている四つ葉のクローバーが目に入りました。
「お前もひとりぼっちか」
〝四つ葉のクローバーは幸せをもたらす〟
 この言い伝えを小学生の僕も知っていました。
 しかし、今はそんな〝幸せ〟とは、ほど遠い気持ちでした。ひっそり咲いている四つ葉のクローバーも〝幸せ〟そうには見えませんでした。僕は四つ葉クローバーが愛おしくなり、その根本から丁寧に摘み取りました。
「おっ! 四つ葉のクローバー。坊や、良かったね」
 四つ葉のクローバーを手にして、上星川駅の待合室のベンチに座っていたら駅員のおじさんが声をかけてくれました。
「でも、三十パーセントなんだって。お母さんが助かるのって」
 駅員のおじさんは考え込みましたが、すぐに優しい笑顔で話しはじめました。
「三十パーセントってことは三割。野球で三割だったらスター選手だよ」
「スター選手?」
「そう。それに四つ葉クローバーを見つけることは、新人選手が第一打席でホームランを打つことよりも難しいことなんだよ。その幸運をつかんだんだ。坊や、元気を出して!」
 駅員のおじさんは、そう言うと去っていきました。僕は何だか大きな気持ちになりました。そして、四つ葉のクローバーを手に母の病室へと走っていきました。
「お母さん! お姉ちゃん! 見て!」
 病室には母と姉がいました。母はベットをギャッチアップさせて、穏やかな様子で姉と話していました。
「どうしたの、走ってきて」
 姉はいつもと変わらない落ち着いた様子で、そう言いました。
「公園の原っぱで咲いていたんだ。四つ葉のクローバー!」
 僕はそう言って四つ葉のクローバーを母に見せました。
「本当ね。四つ葉のクローバー。めずらしいわね」
 母はそう言って、僕の右手に握られていた四つ葉のクローバーを見つめました。
「お姉ちゃん、四つ葉のクローバーを見つけると、幸せになれるんだよね」
「そうかもしれないね。きっと」
 姉は表情を変えずにそう言いました。
「だから、この四つ葉のクローバーをお母さんの病室に飾ろうと思って。これでお母さんの病気は大丈夫。四つ葉のクローバーが幸せにしてくれるから」
「ありがとう」
 そう言うと母は優しく微笑みました。隣に立っている姉はだまったままでしたが、よく見ると姉の目には涙があふれています。病室には重い空気がただよいはじめました。どうしたらよいのだろうか? その時、四つ葉のクローバーのことを説明してくれた駅員のおじさんの笑顔が浮かんできました。
「どんなにお母さんの病気が悪くても大丈夫だよ!」
 母は微笑みながら僕を見つめました。しかし、その目は笑っていませんでした。
「だって、この四つ葉のクローバーは原っぱにたくさん咲いている三つ葉のクローバーの中から見つけた、たった一つの四つ葉のクローバー。絶対、良いことがあるんだ」
 そう言って、僕は母に四つ葉のクローバーを手渡しました。母は四つ葉のクローバーの方に視線を移しました。そして、祈るように目をつむります。
 目を真っ赤にした姉が話し始めました。
「そうね。色があせないうちに、この四つ葉のクローバーを押し花にしようね。完成したらアルバムに張って持ってくるからね」
 その姉の言葉に母はうなずきました。
 やがて母の再手術の日がやってきました。
「お母さん、がんばって。大丈夫だから」
 僕がそう言うと、母は微笑みました。それから間もなく手術が始まりました。手術が終わるまでの間、僕は母の病室で待っていました。ベット脇のサイドテーブルにはアルバムが置いてあり、その中には四つ葉のクローバーが貼られていました。僕は部屋のカーテンを開け、お日さまのあたる場所で四つ葉のクローバーを眺めました。
 お日さまを浴びて、四つ葉のクローバーはその緑の色を、より活き活きとさせているようです。四つ葉のクローバーはお日さまと会話をしていたのかもしれません。
「お日さま、手術は大丈夫でしょうか?」
「君はみんなを幸せにすることができる不思議な力をもっているんだよ」
「本当ですか?」
 四つ葉のクローバーは心配そうにお日さまを仰ぎました。
「どんな時でも信じることが大切なんだよ」
 お日さまは、力強くそう言いました。
 午前中から始まった手術はお昼を過ぎても、まだ終わりません。病室の窓からは夕日が差し込んできました。どこからか、カラスの鳴き声も聞こえてきます。もし、お日さまが沈んでしまったら? 
 その時です。病室の扉が開きました。ストレッチャーにのった母が帰って来ました。母の横に付き添っている姉が、僕の方を見つめました。その目には涙が溢れていました。しかし、それは嬉し涙でした。姉は右手でVサインをしてくれたのです。手術は成功したようです。母はまだ麻酔で眠っていました。しかし、その寝顔は穏やかな表情をしていました。
「ありがとう! 四つ葉のクローバー!」  
 僕は夕日に照らされた四つ葉のクローバーに向かって、心の中でそう言いました。
 それから一週間後、母は退院しました。
「やはり、家が一番ね」
 家に入るなり、母はそう言いました。
「さぁ、今晩は、肉じゃがをつくるからね」
 母は料理が得意でした。特に、甘辛い肉じゃがは最高でした。
「やった! いつもお姉ちゃんのまずいご飯ばかりだったから」
「こら!」
 姉はそう言って僕をにらみつけました。しかし、その時、母の余命はあと半年しか残されていなかったのです。そのことを母と姉は知っていました。
 母は青空がきれいに澄んだ、秋の朝にこの世を去りました。
「ウソつき! 四つ葉のクローバーが幸せにしてくれるなんて!」
 火葬場から家に帰ってきた僕は悔しくてそう言いました。
「そんなこと言っちゃだめ」
 姉はそう言うとアルバムを手渡してくれました。それは四つ葉のクロ―バーが貼られたものでした。そして、そのアルバムには母が亡くなるまでの半年の間に撮られた家族写真が何枚も貼られていました。
「この数か月間、お母さんは本当に綺麗だった。そして、どの写真も笑顔いっぱい。この間、私たち三人で幸せだったと思う。亡くなる時も、安らかだったしね」
「お母さん!」
 僕はアルバムの写真と四つ葉のクローバーを見つめました。しかし、滴り落ちる涙でかすんで見えなくなりました。

「ご飯が冷めちゃうよ! 今日は、あんたの大好物の肉じゃがよ!」
「ごめん。今、行くから」
 姉は、歯科衛生士として働きながら、僕を学校に行かせてくれました。友人たちが、海外旅行や買い物を楽しむ中、コツコツと貯金をして家計を支えてくれたのです。今回の大学進学も、姉が経済的に支えてくれました。
「早く! 本当に冷めちゃうわよ!」
 このアルバムを、そう、この幸福の四つ葉のクローバーを明日、姉に手渡そう。今度は姉が幸せになる番です。
 ありがとう、お姉ちゃん! ありがとう、四つ葉のクローバー!     (おわり)     

著者

木村昌資