「グリーントマト」工藤 ふたば

久しぶりに降り立った瀬谷駅は、エスカレーターがついて便利になり、新しくなった駅舎は、これから夏を迎えるやや強い日差しを受けて、明るい色味を放っていた。まどかの子供の頃のこの駅は、コンクリートとアスファルトの色しかなかったと記憶している。それでも基本的には変わっていない。まどかは帰ってきたという懐かしさと故郷のぬくもりが胸に迫り、自分が許されたような気がした。
昔のままの小さな改札を出て、歩き出した。ケーキ屋があり交番があり、昔通った歯医者があり、夏休みの絵画コンクールで賞をもらった銀行もあった。母とここを歩いたあの頃を思い出した。
 あれからどのくらいたったのだろう。あの頃から、どれだけ遠くへ来たのだろう。自分はその分成長できたのだろうか。小児科医として忙しく厳しい日々を過ごすまどかは、ふと子供の頃住んでいた家を見たくなってやってきたのだった。
まどかは有名医大を優秀な成績で卒業し、都内の大学病院に入り小児科医になった。結婚はしていない。恋愛の経験がないわけではないが、どうも結婚しようという気持ちにもなれなかった。医師という仕事に使命を感じているということもあった。付き合う相手よりも、目の前の病と闘う子供たちの方が愛しく感じられたし、救いたい、自分なら救えると強く思ってもいた。
 医師になりたい、小児科医になろう、と決めたのは学校で受けた全国統一テストで1位を取り、IQテストでも学校で一番の数値を出したときだった。このあたりに住んでいた頃のことだ。自分は案外優秀なんだという嬉しさもあったが、なんとなく、自分が子供を産まないだろうという気もしていたので、ならば世の中の子供を救おうと思ったのだった。
 医科大学に入ってみれば、親が医者という環境に育った同期がたくさんいた。いずれも医大の試験を受かったのだから優秀な頭脳を持っている輩ではあったが、どこか人としてなじめないところがあった。加えて、親の力の強弱で教授の扱いに差が出ることもあった。後ろ盾のないまどかは成績だけが頼りだった。わき目もふらずひたすら学び、成績で一目置かれることで自分を守ってきた。だから、自分の力には自信があった。
少し歩くと、大きな幹線道路に出た。昔はなかった道だった。このあたりに小学校の同級生の家が何軒もあった。が、幹線道路に飲み込まれていた。彼らは今どうしているだろう?
微かな思い出を頼りに昔の我が家への道を進んだ。道沿いの家も建て替えられ、その後ろにあった雑木も綺麗に整備されていた。昔の面影は道筋だけで、本当にこの道を歩いてたどり着けるのか、自信が持てなかった。
神社と寺の間を通る道を過ぎると、うっそうとした木々が開けて、視界が広がった。昔ここには大きな畑があり、野菜の量り売りをしていた。夏にはトマトやキュウリを採らせてくれて、それを計って売ってくれた。取れたての野菜はおいしく、毎日のように採りに来たものだったが、その畑はなくなり、住宅とアパートに変わっていた。住宅の庭に、名残のようにトマトが植えられていて、青い実をつけていた。
昔、ここでトマトの緑があまりに綺麗で思わず採ろうとした。
「このトマトはまどかちゃんと一緒よ。これから大人になっていくんだから、まだとっちゃだめよ」
農家のおばさんが優しく教えてくれた。
まどかは数日前に亡くなった女の子を思いだした。腎臓に重い病気を抱え、大阪の病院から転院してきた女の子だった。彼女の両親は大阪でたこやき店を経営しているため、週に1度しか来れないこともあった。一人で耐える彼女をまどかは何かと気にかけていた。
「うち、元気になったらたこ焼きの食べ歩きすんねん。せやからしっかり治療してや」
彼女の小さな口から出る関西弁が愛らしく、病気の重さを忘れさせてくれた。
なんとか笑顔を増やしたい、家族や友達と楽しく元気に生活できるようにしてあげたい。たこ焼きも思いっきり食べさせてあげたい。全力で治療にあたった。あらゆる論文を読み、あらゆる薬や治療法を検討した。自分なら救えるはずだ。しかし病気は残酷なほどに彼女を蝕んでいった。むくみが激しくなり、全身に黄疸がでるようになり、軽快な関西弁は減り、まどかも自分の無力を感じ始めていた時、
「先生」不意に彼女が言った。
「もうええで。うちもうすぐ死ぬねん」
悪い冗談と思いたかったが、小学生の少女とは思えないほど、落ち着いた穏やかな笑顔をたたえていた。まどかは思いがけない事態に動揺し、なんと返したらいいのか戸惑った。とにかく望みだけは捨てたくなかった。んんとか救いたい、自分なら救えるはずだという思いもあった。
「どうしてそんなこと言うの?」
「わかるねん。自分のことやし」
「そんなこと言ったらだめだよ。お父さんもお母さんも、先生も、みんな頑張ってるから、一緒に頑張ろう」
彼女は穏やかな笑顔のまま、まどかを少し見つめて、
「せやな」
まどかをなだめるように言ってベットに潜った。
それから程なくして、彼女は新しい世界に旅立っていった。
あの時の会話が心に刺さっていた。なんと言えばよかったのだろう。長い壮絶な戦いの末、自分の運命を受け入れていた彼女に対して、なんと思いやりのない、大人気ない、未熟で傲慢な言葉を投げつけてしまったのだろう。悔やまれてならなかった。自分は子供の頃から成長できていないのではないだろうか?自分の歩んできた道は正しかったのだろうか?

まどかは初夏の日差しを受けて、瑞々しく光る、目の前のグリーントマトを見つめた。不意に子供の頃の畑が、あの頃の景色が、あの頃の空気が蘇ってきた。ひたすらに、優しさと愛に包まれていたあの頃に。そこでは幼いまどかがグリーントマトを見つめていた。命の尊さも知らず、傍若無人だったあの頃。自分は医者を目指すべきではなかったのではないだろうか?
「先生」
子供のまどかが振り返ると、亡くなった彼女になった。
「みずきちゃん。ごめんね。みずきちゃん」
彼女は破顔した。
「うち、先生のこと好きやで」
彼女は一層笑うと、ふっと消えてしまった。一瞬の白昼夢だった。まどかは元の住宅街に立っていた。

まどかは、変わりすぎてわからなくなった道を、勘を頼りに進んだ。とにかく進まなければならないと思った。そして、かつて住んだ家にたどり着いた。
家の周囲は様変わりしたところもあるが、家はそのまま建っていた。こんな家だっただろうか?窓が開いていて、洗濯物が翻り、誰かが生活していた。同じ家だが、何もかもが変わってしまったように感じた。仕方のないことなのだ。ここは思い出の場所であって、もうとっくに自分の生活の場所ではない。自分も家も、違う場所に進んだのだ。
駅に着いた。改修されても変わらない温かさがあった。まどかの心の中で何かがゆっくりと解けて緩んでいくようだった。自分はあの時から遥かに遠くに、たどたどしくも精一杯進んで来たのだ。間違うこともある。でもそれでも進めばいい。この痛みを糧に。それが生きるということなのだ。

著者

工藤 ふたば