「エクレアのひととき」大和屋 幹

 長い時間を経て今日もようやく着いた。
 環状四号を過ぎた辺りからゆっくりめの動作で降りる準備を始める。
 長年繰り返してきた動作が、ドアの開くタイミングと正確にリンクする。まるで宇宙ステーションのドッキングのようで、この所作はお気に入りである。
 私が電車を降りてホームのベンチに座り、過ぎ行く電車を見送ると、けたたましい電車の音のシーンから一転、静寂な空間がそこに満ちていく。まるで何かの舞台をみているようで可笑しい。
 この場所に私が引っ越してきた当初は、この舞台の暗転にはとても戸惑わされた。
 人の心を不安にさせるとても効果的な舞台演出であり、またこの駅はそのための舞台装置ともいえた。
 だが長いこと通勤で使用していると人間というのは慣れるものであり、今ではこの舞台演出は割と気に入っている。長い通勤シーンを締めくくるには小憎たらしい演出だ。
 時折私はすぐに家に帰らずに、この静寂の満ちたホームでひとときを過ごす時がある。
 毎日とか、何曜日とか、休日前とか、特に規則があるわけではなく、なんとなく、ただなんとなくそうしたいときに、なんとなくそうしているだけなのだ。
 首を回して辺りを見回す。
 今日は、もうだれもホームにいない。駅の面白い構造で有名なこの駅は、人のいない駅としてもわりと有名だ。
 「ようこそ、ゆめが丘へ!」
 もし誰かがこの駅の初心者ならばそう声をかけてあげたい。この打ち上げられた深海魚の脇腹のような駅は初めてですか?大丈夫です、これでも無人駅じゃないんですよ?と。
 深遠なる駅のベンチで、私はそんなくだらない事を考えている。次の電車まで誰もいない静かな駅で。
 
 私がこの駅の周辺に移り住んできたのは、15年程前で、この駅もまだ真新しかった。
 私はこの奇抜なデザインと、遠くに見える富士山にとても感動を覚え、自分の中でなにか新しい事が始まっている!などと思ったものだ。
 だだしその爽やかな気持ちは、夜帰って来たときには、ん?なんか自分終わってる?とじゃっかん引き気味な感情で満たされることになった。
 別にこの駅が嫌いになったわけではない、ただこの駅周辺部に比べ、ホームから望む湘南台の街の明かりが眩しすぎただけだ、自分は文明社会からはみ出したのではないかとすら感じてしまった。
 街の灯の明るい事よ!
 あれ?街ってあんなに明るく光るものだっけと真剣に驚いた、気づかされた。湘南台にしたって、大都会というわけではない。そこが大都会に見えるのだからゆめが丘の僻地っぷりに、心が疲れているときは泣いてしまいそうになることもあったほどである。
 それから15年、駅周辺は何も変わっていない。いや、コンビニはいくつかできたし、パン屋もいくつか増えた。それだけでも進化といえば進化であって、もう都会といっても良いのではないかと思えてくる。もちろん都会でも何でもないのだが。
 長年耐え忍んだ甲斐もあってか、下飯田駅も含めた駅周辺部の開発が始まっている。
 どのようになるかなどの詳細な計画はわからないが、とにかく色々とお店やらなんやらが出来るようである。
 期待に胸が膨らんで膨らんで今にもはち切れそうで、明日枕元の靴下にでも新しい街が入っていないかなとか思ってしまうぐらい期待している。
 が、元からの住民でないにせよ長年ここに暮らしているのだ、色々な計画の噂が流れては消え、消えてはまた流れる。そんな「ゆめが丘」ならぬ「ゆめみが丘」なんて揶揄されても仕方がない程開発されてこなかった土地だ、今回の計画もどこまでが本当なんだか、と近所でも既に計画は嘘だよ派が出始めている。今回こそは、本当であると切に願っている。
 何も変わっていない様でも、確実に変わっているものがある。自分は老け、お腹は出っ張り、息子は大学に入った。
 お腹はわがままに育っていてほとほと困り果てているが、息子は多少わがままでも、成長してくれる事にうれしい以外の気持ちはない。
 ここに来た時には、何もないねなんて言っていた息子も今は大学生となり家を出て行った。
 今は都会でキャンパスライフでも楽しんでいるのだろう。たまには帰って来いよと思うが、お前が楽しんでいるのならば父さんはさびしくてもうれしいよ。
 だが息子よ、父さんが長年ここから赤羽に通勤しているのに、なぜにお前は蕨でひとり暮らしななのだ、ひとり暮らしを決したあのジャンケンは、おまえの後出しじゃなかったか?父さんは、もう一度お前に問いたい。
 JR線との直通運転が開始されれば、私もお前も行き来がしやすくなる。たまには帰ってくるだろう。と自分を納得させるように、もう一人のすくすく育っている子、お腹をなでる。
 しかし、なくならないねお前。腹をなでながらそう思う。このまま行ったらまた健康診断でメタボ判定だ。昔だったらメタボ腹でも笑って済ませられたかもしれないが、今では、自己管理が出来ていないと昇進にも影響が出てくる。
 自己管理がまだまだ足りないのかねぇ。などと思うが、栄養指導も受けて食事にも気をつけている。
 野菜もよく食べるようにといわれて気をつけているし、脂っこい物が大好きというわけでもなく、甘い物にも興味はない方だと自分では思っている。
 昔、親父が食事制限守らずに、油物食べてる時に、なんで守れないのかねぇ。なんて思っていたものだが、いざ自分が遣ってみるとなかなか苦しいものである。
 あぁ、愛しのポテトサラダ。
 野菜でも糖質なので基本だめです。とポテトサラダをダメ出しされた日もこの駅でひとときを過ごしたな、そう思いつつ天を見上げと、視界の全てが駅舎の鉄骨で覆われる。
 へちゃむくれなこの駅舎は、未来的といえば未来的、不格好といえば不格好で、なんとも形容しがたい。
 陸に上がった深海魚のような、
 潰したホースのような、
 うっかり踏んでしまった階段を勝手に下るスプリングのおもちゃのような、
 私はこの駅について思いを巡らせる。
 もうそろろそ次の電車がやってくる、今日も『何か』を思いつかなかったなと、一人笑う。
 さて家に帰ろう。コンビニでかみさんにお土産でも買って帰るかな?と思ったときにふと思いついた。
 そうだ「エクレア」だ。へちゃむくれな感じが実にいいじゃないか。深海魚よりもいいな、次の『何か』が決まるまで、エクレアでいこう。深海魚の深淵なひとときよりも、エクレアの甘いひとときの方が断然魅力的だ。
 そう思いつつ私は駅を後にする。

著者

大和屋 幹