「カワセミを見た日」野口順古

 「ただいま」
 「お帰り」
 「お母さん、今日駅で男の人に声を掛けられて、どうしていいのか分からなくって困っちゃった」
 「えっ、何があったの。詳しく話して」
 ランドセルを背中から降ろしながらこちらを向いたサチの顔は笑っていたので、母の友絵は少し安心した。小学五年生のサチは、クラスでも大人びて見える。
 「その人ね、白い杖を持っていて、『二俣川に行く電車はこれか』って聞くの」
 友絵は、急に背が伸びて来たなと、娘を見ながら思った。
 「サチは何て答えたの」
 今度はゆっくり話す事が出来た。
 「『これでも行けるけど、急行はあっち』って言って、わたし直ぐに電車に乗っちゃった。でもね、電車の中で何だか悪いことしてしまった様な嫌な気持ちになったの」
 「なぜかしら」
 「うーん。その人、わたしの話が良く分からなかったんじゃないかなって思ったの。あっちって言われたって、どっちのことって思うでしょ。わたしがそう言われたら、やっぱり『この人不親切』って思うもの」
 「サチ、白い杖を持っているってことはどういう意味なの」
 「目が不自由ってことでしょ。それは知っていたけど、急に声を掛けられてしまったし、どう説明すれば良いのかとっさに分からなかったの」
 次の日、友絵は娘のサチに言った。
 「来週の日曜日、お母さんと出掛けましょう」
 「まぁ嬉しい。ズーラシア?それともお食事?」
 「どちらでもないわよ。二俣川にあるライトセンターよ」
 「ライトセンター?何するとこなの」
 「目の不自由な人が利用している所。でも私達も利用できるのよ」
 「どうして?」
 「この先は、行ってからのお楽しみね」
 日曜日、サチは母と連れ立って二俣川にあるライトセンターへ出掛けた。
 「講習会はどうだった」
 会議室から出て来たサチに声を掛けた。
 「お母さん、わたし良く分かったわ。一所懸命に聞いていたら、白い杖を持っている人への声の掛け方とか、一緒に歩く時の位置なんかも丁寧にお兄さんが話してくれたから、頭の中にスーと沁み込んだ様な気がする。目隠しして階段を昇り降りしてみて、歩くことの怖さも知ったしね。『小さいのに偉いわね』って話し掛けて来た人がいたの。その人、『目の不自由な人に手を貸したいけど、どうしたら良いのか分からないから、今日の講習に来たのよ。あなたは』って聞かれたから、『母がわたしを連れて来たの』って答えちゃった」
 友絵は、サチのキラキラした瞳を見詰めながら、こうしていろんな人や出来事に出合い、考えながら様々なことを吸収していってくれるのだと、日々の確かな成長を感じた。
 サチの通う小学校までは、自宅のある上星川から横浜駅まで相鉄電車に乗り、後はスクールバスに乗り換える。
 ある日、サチは学校からの帰り相鉄線の横浜駅で乗車の順番を待っていた。電車が入って来る左方向に目を向けていると、小学二年生の弟の祐希と同じ位の男の子が立っていた。祐希と違うのは、白い杖を持っていたことだ。電車がホームに入って来たが、周りの人達は、少年を気にする様子は無い。ドアが開くと同時に、サチは少年の側に走り寄った。
 「何か手伝うことある?」
 「あ、ありがとう。大丈夫だよ」
 「席、空いているから座わろうね」
 「わたしサチ。何か手伝えたら嬉しいんだけど」
 「うーん。僕はもう慣れているから・・。でもね、朝の混んでいる時は、ちょっと怖いかな。乗る時は、防護柵が出来たから良いんだけど、降りる時は押されるから、後(あと)から降りる様にしてるんだ」
 「そうよね。朝はみんな急いでいるからね」
 「僕、一(かず)実(み)。天王町駅で降りるんだ」
 「朝は何時に天王町から乗っているの」
 「七時三十六分だよ」
 「ねえ。わたしもその時間の電車に乗って良いかしら」
 「良いけど・・」
 「じゃあ明日から一緒の電車ね。何両目?」
 「三両目の四番ドア・・」
 「一実ちゃんに会える楽しみが増えた!じゃあ、明日ね!」
 次の日、サチは少年が教えてくれた時刻と車両の停止位置で待っていたが、一向に現れる様子が無い。『遅刻しちゃう』サチは後ろ髪を引かれる思いで、電車に乗った。次の日もそしてその次の日も、少年に出会うことは無かった。
 「ねえお母さん、天王町って、どんな所なの」
 「商店が一杯あるわよ。特に“横浜のアメ横”って言われている松原商店街が有名よ。年末にテレビに映るでしょ」
 「今日、学校の帰り、ちょっと寄ってみて良いかな」
 「どうしたの」
 サチは、駅で声を掛けた白杖を持った一実の話をした。
 「そう・・良いわよ。暗く成らないうちに帰りなさいね」
 日没が遅くなったと言っても、初春の日暮れはまだまだ早い。
 「ええ、駅の周りを歩いてみるだけ」
 「会えると良いけど、そう上手くはいかないでしょうね」
 「この前会った時間に合わせて行ったら、会える気がするんだけど。でも、どうして会えないのかな」
 「そうね、どうしてかしらね」
 サチは次の日、学校の帰りに天王町で降りてみた。サチの上星川より、商店が多い。飲食店・果物屋・お花屋さん・それに医院も多い。でも何より多いのは、商店街を行き交う人の数だ。
 『随分と賑やかだな。一実ちゃんも歩いていると良いんだけど』
 駅周辺をしばらく歩いて諦め、駅に向かった。丁度、電車が着いたらしく、人の波が改札口を抜けて行く。邪魔にならないように、ポストの横に立って人の流れをぼんやり見ていると、一実が大人に混じってゆっくりこちらに向かって来るではないか。
 「一実ちゃん!」
 サチの大声に、少年は歩みを止めた。
 「偶然ね。会えるなんて!元気だったの」
 「うん」
 「電車の時間、違っていたのかしら。会えなかったものね」
 「うん・・」
 「ちょっと話す時間あるかしら。少しで良いんだけど」
 改札を離れた柱の陰に一実を移動させた。
 「わたしの誘い迷惑だったかしらね」
 「うーん、上手く言えないけど、困ったなって思ったんだ・・」
 「そうよね。押し付けだよね。唯ね、話ながら乗った方が、混んでる電車も楽しいだろうなって思ったのよ」
 「前にも、お姉ちゃんの様に親切にしてくれた女の人がいたんだ。僕がお礼を言うと『君が誰かに親切を返してくれたら、それで良いのよ』って言ったんだ。でも自分の事でも上手くできないのに、他の人に親切なんか出来ないよ。お姉ちゃんに同じこと言われたら、困るなって思ったんだ」
 「そうだったの。そうだよね。それはわたし、言わないことにするからね。親切って、しようと思って出来るものじゃないのよね。自然に心が動いて言葉になったり行動になったりすると思うよ。その女の人は、直ぐにとは言わなかったでしょ。一実ちゃんが出来る様になってから、他の人にも優しく出来たら嬉しいと思ったんでしょうね」
 「・・・」
 「ねえ一実ちゃん、今度の休み、大和の公園に行ってみない。わたしの弟も一緒よ」
 「うん良いよ。お母さんに話してみる。お母さんも一緒に行って良い」
 「もちろん!」
 晴れた日曜日、大和駅にサチと母・弟そして一実・一実の母が揃った。サチや一実を通して母親達はお互いの様子を聞いていたので、初めて会った気がしない。五人は直ぐに打ち解けた。泉の森まで、一実の歩みに合わせてゆっくり進んだ。濃い春の気配が、そこここに漂い五感を刺激する。桜も間もなく満開になるだろう。広い公園内には小川も流れ、運が良ければ“川辺の宝石”と呼ばれている野鳥のカワセミに会える。五人はしばらく川辺にたたずみ、待った。すると青い空を素早く動くものがあった。
 「あ!」
 サチが声を上げた。川の流れに立つ杭の上に、深い緑色と藍色を重ねた美しい姿のカワセミが止まった。一実にこの光景を何と言って説明したものかとサチは考え、一実の顔を見た。
 カワセミの姿を一実の顔は的確に捉えていた。春の陽光とそよ風に包まれた一実の顔は、まるでカワセミの羽根の様に輝いている。サチは、言葉は必要ないと感じた。

著者

野口順古