「めぐり合い」青柳雅夫

ある秋の午後だった。「横浜駅」を出て暫くたってから、ドアの傍でスマホを操作している女子高生の存在に気付いた。紺色の制服に、ある大学のレゴのついたリュック。付属高校の生徒なのだろう。小柄なせいでリュックが比較的大きく見える。しかしそれだけならわざわざ言うほどのことではない。「横浜駅」から乗り込み、スマホを操作する小柄な女子高生など、数えたことはないが、何百人も、何千人もいるだろう。私は、その小づくりの顔に現れた、ある表情に魅かれずにいられなかったのである。こんな経験は、この世に生まれて初めてだった。この気持は何に由来するのだろう。考えたが、わからなかった。
私は終点の「湘南台駅」まで行くが、女子高生は途中の「二俣川駅」で下車する。女子高生の、そこから先の行動は、わからない。歩くのか。バスに乗るのか。いずれにしても、ここが自宅の最寄りの駅だろう。
存在に気付いてからは、その姿を追い求めることが日課になった。夕方は大抵逢うが、朝は逢ったことがない。動く時間帯が違うのだろう。
女子高生は、ときどき座席に坐って、目を瞑っていることがあるが、そんなときはいかにも幸せそうだった。別に私が何かしたわけではないし、そもそもしたくても何もできないが、自分の存在が認められたようで、妙に嬉しかった。もしかしたら、女子高生は、実際に、そうと知らずに、私の存在を認めているのではないか。たまにそんなことを思うこともある。
それにしても何にこんなに魅かれるのかと考え続ける。
あるときふと気付いた。その女子高生の、顔を始めとした全身のどこかに、何か懐かしい雰囲気があることに。魅かれる理由はそこにあるのだ。私は記憶を辿った。過去に、この女子高生と、後に懐かしむことになるような経験をしたことがあっただろうか。しかし思い当たることはなかった。
だが、ないと思っていた「思い当たること」があったのである。考える時間だけはたっぷりあった。耳学問の堆積もあった。時間の経過とともに、ある精神的な記憶が次第に浮かび上がって来た。そしてある一枚の絵が出来上がった。それはジグソーパズルを埋めるような作業の結果だった。一遍に思い出したのではない。長い時間をかけて、ピースを一枚ずつ置いて行って一枚の絵にしたのである。ピースのすべてが、ぴったり収まるべきところに収まったという気はしなかったが、絵としての出来栄えには、自信をもてた。
 こんな絵である。
 遠い昔のことである。鎌倉時代初期のことである。当時私は、唐橋康頼(からはしやすより)といい、御家人泉小次郎親衡(いずみこじろうちかひら)に仕えていた。久我(くが)という、城代家老のような立場の人物の、時子(ときこ)という娘と思い合い、近いうちに祝言を挙げることになっていた。しかし、政治的な環境がそれを許さなかった。当時、親衡は、執権北条義時(ほうじょうよしとき)を排除しようという策略をめぐらしていた。ところが、義時がそれを察知した。そして親衡を討つべく大軍を差し向けた。親衡側は応戦した。私もその一員として必死に戦った。しかし衆寡敵せず。私は、あっさり討ち死にした。薄れる意識の中で私は時子のことを真っ先に思った。今でもそのときの無念な気持ちが蘇る。時子は私の死の報を聞いて自害したという。
 そんな思い出の地は、毎日通る「いずみ中央駅」の東側にある。終点の「湘南台駅」に向かった場合、左側である。「二俣川駅」までは住宅街、「二俣川駅」を過ぎると、沿道の風景は次第に緑が多くなるが、終点の二つ手前のこのあたりが一番緑が多い。護岸の整備された、というより、整備されすぎた川が手前にあり、その向こうにこんもりした丘がある。今は、泉中央公園と呼ばれる公園になっていて、泉小次郎親衡の館跡として土塁や池を示しているらしい。その一帯が私の「思い出の地」である。麓には、長福寺という寺があり、私と時子の墓があるという。
 いったいどういうことなのか。ここでまた私は考え続けた。そしてある結論に至った。それは我ながら信じ難いものだった。しかしそう考えるしかないのである。
 至った結論とはこういうものである。
 私は、唐橋康頼の生まれ変わりであり、女子高生は久我時子の生まれ変わりである。
 私は今電車に生まれ変わった。そして久我時子は、現在女子高生生活をおくっている女に生まれ変わった。歓喜するしかないではないか。私たちは長い歳月を経てこういうかたちでめぐり合えたのである。
 そんな馬鹿馬鹿しいことがあるわけがないではないか、という人に問いたい。それではこの一連の出来事をどう解釈するのか。是非説明してもらいたい。
 

著者

青柳雅夫