「アンティル・ザ・モーニング・ライト」河口佳々

 ぼんやりと目を開けると、紺色の帽子をかぶった女性がこちらを覗き込んでいた。私と同じ二十代後半か、少し若いくらいに見える。帽子と同じ紺色の制服を着て、青色のネクタイを締めていた。
「お客様、終点です」車掌さんだった。
 寝ぼけと酔いでモヤがかかった頭を左右に振って、今自分がどこにいるかようやく気づく。私は電車の中で眠ってしまっていたのだった。すでに他の乗客は降りてしまったようで、私と彼女の女二人だけが深夜の車両に残っていた。
 なるべく平静を装って彼女に尋ねる。
「ありがとう。ここは何駅ですか?」
「終点の湘南台駅です。当駅発の電車は全て終了したので、気をつけてお帰りください」

 彼女にもう一度礼を言って電車を降りる。ホームのベンチに座り、一時間前のハイボールと日本酒が未だにゆっくりと頭の中を回っている中で、今日の出来事を再確認する。
 今夜は横浜駅近くの居酒屋で会社の飲み会に参加していた。同じ部署で働く一個下の後輩の女の子の送別会で、二次会は同じビルのダイニングバー、三次会のカラオケはパスして、弥生台のマンションに帰るため、0時二十分過ぎの横浜発いずみ野線の最終電車に乗ったのだった。始発駅だったので運良く席に座ることができた、までは良かったがそこで眠り込んでしまい、気づいたら数駅乗り越して終点の湘南台駅、というのが今の状況だ。
 私は小さく息を吐いて、改札に向かうため立ち上がった。

 金曜深夜のタクシー乗り場は数十人の行列になっていた。湘南台駅は他の路線の終点でもあるので、この行列の何割かは私と同じく終電を乗り過ごした哀れな酔っ払いに違いない。タクシーは何台か来ているけれど、ほとんどが一人客なので列の長さはほとんど減っていなかった。
 最後尾に並んだ私は誰も居ない自宅ではなく、朝までカラオケをしているはずの同僚たちと再合流するため横浜駅まで戻ることを考えていた。カラオケが苦手なこともあって一度は別れたけれど、今日で会えなくなる後輩との最後の夜をもう少しだけ長く過ごしたいと思ったのだ。素人の歌が流れ続ける空間でも、曲の合間や皆が疲れて休んでいる時間帯に、彼女と少し話すことぐらいはできるはずだ。
 一分ほど列に並んで、その肝心の彼女が明日午前中に引っ越し業者が来るという理由で、自分と同じく電車のある時間に帰ってしまっていたことを思い出した、つまり今横浜駅にいるのはただのカラオケ好きか、もしくは飲んで騒ぐのが好きなだけの同僚たち。私は行列に背を向けて歩き出した。

 湘南台から弥生台まで四駅あるのは駅を出る前に確認済みだった。その程度ならゆっくり歩いても朝までには家に帰れるはず。雨の心配もなさそうだし、今日はヒールではなくローファーを履いている。大通りだけを通ればひとりでも危険も無いし、本当に疲れたらタクシーを捕まえれば良い。
 地図を確認するためポケットからスマホを取り出して、電池の残りがほとんど無くなっていることに気付く。いざという時のためなるべくスマホに頼らず、相鉄線の高架を目印に家を目指すことにする。頭を駆け回っていたアルコールは、涼しい夜風に当たり続けたせいか、ほとんど動きを止めたようだ。

 少しクリアになった頭で考えながら私は歩く。終電を乗り過ごしたのは社会人になってからは初めてだった。飲み過ぎてしまったのは、後輩の送別会に対して私なりに思うことがあったからなのかも知れない。素面のままで彼女との別れに向き合うことができなかったのだ。
 私が勤める部署に新入社員として彼女が入ってきたのは私が入社二年目のことだった。年齢も近く、そのあと今日までの五年間女性の後輩が入ってこなかったこともあって仲良くなり、会社終わりや休日もしょっちゅう一緒に遊びに出かけたり、二人で旅行に行ったりしたこともある。仕事についての相談を受けたことも何度もあったけど、辞めたいという話を彼女の口から聞いたことは無かった。
 彼女が退職するということは一ヶ月前に上司から知らされた。退職を考えているということも、退職を決めたことも、私に直接話してくれなかったことも、悲しかった。苛立ちと気まずさもあり、この一ヶ月間、彼女と個人的に連絡を取ることはしなかった。
 彼女は送別会の挨拶で、退職理由は転職でも寿退社でもなく実家のある九州に帰るためと言っていた。それ以上の理由はその場では出てこなかった。

 境川の橋を渡り、しばらくすると大きな通りに出た。18号線と書かれた道路標識が見える。深夜で人影はまばらだけど、トラックや乗用車がひっきりなしに車道を走っている。相鉄線の高架を左手に見ながら歩き続ける。
 少し歩くとゆめが丘駅の案内看板が目に入った。湘南台の隣駅だ。家まではあと三駅。今まで素通りするだけだったゆめが丘駅がどういう駅か知りたくなり、私は寄り道をすることにした。
 大学受験の頃、ゆめが丘駅と相鉄本線の希望ヶ丘駅の間の切符が、「夢」と「希望」が入っていることから受験生の合格祈願のお守りとして流行ったことがあった。地方の女子高生だった私は、このお守りの存在を全国ニュースで知り、横浜の大学を志望していたこともあって、東京に出張する父親に頼んで買ってきてもらったことがある。あのときは東京も横浜もすぐ近くのように思っていたけど、今になって考えれば、都内からわざわざ横浜の端の駅まで買いに行ってくれた父親にもっと感謝すべきだったのだろう。
 お守りの効果かは分からないけれど、第一志望では無かったにせよ無事大学に合格し、憧れていた横浜での生活を始めることができた。だけど大学時代は別の沿線に住んでいたせいか、あの頃私の夢の象徴になっていたこの駅に降りたことは一度も無かった。

 ゆめが丘駅は18号線から道を一本入ったところにあった。当然この時間では駅舎は閉まっていたけれど、街灯の薄明かりでぼんやりと全体像を見ることができた。一階が改札で、二階のホームは半透明のドーム状の屋根に覆われていた。薄いオレンジの厚紙切符のイメージから何となく木造の駅舎を想像していたけれど、思ったより近代的な建物だった。
 しばらく駅舎を眺めていると、通りから漏れた車のライトが壁に貼ってあったポスターを照らした。
「受験生応援 ゆめきぼ切符 当駅にて発売中」
「今でも売ってるんだ」思わず独り言が出てしまった。

 18号線に戻り、帰り道を歩く。考え事をしていると、ふくらはぎに力が入る。ヘッドライトが何度も私の頬を照らし通り過ぎていく。
 夢と希望に満ちあふれていたはずの横浜暮らしは、想像とは違っていた。会話や歩く速度、流行りの話題、ファッション。都会のスピードに戸惑い、付いていくのに精一杯だった大学時代、生まれた場所を出ただけで違う誰かに生まれ変わることなんて出来ないことに気づいてしまった。
 必死に就職活動を行って入った会社では、それなりにやりがいのあるそれなりの仕事。自分にしか出来ない仕事を探し続けるほど子どもじゃないつもりだったけど、自分じゃなくても出来るとわかりきっている仕事をやり続けるのはやっぱり辛い。
 お守りの切符は上京の時に持ってきたはずなのに、いつの間にかどこかに行ってしまった。

 いずみ中央駅を過ぎる。家まであと二駅。ふくらはぎが重くなってくる。横浜での楽しい思い出もたくさんあったはずなのに、今の精神状態では何も思い出せない。
 私は疲れていた。たった今も、これまでの十年も。両親にすら言ったことは無いけど、実家に帰ってしまおうと考えたことも一度や二度ではなかった。たまに恋人が出来てもいつも長続きせず、誰も待ってなんていない部屋に帰るだけの毎日。いつも一人だった。そして今日、私は数少ない大切な友達まで失ってしまったのだ。

 18号線と並行していた相鉄線の高架は、次のいずみ野駅の手前で大きく右にカーブしていた。右折する道を探したけれど、見渡す限り細い路地ばかりだった。
 地図を検索するためポケットからスマホを取り出し、後輩からメッセージが二通届いていたことに気づく。一つは会社の同僚全員に宛てた感謝と別れの挨拶、もう一つは私に宛てた長い文章だった。
 メッセージを読み終えたタイミングでスマホの電池が切れた。

****

 夜明け前、私はいずみ中央駅近くの公園のベンチに座っていた。家に帰ることを諦め、前の駅に引き返して電車が動き出すことを待つことにしたのだ。
 その公園はちょっとした高台にあって、泉区の街を見下ろすことができる。少しずつ夜の闇が薄まり、川沿いから丘陵まで続く家々の屋根がだんだんと輪郭を作っていく。街路樹や畑、山の木々が緑色に染まっていく。私は、街と自然が融け合った、この地域の風景が好きだったことを思い出した。
 社会人になった時、いずみ野線の沿線を選んで引っ越したのも、地元と同じくらい自然が豊かなこの街に惹かれたからだった。さっきまでの私はそんなことも忘れてしまっていたのだ。遠くに並んだ屋根の輪郭がぼやけ、緑がにじんでくる。
 彼女のメッセージは会社を辞めることを言い出せなかったお詫びから始まっていた。父親が倒れてしまい、介護を手伝うため実家に帰ること。いつかまた横浜に帰って来たいこと。歳は違っても仲良くしてくれた私に感謝していること。親友だと思っていること。私が実家に帰るか迷っているのに気づいていたこと。そのせいで自分が帰ることを言い出せなかったこと。私に横浜に居続けて欲しいこと。
 メッセージにはこんな一文があった。
「勝手なお願いかも知れませんが、私がこの大好きな街にいつか戻ることができるように、先輩には私の居場所であり続けて欲しいのです」

 太陽はまだ姿を見せないけれど、空は白くなり始め、夜は終わっていた。
 私は、一生かまでは分からないけど、もう少しこの街で暮らそうと思った。明日になったら、いや、今日になったらやりたいことがある。家に帰りスマホを充電して、シャワーを浴びて少し眠った後、電車に乗ってゆめが丘駅にもう一度行きたい。そこで切符を二枚買いたい。私の分といつか彼女に渡す分だ。
 そのつぎは希望ヶ丘駅にも行ってみたい。

 遠くで電車の揺れる音がする。始発電車がやってきたようだ。私は公園のベンチに腰掛けたまま、その音を聞いている。もうしばらくここにいて、私は朝日を待っている。

著者

河口佳々