「カイソウレッシャ」氷川久吾

人生に当たりとハズレがあるのなら、僕のはきっと『ハズレ』だ。
 夜明け前、冷たい空気のなか僕は線路沿いの歩道を急ぐ。回送列車が追い抜いて行く。しかも2台続けて。勿論必要があって走っているのだろうけれど、僕ら乗客にとっては単に乗れない列車だ….
 陸橋を昇って駅に着けばいつもの列車がくる。また乗り継いだ列車を降りたら早足で職場に向かう。始業1時間以上前に到着だ。4月に就職して半年以上たったけれど、地方の大学を出た僕にとって、毎朝の通勤ラッシュは堪え難い。自主時差通勤のおかげで少しは空いている列車に乗れるし、仕事の下調べや自分の勉強の時間がとれる。
「あーら、今日も早いのね」職場の『お局』先輩がやってきた。年齢不詳だけれど、去年孫ができたという噂もある。
「ちゃんとご飯食べてるの?痩せ過ぎなんじゃないの」ちょっとおせっかいなのだ。
「僕一人暮らしに慣れてるのでご心配無用です」
そして腹を揺らしながらバタバタ走ってきたのが、太めの『ポチャオ先輩』汗だくだ。
「ああセーフ。危ねえ、部長より遅くなるとこだった」
そして部長の登場だ。
「お早うございます」目を合わせるのも気が重くて、うつむいたまま挨拶した。
「オイ何だ、その気のない挨拶」この人は苦手だ。いつも叱る理由を探されている気さえする。仕事が始まるとまた僕は部長に叱られるのだ。
「オイ何回言ったら覚えるんだよお前は!」部長の声が響き、お局先輩もポチャオ先輩も目を伏せて関わらないようにしている。
「うまく立ち回れよー、いい加減慣れてもいい頃じゃないの」
ちゃかすポチャオ先輩。このひとは世渡りが上手そうだけど、
「彼が入ってきて、君の失敗が目立たなくなったんじゃないの」
お局先輩にやりこめられていた。
皆悪い人じゃないのは分かっているんだ。だけど寒くなってきたし、身も心も寒風に吹かれているみたいで、落ち込み気味の僕だった。

 すっかり夜が更けて、駅の階段を降り、また線路沿いの道を帰る。歩くと少し距離があるけれど、貴重な運動の時間でもある。古びた木造の家の鍵をあける。この家はかつて、母方の祖父母が住んでいた。駅前のコンビニエンスストアで買ってきた弁当を頬張りながら、お気に入りの音楽を聴く。飯は美味いし、音楽もいいなと思える。「うつ」を発症するとご飯もおいしくないし、感動もできなくなるってどこかの本で読んだ。それなら多分まだ僕は「うつ」にはなっていないのだろう。でも今にも心が折れそうだ。
 
 昨夜ひどく叱られたせいもあって、今朝は足取りも重い。まだあたりが暗い中、線路沿いの道を行く。いつもの回送列車がやってくる。線路が高架になっているので電車がよく見える。電灯で照らされた窓が闇に浮かび上がるのを何気なく見上げると、あれ?誰も乗っていないはずなのに、ドアの窓に人影が見えた。しかも小学生くらいの男の子のようだ。列車が近づいてくると顔も見えた。
「え?」我が目を疑った。僕の弟に似ている…
通り過ぎる一瞬に目が合った。悲しそうな表情。信じ難いが6年前に亡くなった弟に違いない。
 あの日母と歩いていた弟は突然歩道に突っ込んできた車にはねられた。弟をかばったと思われる母は即死だった。弟は救命センターに運ばれたが助からなかった。高校を早退して駆けつけた僕は、もう涙がとめどなく流れて、先に着いていた父の上着の袖を握りしめていた。同じ救命センターには、2人をはねた運転手も運ばれてきていた。
「本当に申し訳ありません、申し訳ありません..」『加害者』の奥さんという人が僕より小さい子を連れて泣きながら謝り続けていた。この家族も父親をなくしてしまったのだ。あとで聞いたところでは、『加害者』はまだ40代で、脳の動脈瘤が破裂し、意識をなくして事故をおこしたらしかった。それは普通の健診を受けていても見つかるものではなく、防ぎようのないことだそうだ。
 相手を憎んだり責めたりできたら、少しは気が楽になったのだろうか?父は僕の肩を抱いて小さな声で言った。
「誰のせいでもないんだよ。そして相手の人に罪を償わせて、沢山お金を貰えたとしても、亡くした人たちは帰って来ないんだよ。」
そう、ただ運が悪かったのだ。僕たち家族も、『加害者』の家族達も..
 弟は電車が好きだったから、僕が高校に電車で通い始めたのを羨んでいた。「お出かけ」弟が電車に乗るときは、窓にはりついて立っていて楽しそうだった。それで電車の地縛霊にでもなってしまったのか?
 弟は事故に遭う前の晩弟はサッカーを始めるんだとはしゃいでいた。
「ねえ、サッカー教えてくれる?」
「僕はサッカー得意じゃないよ」
「小学校のときチームにはいってたって言わなかったっけ?」
弟と僕は歳が離れていて、普段喧嘩することも少なかったのだけれど、この時は
「今忙しいんだ!あっち行っててよ」
試験が近くていらだっていたので、うるさくてつい怒鳴ってしまったのだった
 珍しく、言い返すこともなく出て行った弟の悲しそうな顔を覚えている。列車の窓に見えたのはあの時と同じ表情だ。…僕は今でも後悔している。あの日地と泥にまみれた母と弟の荷物のなかに、真新しいサッカーボールがあった。もう会えなくなるなんては夢にも思わなかったんだ。

 次の朝。また足取りは重い。毎日部長には叱られ通しで仕事もうまくいかない。今朝も回送列車が近づいてくる。またしてもドアの前に乗っている人が見える。しかも二人。すぐにわかった。亡くなった祖父母だ。祖父の方が大分若いのは、先に亡くなったからだ。長いこと入院していたけれど、僕は高校受験間近で、あまり会いに行っていなかった。僕たちの家族は少し離れた住宅に住んでいたけれど、父と僕だけになってしまってから祖母の家に引っ越したのだ。父は両親を早くに亡くしていて、母の両親とは仲が良かった。祖母は優しかったし、父と僕の面倒をみてくれた。父はいつも仕事の帰りが遅かったし、もともとことばが少ない人だった。事故の後もっと話さなくなってしまった。正直、母や祖母に比べると、僕のことをどう思っているのか以前からよくわからない人だった。叱られもしなかった代わり、褒めてもらった記憶も乏しい。父の出身校にはいるには学力が足りなかったので、僕は遠くの大学に進学した。離れていた間に、祖母は出先で倒れ、あの救命センターで亡くなった。僕も駆けつけたけれど、雪がひどくて飛行機が飛ばず、新幹線も時間がかかり、臨終に間に合わなかった。もっと会っておけばよかった、今でも悔やんでいる。
 駅に着くまでに涙目になってしまった。これは夢?それともとうとう精神に異常をきたしたのか?あまり僕が落ち込んでいるから幽霊が慰めにきてくれたのか。あれは『回想』列車ってところかな。おかしくなったと思われたくなくて、誰にも話せなかった。
 会社も第一志望ではなかったけれど、何とか首都圏に就職先をみつけて、僕は故郷に戻ってきた。今度は父が遠くへ単身赴任した。以前から会話が少なかった僕たち父子は、離れてしまったせいでもっと話す機会もなくなり、もともと愚痴をきいてもらうような間柄でもなかった。家族がいなくなってしまった父も気の毒なのに、思いやるには僕にも余裕がなさ過ぎて、尚更疎遠になっていた。
 僕が一番会いたい人は、まだ現れていなかった。

 今日は今まででも最悪だった。顧客を怒らせてしまい、部長に一緒に謝ってもらう羽目になった。部長のカバーでなんとか交渉を台無しにしなくて済んだものの、社に戻ってこっぴどく叱られた。
「お前は一体何を考えてるんだよ!」
でもさすがに今回は僕も腹が立った。
「でも先方の言っていることが違うんですよ。僕は確かにお伝えしましたし、目つきが気に入らないとまで言われても..」
「言った言わないで揉めてどうすんだよ!社会人失格だよ」
あまりの部長の剣幕に、お局先輩もポチャオ先輩もうつむいて見ないふりだ。
夕方、さすがにあまりにも怒鳴ったので気にしていてか、それともお説教し足りないのか、部長が帰り際僕に声をかけてきた
「どうだ、飲みにでも行くか?」
生憎僕はからっきしの下戸で、種類を問わず酒を飲むと微塵も気持ちよくならず、ひたすら具合が悪くなるのだ。父もそうだ。なのにいつも付き合いで無理して飲んでは真っ赤な顔で帰ってきて、苦しがっていたっけ。「社会人」になるってやせ我慢することなのかな。僕は声が震えているのを感じながら答えた。
「折角ですが、まだ仕事が残っていますので」酔って説教する人とわかっているし、今日はこれ以上の叱責にはもう耐えられない。

 夜も更けて帰り着いた。もう夕食をとる元気もなかった。僕はこの仕事に向いていないのかな。それどころか本当に部長に言われたように社会人失格なんだろう。小さい家だけれど一人には広すぎる。父にメールして愚痴ってみようか。でも、久しぶりの連絡がそれじゃ、情けない僕にがっかりされてしまうのじゃないだろうか。…母がもしいてくれたら…やめよう、落ち込むだけだ。
 よく眠れなくて、いつもより更に早く目が覚めてしまった。そのせいで今朝は『回想列車』が来る前に駅についてしまった。列車が近づいてくる。いつものような、銀色に青とオレンジや赤の線の塗装ではなく、真っ白な列車だ。真黄色の「試験運転中」の列車はみたことがあるが、これははじめて見る。白い列車が近づいてくるとドアの前に人影が見えた。
 …懐かしい母の姿だ。ホームを走って駆け寄ると列車は止まった。この時間にはホームには普段駅員はいないし、事務室にも人影はないのだが、若いのに青白い顔色の駅員がいて、
「乗るんですか?」と尋ねた。ユニホームも真っ白だ。
「乗せてください!」と叫ぶとドアが開き、6年前のままの姿の母がいた。
胸が詰まって、思わず「僕も連れて行って..」と言ってしまった。
母は表情を曇らせた。
「お父さんを一人にするつもりなの?」
そう言って列車の窓のひとつを開けると、父の職場の窓だ。父のデスクがみえる。
母と弟がいた頃の家族写真、祖父母の写真の隣に、僕が送った卒業式の写真が飾られていた。父と部下らしい人が話している。まだ半袖だ。2か月ほど前かな。
「所長、本当に夏休みとらなくてよかったんですか」
「ああ、息子と日をあわせられなくてね」
「息子さんが帰る家がなくならないようにって、転勤を延ばして昇進が遅れたたって聞きましたよ。会ってあげればいいのに」
「息子も、何考えてるのかよくわからないしねえ」
写真の横に赤いリボンの小さな包みがある。
「それ息子さんへの就職祝いじゃないですか?渡してないんでしょ」
父は包みと一緒にあった封筒を引き出しにしまいながら
「これね、知り合いから送られてきたのだけれど、息子が喜んでくれるかどうかわからないので..」
封筒の差出人の名に見覚えがあった。
「事故の加害者の奥さんなんでしょ?…」
「そんなことまで知ってるんだね」
「あ…立ち入ってすいません、でも皆知ってます。職場にいつも手紙が来るので、噂になったこともあるんで」
「先方の息子さんは大学に行けなかったけれど、就職したからってね、お祝いをくれたんだよ。苦労したみたいでさ」
「所長、自分みたいなアカの他人にこんなに話してくださるんだから、ご自慢の息子さんにもっと伝えてあげればどうです?」
自慢の息子?僕が?

「お父さんだけじゃないわよ、あなたを心配してくれている人は」
その窓をしめて、母は反対側の窓をあけてみせた。
僕の職場だ。昨日の夕方、僕が席を外していた時のようだ。これは『開窓』列車とでもいうものかな。
お局先輩が珍しく部長に詰め寄っていた。
「部長、さすがに言い過ぎじゃないですか?先方にも言われて相当しょげてたのに」
ポチャオ先輩も
「これで奴が辞めちゃったりしたら、部長パワハラ呼ばわりされますよ」
部長もいつになく
「あいつにはさ、ことばのやり取りがまずいから教えようとしてるんだよ…
飲みに誘ってもいつも断られるし」
「彼、本当に全然飲めないんですよ。歓迎会のとき、介抱する羽目になっちゃって大変だったんですからね。無理強いしたら今度はアルハラってやつですよ」
「そんなんだから部長、自分の息子さんも外国行って行方知れなくなっちゃうのよ」
2人の先輩に押しまくられて部長もたじろいでいた。
「おいおい行方不明じゃないよ、…帰って来ないだけだってば」
「奴のこと期待してるから今度の仕事任せてみるって言ってたじゃないですか、早く伝えてあげればいいのに」
ポチャオ先輩がこんなに僕をかばってくれてたなんて知らなかった。

気付くと隣の車両に祖父母が黙って立っていた。僕の眼に涙があふれてきた。
「お爺ちゃん、おばあちゃん..もっと会いに行けばよかったんだ、ごめん」
そして、弟もいつの間にかそこにいた。
「あの時怒鳴っちゃってごめん!」
弟は笑顔で答えた
「変だよ、喧嘩して謝ったことなんてあったっけ?」
祖母も笑って、
「私たちは、もうなんでも見えるし、なんでも知ってるからね。でも生きてる人たちには、ちゃんと話さないと伝わらないよ」
そういって反対側の窓を開けた。

 これはまた職場。先輩たちと部長が慌てている。これは現在かな?
「おい本当に来てないのか?」
「何度か携帯にかけたけれど圏外みたいですよ」
「か、家族とかは?」
「お父さんしかいないし、単身赴任中です。さっきかけて聞いてみたけれど連絡ないそうよ」
「どうしよう、まさか早まったこと…警察か?」
「部長落ち着いてください、もう少し待ちましょうよ」
窓を閉めながら、母が微笑んで言った。
「もう大丈夫でしょう?早く戻りなさい」
ドアが開いて、僕は後ろに吸い込まれるように飛ばされた。
母の声が響いた。
「お父さんを守ってあげてね。私の代わりに….」

気付くと駅のホームで、駅員に助け起こされていた。さっきの白い服の駅員に顔が似ている気はするけれど、見慣れた紺色の服だ。
「大丈夫ですか?列車に接触したわけではないようですね」
 まわりの乗客が駅員を呼んだらしい。僕は立ち上がり、
「ありがとうございます。寝不足で立ちくらみ起こしたみたいです。」
 時計をみて驚いた。
「あれ!僕1時間以上倒れてたんですか?」
「いえ、数分前に見つかったばかりですよ」
 夢だったのか?次の列車に乗って職場に急いだ。携帯をみるとポチャオ先輩、そして父から着信がある。寝過ごしたのなんのといっても、信憑性がなさそうなので、正直に伝えることにした
「すみません、駅で倒れちゃったみたいです。今から向かいます」
 職場へ急ぎつつ、父にも連絡しなければ…ひとつ確かめておかなきゃ。
 電話すると父はすぐに出た。
「どうしたんだ!職場の人に探されているぞ」
「無事だよ、今向かってるよ。..父さん、もう出勤しているでしょう?お願いがあるんだ」
「えっ」
「父さんのデスクの写真を撮って、すぐメールで送ってくれないかな?確かめたいことがあるんだ」
「なんでだ?変な奴だな」
 戸惑いつつも急いで父が送ってきた写真は、ちょっとぶれているけれど僕の写真と赤いリボンの包みがみてとれる。ということは「開窓」列車の窓からみたのは本当のことだ。では職場は大騒ぎだ。急がなくちゃ。ホコリは払ったけれどジャケットがよれよれで、大泣きしたから目は真っ赤だ。そんな姿で遅刻寸前に駆け付けたものだから、部長も先輩たちも狼狽した様子だ。
 
「すみません、こんな時間こんな姿で」
「お、俺もさ、昨日は言い過ぎてすまなかった。お前に任せようと思ってる仕事があるし、期待過剰でついきつくなっちゃってさ..」
 こんな情けない部長ははじめて見た。
 お局先輩も
「部長あなたのこと陰では、自分の息子みたいって言ってるのよ」
「まあ、歳も俺の息子と大して変わらないし..」
 「海外にいらっしゃるんでしょう?」僕はついさっき聞いたことを口走ってしまった。
「あれ?お前に話したことあったっけか?、まいいや、今夜ちょっと、飲みに..じゃなく飯でも食わないか?」
「はい、御一緒します」

その晩、僕たちは部長の行きつけの居酒屋でご飯を食べた。
「ふろふき大根、追加お願いします!部長ごちそうさまでーす」
ポチャオ先輩も一緒だ。
「なんでお前が一番食ってんだよ?」
「二人だけでは到底できなかったであろう、この円滑な会話と和んだ雰囲気を提供しておりますので」
「やれやれ。まあいいから2人ともしっかり食えよ、明日も忙しいぞ」
部長をみていたら父を思い出した。
 
 あれから、回送列車はただ通り過ぎていくだけの空っぽの列車に戻った
 父は、にわかに電話をかけてくるようになった僕に戸惑っていたようだけれど、嬉しそうでもあった。
 「お前ってそんなにしゃべるんだね…」
 「今度、僕が父さんのところに行こうと思ってるんだ」
 「嬉しいけれど、無理しなくても、もうじき年の瀬だ。正月休めるのかい?   私も休むから、うちで一緒に過ごせるよ」
 
 あの日助け起こしてくれた若い駅員さんを、夕方事務室で見かけることがある。僕に目が合うと会釈してくれるようになった。多分僕くらいの歳だと思うけれど、笑顔っていいものだな。その笑顔は、僕に『大切なこと』」を教えてくれた、あの不思議な出来事を思い出させてくれる。
 ……もしかして、彼は何か知ってるのかな?
 そうだったとしても、尋ねようとも思わない。今の僕にはもうあの列車は必要ないだろうし。
 
 僕は今日も線路沿いの道を早足に歩く。寒さも増してきたし、夜明けもさらに遅くなって真っ暗だけれど、通り過ぎる回送列車を見るたび心の中で
 「大丈夫だよ。」とつぶやく。人生は失敗と後悔に満ちている。『ハズレ』かもしれないけれど、それでも僕はやっていけるよ。

著者

氷川久吾