「ふうわり」野々さくら

いつの間にか心地よい眠りについていた私は、次の停車駅が横浜である車内のアナウンスで、現実世界へ引き戻された。

優しい夫。春から高校に通っている娘と、ギャングエイジと呼ばれる小学生の息子。
今日は三人で海釣りに行くというので、朝早く送り出してから、私はひとりのんびり実家に向かっていた。
特に用事はない。慣れ親しんだ地元のあのゆったりとした雰囲気は、私を心の底から癒してくれる。

都内から相鉄沿線の実家までは、そう遠くない。今では新宿や池袋へも、横浜から一本で出掛けられると、母が有り難がっていた。

横浜駅に降りると、私は頭上の案内板に従い相鉄線の改札に向かった。
ここ数年で横浜駅はさらに複雑な造りになった。横浜駅はいつもどこかしら工事中である。

懐かしい相鉄の改札口。ここは今も昔も変わらない。なんとも言えない安堵感に包まれる。
電光掲示板を見上げると、次は快速海老名行きだ。三ツ境駅には停まらない。
10分待って急行に乗ろうかと思ったが、特に急ぐ用事もなく、久しぶりに沿線の風景を楽しみたくなった私は、3番線の階段を降りると1番線のホームに上がり、停車していた各停大和行きに乗った。

シートに腰掛けた私は、かつて通学や通勤で見慣れた風景を正面の窓から眺めていた。
背の高い建物が右から左へ流れていく。帷子川を渡る架線のガランガランという音が、体に懐かしく響く。
西谷駅を過ぎたあたりからは、樹木の緑や開けた空の青い色が目に飛び込んできた。
変わるもの変わらないもの、そのどちらもに「お帰りなさい」と迎えられているような優しい空気に包まれる。

三ツ境駅の改札を出ると、休みの日だからか、駅前広場には様々なひとがいた。人混みというほどでもなく、閑散ともしていない、ちょうどいい具合の活気があふれている。
息子よりやや年下であろう少年たちが、モニュメントにたかってはしゃいでいた。私は、彼らを息子と重ね合わせて口元をほころばせながら実家へと向かった。

実家に着くと、母がいない。
テーブルの上にメモがあった。

「接骨に行ってきます。お昼には戻ります。」

私が帰るときも、何も特別なことはない。マイペースな母はいつもこの調子だ。
最近買い換えたというテレビをつけてみたが、ふと、友人からのラインを思い出した。

「今年も、追分市民の森の菜の花祭りがあるよ。」

確か菜の花祭りは先月であったが、母が帰るまでにはまだ時間がたっぷりあるので、追分市民の森に行くことにした。

三寒四温と言われる季節。今日は朝から暖かい。早足で歩いていると、体がポカポカしてきた。
市民の森に入ると木陰が心地よかった。

木陰を抜けると、一面の菜の花が目の前に広がる。まだまだ見頃だ。
スマホを手にした家族連れ、本格的に一眼レフを構えている紳士、真っ黒なフレンチブルドックとスポーティーな格好の飼い主が、一面の黄色い絨毯をより明るく暖かみのある風景に仕立てあげていた。

小さい頃、ここには田んぼと畑が広がっていた。
上を走る道路もなく、道もまだ整備されておらず、飼い犬は野山を自由に走り回り、私は妹とよくオタマジャクシやタニシ、ザリガニなどを取ったものだ。

あの頃もそれなりの良さはあったが、今はこうして整備されたことにより、高齢者や幼児も気軽に散歩出来るようになった。森林浴、マイナスイオンが健康に良いとうたわれながら、身近にある森林が失われつつある。
都会ではないが田舎でもない、そんな地元が、あらためて貴重に思われた。

一面の菜の花をスマホにおさめると、急におなかがすいてきた。母がもう帰る頃である。
私は森を抜ける前にもう一度菜の花畑をずっと奥まで見渡してから目を閉じ、大きく深呼吸して、来たときと同じように早足で実家に戻った。

実家のドアを開けると、お醤油のいい香りがした。
「お帰り。大したものじゃないけど。焼きうどん作ったわよ。」
毎日自分で食事を作ると、誰かが作ってくれたものがとても美味しい。主婦になってからわかったことだ。
「市民の森に行ったよ。菜の花まだ見頃だった。」
「菜の花祭り行ったわよ。雨でね。残念だったけど。野菜を少し買って、甘酒をいただいてきたわ。」
「ホタルは今でも見られるの?」
「奥の用水路のところ、たくさんいるわよ。すっかり有名になってね。見物人もたくさんだわ。」
そう言って母は楽しそうに笑った。

ひとしきり会話を楽しんで、少し冷めかかった珈琲のカップに手を伸ばすと、タイミングを見計らったようにスマホがプルプルと鳴った。夫からのラインだった。
「アジがたくさん釣れたよ。今から帰ります。」
母に「ごちそうさま。」と言って、私は実家をあとにした。

家族で菜の花祭りに行ったのは、何年前だったか。ちょうど今の息子くらいの年の娘が、まだ小さな息子の手を引いてあるいたあの日も、よく晴れた日だった。

娘も息子も、夫もホタルをまだ見たことがない。
今年はホタルを見せてあげたい。
三人のほころぶ顔が浮かんで嬉しくなった。

さて、釣ってきたアジはどうやって食べよう。夕飯の献立を考えながら、私は清々しい気分で三ツ境駅から急行横浜行きに乗った。
何でもない日常の幸せをふうわり感じながら。

著者

野々さくら