「グローブ」赤井勇一

その日の朝、宮下信之(みやしたのぶゆき)は、いつもより寝起きが良かった。七月の明るい日差しが部屋に入って来ていた。しかし、さっと起きたのは、快眠したからではなく、気持ちの中に引っ掛かることがあって熟睡出来ず、その延長で、気がかりのために目が覚めたのだった。彼は起きてすぐ、部屋の隅に置いてあるバッグのところに行き、中を確認した。残念なことに不安が的中し、まだ汗の匂いが少し残るバッグの中に、グローブは無かった。彼は昨夜(ゆうべ)寝床に入ってから、練習の疲れですぐに眠りに着くまでの僅かの間に、母親にその日の洗濯物を渡すためにアンダーシャツなどをバッグから取り出した時にグローブを見なかったような気がした。バッグの下の方に隠れているのかも知れないとも思いながら、不安な思いを持って眠りに着いた。
 そして、今確かめたら、グローブは無かった。彼は、途端に目が覚めた。彼はリビングの食卓のところに行って
「母さん、グローブ見なかった」
と訊いた。
「さあ、知らない。無いの」
という返事が返って来ただけだった。
 彼は、急いで黙って朝食を食べた。何となく、電車の中に落とすか忘れるかしたような気がした。道で落とすとは思えなかったし、昨日(きのう)の帰りの電車の中でバッグからグローブを出した記憶があった。
いつも乗り降りする瀬谷(せや)の駅の窓口に行って、
「すみません。昨日、電車の中に野球のグローブを忘れたんじゃないかと思うんですが届いてませんか」
と尋ねた。
「何時(なんじ)頃で、どの辺りですか」
「いずみ野から、二俣川(ふたまたがわ)で乗り換えて、瀬谷までで、夕方七時半頃です」
「何か特徴がありますか」
「右利き用のグローブで、茶色で、マジックで『いずみ野高校 宮下』って書いてあります」
「分かりました。今、問い合わせてみます」
そして、その応対してくれた若い駅員は、少し後ろの机の電話を取ってかけ、信之から聞いたことを電話口で告げた。そして、すぐに電話を切って、信之のところに戻った。
「そのグローブ、届いているそうです。でも、忘れ物はみんな二俣川の駅に行くんで、二俣川の『お忘れ物センター』の窓口に行っていただかないとならないんですが」
と言った。
「ありがとうございます」
信之の心が明るくなった。
 いつもは駅から出ないで乗り換えるだけの二俣川の駅で改札を出た。とりあえず学校に電話して、事情を話し、少し遅れると告げた。期末テストは終わっていたが、夏休みまでまだしばらくあった。『お忘れ物センター』は改札口を出て右手で、すぐに分かった。拾得物を保管しているところのカウンターに、少し小柄で眼鏡を掛けた優しそうな駅員が立っていた。先ほどの電話に出た人のようで、信之が部屋に入って行って目が合うと、すぐに分かったようだった。
「あのー、電車の中にグローブを忘れて、さっき瀬谷の駅から電話があったと思うんですが」
と、信之の方から言った。
「はい。念のためにグローブの特徴を言っていただけますか」
信之は瀬谷の駅でと同じことを言った。
「今、学生証とかありますか」
信之は生徒手帳を取り出して、見せた。
「ありがとうございます。良かった。今持って来ます」
そして、持って来られたグローブは間違いなく信之のものだった。
「あのー、届けてくれた人にお礼とかは」
と信之が尋ねた。
「お礼を放棄されると、届けられた方の名前とかは伺わないので。そうでなければ、拾得物件預り証というのを作成して届けられた方の名前と連絡先を書いて頂くんですが、このグローブについてはその書類は無いです」そう言って、その駅員は少し同情したような表情をした。
「そうですか」
信之は、どこの誰かも判らず、お礼も言えずでがっかりしたが、諦めた。その駅員の人に言われて、小さな用紙の引き取り者の欄に名前と住所を記入し、グローブを受け取り、また改札口の中に入った。

信之が通っているいずみ野高校は、県立の共学校だ。いずみ野の駅から歩いて十五分ほどのところにある。信之は二年生で、野球部に入っている。この夏の甲子園大会の神奈川県予選でつい先日既に負けてしまったので、三年生が引退し、信之達二年生が最上級生になっていた。特に野球が強い学校ではなくて、時々一回戦や二回戦を勝つこともあったが、この夏は一回戦で敗退した。部員の数も多くはなかったが、二年生と一年生を合わせると、各ポジションに二人ずつくらいの部員数だった。既に、新しいチームで、秋の大会に向けて毎日練習していた。
 信之がグローブを無くしそうになった日から二日ほどして、信之の高校のグランドの外に、初老の男が現れるようになった。午後の三時半を過ぎた頃から野球部の練習が始まった。
 その男は、練習が始まる頃にやって来て、グランドのフェンスの外にある古いベンチに座って、野球部の練習を見ていた。特に何かをする訳でなく、ただ練習を見ていた。そんな日が二、三日続いたが、誰も気に留めなかった。そしてある日、夕方、野球部の練習が終わって、信之も含めて、着替えた野球部員がぞろぞろと学校の敷地から出て来た時、その練習を見ていた男が信之のところに寄って来た。そして、信之に声をかけた。
「あのー、宮下君ですか」
「はい」
見知らぬ人間から急に声をかけられて、怪訝に思いながら、信之は返事をした。
「私、水口(みずぐち)という者ですが、このあいだ、あなたのグローブを駅の人に届けた者です」
「あっ、このあいだは、ありがとうございました」
少し面食らったが、こう答えた。
「あの時にすぐに渡せれば良かったのだけど、あなたが急いで降りて行ったから渡せなくて」
「すみません。乗り過ごしそうになって、焦ってたもんで」
「そんな感じでしたね」
「それで、何か、ご用ですか」
「いえ、いえ、何も用は無いんですけど、練習を見ていたら少し話してみたくなっただけです。迷惑で無かったら、駅まで一緒に行きませんか」
「はい」
そして信之は他のチームメイト達に
「俺少し遅れて行くから、先に行っちゃって」
と声をかけた。信之はそれほど背が高い方ではなくて、野球部員達の中で中くらいだった。皆、坊主刈りにしていた。そして、揃いのスポーツバッグを下げていて、バッグに『いずみ野高校野球部』の字があった。夕方七時になろうとしていたが、まだ陽の明るさがだいぶ残っていた。並んで、少しゆっくりめに歩きながら信之が言った。
「グローブを受け取った時にすぐにお礼を言いたかったんですが、駅の人に訊いたら、謝礼を放棄された時は名前を聞かないと言われて連絡出来なくて」
「はは、名前を隠すようなことは無いけど、謝礼を貰おうなんて気は全く無いですから」
「水口さんでしたよね。どうして僕だと判ったんですか」
「もちろんグローブに『いずみ野高校』と書いてあったからここだとは判ったけど、あとは、遠目だったけど君がしているグローブがあの時のグローブのように見えたからです。もしかしたら違うかもとも思ったけどね」
「当たり、でした」
「そう言えば、このあいだから練習を見てられませんでした」
「ええ、見てました。すみません。毎日暇で、やることも無いんで」
「もちろん見ててもいいですけど。野球、好きなんですか」
「まあ、好きです。練習を見ているだけでも面白いです」
「昔自分でやってたとか」
「ええ、ずいぶん昔です。ところで、夏の高校野球は」
「もう県大会で負けました。それで三年生が引退して、僕達二年と一年生で新しいチームです」
「そうですか、残念でしたね」
「はい。一回か二回勝てないかなと思ってたんですけど駄目でした」
「試合に出して貰えたんですか」
「いえ。ベンチには入れたですけど、三年生が結構多かったし」
「そうですか。こんどは君が最上級生だ。頑張って下さい」
二人は駅への道を歩いていた。どんどん夕暮れが進み、もう夜になりかかっていた。いずみ野駅から少し離れると畑もところどころにあって、辺りはのどかだったが、いずみ野線が開業してから日が浅いので、駅から駅前のショッピングモールにかけては新しくて綺麗だった。この時間だと帰宅する多くの人々が駅から出て来て、直接歩いて家に向かったり、駅前のバスロータリーでバスに乗り換えたりしていた。
「このあいだ、二俣川で降りて行ったけど、乗り換えだったの」
「ええ、家が瀬谷なんで、二俣川で乗り換えてます」
「そうですか。私は星川なんで、一本です。いつも通(かよ)ってる訳じゃ無いんだけど、あの日は湘南台から帰るところでした。今日も二俣川まで一緒でいいですか」
「はい」
「ところで、このあいだ、電車の中でグローブを出して眺めてましたが、どうしたんですか」
「ええ、だいぶ傷んで来たなと思って。大事にして来たつもりなんだけど、ずいぶん長いあいだ使ってるからしょうがないかなと」
「そうですね。ちゃんと手入れをしてあったけど、だいぶくたびれて来てましたね」
「このままじゃ高校出るまではもたないかも知れないかなと思って。でも、うちは父がいなくて、おふくろだけだからあまりお金が無いんで、言い出しにくいなと考えてたんです」
「そうですか」
しばらく二人とも黙っていた。いずみ野の駅に近づいて来た。辺りはだいぶ夜になって来ていた。水口が言った。
「もし、いやで無かったら、私にグローブをプレゼントさせて貰えませんか」
「えっ。だって、殆ど知らない人にそんなことをして貰ったら悪いじゃないですか」
「私はいいです。これも何かの縁だということで」
「ありがとうございます。すごく助かるけど、おふくろに怒られるかも知れない。訊いてみます」
「昔野球をやってた野球好きのお爺さんと友達になったからと言って下さい」
「はい」
 二人は電車で並んで座り、間もなく、二俣川で信之が降りて行った。
 次の日、練習が終わってから、信之が水口の座っているベンチのところに来た。
「おじさん、こんにちは」
「やあ、グローブのこと、お母さんに話しました」
「ええ、ちょっと変な顔をしたけど、分かってくれました。おじさんにちゃんとお礼を言うように、って言われました」
「良かったです」
 そして、その週末の土曜日、練習が終わってから二人でグローブを買いに行った。土曜日の練習は、午後、平日より早く始まり、早く終わった。二人は、横浜に出てさらに関内まで行き、『金港(きんこう)スポーツ』に入った。それほど間口の広くない店に入ると、すぐ左手の棚に一面グローブが並べられていた。多くの野球用品が置いてあった。スポーツ用品店だったが、野球用品専門店という風だった。グローブを買いに来たのだけれど、バットを見てもスパイクを見ても楽しかった。それは信之だけでなく、水口も楽しそうに道具を見ていた。そして、最後に、内野手用のグローブを買った。本革(ほんかわ)で、今信之が使っているグローブと同じように茶色だった。信之が自分の手にはめてみて、気に入って、すぐにそのグローブに決まった。水口が、レジのところで五万円払った。グローブの入ったビニール袋を渡されて、信之は少し興奮しているようだった。

 グローブをプレゼントしてからも、水口は、ほぼ毎日、いずみ野高校の野球部の練習を見に来た。そして、時々信之は水口と話をしながら帰った。
「おじさん、甲子園に出たことあるの」
「うん、一度だけ。大昔だけどね。私が二年生の時で、ベンチに入れて貰えたけど、試合には出して貰えなかった」
「それで、どうだった」
「いや、暑かった」
「そういうことじゃなくて、雰囲気とか」
「お祭りみたいだったな。試合には出なかったけど、そこにいるだけで興奮してたよ」
「ふーん」
信之は想像しているようだった。

その日、練習が始まる前に信之が、既にフェンスの外のベンチに座っていた水口のところにやって来た。
「おじさん、水口さんっていうんだよね。うちの監督に水口さんの話をしたら、昔大洋に水口って選手がいたなあって言うんだ。おじさん、その水口選手なの」
「うん、そうだよ。今のベイスターズが大洋ホエールズだった頃に選手だった。まだ川崎球場の時だよ。現役の終わりの頃には、横浜大洋ホエールズになって、横浜スタジアムに移ったけどね」
「すっげえ、言ってくれれば良かったのに」
「はは。言ったからって、どうということも無いし」
「でも、いろいろ教えてよ、今は練習始まっちゃうけど」
そう言って、信之はグランドに戻って行った。
 次の日も練習が始まる前に、信之が水口が座っているところに来た。そして水口に買って貰ったグローブを差し出して
「おじさん、このグローブにサインしてよ」
と言った。
「はは、もう忘れたよ」
と水口が断ったが
「せっかくマジックも持って来たんだからさ」
と、信之が食い下がった。
「仕方ないなあ」
と、マジックを受け取って、グローブの手首に近いところに場所を見つけて、小さめにサインした。水口にとって、サインをするのは本当に久し振りだった。
「これ、何て読むの」
「水口勇人(ゆうと)だよ。勇ましい人って書くんだ」
「ありがとう」
そう言って信之はまた練習に行った。
 水口は毎日練習を見に来た訳では無かった。水口が来ていても、信之が水口のところに来ない日もあった。それでも、練習の前に少し時間がある時や、練習が終わる時まで水口がいた時に、信之はしばしば水口のところに来た。

 その日は、水口のところに来て
「おじさん、何か守備のことを教えてよ」
と言った。
「君には、監督さんとか、このチームで教えてくれる人がいるだろう。それに、君はセカンドをやっているけど、私は外野手だったからなあ」
「それでも何かあるでしょ。監督の言うこととずれてたら、そう言うから」
「うん、そうねえ。君はノックを受けている時に、よく、体で止めて拾って投げているような気がする。まあ、それはそれでいいと言えばいいのかも知れないが、基本的にはやっぱりグローブで取りに行って、それで駄目な時に仕方なしに一旦体で止めてということだと思うよ、イレギュラーした時とか」
「わかった。直すようにしてみる」
そして、次の日から、出来るだけグローブで取ろうとしているのが、明らかに見てとれた。
 また別の日には
「おじさん、今日はバッティングのことを教えてよ」
と、ねだった。
「バッティングねえ。バッティングは人それぞれだからね。どの人にもこれが絶対なんて打ち方がある訳じゃないし。それに、君はまだ発育途中だろ、これから体がもっと大きくなるかも知れないし、筋肉ももっと付くかも知れない」
「そう言わないで、今の体ならこれって言うのを教えてよ」
「まあ間違いの無いのは、沢山素振りをすればいいってことかな。素振りを沢山したらいい」
「それは前からそう思っているけど、他に何か言ってよ」
「うん。少しバットの握りのところを余らせて短めに持って、低めの強いライナーを打つようにしてみたら。あまり背が高い方じゃないし、足は速いんだから」
「わかった、やってみます」
 その後、信之は、バッティングでも、水口に聞いたことを守ろうとしているように見えた。

 そうやって、水口が時々信之に助言のようなことをぽつぽつと話していたある日、信之が会心の一打を放った。練習でシート打撃の時だった。信之の打った打球が鋭いライナーで二塁手の頭上を越えた。右打席の信之が、うまく上から叩くような感じで打った。打球は低いライナーで右中間を割り、フェンスに達した。信之は二塁ベースを蹴って三塁に向かった。そして、外野からの送球で、三塁ベースのところで間一髪アウトになった。しかし、学校のグランドが狭くて、打球がフェンスのところで止まったから早くボールが戻って来たのだった。普通の野球場なら、もっと奥深く転がって、余裕を持って三塁がセーフになる当たりだった。水口は、自分が言ったことを信之が実践しようとしていると感じられて嬉しかった。同時に、自分は現役の時にああいう当たりを滅多に出来なかったなと思い、一人で苦笑いした。

 学校が夏休みに入った。夏休みの間も野球部の練習があったが、少し時間が早くなった。午後の一時半に練習が始まり三時間ほどで終えていた。この間、ランニング、柔軟体操、キャッチボール、トスバッティング、フリーバッティング、シートノックが毎日行われ、他に、日替わりでバント練習やベースランニングが加えられた。
 そんなある日、8月に入ってしばらくした日、練習の後で信之が水口のところに来た。
「おじさん、今日監督から、明日からショートをやるように言われた」
「じゃ、ショートで頑張ってよ。秋の大会までまだ一か月くらいあるだろう、何とかなるんじゃないか」
「うん」
「おじさん、僕がショートにコンバートされるって分かってたの」
「なんで」
「このあいだ、体で止めるよりもグローブで取れって言ったじゃない。確かに、ショートじゃ体で止めても間に合わないだろうから」
「別に、そういうことで言ったんじゃないよ。私は、内野のことは良く分からないし。それに、ここの監督さんの考えが分かる訳でもないし」
「ふーん」
「でも、いいかも知れないね。君は、肩、強い方だし」

八月が終わろうとする日、水口は、関内まで足を伸ばして、横浜ベイスターズの球団事務所を訪れた。スカウト部長の林が迎えた。ソファーに向い合って座り、出されたお茶を一口飲んで、林が言った。
「本当に、ずいぶんお久しぶりです。お元気ですか」
「まあ、見ての通りだよ。体は元気だけど、することが無くってね。毎日ぶらぶらしているよ」
林は大柄で背も高く、現役時代の面影があった。現役時代は投手だった。水口は元々大柄でなかったこともあり、普通の老人の風情だった。年齢が異なっているためでもあった。
「そうですか。そんなもんかも知れませんね。おいくつになられたんですか」
「七十二だよ」
「そうですか。そうですよね、私ももうじき六十なんだから。ところで、今日は何か用があって来られたんですか」
「うん、まあ」
そこで、水口は少し間(ま)を置いて、続けた。
「君、いずみ野高校の宮下っていう子を知っているか、二年生で内野手なんだが」
「有望そうな子なんですか」
「わからない」
「でも、水口さんはスカウト部長までされたんだし、私も水口さんにスカウトについて教えていただいたんだから、私よりも確かでしょう」
「いやいや、私の目が不確かだったために、どんなに多くの人に迷惑をかけて来たことか。それに、この子については、もう思い入れのようなものを持ってしまっているからね」
「なるほど。親戚の方(かた)ですか」
「いや、別に親戚とかじゃないよ。全くたまたま知り合って、何となくその子の練習を見るようになっただけだよ」
「教えてらっしゃるんですか」
「いや、野球部の練習をフェンスの外からただ見てるだけだよ」
「そうですか」
「ところで、今度の土曜日に、秋季大会の県大会の一回戦でいずみ野高校の試合が引地台球場であるんだけど、誰か見に行くのかな」
「そんなことは聞いてないですが、一応調べてみます」
そう言って、林は自分の机らしい机に行った。そして、すぐに戻って来た。
「やっぱり、誰もその試合を見に行くやつはいないです」
「まあ、そうだろうなあ。相手の学校も、注意する選手がいるような学校じゃないからな」
そして水口は、
「そのうち、もしついででもあったら、この宮下っていう子を見てみてよ。忙しいところ、邪魔したね」
と言って、立ち上がった。
「いや、顔を見せて貰って良かったです。お元気そうだし。また来て下さい」
と、林が、事務所の入口のところまで送った。

 その土曜日、良い天気だった。水口は、大和(やまと)の駅で降りて、大きな通りを真っすぐ二十分ほど歩いて、引地台(ひきちだい)球場がある引地台公園に行った。まだ暑い日で、ゆっくり歩いても汗ばんだが、公園の敷地に入ると、木々が多く、いくらか涼しかった。先に行われている第一試合の応援と歓声が聞こえて来ていた。それとは全く別に、どこかで誰かがサキソホーンの練習をしている音も聞こえていた。
 水口は、いずみ野高校のベンチがある三塁側の内野席の上の方に座った。引地台球場は、大和スタジアムとも呼ばれている、芝生の色が鮮やかで美しい球場だ。この日もグランドは丁寧に整備されていた。下の方の座席からベンチにかけて、いずみ野高校の生徒や父兄が応援団を形成していた。応援のリーダーの男子生徒とチアリーダーが何人か立っていた。水口は、信之から信之の母親も応援に来ると聞いていた。水口はその顔を知らないが、信之の母もその応援の人達の中にいるんだなと思った。水口がスタンドを見渡していると、バックネット裏の少し上がったところに、林を見つけた。麦わら帽子を被っていた。カメラなどの道具は持っていないで、ただ観戦するという風だった。林を知る人が見つけたら「何でここに」と言いそうなものだと思った。そのうち、林も水口を認めた。水口が軽く手を上げると、林は軽くお辞儀をした。
 やがて、整列して試合前の挨拶があり、背番号六のユニフォームを着た信之はショートの守備につき、ボール回しが始まった。
                 (了)

著者

赤井勇一