「ゆめが丘(オブザデッドではない)」笹井みすず

 終電の中でうっかりと居眠りをしたら、西谷のはずがゆめが丘にいた。
「降りる駅、間違えた……」
 どことなく近未来感のある、チューブ型になった高い天井。
 どういう場所だかよく知らないけど、大きな駅のようだしマックくらいはあるだろう。そう思って慌てて電車を降り、改札をくぐり、駅舎の外に出た。それが間違いだった。
「……何もない」
 あたりには本当にすがすがしいほど、何もなかった。一面に畑が広がり、星が光り、ワンワンと遠く犬の鳴き声が聞こえる。遠くにうっすらと見える特徴的な形の、あれはサイロ、ということはまさか牧場があるのだろうか。
 失敗した。落ち着いて、終点の湘南台まで待って降りればよかったのだ。そっちなら数百円で朝まで時間をつぶす方法がいくらでもあったのに。
「それにしてもここ、本当に横浜か……?」
誰も知らない異境にたった一人、放り出された気分になった。
 あたりには街灯の頼りない明かりがあるだけ。未来の香りただよう駅舎が、宇宙からの侵略者を乗せた巨大なUFОのようにそびえている。
 いっそ衝撃だった。いくら終着駅の近くとはいえ、こんなのどかな場所が、横浜から30分圏内にあったなんて。
「……なんか、すでに懐かしいな」
 ただ、それは僕にとってはそんなに珍しい光景じゃない。
 四月十六日。
 北陸のど田舎から上京して、まだひと月もたっていなかった。駅の周囲に広がる畑を田んぼに変えれば、それはそのままふるさとの光景になる。急にとんでもなく寂しいようなやるせないような気持ちになった。
 横浜から私鉄で数駅の所にボロとはいえアパートを借りて、私立の大学に通う。そんな、当たり前よりは少し贅沢な事をしようと決めたのはほかならぬ自分なのに。
 もうホームシックにかかったって言うんだろうか。急に自分が情けない人間になったような気がした。
「ぜんぶ、ゆめみが丘のせいだ……」
 八つ当たりのように、そんな声が漏れた。この暗闇と、なにもない街がいけないんだ。でも、ここを抜けだそうにももう電車はないし、タクシーも一台だって捕まりそうにない。一駅ぶん歩いて、湘南台に向かおうか。ただよく知らない山道を私鉄一駅分歩くのはいくら何でも怖すぎる。スマホは電池切れで、地図アプリは起動できない。
 そう思った時だった。
 ちかりと暗闇に、何かの光がともる。
 白っぽい緑色の、何対ものゆらゆらとした光。冗談ではなく、野生の獣が畑から出てきたと思った。襲われる、と察して身体をかたくする。
「あ……」
 しかし、うっすらと姿が見え始めて拍子抜けした。獣といえば間違っていないのかもしれないが、それは十数匹の猫だった。
 たくさんの猫が、じっとこっちを見ながら、ゆっくりと歩いてくる。
「ひっ……」
 驚いたのは、猫の数ではない。
 まるで獣を操る特殊な能力者のように、真ん中にお爺さんがいたからだ。しもべのように猫を引き連れて、しっかりとした足取りで歩いてくる。リードの類もないし餌で釣っている様子もないのに、猫たちは付き従うように彼の周りを離れない。
 真夜中に猫を何匹も連れて出歩いているお爺さん、ヤバすぎる。絶対に関わってはいけない……と思うのに、なぜか目を合わせてもそこまで危機感をおぼえないのは、お爺さんの格好が紳士的だからかもしれない。
 そう、紳士なのだ。夜中なのにびしりとスーツを着て、しっかりと折り目のついたズボンを履いている。白髪交じりの髪は短めで、きれいに撫でつけてあった。しかしそのキッチリとした姿がミスマッチ過ぎて、怖いと言えば余計に怖い。
「……降りる駅を間違えましたか」
 お爺さん……あらため猫連れの紳士は、足元にキジトラの猫をまとわりつかせたまま、僕にそうたずねた。
「はい」
 思わずうなずいてしまう。無視をするのは何となく怖いし、とにかく降りる駅を間違えて途方に暮れているのは確かなのだから。
「携帯でタクシー、呼びましょうか」
 少ししわがれているけどはっきりした声で、紳士は言った。お願いします、と言いかけたが、そうもいかない事情があることに気づき、言葉を飲み込む。
「いえ……いいです。始発で帰ります」
「この辺りで時間をつぶすのは難しいと思いますが」
「……でも、金がなくて」
 実際僕には、お金がないのだ。大学の授業料は大半奨学金で賄うし、家賃と生活費は仕送りで足りるかあやしいラインで、入学早々ぎっしりとバイトを入れている。深夜料金のタクシーは手痛い出費になるだろう。
 どうしても大学に行きたくて田舎を出て、どうにか新しい生活をスタートさせたのに、生まれた故郷の田舎と同じくらいのどかな、だけど知らない田舎でひとり立ち尽くしている。つくづく、自分は何をやっているんだろうかと思った。
「……」
「……」
 紳士と僕は、そろって黙りこくった。
 ふくよかな三毛猫が、早く歩こうよ、といわんばかりに「なー」と鳴く。
「……あいにくと私も手持ちがありませんで……一緒に行きますか?」
 淡々とした口調で、紳士にそんなことを言われた。座り込んで毛づくろいを始めていた茶トラ猫が「お前も来るのかよ」とでも言うように、僕に向かって顔を上げる。
 僕は十数匹の猫からの視線を一身に集めながら「えっと」とだけ呟いた。

 行けども行けども、田園風景しか見えなかった。十二匹(正確に数えた)の猫と僕と、猫の紳士は、ゆらゆらと何もない道を歩き続けている。ぽつぽつと民家やガソリンスタンドや中古車センターはあるけれど、人影なんて一切ない。
 猫連れの紳士はナカザトさんというらしい。毎晩のようにこうして猫を連れてこの辺りを一周するのだそうだ。
「本当はうちにお招きできればいいのですが、猫の毛だらけのうえ狭いのです。すみません」
 すまなさそうにそう言いながら、ナカザトさんはゆっくりと、畑と畑に挟まれた道を歩いていく。暗いのではっきりとは見えないけど、そのうちに畑は田んぼに変わった。右の田んぼにも左の田んぼにも、すでにうっすらと水が入っている。神奈川ではいつごろ、田植えをするのだろう。
「水田は珍しいですか」
 ナカザトさんはきょろきょろしている僕にそう尋ねた。
「いえ、僕、実家は新潟なので」
「新潟……魚沼産のお米はおいしいですよね」
「いやまあそんな、メジャーなとこじゃなくて……本当にただの田舎なんですけど」
 大学でできた顔見知りに説明をするとき、本当にこまるのだ。新潟と聞くとみんな真っ先に「コメとスキーの街でしょ?」と聞いてくるけど、地元はそのどっちも有名ではないから。
「横浜もね、まあ海沿いでもないとこはこんな感じなんですよ、みんな『何もない』って驚きます」
 小さく苦笑しながらナカザトさんは言った。
「そうですね、そもそも横浜で米つくってるってこと自体、僕知らなかったです」
 僕がこたえると、なおも小さく、ナカザトさんが笑う。
 猫たちが音もなく、ほとんど真っ黒な影のように暗闇に溶け込んで、会話をする僕たちの周りを囲んで歩いていた。これまで特に意識もせず生きてきたけど、猫というのよく分からない生き物だ。ほっそりしているのにつるんと丸いような、不思議な身体をして、毛並みはパサパサしているようでもあり妙につやつやとしているようでもあって。一定の距離をとり、楽しくもなさそうにただ、ついてくる。
「これは全部、飼いネコですか」
「いえ、ほとんどは野良です。途中で勝手に合流してくるんですよ」
「なんでそんなに懐かれるんですか? エサでもやってるんですか?」
 これはさっきから疑問だった。僕は人生で、ここまでたくさんの猫に囲まれた経験がない。飼い猫だって飼い主以外には懐かないし、野良猫は人を見たら逃げるものだと思っていた。ナカザトさんはどんな裏ワザを使って、この状況を作り出したのだろう。
「さあ……」
 ナカザトさんは首をかしげて笑うばかりだ。
「猫は寂しい人間が分かるのかもしれません」
 ひょうひょうと言うその姿は、とても寂しい人間には見えない。部屋は猫の毛だらけと言っていたけど、暗がりで見る限り、スーツにはまったくそんなものはついていなくて、清潔そのものだった。猫は不思議な生き物だけど、不思議といえばこの人も不思議だ。
 そこまで考えて、やっぱりこの、知らないお爺さんと知らない猫たちと知らない町を散歩している状況はどうかしているなと思った。どこかで適当な公園でも見つけて、ベンチか滑り台の中で仮眠しよう。猫たちとはそれまでの付き合いだ。
 ざっざっと、二つ分の足音だけが、田んぼ道にひたすら響いた。
「少し、自分のことを話してもいいですか」
 歩きながら、ナカザトさんが言った。
「はい」と僕は、深く考えもせずに答える。
 期待……と言っては言いすぎだし失礼な話ではあるのだけれど、何かささやかなドラマ性のようなものを感じた。この謎めいた猫使いのお爺さんが、今から自分のことを話すという。実は昔大企業に勤めていたとか、奥さんとの悲しい別れを経験したとか、そういう話が出てくるんじゃないか。一瞬だけ、そう思ってしまったのだけれど。
「この間、はじめてゾンビ映画というものを見まして」
「……はぁ」
 淡々と飛び出したのは、よく分からない話題だった。
「私はそういうのに疎くて……レンタルショップに行ったんです。ほとんど全部に『オブザデッド』がついていて、直感にまかせて、一本を借りました」
「……はぁ」
「しかしゾンビは最後の五分くらい出てきただけで、しじゅう淡々とした映画で……何だか本当に、よく分からなかったんです」
「パッケージ詐欺ってやつですね。予算が足りなったのかも」
「映画は玉石混交ですね」
 それきりまた、会話が途絶えた。
 僕たちはやっぱり、ただ何もない道を歩いている。ゾンビ映画でハズレを引いた、それ以上の「自分のこと」はもう、ナカザトさんから出てきそうにない。ふと、僕も「自分のこと」を話した方がいいのだろうかという気になった。だけど、話すべきことは特に見つからなかった。上京してきたばかりで都会に慣れていないこと。実家の両親は、田舎町の普通のサラリーマンで、妹が一人いること。大学では心理学を専攻していて、毎日ピザ屋でバイトをする予定だからサークルに入るような余裕がないこと。大学の同級生がみんな、すごくお金を持っているように見えて、なんだか見ているだけで微妙に気分がふさぐこと。
 ……それらがゾンビ映画の話のお返しになるかといえば、なんとなく違う気がした。結局は口をつぐんで、ただ歩いた。
 振り返れば、何もない夜空に、ゆめが丘の駅舎がぼんやりと浮かんでいる。相変わらず、侵略者の乗り物のように大きくて迫力があった。ずいぶん駅から離れてしまったけど、ナカザトさんは、一体何時までこの猫の散歩を続ける気なんだろう。
「……あれ?」
 足元が少し寂しくなっていることに、そこで気づいた。猫の数がさっきよりも減っている気がする。
「猫、減りました?」
「はい。気が向いたものから勝手に帰っていくんです」
「気ままですね」
 猫たちは一体いつのまに、どこに消えていたんだろう。ほとんどは野良と言っていたけど、最終的にはみんな寝床に帰って、ナカザトさんは一人になるんだろうか。いや、自宅が猫の毛だらけということは、最低一匹は飼い猫のはずだ。黒猫、白猫、三毛猫、どの猫もそれなりに元気そうに見えるけど、どれが野良でどれが家猫なのかは、まったく区別がつかない。聞くのも無粋な気がして、こうなったらついていって確かめてみようかという気になった。
「寒くはないですか」
「いえ、あったかいです」
「疲れたら言ってください」
「はい」
 ぽつぽつとそんな会話をして、僕たちはまた、ひたすら歩いた。足は全く疲れなくて、僕は意外と体力があるのかもしれないと思った。片道一車線の道路に、車の影はまったくない。何度だって痛感するけど、ここは本当に何もない街だ。何もないけど猫が十匹(また減った)いる。僕とナカザトさんは、何を話すでもなく、歩いている。さっきまでの郷愁みたいなものは、とっくに僕の胸から消えていた。何もない何もないと言いつつも、この街は大都会横浜の一部で、僕の育った本当に何もない街とは違うし、僕は明日からまた大都会横浜であくせくしながら暮らすのだ。
 小柄なハチ割れ猫が僕の方をふりかえって「なぉん」と鳴いた。ナカザトさんは別に目を細めていとおしむでもなく、背筋をのばして一定の速さで歩いている。
 この散歩はいつまで続くのか分からない。最後の五分でゾンビが出てくるのかといえば、別にそんなこともないだろう。ただ、ちょっとずつ猫が減るだけだ。
 十本のしっぽが、頼りない街灯の灯りにゆらゆらしていた。細く長く伸びた僕の影も、頼りなかった。ナカザトさんが、小さな咳払いをする。

著者

笹井みすず