「グリーンゲーブルズへの道」田中清子

 私は、アンが好きだ。アンとは、赤毛のアンのことである。四十代後半のおばさんが正面切って言うには恥ずかしいが、アンのとてつもない想像力を崇拝し、生きる力をもらっているとまで言える。想像とは何と楽しい遊びだろうか。私の生活に欠かせない彩になっている。
 小学校に入学する前は、物語を読んだ後に自分がお姫様だったらとか、魔法使いだったらと、想像するだけだったが、赤毛のアンを読んでからは、一人時間にこっそりと想像の花を咲かせるようになっていた。折しも、相鉄線で塾通いを始めた時期と重なる。一人で電車に乗るようになったのは、中学受験の塾に通うためで、緑園都市から二俣川の間だった。それまでの私の行動手段は、徒歩以外はバスであった。車酔いのひどい私には、これが難儀で、余程のことがないと乗りたくなかった。一生、住んでいる街から出ることはないのではないか。万が一出たら、二度と帰って来られないのではと、真剣に悩んでいた。だから、自宅から徒歩二十分で行ける緑園都市駅ができたときは、大げさではなく、世界へ飛び立てると思うほど嬉しかった。徒歩二十分の道のりは決して楽ではなかったが、大好きな想像の花を咲かせることができたのでさして、苦にもならなかった。晴れて、中学へ合格し、本格的な電車通学が始まった。往復四十分の道のりは、アンがグリーンゲーブルズへ帰る道のりのように空想のオンパレードだった。例えば、お姫様が静養のため、深い森の奥の別荘に行く設定なら、(新鮮な空気を吸って堂々と歩きましょう。畑を耕している人々には、笑顔で会釈して)というように。そのとき、お姫様になりきって慈しみの目で見ていた光景が今でも心に残っている。その頃の緑園都市駅付近の道は、舗装されているわけではなく、畑の中のぬかるんだ道を掻い潜る様に歩いていた。野の草で両脇がふさがれていて、まさしく、田舎の道なのであるが、今思い出すと、どの道もキラキラと輝いていて、美しい光景として心にあるのである。
 いつまでも続くと思っていた癒しの時間だったが、突然終わりを告げた。長い道のりを一緒に歩く友達ができたからである。その子は、この辺りの私立中学を目指す女子が誰でも憧れるG女子学院のセーラー服にえんじ色のカーディガンを着て現れた。私が中学二年になったばかりだったので、彼女のことは、新入生だろうと思っていた。雨の朝、カーディガンと同じえんじ色の傘をさし、私の前を通り過ぎた。G女子学院に入れるなんて頭がいいのだろうと、羨望のまなざしで見つめていた。ふと、彼女が振り返り横顔が見えた。
「明子ちゃん」
と、思わず口にしてしまったが、雨の音と少し離れていたせいで声は届かず、彼女は足早に去ってしまった。明子というのは、小学六年生で塾に通っていたときに最後にできた友達である。彼女は物静かで大人の雰囲気を持っていたので近寄りがたく、なかなか話しかけられなかった。最後にできた友達というのは、受験前の冬期講習で親しくなったからである。朝から晩まで塾に詰め寄り、同じ空間で学んでいる人達が、本当はライバルなのだが、苦しみを一緒に体験した同士のようになっていたときである。どさくさに紛れて彼女に声をかけてみたら、意外にも気さくで面白く、話に夢中になったのを覚えている。彼女の話は空想が多く、突拍子もなかったが、私にはとてもキラキラした物に思えた。受験直前にできた友達が、一番気の合う大好きな人になったのだが、何せ時間がなく彼女がどこに住んでいるかとか、何人家族か等、彼女に対する知識が殆どないまま別れてしまった。切羽詰まっていたとは言え、あれだけ親しく話したのに私のことを覚えていないことに信じられない思いがあった。よく似ている人なのかもしれないと思い込もうともしたが、釈然としないままだった。
 一週間ぐらい経って、今度は帰りのホームで彼女を見かけた。私は、ドキドキしながら思い切って声をかけた。
「こんにちは。今帰り?」
彼女は、何も言わない。
「最寄り駅一緒だったの?G女子学院へ行っているのね。すごいね」
沈黙が怖かったので、畳み掛けるように質問を続けた。彼女は、
「誰?」
と短く答えて、私を凝視した。全く予想外の反応だったので、何と返してよいかわからず
「誰だっけ?」
と、とんちんかんな受け答えになっていた。
彼女から、冗談だと返してくれるのを切に願いながら、彼女の視線の何十分の一の強さで見つめた。途方もなく長い沈黙に感じられたが、実際には一分間くらいの沈黙の後、彼女から返ってきたのは、
「ごめんなさい。覚えてないの」
と蚊の鳴くような声で発した言葉だった。
「覚えてないのか。そうだよね。あのとき、受験前でお互いに大変だったものね」
と、私は取り繕うように言い、改めて自己紹介をした。塾で盛り上がっていた話題や他の友達や先生の名前等、ありとあらゆるキーワードを出し、思い出してもらうことに必死になった。しかし、彼女の反応は変わらないままだった。次には、何を言えばいいかわからず泣き出しそうになったときだった。先程とは対照的にきっぱりとした口調で、更に驚くことを口にした。
「私、記憶の埋め込みをしたの」
「え?」
「記憶の埋め込みというか、入れかえ」
「どうして」
「塾の成績が今一歩だったの。でも、どうしてもG女子学院に入りたくて。そうしたら、母に最終手段として記憶の埋め込みがあるよと言われて」
私が、ポカンとしている間。彼女は言葉を続けた。
「やるしかないと思ったの」
「それで、G女子学院に合格したの?今までの記憶はどうしたの?」
「全取りかえしたの。合格するために」
事もなげに言った彼女の顔を恐ろしくて見ることが出来なかった。
「立花さんのことは、覚えてないけれど、折角声をかけてくれたのだから、今日から友達になろう」
親しみのこもった微笑みは、あの頃のままだった。だから、冗談を言っているのかもしれない。私は昔から信じやすいから、からかっているだけなのかもしれないと思いつつ、彼女に歩調を合わせいつもの帰り道を歩いた。畑の横に咲いている菜の花が美しく何よりも心和む風景なのに、頭の中にはきれいな色彩が全く入ってこなかった。長いトンネルをひたすら歩いているような、暗い気持ちに覆われていた。彼女は、重要な秘密を打ち明けられたことでほっとしたのか、堰を切ったようにG女子学院での学校生活について話し始めた。そこには、私が今の学校ではあまり感じることのない充実という言葉がくっきりと浮かび上がっていた。思わず、
「うらやましいね。これぞ、理想の学校生活だね」
と、つぶやくように言うと彼女の顔はますます輝きだし、
「立花さん、友達になったのだから舞ちゃんと呼ぶね。舞ちゃんも記憶の埋め込みやってみれば」
「どうやって」
「私こっちに越してきたわけではなくて、診察してもらいに行くの」
「どこに」
「この先の竹やぶの奥に一軒家があるの。あそこで」
「あんなところで」
と思わず言ってしまったが、それを打ち消すような大きな声で彼女は、
「あそこのおばあさんが記憶の埋め込みをできる人なの。舞ちゃんも今日、一緒に行ってみる?」
「今日は、用事があるからごめんね」
と私は言い、逃げるように竹やぶを通り過ぎ急な坂道も一気に登ってしまった。その時の気持ちは、たぬきかきつねに化かされているようであり、怖くて後ろを振り返ることすらできなかった。
「ただいま」
「お帰りなさい。あら、顔色が悪いわよ。具合悪いの?」
と母が迎えた。
「電車に酔ったかも。深呼吸しながら歩いてきたのだけれどね」
「自然の匂いをかいで、すっきりしたでしょう。ここには、何も人工的なものがないからね」
「しばらく休めば、大丈夫だと思う」
と私は言い、自分の部屋へ飛び込んだ。
それから、夜ベッドに入るまでは、帰りの彼女とのやり取りを思い出さないように、難しい数学の問題を解いたり、テレビドラマに集中したりして何とかやり過ごした。ベッドに入り、すぐに寝付けそうもなかったので、意を決して彼女の言動を思い返すことにした。何時間か経っていたからか、特に恐ろしいとも思わず冷静でいられた。落ち着いて考えてみれば、それ程あり得ない話ではなく、たぬきやきつねが明子に化けているほうが余程おかしかった。明子は昔の塾での友達の明子であり、実際にG女子学院に一年遅れで通っている。これは、紛れもない事実として受け止められた。一年間遅れたのは、G女子学院に入れなかったから再度挑戦をしたと言うのも彼女なら、うなずける。小学生浪人は珍しいが、塾で私より優秀であったし、その頃からG女子学院への熱の入れようは半端ではなかったので、一年間遅れて入学することは驚くことでもなかった。だが、引っかかるのは記憶を失くしたいきさつである。本当に記憶の埋め込みというか、入れかえなんてことができるのか。それも、あんなぽつりと建っている農家で、そのことだけはどうしても信じることができなかった。が、彼女のことは昔から好感を持っていたし、相変わらず話がうまいので、友達として付き合っていこうという結論に達したところでようやく、睡魔が訪れた。
 その後、彼女と再び会えたのは、約一か月後だった。お互いの学校の定期テストで、乗る電車の時間がずれたからだと思う。長い期間会っていなくても、すんなりと、会話することができた。もっとも、私のほうは会わない一か月間で、通学一人モードに戻ってしまっていたので、想像力を駆使した空想の世界を繰り広げていた。
「久し振り、元気だった?」
彼女に勢いよく肩をたたかれた。そのとたん空想の世界はぱっと消え、彼女のセーラーカラーのえんじ色に包まれたように感じた。彼女は、あふれるばかりの笑顔で見つめてくれたので嬉しくなり、私も飛びっきりの笑顔で返した。お互いの近況のような話が済み、沈黙になったのを機に空想の世界について話してみた。私が、ますます空想好きになったのも彼女との塾帰りの話があったからなので当然、彼女も調子を合わせてくれると思っていた。
「明子ちゃんも赤毛のアン好きだったよね」
「そう?」
「この道長いじゃない。だから私ね、グリーンゲーブルズへの道と命名して、アンが家に帰り着くときみたいに、色々と想像して帰っているの」 
「あー」
「例えば、お城のお姫様が、自然に触れるために田舎道を歩いているシチュエーションを作って、ヒロインになりきるの」
空想の世界に入る感激を彼女に伝えたくて、一生懸命に話し続けた。当然、彼女も乗ってくれるだろう、小学生の時はあんなに逞しい想像力の持ち主だったのだからと期待していたときに、
「現実逃避」
と冷たい声がした。
「それはね、舞ちゃん現実逃避の何物でもないよ」
「え?」
と言ったきり私は何も言えなかった。そのとき、まわりを包んでいた豊かな緑あふれる景色が全て消えて、アスファルトの灰色に取り囲まれている錯覚に陥った。以前にもこんな感覚があった、あれも彼女と話しているときだったと、ぼんやり考えていた。
「現実逃避と言うことは、今の生活楽しくないのでは?」
そんなことないと早く言わないと彼女に誤解されるとわかっていながら、口を開くことができずにいた。
「覚えてないけれど、舞ちゃんは昔から優しい女の子だった気がするの。だから、あまりはっきり自分の意見を言えないで曖昧に過ごしがちなのかもしれない。でも、楽しくない現実を見つめて変えていかなくては」
それから、空想は現実逃避に他ならないことを切々と説き始め、
「小学生の塾通いのときは勉強ばかりで大変だったから。現実的に楽しいことがなかったから、空想の世界に逃げただけだと思うよ」
と言った。空想に逃げるという言葉に一撃を食わされノックアウト同様、私は情けなくへなへなとその場に座り込んでしまった。彼女は驚き、何も言わずに私を抱き起こした。それっきり、沈黙のまま竹やぶの前まで来た。「きついこといってごめんね。でも、今の自分の世界を見つめたほうがいいよ。学校が楽しくないのなら、舞ちゃんも記憶の埋め込みやってみたらいいと思う」
自分でも驚いたことに、私は涙をながしていた。
泣いている私の顔を見つめ、
「今すぐにはわからないだろうけれど、いつでも相談に乗るから考えてみて」
と優しく言い、竹やぶの奥に去っていった。
私は、どこをどう歩いたかも覚えておらず、気付けば自室のベッドの上に座っていた。制服ではなく、私服だったので、意識せずに着がえたのだろう。その後は、彼女から記憶の埋め込みの話を聞いた日と同じように感情を出さないように過ごした。床に就いて感情はないはずなのに、知らず知らずのうちに涙が流れていた。空想が現実逃避につながることは考えられないこともなかった。赤毛のアンの空想癖は幼い時の悲惨な境遇が、もたらしたものである。私の場合は悲惨な境遇と真逆の両親の愛に包まれて、ぬくぬくと成長したが、一人っ子だったので遊び相手がいない時が多く、人形を使って一人何役もして遊んでいた。その自分で作った役や、設定が空想につながったとも言える。だから、はたから見れば寂しい境遇かもしれない。が、現実逃避したいようなことは、何もなかったはずである。あのとき涙を流したのは、彼女に全く理解してもらえなかった悲しさと、憐みの目で見られた悔しさに他ならないと思っていた。いや思うようにしていた。
 彼女に会わなければ、今まで通り空想の世界に浸って、楽しい毎日が送れると思った。しかし、現実はそうではなかった。輝いていた空想の世界が色あせて見えてしまったのである。想像することで楽しめなくなった私は空想を排除し、自分の置かれている現実の世界をとことん見つめてみようと思った。空想の世界がないと本当に楽しめないのか、自分を試すことにしたのだ。それからは、必死だった。中学受験をして、つかみとって入った学校なのか、偏差値的に合う学校としてまわりの意見に従って入った学校なのかから始まり、自分を試すような質問を浴びせ、現実の世界を必死に生きようとした。何回か帰り道で彼女に会ったが、話しかけられる前に挨拶だけをして去った。自分の心を確かめるまでは彼女と話して心を乱されたくなかったからである。授業を前にも増して真剣に受けていたからテストの結果も上々だった。現実の世界が、みじめとは思いたくない一心で何事にも一生懸命になった。これでいいのだ。私から空想を取り上げても、大丈夫。現実の世界は申し分ないのだからと言い聞かせるように過ごしていた。そんな矢先、作文で問題が生じた。それは、国語の授業で将来の夢というタイトルで書かされた作文だった。
「立花ちょっと。授業が終わったら、職員室の大石先生のところへ行くように」
いつものように淡々とした口調で、担任に言われた。大石先生は国語の男の先生である。学校の中では若手で緩い感じの先生だった。その先生から呼び出されても、特に深く考えたりせず、職員室に向かった。大石先生は私の顔を見るなり、
「隣の会議室が空いているから」
と誰もいない別室に連れて行った。先生の後ろを歩きながら、そのとき初めて何かまずいことをしたのではないかと不安になった。会議室で席に座るように私に勧めながら、
「最近、困ったことでもあるのでは。何でも相談に乗るよ」
と言った。目は笑っていたが、いつになく真剣な目でまっすぐに見つめられた。私は、何も言えなかった。何もないと言おうとしたのに、言葉が出てこなかったのだ。
「あのね、勉強もすごく頑張っていて、一見、何の問題もなさそうなのだけれど。頑張り過ぎかなとも思って。将来の夢について、立花が書いた作文を読んで気になって。立花を中一から見てきたけれど、こんな風に考える生徒だったかな」
と私の作文を突き出した。変なことを書いた覚えのない私は、先生にそう言われてもピンと来ず、突き出された作文を手に取り読み返した。色々なことを吸収して賢くなりたいと前向きに書いていたのが一転、中盤からは、勉強して良いポジションにいないと今までのことが無意味になる。今を突っ走って充実させないとあり得ない世界を空想し、現実から逃げてしまうというような、焦りを感じる文になっていた。最後は、だから私には将来の夢を考える余裕がないと結ばれていた。悲壮感さえ与える作文にいくら緩い先生でも問題視しないわけはないと呼び出されたわけを悟った。
「改めて読み返してどう?心の中に溜め込んでいる文だよね。思っていることを話してみたら。楽になるものだよ」
先生に促されて、小さな声でぽつりぽつりと話し始めた。
「よその学校の友達に今の生活は楽しいかと聞かれて、どうなのだろうと考えてしまいました。楽しい。これでよいのだと思い込むために必死に努力しました。そうしたら、充実はしたかもしれないけれど、何が楽しいことなのかわからなくなって」
それから、一気に、明子と再会してからの出来事を話した。空想は現実逃避に他ならないと言われたこと、そうではないことを自分に証明するために、がむしゃらになっていたことを話した。先生は、黙って聞いていたが、私が話し終わると
「人はそれぞれだからね」
と言った。一呼吸して、
「空想が現実逃避だと思う人もいるし、なくてはならないものだと思う人もいる。立花は、その友達の言葉で今までの根底が揺れるくらい悩んだけれど、今の時期、揺れて悩んで見失うっていうのは悪いことではないよ。そこから、自分が見えてくるから」
と続けた。
「僕はね、立花の必死さはないけれど、何事にも真剣に向き合っていつの間にか物にしている姿勢、それって余裕があるということなのだろうけれど、素敵だと思っていた。この学校に入ったから余裕が生まれたのかもしれないし、その余裕が好きな空想の世界を導いているのだったら、間違った選択ではないよね。要は、心の持ちようだけれど」
「はい。」
としか言えなかったが、今までとは違ういききした表情に、私の心が変化したことを先生は気づいてくれたと思った。空想の世界は、私にとって生きる原動力で、大切なものだと先生に指摘され、この上なく嬉しかった。
 その日の帰り、通称グリーンゲーブルズへの道は久し振りに輝きを取り戻していた。どこまでも続く田園風景を眺めながら、美しい景色を見て、美しいと思える心が戻ってきたことに喜びを感じた。ふと、いつもの竹やぶの前で立ち止まった。今なら竹やぶの奥に進み、おばあさんと話ができると確信したからだ。明子から、私のことを聞いていたのか、おばあさんは驚きもせずに笑顔で迎えてくれた。
「明子さんのことについて聞きたいのですが記憶の入れかえをどうしてしたのですか」
直球の質問にも嫌な顔をせず、
「長い話になるから上がって」
と優しく言われた。家の中は外観と同様、ごく普通の民家だった。記憶の埋め込みをするような、まがまがしさは微塵も感じられなかった。
「はじめまして。明子の祖母の林きよのと申します」
「祖母?」
「ええ。明子は事故で記憶喪失になって私のことを思い出せなかった。だから、記憶をかえてくれたおばあさんと思っているの」
混乱して何から聞いていいかわからない私におばあさんは、一つ一つ丁寧に説明してくれた。明子は受験前に交通事故に遭い記憶を失くしたこと。その年の受験までには間に合わなかったので、浪人してG女子学院を目指したこと。
「記憶がないと言っても、計算はできるし覚えたこと全てを忘れたわけではないから、行きたかったG女子学院へ挑戦することを勧めたのは私。明子は勉強のことは忘れていないけれど、家族や友達、G女子学院への気持ちを忘れていたの。だから、埋め込みというかそのぽっかり空いた部分に明子が持っていたG女子学園への情熱が入り込めるように、あなたは合格できると言いきかせていたの」
「暗示みたいに?」
「そう。つまり暗示ね。そうしたら合格できたのよ。もちろん、明子の努力があったからだけれどね」
「どうして、本当のことを話さなかったのですか」
「あなたも知っていたかしら。明子は空想が大好きだったでしょ。事故に遭ったという現実より、竹やぶのおばあさんが記憶の埋め込みをしてくれたと思ったほうが素敵でしょ」
その時のおばあさんの笑顔がとてもチャーミングで、物語に出てくる魔法使いのおばあさんに見えてしまった。
「いつか記憶が戻ったら本当のことを言おうと思って。それまでは事故のことは忘れて欲しいから」
事故に遭う前の明子が素敵な空想の持ち主であったのが、おばあさんに会って納得した。
 その数日後に明子に会った。
「久し振り、今帰り?」
屈託なく話しかける彼女に、こちらも屈託なく返事をした。相変わらず、学校生活の楽しさを意気揚々と話す彼女を横目で見ながら、辺り一面の美しさに目を凝らした。季節は秋真っ盛り、夕暮れに稲穂が輝いていた。
「明子ちゃん見て。すごくきれいよ」
と思わず、歓声を挙げてしまった。話を遮られ、煩わしそうに私の指す風景に目を動かしたときだった。
「わー。きれい。私こんなきれいな景色、初めて見た」
と彼女は、私よりも一段と大きな声で叫び、嬉しそうにほほ笑んだ。
 あれから三十年以上が経った。私は結婚し最寄り駅が緑園都市ではなくなり、彼女とも疎遠になった。グリーンゲーブルズへの道もすっかり様変わりしてしまった。田畑は住宅地に変わり、竹やぶは埋め立てられ公園になった。山を切り崩し、距離も半分になった。色々な面で便利になったのだ。昔の面影を失って寂しい気もするが、心の中には、私の原点ともいえるあの道が焼き付いている。あの道を通して想像した空想の世界、出会った友達、遭遇した出来事、そして湧き上がる感情全てが宝物である。これから、開発が進みどんなに道が変わろうともあの頃の自分を含め輝いていた全てを忘れない。

著者

田中清子