「アリちゃんに会いに行こう」はなみずき 紅

「千葉に乗馬クラブがあったから、問い合わせてみる。」
ハルからの電話だった。
「ほんとに探してくれたんだ。ありがとう。千葉のどの辺なの。」
「房総半島の方みたい。」
「そんなに遠くじゃあ日帰りは大変ね。あなたの家から通わせてもらうってわけにもいかないし。ちょっと考えてみるわ。」
 
 ハルとは高校一年からの長い付き合いになっている。お互い子育てから解放されてからというもの、毎年一泊旅行をするようになっていた。ほとんどハルの希望で行先が決まり、アキはついて行くだけになっていたが、いつかオーロラを見に行きたいと思ってパンフレットだけは集めていた。
 この年も「三春の滝桜」を見に行くことになっていた。しかし三歳までアキを育ててくれた九十六歳になる伯母が肺炎で入院したため、恒例の旅行は中止にしてもらったのだった。
 通夜も葬儀も涙に暮れながら伯母を見送った六月、突然ハルが一緒にオーロラを見に行こうと誘ってきた。
「直行便で行けるアラスカだって一週間なのに、夫と娘は大丈夫なの。」
思いがけない誘いに、自分の家の事情はそっちのけで、完璧専業主婦の留守家庭を心配しているアキだった。
 オーロラは北欧やカナダが有名だが、いざ出かけるとなると覚悟がいる。アルツハイマー病になってしまった母と介護鬱ぎみの父、バラバラな子ども達、それに二匹の犬を残して行くのだ。行くならなるべく手軽にということで、八月下旬のアラスカに決めた。
 言うまでもなく、オーロラは自然現象なので出ないこともある。オーロラ鑑賞が目的で行くのだが、全く見られないことも想定して、アラスカ鉄道に乗ったり氷河クルーズをしたりの盛りだくさんなコースを選んだ。
 手が掛り始めた両親のために早期退職し、退職金を切り崩して生活しているアキが、自分自身のために初めて使う大金だった。
 真冬の服をスーツケースに詰め込み、汗をかきかき成田空港へ向かった。
「見送りしてくれる夫がいて羨ましいよ。しばしの別れを惜しんでね。」
アキは送ってきた夫とハルを茶化した。ハルの夫とは、結婚披露宴でスピーチを頼まれて以来の仲である。
 不慣れな出国手続きを済ませ、七時間後には雨のフェアバンクスに降り立っていた。
 乗客を下ろした飛行機は、七日前にアンカレジから北上してきたツアー客を乗せて成田へ戻る。不運なことに、彼らはずっと雨に降られっぱなしだったと言いながら、足取り重く搭乗口へ向かっていった。
「ここへ来て十年この仕事をしているのですが、橋が流されるほどの大雨続きは経験したことがありません。」
日本人現地ガイドの話を聞いて、一行は半ば諦めムードになった。しかし市内観光を済ませ、バスがチナに近づくにつれて天気は回復してきた。
 ホテルに着くと、アキは早速オーロラを見る場所になっている滑走路へ下見に行った。するとカメラを抱えた男性がやって来た。
「滑走路って聞いたけど、使っていないんですかねえ。ここならシートを敷いて寝ころんで見られそう。どういうふうに出てくるんでしょうね。」
同じツアーの人なので、気軽に話しかけた。
「添乗員さんは北の方に出ると言ってたけど、こんなにだだっ広いんじゃあ、どっちが北かも分かりませんねえ。」
二人が話していると、いきなりセスナ機が飛んできた。なんとそこは、ホテルの観光セスナ機が離着陸する滑走路として使われている所だった。
 レストランで夕食を済ませてから、十一時まで仮眠時間になった。部屋に戻ったハルは、荷物整理を済ませてベッドに横になった。アキもレジャーシートと防寒コートに毛糸の帽子を用意して仮眠態勢に入ったが、眠れるわけもなく、ベッドの上にひっくり返って時間が過ぎるのをひたすら待っていた。
 アクティビティーセンターで待つと言うハルと別れ、昼間下見した場所でオーロラ出現を待つことにした。
 ツアー参加期間中がちょうど新月前後の時期だったので、オーロラさえ出てくれれば最高の条件だった。辺りには全く照明が無く、懐中電灯で下見の場所を目指したが、星明りのせいか暗くはなかった。
 アキはシートに寝ころんで星空を眺めていた。
「こんばんは。」
下見の時にカメラの三脚を立てる場所を決めていた男性が奥さんとやって来た。
 十二時頃、飛行機雲のようなものができてきた。
「雲ですかねえ。」
「オーロラになってくれるといいなあ。」
そう話していると、一筋の雲のようなものは緑色になってユラユラと動き始めた。
「出たぞー」という大声とともに、アクティビティーセンターから大勢の人が出てきた。
「ハル、こっち、こっち。」
アキはハルを呼び寄せた。
 緑色の帯は天空のあちこちに広がり、シャワーのように降り注いできた。風に揺れる緑のカーテンのようにもなり、天頂へ駈け昇る龍のようにもなった。映像で見るしかなかったオーロラだから、今にもBGMが流れてきそうな気がした。アキはまさに本物のオーロラを見ていた。
 オーロラを見たいと思う気持ちをどれだけ温め続けたことだろう。見たい気持ちは人一倍あっても一人での参加となれば、まだここにこうして天空を眺めることはできなかったはずだ。そう思うと、アキの目に涙が溢れてきた。
「ありがとう。一緒に来てくれて。」
ハルは何も言わなかった。
 オーロラショーのピークは二時頃に終わった。ハルは部屋へ引き上げていったが、アキはそれから一時間もその場を動くことができずにいた。
 翌日も同じホテルで宿泊することになっていたので、夜まで時間潰しをしなければならない。ホテルの周りを散策したりアイスホテルを見学したりしても、時間はまだまだ余っていた。そこでアキは、オプションで馬に乗ることを思いついたのだが、ハルに猛反対された。
「こんな所で馬から落ちて一緒に帰れなくなったらどうするの。」
「確かに…。」
半年も後に生まれたハルは、いつもアキのおねえさんだ。
「じゃあ犬橇で我慢するわ。馬じゃなくて犬ならいいでしょ。あなたも一緒に乗らない。」
断られるのを承知で誘ったが、結局アキ一人で乗ることになった。雪道ではない、昨日までの大雨でぬかるんだ道だ。「グッドボーイ、グッドボーイ」と盛んにけしかけられる十頭が必至に引いてくれる犬橇に乗って、全身泥はねだらけになったのだった。

(そう言えば、千葉まで行かなくても、近くに乗馬学校があったなあ…。)
伯母がまだ元気だった頃に、一度だけ自転車に乗って会いに行ったことがある。細いバス通りに立っている「乗馬学校」の看板を見た時、アキはびっくりした。
(へえ、こんな所に乗馬学校があるんだ。仕事を辞めて時間ができたら、馬を見に来てみたいなあ。)
 遥か昔、馬には特別な思いがあったアキだったが、そんなことさえすっかり忘れていた。
 
 アキが中学三年生だった夏に、母方の祖母が胃がんになった。跡を継いでいる弟夫婦は兼業農家だったし、いとこ達もまだ小さかった。そのため、五人兄弟の長女でもあり一番身軽な母が、入院中の祖母を看病するために田舎へ行った。
 胃を全摘した手術は成功し、転移の心配は全くないと、主治医は説明した。
 祖母の体力が回復して孫たちの世話ができるようになるまでの間ということで、アキの母は祖母を家に引き取ることにした。
 八月下旬、近くに住む叔母家族ふた組が集まって、祖母の全快祝いが賑やかに行われた。
 数日後、祖母を連れて行った病院で、アキの母は絶句した。
「余命一年です。」
 胃がなくなった祖母のために、母は甲斐甲斐しく世話をした。
「いつもおかあさんがたくさん用意してくれるけど、おばあちゃん、こんなに食べられないから、あんた、お食べ。」
隣の部屋で受験勉強しているアキに、祖母はそうっと襖を開けて、バナナやビスケットが乗ったお盆を手渡した。
 祖母を迎えて四人家族になったアキの家に、しばらくは穏やかな時間が流れた。
「横浜のベトにはなりたくない。」
やがて祖母も自分の病状を悟ったのか、しきりに田舎へ帰りたがるようになった。何度か叔母たちが集まって話し合ったが、祖母の望みは叶えられなかった。
 医師の言葉どおり、祖母は翌年の八月に亡くなった。
 アキは高校二年生からの進路を決める時期を迎えていた。祖母の最期を身近で見たアキにとっては深刻だった。両親が死んでしまえば、自分一人が残される。父は家庭科コースへ進めと言うが、その先どうすればいいのか分からない。同じ高校を卒業した大学生の兄がいることもあってか、取りあえず文系に進んでから考えると言うハルを羨ましく思った。   
 一人でも生きていかれるような仕事に就きたい。そのためのコース選びだ。そう思った時、アキが思いついたのが馬だった。中学一年の時に行った遠足で触れた、あの馬の大きな優しい目が脳裏に浮かんだ。犬の目の可愛さどころではない。
(そうだ!馬に関わる仕事がしたい。)
 アキは大騒ぎして母に頼み込んだが、担任との二者面談を済ませて帰宅した母は言った。
「馬に関わる仕事なんて現実的じゃないから、勧められないって。」
アキのコース選択は暗礁に乗り上げた。

 翌日、アキは乗馬学校を訪ねていた。
(スゴイ!)
乗馬学校の門をくぐって驚いた。まさにそこは別世界だった。葉を落とし始めたイチョウやサクラの大木に囲まれた馬場には、のんびりと馬の背中で揺られている人の姿があった。その向こうに見える厩舎の窓からは、何頭もの馬が顔を出していた。
 アキは逸る気持ちを抑えるのもやっとで、クラブハウスへ急いだ。
「あのう、馬に乗りたいんですけど。」
中に居た女性に、年甲斐もなく直球のひと言をぶつけた。
「馬に乗ったことはあるの。」
穏やかに応対してくれたチャーミングな女性が、オーナーの奥様だとすぐに分かった。
「いえ、ないんです。無理ですか。」
「じゃあ、一度ビギナーで乗ってみてください。その後のことはそれから決めていただきます。」
 一週間後、アキはアリスという牝馬(メス馬)にまたがっていた。馬の背中は思ったより高く、見晴らしがよかった。綱を持つインストラクターの周りをグルグル回るだけだったが、すっかり乗馬の気分を味わっていた。
「やっぱり家の近くに乗馬学校があったわ。思い出させてくれてありがとう。今日早速、アリスっていう馬に乗せてもらってきたんだ。すごく可愛かった。」
ハルに一部始終を報告していた。
 その後、入門コースで馬との接し方や基本的なことを教えてもらった。慣れてくると乗馬前後の手入れもさせてもらえるようになり、アキにとってはそれがまた楽しい時間になった。
 よく躾けられた馬たちはおとなしくて賢い。習いたての下手な合図に反応しているのではなく、先生の言葉に従っているようにさえ思えてくる。
 人馬一体という言葉どおり、馬と心を通わせることができたと思えた瞬間、アキはなんとも言えない嬉しい気持ちになるのだった。
 今でこそ乗馬クラブはあちらこちらにできたが、五十年も前にこの地に乗馬学校を設立した校長先生の先見の明は素晴らしい。北京、リオデジャネイロと二度もオリンピックに出場している馬場馬術の現役選手が、校長先生のお嬢さんである。息子さんも障害飛越の選手として活躍している。
 アキは前の東京オリンピックでサッカーの予選を観戦した。次の二〇二〇年は、馬術競技を観戦、応援したいと思って今から楽しみにしている。
 
 あれから進路を決められずに悩み続け、急性胃炎になって胃カメラ検査まで受けさせられた十六歳の冬は最悪だった。祖母が亡くなったばかりだったので、両親が過剰に心配したのも無理のないことだが。
 今こうして、昔の夢が形を変えて実現できていることを、アキは不思議に思っている。
 明日、アリちゃんに会いに行こう!

著者

はなみずき 紅