「みどり ~彼女がいる場所~」まさる

ふと気が付くと、僕は見たこともない駅で電車を降りていた。
朝早くから電車に乗り、あてもなくどこまでも、行けるところまで、できるだけ遠くに行ってしまいたいと思っていた。
けれど、ふとこの駅の名前が気になって降りたくなってしまった。
いや、駅の名前が、と言っても、名前はどう読むのかよくわからなかった。
ただ、なぜかその字が気になった。
「緑」という、最初の一文字が。

僕は今朝恋人と別れたばかりだ。
めずらしく朝早くに呼び出されて、いつもデートの最後に行く海岸で待ち合わせをした。
夏とはいえ、早朝の海岸はまだ寒かった。
二人で砂浜に座っていると、長い沈黙が続いた後に彼女から「別れたい」と切り出された。
最近彼女の様子が少しおかしいとは感じていた。だから、彼女が沈黙した時に、嫌な予感は確信に変わって、覚悟を決めた。
「何で別れようと決める前にもっと早く相談してくれなかったのか」とか、訊きたいことや納得がいかないことはいくつもあったけれど、訊いてもしょうがないし考えてもしょうがない。
そう思って別れ話をすぐ受け入れた。
もしかしたら、僕に「別れたくない」と言って欲しかったのかも知れないけれど、今となっては考えてもしょうがない。
彼女と(文字通り)別れた後、僕はすぐ近くの駅から電車に乗り、あてもなく乗り換えた。
はじめは、どこまでもずっと遠くまで行ってしまおうと思っていたけど、少し気持ちが落ち着いてきたせいか、この辺で降りてみようかなという気になってきた。

電車を降り、ホームから階段を下りると、改札口が見えてきた。
改札口の向こう側には、パン屋さんが見えた。他にもいくつかお店が有るけれどまだ開いていないみたいだ。当たり前か。まだ朝8時前だ。
それにしても、初めて来たはずなのにどこかで見たことが有る気がするのはなぜだろう。
夢に出てきた?いや、まさか。テレビで見たことがあるとか? それとも映画か・・・。

改札口を出ると、右側と左側に出口があった。
右側が東口で左側が西口、と案内板が出ていた。
東口には大きな木をぐるっと囲んでバスロータリーがある。その向こうにはスーパーや病院、その他色々なお店が入った大きな建物が見える。ロータリーに停まっているバスはいないし、待っている人もいない。スーパーや他のお店もまだ閉まっている。
西口にも小さなロータリーがある。バス停はない、ただのロータリーのようだ。こちらは真ん中に花がたくさん植えられている。
周りには大きな建物はあまりなく、コンビニとケンタッキーフライドチキンが見える。
その向こうには、空き地が広がっている。

僕は西口から出ることにした。
ふと、ロータリーのそばに誰かが立っているのが見えた。
朝もやでよく見えないけれど、女の子みたいだ。僕と同じくらいの年だろうか。
こんな所で何をしているんだろう。バスやタクシーを待つならこっち側じゃないと思うけど。
第一、こんな朝早くに走っていないだろう。
それとも、誰かを待っているんだろうか。お父さんか誰かが車で迎えに来てくれるとか。
・・・じゃなければ、これから彼氏とデートに行くとか。

そんなことを考えていると、不意にその子が僕の方を振り向いた。
やっぱり同い年くらいの女の子だった。彼女は、うすい緑色のワンピースを着ていて、髪の毛は肩まで届く長い黒髪だった。

「あっ――」
僕が言葉につまっていると、彼女が尋ねた。
「あなた、どこから来たの?」

僕はドキッとした。
どうして僕がここの人間じゃないとわかったんだろう。
見透かされたような気がした。

「あの~、ちょっと遠くから。海の方から・・・。」
初対面だったけど、彼女の年齢もはっきりわからないので、敬語を使うべきかちょっと迷った。

「ふ~ん。こんなに朝早くにね。珍しいね。」
けれど、彼女の方は親しげに話しかけてくる。むしろ初対面にしてはなれなれしいくらいだ。
誰にでもそうなのか。それとも僕のことを明らかに年下だと思ったのか。

「そうかな。あ、ちょっと、色々あってね・・・。」
自分でも全然ごまかしになっていないと思ったけれど、恥ずかしくて本当のことなんかとても言えなかった。
「あ、そうだ。おなかが空いてるんだけど、この辺に何か食べる所あるかな?」
話題をそらしたいこともあって、とっさに訊いた。
朝起きてからまだ何も食べていなくて、本当におなかがすいていたけれど。

「食べる所? ファミレスとか? うーん、ハンバーガーのお店ならあるけどね、すぐそこに。でもまだやってないし・・・。コンビニくらいかな、開いてるのは。」
それもそうだ。まだこんな時間だ。
「とりあえず行ってみる? コンビニ。」
僕は彼女についてコンビニに行くことにした。

「コンビニはねえ、ふたつあるんだ。ストップインとミニストップ。どっちがいい?ストップしてインするか、ミニなストップするか。あはは。何だろうね、ミニなストップって。どんなストップ?」
彼女はそんなことを言いながら、楽しそうに笑った。かなり明るくておしゃべりな子みたいだ。
結局僕たちは、〝ストップしてイン〟することにした。こちらの方が近いからだ。
僕はおにぎりをふたつとペットボトルのお茶を一本だけ買うことにした。
彼女はサンドイッチと、あれはミルクティーだろうか。

「近くにね、公園があるんだ。こっち。いひひ。」
コンビニを出るとすぐ彼女が言った。
ロータリーとコンビニの間にも木が何本か植えられていて、その周りがコンクリートで囲われて、一部がベンチになっていた。そこで座りながら・・・と思っていたけど、まあせっかくなのでついていくことにした。

横断歩道を渡って、ミニストップの脇を通り、線路沿いの上り坂を登っていく。
まだ朝早い時間なのに、出勤のために早足で駅に向かう人が結構多い。
僕ら二人は彼らの目にどう映っているのだろう。
二人並んで歩いて公園に向かい、これから一緒に朝ごはんを食べることになる。
恋人でも友達でもない、それどころかついさっき会ったばかりなのに。
コンビニのビニール袋のカサカサという音が朝の静かな道に響いていた。

公園が見えると、彼女は突然無邪気にはしゃぎだした。
「ほら、ここだよ。うふふ。」
と言うなり、入り口に向かって走り出したので、僕は早足で追いかけた。

砂のグラウンドを通って、隅っこにあるベンチに座った。
座るときの距離感はとても難しい。
ベンチはひとつしか無いわけじゃないけれど、かといって別のベンチに座るのも不自然だ。
まあ、同じベンチに僕も座るのが自然だとしても、あまり近づきすぎても警戒されるし、遠すぎても気分を害するかも知れない。

結局、僕は彼女との間に二人分の距離をあけて、間にコンビニで買ったおにぎりとお茶を置いてごまかすことにした。
無言で登った上り坂に続いて気まずい沈黙が流れる。
僕はこういうのが苦手なので、できれば彼女に間を持たせて欲しい。
何とか話題を見つけようとするが、なかなかいい話題が見つからない。
こういう時はまず天気の話から始めればいいのだろうか。でも今空はどんよりと曇っている。さっきまであんなに晴れていたのに。
これじゃあ、
「今日は天気が良くないね。」
「そうだね。」
以上、終了。となりそうな気がしてならない。
あれこれと迷っている内に、おにぎりをふたつとも食べ終わってしまった。
いつもそうだ。小さい頃からの僕の悪いくせだ。やたらに考え込んでしまって、タイミングを逃してしまう。

お茶をちびちび飲んでごまかしていると、彼女の方から質問してきた。
「そういえばさ、さっき〝海の方から来た〟って言ってたよね? どこ? 江の島?」
「いや、そっちじゃなくて、三浦だよ。」
「えー、三浦海岸?! けっこう遠いじゃん! そんなに遠くから何しに来たの? 遊びに? じゃないよね。」
「う、うん。ちょっとね。別にどこでも良かったんだけどね・・・。」
「・・・ふ~ん、そうなんだ。」
余計気まずくなってしまった。自分の住んでいる町を「どこでも良かった」なんて言われて気を悪くしたかな? だとしたら申し訳ない。
けれどやっぱり本当の事はとても言えない。冷静に考えてみると、女の子の傷心旅行みたいで今更ながらものすごく恥ずかしくなってきた。
いや、むしろ女の子の方が気持ちの切り替えが早いらしいから、今どき傷心旅行なんてしないのかも知れない。
僕の彼女も、・・・いや元彼女もそうなのだろうか。

「ねえ、ちょっと来てこっち。」
彼女がいきなり僕の腕を引っ張って連れて行こうとする。
遊具を通り抜けて、公園の外に出る。車道を渡ると珍しい建物が見えた。白っぽいような水色っぽいような色をしていて、形も四角い部分と多角形の部分が合わさっていて何とも不思議だった。周りにはたくさんの花や木が植えられている。
「あ、ねえ。あの建物は何?」
「ん? ああ、あれはね、自治会館だよ。」
「自治会館?」
「そう。じじい会館じゃないよ。」
「あはは。変わった形の建物だね。」

その自治会館は、線路が通るトンネルの真上に建っていた。フェンスぎりぎりまで近づくと、さっき僕が降りた駅のホームからトンネルまでよく見える。その間をまっすぐに伸びる線路とその上を走る電車を上から眺めることができる。

ふと、トンネルの奥から踏切で鳴るようなカーンカーンという音がかすかに聞こえた気がした。
すると彼女が言った。
「あ、電車が来る。上り電車だから、このトンネルから出てきて、駅のホームに入っていくの。」
言い終わるやいなや、ガタンゴトンという電車が線路を走る音が聞こえ始め、段々大きくなってきた。
その音が目いっぱいの大きさになったと思った瞬間、トンネルからぶわっという強い風と共に電車が猛スピードで飛び出してきた。
電車が線路を揺らすガタンゴトンという音は、小さくなりながら遠ざかって行き、やがて駅のホームに吸い込まれていった。
「私ね、ここの景色が一番好きなんだ。」

珍しい形の自治会館のそばで電車を見た後、僕は彼女と一緒にまた歩くことになった。
何でも雑貨屋に行って買い物をしたいんだとか。
僕が一緒に行く必要は全然無いけれど、会話の流れでいつの間にか一緒に行くことになっていた。
元々僕は断るのが下手、と言うより、そもそも人と話をするのが苦手なこともあるかも知れないけれど、彼女のこういう自然に人を巻き込んでいけるところはすごいと思うし、うらやましい。
それから、少しだけその流れに乗るのが心地よく感じた。

彼女が行こうと言った雑貨屋さんはサンモール商店街という所にあるらしい。彼女は歩いてすぐだと言ったのに、実際に歩いてみるとかなりの距離があった。
まず自治会館から元来た道を下って、駅まで戻る。その後右に曲がって上り坂を登り、交差点に着いたら左に曲がって更に上り坂を登る。この坂が長いこと長いこと。両側には高いマンションがいくつも並んで建っている。
「結構遠いんだね。」と言うと、「え~、全然遠くないじゃん。」と返してくる。
ここに住んでいる彼女にとってはこれが普通なのかも知れないけれど、僕の家は海の近くにあって坂がほとんどないので、坂道には慣れていない。
僕が「まだ着かないの?」と訊くと、彼女は「もうすぐだよ。」と答える。このやりとりを何度も繰り返した。

坂を登り切ったところに、目あての雑貨屋さんは有った。木のフェンスと白っぽいきれいな壁が印象的な二階建ての建物だった。
中に入ってみると、おしゃれな雑貨がたくさん並んでいた。こういうお店に一人で入ることは無いけど、元彼女とはよく一緒に行っていた。やっぱり女の子はみんなこういう店が好きなんだろうな。
「ちょっと、ここで待っててくれる?」
そう言うと、彼女は僕の返事も待たずにどこかへと歩いて行ってしまった。
手持ち無沙汰なので周りを見てみると、この店はかなり広くて商品の種類がめちゃくちゃ多いことに気が付いた。メモクリップが結構おしゃれで、ついつい買いたくなってしまいそうだった。
二階には何があるのか見てみたいななんて思っていたら、彼女が戻ってきた。
「お待たせ! あっちで食べよう。」
そう言った彼女の手には真っ白なソフトクリームがふたつあった。
雑貨屋さんと同じ建物の中に売店があって、ソフトクリームを売っていた。カウンターのすぐ目の前はオープンデッキになっていて、木のテーブルと椅子が並べられていた。
彼女がくれたソフトクリームは信じられない程おいしかった。去年、山梨の清泉寮で食べたソフトクリームを思い出した。
何だか、とろけた濃厚なソフトクリームが喉を通り過ぎる度に、僕の心の中のモヤモヤが一緒に流されていくようだった。

「どうしたの? ぼーっとしちゃって。」
彼女に話しかけられてふと我に返った。
「あー、もしかして、さっき見てたメモクリップ? そんなに欲しいなら買っちゃえばいいじゃない。」
「え? いや、そうじゃないよ。ただ、このソフトクリームがおいしいなって思ってただけだよ。」
見られていたんだろうか。そう思ったら急に恥ずかしくなってきた。
「いいって、いいって。恥ずかしがらなくて。ここのメモクリップ、みんなかわいいもんね。何で買わないの? お金が足りないの? 買ってあげようか?」
「だから違うって! いや、確かにちょっといいとは思ったけどさ・・・。」
「でしょ? じゃったら買えばいいじゃん。あ、『じゃったら』って言っちゃった。」
「あはは。ふふふ。あっはははは。」

こんなに大笑いしたのは久しぶりだ。
僕の心の中で、ソフトクリームと一緒にモヤモヤが流されていってぽっかり空いた隙間に、何か温かくて心地良いものが流れ込んでくるような気がした。

帰りは彼女が駅まで送ってくれることになった。
雑貨屋さんから駅まで話しながら歩いている間に、彼女に芽生えた特別な感情がどんどんと強くなっていることに気が付いた。でも、今はこの気持ちを伝えられなくてもいい。
たった半日でできあがったこの関係が壊れてしまうのが怖いのか? 確かにその通りだ。
伝えられなくてもいい。気付いてもらえなくてもいい。嫌われさえしなければいい。好きなままでいさせてくれればいい。心からそう思っている。決して嘘じゃない。
でも、やっぱりどうしても伝えたい。
伝えたくてしかたが無いけど、今のままの僕じゃ、こんな中途半端な僕じゃ恥ずかしくて言えない。
きちんと気持ちのけじめをつけてからまた改めて会いに来よう。
そう心に決めた。

今朝来たとき静まりかえっていた東口がにぎやかになっていた。
吹奏楽の心地よい演奏が聞こえてきた。この辺りの中学校なのかな。スーパーマーケットの前が広場になっていて、そこで演奏しているようだ。

「どうも色々ありがとう。ここでいいよ。あの、またここに来てもいいかな。」
「おほほ、いつでもどうぞ。待ってるわ。」
おどけたようにそう言った後、少し黙って考え込んでから、こう言った。
「今度はさ、花火でも見に来なよ。」
「え? 花火大会なんてあるの?」
「んー、いや無いけどさ。」

そうだった。まだ彼女の名前をきいていなかった。
女の子に名前を訊くなんて勇気がいる。心臓がドキドキしすぎて口から飛び出しそうだ。
それに、今まで何時間も一緒にいて今更名前を訊くなんてのも変に思われそうな気がしたけど、今が最後のチャンスだと思って勇気を振り絞った。

「あのさ、訊いてもいいかな。あの、君の、名前は・・・。」
「私の名前は、緑。緑色の緑よ。」
「僕は、海渡。」
「カイトっていうんだ。めずらしいね。覚えておく。」
「ありがとう。・・・あ、あのさ、おれさ、・・・すっ、すきだったよ。あの、君――と過ごした時間、今日一日。じゃ、じゃあ、またね!」

僕は改札口に駆け込んた。これだけ言うので精いっぱいだった。

「カイト!」
改札口を通り抜けると、後ろから大声で僕の名前を呼ぶ彼女・・・緑の声が聞こえた。
「帰りは上りだから、2番線だよ! 間違えないで! それから、次に来るときは下りだから、1番線だよ。絶対に間違えないでね!」
「うん、ありがとう!」
僕は力強くお礼を言った。今自分の顔は見えないけれど、きっとこれ以上ない笑顔に違いない。
「あとさ、今度は一緒にフレッシュネスバーガー食べよ!」
彼女もまた、弾けるような笑顔でそう言った。

言われた通り、朝降りてきたのと反対側の2番線に続く階段を昇った。
そういえば朝は頭の中がからっぽで駅の名前を気にしている余裕がなかった。
階段を昇ってから、ホームで駅名の看板を探した。

見つけた。
緑園都市――ここが彼女がいる場所だ。

終わり  続く・・・

著者

まさる