「キラキラ」緒真坂

 青春は、過ぎ去って振り返ったときに、その姿をはっきりとあらわすものなのかもしれない。

 吊革の数が多い。それであらためて思った。ああ、相模鉄道だと。
 吊革につかまっている。海老名駅に向かう車両に乗っている。土曜日の午前十時だった。車内はすいているというほどではないが、混んでいるとまではいえない。相模鉄道本線に乗るのは、久しぶりだった。おそらく五年ぶりくらいだろう。それまでは、三日に一回は、この電車に乗っていた。横浜から海老名まで通っているといってもいいくらいだったのだ。だが、ある事情があって以来、私はこの電車に乗るのを避けていた。
 苦しかったのである。

 私の前には、運動部に所属しているであろうごつい体格の大学生ふうの若者男子が二人すわっている。

「ふられたとき、おまえならどこにいく?」
 先輩ふうの男子が尋ねた。
「突然ですね。なんですか、それは。失恋ですか」
 後輩ふうの男子がいった。
「聞いてみたかったんだ」
「誰が失恋したんです?」
「おれの弟だ。たったいま、スマホにLINEがきたのだ。ふられた、と」
「それだけ? それで全文?」
「そうだ」
「そのうちにまた連絡がきますよ」
「たぶんそうだろうが、弟は気合いを入れて、朝から出かけていった。彼女と初デートだ。だから心配なのだ」
「弟思いなんですね」
「そうだ」
 てれもせずに、先輩ふうの男子はいった。本当に弟思いの兄なのだろう。
「LINEで聞けばいいじゃないですか」
「聞いたが、返事がない。心配だ」
「大丈夫ですよ」
「そういえば、きのう、弟の様子が変だったんだ。夕食、弟にしては、珍しくリクエストを出していたんだ」
「リクエスト?」
「そうだ」
「何を食べたのですか」
「トマトベースのあさりパスタに、フランスパン、コンソメのスープ、サラダ」
「バランスのよさそうなメニューですね」
「まあ、そうだな」
「誰がつくったのですか?」
「母親だ」
「弟さんは、ふだんからそういうことをいうほうなのですか」
「どういう意味だ?」
「まんまの意味です」
「いや、初めてだな」
「そのなかに、弟さんの好きな食材は、入っていましたか?」
「なんでそんなことを聞く?」
「ちょっと興味があって」
「弟のリクエストに興味があるのか。変なやつだな、おまえ」
「それは、否定しません」
「そういえば、入っていない」
「ぜんぜんですか」
「ぜんぜんだ」
「弟さんは、どこでデートしているんですか」
「三ツ境、といっていた」
「三ツ境で、ボンゴレ・ロッソのパスタが人気のイタリアンってありますか?」
「ボンゴレ・ロッソ?」
「そうです。先輩のお母さんが作ったパスタです」
「母親がつくったのは、ボンゴレ・ロッソというのか」
「はい。食材に好きなものが、ぜんぜん入っていないと聞いて、こう思ったのです。今夜食べたい料理をリクエストするといえば、だいたい自分が好きなものをリクエストする、と相場は決まっています。それなのに、好きでもない食材の料理をリクエストした。なぜか。ぼくは、こう考えました。デート相手の彼女が好きなパスタだからだ、と。
 ぼくたちにも、身に覚えがありませんか。彼女との初デートのとき、不安で、前日に下見をした。弟さんは、翌日のデートで、彼女の好きなパスタをたべにいこうとしていた。それがボンゴレ・ロッソのパスタだった」
「弟は、夕食を下見代わりにしていたというわけか」
「実際にパスタ屋にいくと、お金がかかるし、一人で入店するのは、恥ずかしいですから」
「たしかにそんな名前のパスタが有名な店があるが、でも、それはただのおまえの推理だろう?」
「ですね。当たっているとは限りません。それよりも、先輩、ほら、窓を見てください」
「なんだ、…あ」
 膝の上に載せていたバッグをガタン、と落とした。
「雨だ」
「先輩んち、濡れて困るものを干していませんか?」
「布団を干している」
「お母さんは?」
「外出して、夜まで帰らない」
「弟さんは、ひょっとして、そのことを知らせたかったのではないですか。時間がなかったので、用件だけLINEした」
「だから、ふられた、か」

「ふられたとき、おまえならどこにいく?」
 そのとき、私は彼女から逃げ出したのである。かつての私は、豆腐のようにメンタルが弱かった。

 海老名駅東口を出る。懐かしくて、親しい空気が私を包んだ。古着にくるまれたような心地良さを感じる。私は、さきほどの運動部らしい若者男子の会話を思い出した。彼女との初デート。私の場合は、綿密に予定を立てた。臨機応変な対応ができないことがわかっていた私は、行き先、入る店の選択から彼女との会話までのすべてを想定して、練習した。それでも、予想外の展開に焦り、あたふたし、失敗した。そんな試行錯誤を繰り返した。
 そんなふうにして、私は彼女と三年間、つきあったのだった。

 私はタクシー乗り場に向かった。行き先の結婚式場を告げる。今日、彼女が結婚するのだ。

著者

緒真坂