「アンブレラ・メッセージ」倉田 史

 序章

 改札の横に、傘が置いてあった。
 ボロけた木箱に、三本、時には五本、急な夕立の日には完売していることもあった。完売、とはいえ、その傘は無料のものだった。ただのビニール傘から、紺色で木製の柄のもの、女性もののピンクの傘。どれも新品からは程遠い、使い込まれた傘だったが、どれを手にしても安心感があった。
 駅を利用する人なのか、近隣の住民なのかはわからないが、寄付によって集まった「思いやりの傘」だったと思う。
 そういう僕も、実は一時期頻繁に使っていたことがあった。
 今使っていないのは、その傘たちが姿を消してしまったからだった。
 あの時の、名前も知らない誰かの、単なるいたずらにしては巧妙すぎる僕へのメッセージは、今でも忘れられない。
 もう二年も前の話だ。
 僕の、淡く浮ついた小さな恋は、二年前に、やっぱり儚く消えてしまった。

 一章

 二年前の僕・上川満は、高校二年だった。ついこの前中学生になったと思ったら、あっという間に受験、卒業。友人と一緒に受けた高校になんとなく入学し、特別なことは何も無い高校生活を送っていた。
 気がつけば七月。友人が彼女を作ってしまったため、僕は一人での登下校となった。
 ああ、惨めだ。
 そんなことを思いながら、僕は七時半すぎにホームに降り立つ日常。
 ホームルームは八時半だから、これでも早い方だった。
 携帯ゲームに勤しみながら、今日はやけに生乾き臭いな、と鼻を鳴らす。この時点で大分後悔はしていた。
 折り畳み傘は玄関の靴箱の上。
 いつもは鞄に入れてあるのに、今日は英語の辞書を持っていかねばならないため、嵩張るからと、ちょうど置いてきたのだった。
 ホームから少し見えている、今にも泣き出しそうな空を、心底恨めしく思って睨みつけた。
 学校に着いて、そんな恨みも忘れた頃、案の定雨が降ってきた。
「傘持ってきてねえよ。」
 あちこちからそんな声が上がる。煩いぞ、なんて注意しながらも、教師の目も窓の外だった。
「凄い雨だねえ。」
 僕の隣で、そうぼやく女子生徒がいる。多分、もしかしなくても僕に話しかけてきている。
「お前、傘持ってきたの。」
 嫌々そう返すと
「持ってきてるっていうか、いつもロッカーに折り畳みが入ってるから大丈夫。」
と笑った。
 僕が返事をしたのが相当嬉しかったのだろうと思う。
 笑顔のまま、ずっと前髪を触っている。
 小竹ひな子。
 僕の幼稚園からの腐れ縁だ。
「話しかけるな。あと名前で呼ぶなよ。」
 僕が小竹にそう言ったのは中学一年の時だった。
 小学校六年間ずっとクラスが一緒だった僕と小竹は、年を重ねてもそれなりに仲が良かった。しかし、大人に近づくにつれ、男と女の関係というのはギクシャクするもので、一緒にいるのを見られるのが嫌になった。
 高校こそは別々になると思ったのに、試験会場で小竹を見つけた時は本当に絶望した。
 小竹は頭が良かったから、今の高校に受かってしまうことはわかっていた。
 本命とやらが受かってくれればそっちに行くだろうと、僕は小竹の第一志望合格を心から祈っていた。
 そんな捻くれた僕の願いを、神様は聞き入れてはくれなかったのだが。
 いつも散々に貶しておいてなんだが、小竹は可愛かった。多分男子には結構人気があった。
 妙にノリもいいし、男子が騒いでいても嫌な顔をしないし、なんなら一緒に話にすら入る。だからこそ僕は、小竹が苦手だったのだと思う。
 一週間前の席替えで、運がいいのか悪いのか、隣になった僕らは見事に正反対の表情を見せた。
「よろしくね。」
「話しかけんなって。」
「なによ、挨拶くらいいいでしょ。」
 そう怒りながらも、小竹は笑っていた。
 僕はそのまま無視決め込む。小竹はすぐに右隣のクラスメイトにも同じように声をかけた。窓の外を掠めた葉っぱを見送る僕の耳に、ハイタッチの音が転がり込んできたのも、なかなかに不快だった。
 そんな不機嫌だった一週間前を思い出しながら、起きる頃には雨が止んでいることを期待しながら、僕は机に伏せた。
 授業が終わり、目を覚ますと雨はむしろ強くなっていた。
 そのまま放課後まで、雨が止む気配はなく、僕は帰りのホームルームが終わると同時に教室を飛び出した。職員玄関を覗き込む。
 いつもここに、貸出用の傘が置いてあるのだが、今日はもう一本もなかった。
 ため息と一緒に肩を落とす。
 ここから駅まではなかなか時間がある。しかし、駅までの十五分と、最寄り駅からの二十分、計三十五分のためだけに、コンビニで五百円以上するビニール傘を買うような無駄遣いを僕はしたくなかった。
 仕方が無いので、カバンの中のプリント類を、今朝行きがけによってきたコンビニのビニール袋に押し込んだ。教科書は持ち帰らない主義だったので、懸念すべきプリントと筆箱を全て袋に仕舞い、靴を履き替え、覚悟を決めた。
 周りを見回す。知り合いは誰もいない。
 そのまま昇降口を飛び出した。
 傘をさしている人たちの横を、僕は止まることなく駆け抜ける。
 帰宅部の僕には、なかなかきつい運動ではあったが、それより止まって知り合いに声をかけられる方が恥ずかしかった。
 無視できる信号はすべて無視して、駅まで着いた。僕は持っていたタオルで適当に髪や服を拭き、一番ホームに直行した。
 スマートフォンにイヤホンを繋ぎ、雨音を無視するために適当に曲を流す。
 二十分程電車に揺られ、駅に着いた。
 改札を出て、ダメもとで木箱を見に行く。
 奇跡的に一本のビニール傘があった。
 買ったばかりかと思うほど綺麗な状態だったので、運がいいなと思わずにやっとする。
 階段を降りて傘を開く。
 ふと、骨の部分に、針金で留められた紙を見つけた。雨の中に出る前に、二つに折られているそれを見てみることにした。
『この傘を使ってくれてありがとう。傘も喜んでいます。』
 綺麗な、どこか温かさを覚える字だった。女性かな、と思う。
 わざわざ傘を用意したのだろうか。
 そんなことを思いながら、有り難く使わせていただこう、とその手紙を付けたまま家まで帰った。
 家に着くなり母が
「メール見てないの?」
と、リビングから出てくる。
 傘を玄関の端に立てかけて、音楽をかけ始めてから一度も開かなかった携帯を開く。
 傘を忘れていったのに気がついた母から、
『迎えにいくから駅に着いたら電話してね。』
というメールが届いていた。多分僕が最寄り駅の二つ隣の駅で、急行電車の通過を待っていた時だろう。
「ごめん、全然見てなかった。」
「その傘、買ったの?」
「いや、駅で貸し出してるやつ、まだ一本あったから借りてきた。」
「あらそう。でもずぶ濡れね、先にお風呂入っちゃったら。」
 母は、何のためにあなたに携帯を持たせてると思ってるの、と呆れ顔でリビングに戻っていった。
 水を吸いすぎて一回り太った靴下を脱いで、風呂桶にお湯を張っている間に、部屋に着替えを取りに行く。
 制服のズボンとネクタイを洗濯機に突っ込んで、乾燥機にかける。
 そして鞄の中身を全て取り出し、ビニール袋の中の紙類が無事だったのを確認して、ため息をついた。
 ふと、ビニール袋から出した筆箱に目をやる。
 そしてボールペンを取り出して、半裸で玄関に向かい、傘の骨に付いていた手紙を取った。
「あんた、なんて格好してるの。風邪引くから早くお風呂入りなさいよ。」
 母が眉間に皺を寄せてそう言う。
「すぐ終わるから」
 母に一瞥くれながら玄関で突然傘を広げ始めた僕に、怪訝そうな顔をしたが、何も言わず僕と弟の部屋に洗濯物を起きにいった。
『助かりました。ありがとう。』
 空いていたスペースに、汚い字でそう書いた。安定した場所がなかったのもあって、字が歪んでしまい、眉を顰める。
 雨に降られたあとなのに、心は晴れやかだった。

 二章

 それから三日間は雨続きだった。
 故に、傘を返したのは四日後。土曜日だったので、塾に行くついでに、なんとなく人目を気にしながら木箱に戻した。そしてその塾からの帰り、気になって木箱の中の例の傘をそっと取り出した。
 同じ電車に乗っていたのであろう人たちがほぼ全員立ち去ったのを確認し、そっと傘を開く。手紙はついたままだった。
 僕の添えたメッセージの他には何も書かれていない。
 何かを期待していたのが少し恥ずかしかったので、そそくさと傘を戻し、足早に階段を降りた。
 それから一週間くらいは、木箱の前を通るたびに例の傘を探した。
 そのうちテスト週間になり、僕らは夏休みを迎えた。
「夏休みだからって、髪染めたりするんじゃないぞ。」
 そんな担任の注意を掻き消すほど、クラス中が、約四十日の休息に胸を踊らせていた。
「お前ら来年は受験だぞ、遊んでばっかりいないで、勉強もちゃんとするように。」
 真面目に聞いているのは僕と小竹くらいだった。小竹は小竹で、
「もう夏休みなんて、信じられないよね。」
と、また僕に話しかけてきた。
 答えなくていいかな、とため息をつく。
「ねぇ上川、英語終わった?」
 恨みを込めた僕の全力のため息に怯むこともなく、小竹はついに名指しで尋ねてくる。
「終わった。貰ったその日に。」
「本当に?私全然進まないの。仮定法苦手なんだよね、教えてくれない?」
「やだ。」
「数学教えてあげるよ。」
 悪魔の囁きもいいとこだ。僕は圧倒的に数学が苦手で、そういえば去年も屈辱を味わいながら、小竹の兄に教えて貰ったのだ。
 大学こそちゃんとした所に行かないと、就職もできなくなる、と思っている。
「一週間考える。」
 僕のそんな唸り声のような返事に、多分小竹は満足そうに笑った。
 いつからか、顔を見ながら話なんて出来なくなっていた。
「了解。いつでも連絡して。大体いつでも暇だから」
「友だちと遊んだりするんじゃないの?それに塾は?」
「遊ぶけど、もう夏休みの予定は全部立ててるもん。これ以上追加はしない。あと、私塾には行ってないし、行く予定もないから。」
 その言葉に、久しぶりに小竹の顔を見た。長い上向きの睫毛が、嬉しそうに瞬いた。
「行かねえの。」
「行っても行かなくても、多分私成績変わらないから」。
 そんな余裕に満ちた言葉に、途端に湧いた対抗心。
「やっぱり俺、数学自力でやるわ。」
 そう言い放った瞬間、ホームルームが終わった。僕はいつも直ぐに教室を出る。
 本当はこのまま帰宅するつもりだったが、授業もないのに塾に向かった。
 そして、受けるはずだった夏期講習を全てキャンセルした。
 そのことを知って戸惑い、眉を顰める母親の心配を他所に、その一週間後には塾ごとやめてしまった。
 僕はただひたすら小竹に負けたくなかったのだ。
 それから僕の夏は、毎日学校と家の往復だけだった。
 片っ端から教師を捕まえては、必死に問題集に齧り付いた。
 そして夏休み半ば、夕立に見舞われた。
 母からのメールに気付き、返信して待機しようと、ホームにあるベンチに腰を下ろす。
 僕は今までずっと持ち歩いていた折り畳み傘を持ち歩くのをやめた。理由は想像するに難くないものである。
 雨が壁の隙間から入り込んでくるので、仕方なく携帯を弄りながら改札を出る。
 午後五時半。まだ駅に人は多くなかった。
 相も変わらず毎日気になっていた木箱を覗くと、三本の傘が自分たちの出番を待っていた。
 あの時のビニール傘と思わしきものを、何故か悪いことをしているような気分で恐る恐る手にする。開いてみる。やはり骨に小さな紙切れが括りつけられていた。
 あの時のままだろうか。
 そんなことを思いながら、震える手でそっと触れてみた。
『お役に立てたのなら光栄です。それから、これを読んでくれているのがあの時の方なら嬉しいです。雨は、嫌いですか?』
 あの時と同じ、綺麗な字だった。白魚のような線の細いしなやかなその字は、やはり温かかった。
 純粋だった頃の僕なら、この懐かしさを分かってくれるような気がした。
 母からメールが届いた。
 その傘を持って、僕は迎えに来た母の車に乗る。
「あら、傘持ってたの?」
 バックミラー越しにそう尋ねてくる母に、
「借りた」
と、答えた。
 なんでにやにやしてるのよ、と母は眉を顰めた。
 これから濡れる予定のないこの傘を、今までに買った傘のどれよりも大事に抱えて帰った。
 帰宅してすぐに傘からメモを外し、返事を考えているうちに、夕飯が出来たと母が部屋にやってきた。咄嗟に数学のノートにメモを挟み、立ち上がってから角が折れたりしなかったか気になって、ノートをそっと開いた。
素知らぬ顔のメモは無傷だった。
 ご飯を食べ、ニュース番組を見終えてから急ぎ足で部屋に戻った。
 返事を先に書こう、とメモと睨めっこする。
要らなくなったプリントの裏に試し書きを幾つもした。
『あの時の者です。またお借りしました。ありがとうございます。僕は雨が嫌いでしたが、好きになりました。』
 書いていて恥ずかしくなったし、ペンで書いてしまったことをすごく後悔したが、さっさと傘に付け直して、翌日木箱に戻すまで一度も見返さなかった。羞恥心がぶり返す予感しかしなかったからである。
 それからまた数日、その傘を見かける度に人目を気にしながらメモを確認したが、そのままだった。

 そして六日後の水曜日。
 期待に震える気持ちを抑えながら確認すると、メモが変わっていた。
 その日は曇りだったが、僕はその傘を持ち帰った。
 メモが変わっていることは確認したが、なんとなく勿体なくてその場で内容を確認することが出来なかった。
 帰宅してから、雨でもないのに傘を借りてきたことを母に怪しまれないように、傘ごと部屋へ持って入った。
 メモを外してから、アウターが掛かっているスペースに、宝物を埋めるように傘を掛けた。
 わくわくする反面、怖さも抱えながらメモを開く。
『またお力になれて良かったです。私も、雨は好きです。水たまり、飛び込みたくなりませんか?』
 その字からは想像のつかない無邪気さに、思わず微笑んだ。
 勝手に僕は女性だと思っていたが、実際のところはわからないし、年もわからない。それでも想像するだけなら自由だろう、と色々考えた。
 歳は離れているような気がしたが、この際お婆さんでもいいな、と思う。
『折り畳み傘は邪魔になるので、持ち歩くことが減りました。これだけ暑い日が続くと、僕は雨の中に飛び出したくなることがあります。』
 前のように悩むことなく、ボールペンを走らせた。
 翌日木箱に戻すと、今まで貸し出しに出ていた傘や、新入りかなと思うような傘が十本近くささっていた。まるで花のように色とりどりになっている傘たちの中でも目立たないように混ぜ込んだ。
 それから毎週水曜日に返事が返ってきていることに気がついた。
  この相手の正体がわかるんじゃないかと意識して探すも会うことはなく、夏休みは明け、学校が始まった。
 相変わらず水曜日には返事が返ってくる。
 たわいない話をするのが楽しくて、僕らは少し砕けた書き方をするようになった。
 ほとんど同じに見えるビニール傘が何本あったとしても、迷うことなく選び抜くことが出来るようになって、少し誇らしかった。
『この前、普段愛用している傘が壊れてしまったので買い換えました。若草色の綺麗な傘で…鎌倉のお洒落な傘屋さんで買いました。』
『緑が好きなんですか?僕も好きです。』
『そうなんですね!緑好きの方、初めて会いました。』
『僕もです!ところで、最近秋っぽくなってきましたね。』
『早くニットが着たいです。』
『ついに今日、ニットを着ました。冬乗り越えられるかな。』
『私ももう着ましたよ!もう秋と言うより冬ですね、秋を堪能出来ずに終わりそう。』
『僕は冬が嫌いなので、辛いです。』
『私は冬生まれなので、冬は好きです。』
『誕生日いつなんですか?』
『一月十日です。まだお正月気分の中、気づいたら歳をとってる。』
『なんかめでたいですね。』
『めでたい気持ちではないけど、年明けってみんな気持ちが明るいイメージがあるので、なんとなく好きです。』
『ああ、確かに。それは幸せですね。』
『あけましておめでとうございます。この傘を使っていただいてから、半年も経ったんですね。』
『あけましておめでとうございます。それから、お誕生日おめでとうございます。半年があっという間でしたね。』
『ありがとうございます、また一つ歳を取りましたが、変わらずよろしくお願いします』
『こちらこそよろしくお願いします。』
『あっという間に年度も変わってしまいますね。』
『そうですね。実は僕今受験生なのですが、この冬を無事に乗り越えられたらいいなと思っています。春はお好きですか?』
 長く続いた僕らの一週間おきの文通は、そこで途絶えた。
 木箱が傘ごと撤去されたからだ。
 気がつけば、あの木箱にあったのは僕らの繋がりであったこの傘以外、昔馴染みの傘を見る回数はめっきり減っていたように思う。
 それからまるであの半年間は夢だったかのように、僕は二十歳を迎えた。

 三章

 成人式を終え、久しぶりに母校に顔を出しに行った後、小学校の同窓会にも参加することになっていた。卒業式が終わったあとにタイムカプセルを埋めたのだ。もう何を埋めたかなんて覚えていなかったが、同じクラスだった小竹から連絡がきたため、二人で行くことにした。
 高校の同窓会が終わり、僕と小竹は校門で待ち合わせをして、駅へ向かう。
「今日びっくりするくらい晴れてるよね、凄く寒い。」
 午前の成人式が終わってすぐ、振袖から夜の高校の同窓会の為に、ピンクのドレスに着替えて、その上にコートを着ているだけの小竹が顰めっ面でそう言った。
「そりゃ寒いでしょ。手袋は?」
「忘れちゃったよ、振袖で手袋なんてしなかったから。」
 普段は笑顔の耐えない小竹の眉間に、控えめにシワがよっているのが珍しくて思わず笑う。
 名前も知らないあの人とのやり取りがなくなってから、取り立てて何か変わることもなく無事に受験を迎え、僕と小竹は受験を成功させた。そして幸か不幸か、大学まで同じになってしまった。
「いや、さすがの私でも、気持ち悪いなって思うよ。」
 入学して二ヶ月経った頃に食堂で出会ったが、小竹ですら引き気味だった。学科が違ったので、共有の場所でない限り会わなかったのである。
 その日の夜、僕は小竹と二人で夜に食事をしに行った。その後は学校でも空き時間に顔を合わせることが増えた。
 短かったけれど、あのたわいもないやりとりをしてから、僕は心が楽になった。小竹と話すのも、前ほど嫌ではなくなったし、小竹と関わりたくなかったのは、劣等感に押しつぶされそうだったからだと、気づき始めてたのだった。
 嫌いだった雨や冬が好きになった。
 嫌いだった自分のことも、なんとなく好きになれたのかな、と今になって思う。
 そして今からちょうど一年程前に、僕は小竹と交際を始めたのである。
「満と私が付き合ってるって知ったら、多分みんなびっくりするだろうね。」
「ああ、僕が小竹のことを本気で嫌ってるんだと思ってたみたいだから。」
「思春期って複雑なんだね。あの態度で嫌いじゃなかったなんて、私ですら信じてないから。」
「何回も説明してるのに、まだ分かってくれないのか?」
「そりゃそうだよ。」
 そう不貞腐れる顔も新鮮だった。
「なんでそんなに信じてくれないんだよ。今日はいつもより当たりがきついな。」
「だって、いつまで経っても私のこと名前で呼んでくれないんだもん。」
 そう言って僕を睨んでから、別に期待はしてないから、と拗ねたまま改札口を通り過ぎて、さっさとホームに向かってしまった。
 なんとなくぎこちない雰囲気のまま、僕らは八年振りの小学校に足を踏み入れた。
 あの時は大きくて立派に感じられた門も、校舎も、桜の木も、随分と小さくなったように感じた。
 僕らが大きくなった証拠だった。
 すでに十名程の同期たちがついており、タイムカプセル発掘作業が行われていた。
「上川、手伝って。」
「いいけど、本当にここだったっけ。」
「わからん、だから思い当たるところ掘っていこうと思って。」
 ノリに任せている男共を、不安いっぱいの顔の小竹たちが見守っていた。
 結局六ヶ所も掘ってしまったところで、それらしき物にスコップがぶつかった。
 誰かが家から持ってきたクッキーの缶だった。それを見た瞬間に、僕は何を入れたのかを思い出した。
「ひな子、何入れたか覚えてるの?」
 友人からのそんな問いかけに、小竹は左斜め上の空を仰いだ。
「本当に全然思い出せないんだよね、なんだろう?」
 そう言いながら、たった今開いた缶を覗き込んでいる。それぞれ名前の書いたビニール袋を取り出した。
「上川の、あったぞ。」
「何それ、手紙?」
僕の名前の書いてあるビニール袋には、封筒が入っていた。
「いや、手紙もだけど、手紙だけじゃなくてさ。」
 そう言って取り出した封筒は、元々の色を思い出せないほどくすんで、ボロけてしまっていた。
 小竹は友人たちと撮った修学旅行の写真を入れていた。
「懐かしい。撮ったよね、こんなの。」
「かなり色あせてるね。」
「時代感じるわー。」
 一緒に写真を撮った友人が何人か来ていたようで、小竹の周りは盛り上がっていた。
 僕は開封しないまま、そっと鞄にしまって友人の思い出を覗きに行った。
 そこから一時間ほどして、僕と小竹は高校の同窓会に向かうために、一足先に学校を出た。
「写真なんて入れてたんだなぁ、なかなかいい思い出だと思わない?」
 行きの機嫌の悪さはどこへ行ったのか、小竹は飽きもせず写真を眺めていた。
 僕はそれに適当に呼応していたが、
「満は何入れてたの?覚えてた?」
と、僕が待っていたその一言にようやく小竹の顔を見た。
「うん、缶を見て思い出した。」
「へぇ。何入れてた?」
「僕さ、あの日入れるもの持ってくるの忘れたんだよね。」
 実感が湧かないまま迎えた卒業式に、僕は散々言われていたタイムカプセルの中身を忘れてきた。
 どうしたものかと考えあぐねて、僕は例の封筒をビニール袋に入れて、土の下に封じたのだ。
「これ。」
「なにこれ?」
「僕が、ひな子に渡すつもりだったやつ。」
「え?私?」
 歩きながら喋っていたのに、小竹が足を止めたので、中途半端な場所で二人立ち尽くした。僕が名前を呼んだことに、気づいているのかわからないが、凄く変な顔をしている。
「待って、話がわからない。どうして私に渡すはずのものを入れちゃったのよ。」
 混乱と緊張の混ざった声が、必死に僕を問い詰めた。
 多分、僕は昔から小竹を振り回すのは得意らしい。
「意気地がなかったから、ちょうどよかったんだ。色々なものから逃げたくて、卒業もしたくなかった。どうせ中学に行ったら大体みんないるし、今じゃなくてもいいかって思って、隠した。」
 それを聞いてからやっと、小竹は僕の思い出を受け取った。
「多分、渡さなくて正解だったんじゃないかなって思ってたけど。今だから渡す。」
 小竹は返事もしないまま、そっとビニール袋から封筒を取り出した。そして封筒を開けると、恐る恐る中を覗いてから、泣き笑いのような顔をした。
「なにこれ。」
「読めばわかる。」
 そう笑って見せた。本当は心臓が口から飛び出そうなくらい緊張していたし、恥ずかしかった。
 小竹は、白いクシャクシャになった便箋を取り出すと、一度深呼吸をしてから開いた。
その姿は、二年前の僕によく似ている気がした。
 読み終わってから、小竹はやっぱり笑いながらも泣いていた。冷たく真っ赤になった指先で涙を拭おうとするので、
「古いもの触った手で目触らない方がいい。」
と、僕はその手を制した。
 本音を言うと、小竹の涙が綺麗だったから見ていたいという気持ちの方が大きかった。
「ねえ、いつから?」
 僕と目を合わせずに、ずっと便箋を見つめたまま、小竹は問う。
「わからない。」
「わからないの?」
「うん、でも、僕は今それ見てないけど、なんて書いたか覚えてるよ。」
「嘘。」
「信じてくれないかもしれないけど、僕は小竹ひな子のことが好きです。ずっと前から好きでした。ひな子が僕のことを好きじゃないのは知っているけど、それでも好きです。冷たくしてごめんね。」
 予定通りにこれを渡していれば、こんな恥ずかしい思いをすることはなかったな、と思いながら、僕は八年前の手紙を暗唱した。
 大事な手紙だったから、何度も何度も書き直して、何度も何度も呼んで確かめた。
 お年玉貯金で買った、三千円のハートのネックレスが一緒に入っていた。
「馬鹿だよね、満って。」
「うん。」
「ねえ、これ付けて行く。付けてよ。」
「そんなおもちゃみたいなやつじゃなくて、おばさんが成人祝いでくれたやつがあっただろ?」
「いいの、今日はこれがいい。」
 やっと泣き止んで、顔を上げた。
 小竹は封筒をバッグにしまって、僕は八年間も土の中に閉じ込められていたネックレスを付けてやった。
 思ったよりも綺麗な状態で残っていたようで、違和感はあまりなかった。
「悔しいから言っておくけど、私の初恋は満じゃないから。」
「へぇ、誰なの?」
「うーん、わからない。知らない人。」
「は?」
「同い年だったのかな、それとも三つ年下だったのかな、もしかしたら年上かも。受験生ってことしか分からない」
 もう一つのタイムカプセルが蓋を開けた。
「私、春って別れの季節って感じで、あんまり好きじゃなかったんだけど、好きになったんだよね。それを伝える前に、その手段がなくなっちゃったわけだけど。」
 小竹は、封筒だけ置きに行きたい、と駅に向かう途中にある自分の家に立ち寄った。
 玄関で待ってて、という小竹の言葉は、玄関の傘立てにささっているビニール傘に気づいてしまった僕には聞こえていない。
その隣には綺麗な若草色の傘が並んでいた。
「お待たせ、え、なに?どうしたの?今日雨降らないよ。」
 真剣な顔で傘を見つめる僕に、小竹は怪訝そうな顔でそう言った。
「冬生まれだから、冬が好きなんだな。」
「え?」
「僕さ、この傘のお陰で、嫌いだった雨好きになったんだよ。」
「・・・嘘でしょ?」
「春は、お好きですか?」

 昔、僕はボトルメッセージに憧れていた。
 実際に返事が届くことなんてきっとほとんどないのだろうけれど、夢と希望と、人の温かさの詰まった瓶に出会いたかったし、届けてみたかった。
 そんな僕にとってあのビニール傘は、ボトルメッセージのようなものだった。
 ボトルメッセージならぬ、あの駅の木箱に投げたアンブレラメッセージは、二年の時を経て、夢と希望と、そして温かさを連れてまた僕の元へ戻ってきたのだった。

著者

倉田 史