「コードネーム・獏を生きる」或 頁生

   (一)

 「何やこれは・・・どれが最初に発車するんや?それに全部ひらがなやんけ」
 『つぎ』の次は『そのつぎ』なのは察せられるも、大阪人歴26年を数える者とすれは『こんど』と『つぎ』の順番が俄には見極められず、それでも上から順場なのだろうと当たりをつけざるを得ず。
 駅の表示は『先発』『次発』『次々発』が定番で、これで幼少時に漢字を覚えた電車少年時代を過ごした、大阪で生まれ育った直樹。
 この日人生で初めて足を踏み入れた横浜は、どうやら終始厳しいウエルカムの姿勢で一致していたらしく、遡る事僅か数十分前にも、駅下の地下街の喫茶店で先制パンチを喰らったばかりだった。
 「あの・・・アイスコーヒー二つしか頼んでませんけど?」
 「はい。合計八四〇円です」
 消費税導入前年の一九八八年四月当時、大阪の喫茶店の珈琲の相場単価.は二五〇から.高くても三〇〇円。
 半ば逃げるように辿り着いた私鉄改札はこの案内表示プラス、何と懐かしい記憶の中の改札員が切符にパンチを入れるスタイルと、一気に機先を制せられた感が否めなかった。
 折しも世間は新年度をスタートさせた矢先、賃貸空き物件数が最も少ない市場状況下、全く接点の無い横浜という未知なる大都市での日帰り飛び込みでの部屋探し。
 傍らで元気づけてくれる一つ下の洋子の笑顔に背中を押され、直前に飛び込んだジョイナスという名のビル内の不動産屋から紹介された物件を内覧すべく、預かった鍵と地図を片手に目指す駅名は、二俣川という急行停車駅らしく。
 更には発車のベルからいきなり扉が閉まるまでの短過ぎるる間合いなど、更なる幾つものサプライズに見送られ、有名芸術家の作品が車体に描かれた八両編成は、二人を目的地へと普段通りに運び始めた。

   (二)

 引越し業者の撤収を確認から、ようやく誰一人知人友人の見当たらぬこの町が、自分達の新生活の舞台となった現実を、直樹と洋子は梱包状態のまま積み上げられた、必要最小限の家財道具の隙間に仰向けに寝っ転がり確かめていた。
 父親との折り合いが悪く、結果祖父母に高校を卒業させて貰い、以来自分独りで働き喰って来た自身の歩みが唯一武器の直樹と、実家の寺院に婿養子を迎えての跡継ぎが嫌で飛び出し、そのまま転がり込んだ洋子。
 ドラマやヒット曲の歌詞のような大恋愛成就というより、互いの居場所を守り続けるべく、気づけばどうやら唯一無二の相棒だろうと、少なからず若くしての観念も含めての、実はお似合いのコンビ。

 「洋子。俺、会社辞めて横浜で勝負賭けるワ」
 「って事はもう辞表出して来たでしょ」
 折しも後年バブル期と称される事となる、今振り返れば間違いなく、経済社会全体がイカれ具合がピークを迎えようとしていた時期。
 偶然仕事上で接点が生じた、リゾート開発やライブハウス経営など、多角的かつ攻撃的経営で成長著しい新進企業の代表が直樹を気に入ったらしく、こんな打診を持ち掛けたのだった。
 「横浜の空きテナントで何らかのマニアックな専門店を開こうと考えている。ついては君に夢が有れば、それを具現化して私達の企業に貢献して欲しい。世間が見落としているような商売、何か思いつかないか?」
 具現化なる三文字がその後の直樹のお得意のフレーズとなるキッカケは、間違いなくこの一言であり、一瞬一昔流行ったドッキリ番組かと心の中で頬を抓りつつも、この奇跡的なチャンスに無条件で飛びついた直樹。
 幾度もミーティングを重ね、気持ち的には口約束だけで全幅の信頼を寄せでも構わないとの判断の中、それでもトラブル回避を視野に入れ、常に書面を交わす慎重さもまた、結果先方の高評価に繋がっていた。
 「さてと。引っ越し完了を代表に報告しておこうか」
 海外との頻繁なファクシミリ通信に対応可能な電話機は十数万円の自腹負担となったが、これも活きた自分達の未来への先行投資であり、何より当面事務所兼自宅となる以上は必需品。
 純白の壁の真新しい仄かな象牙色の凸型の差込口が、ドラマならぬ『怒羅魔』へと繋がる入口となる展開など知る由もなく、久々の電話番号を大阪の市外局番からプッシュし始めた。

   (三)

 「細かい事は良く分からないけど、ここまで来たんだから、意地でもお店構えてやろうよ!二人が食べて行く分ぶらい私が何とかするから、思う通りに動いてごらんよ!」
 直樹からの今日までの詳細報告を、これぞ傾聴の姿勢で黙って聞き於える寸前、直樹が続けようとした次の一言を瞬時に察したかの如く遮り、一呼吸置いての洋子からの一言。
 ビジネスパートナー兼スポンサーを確約してくれた代表と企業が忽然と消えたイコール、自分達は無職状態で見知らぬ横浜市旭区二俣川なる土地に放り出されてしまった現実。
 これから自身で事業を営もうとしつつ、己が手で稼ぎ足で歩んで行く上で、直樹が自身の旨の中に、こうした被害者意識を膨らませてしまう事を何よりも懸念したかせらこそ、洋子は懸命に平静と強気を装い続けていた。
 泣いて甘えて縋る実家も故郷も無い二人にとって、僅か数十時間前から、二俣川が自分達の新しい故郷であり、日々生きて行かねばならない街。
 「うっしゃ。横浜で生命を授かって、えーっと・・・九十六時間ってとこかな?その時が来りゃ嫌でもくたばれるんだし。申し訳ないけど、暫く俺を支えてくれるか?」
 気丈に振る舞い続けていた洋子の心の張りが、直樹のこの一言で一気に緩んだのか、俄に表情がクシャクシャに変化を見せたその時、玄関のチャイムが鳴った。

 「宅配便です。神崎洋子さんのお宅はこちらでしょうか?お届け物です」
 インタホン越しの明るい口調に対し、一層警戒心を強めたのは、自分達以外にこの住所を知っている人物の存在が思い当たらなかったからに他ならず、当然の条件反射だった。
 「あっはははっ!そっかあ・・・忘れてたっ」
 一辺が約八十センチ四方の大きな段ボール箱を軽々と抱えた直樹が、何とも複雑な照れ苦笑いで洋子の元へ。
 「住民票は未だ旧姓なれど通称神崎洋子様。お届け物をどうぞ開封くださいませませっ」
 洋子が大の苦手の発泡スチロール製クッション材の摩擦音に表情を歪めながら、中身引っ張り出してみれば、何とも大きなカッパのぬいぐるみが一体。
 連日開店準備で不在がちになれば、見知らぬ土地での一人の留守番も寂しいだろうと、引越荷物搬入日前日に横浜入りした際、僅かな相鉄ジョイナス内での別行動タイムの間に内緒で手配していた直樹。
 「それよりもこれ、一体いくらしたのよ!?」
 小声で白状したその金額に、この日一番の説明不可能な感情を抑え切れぬ洋子の表情が、真新しいカッパちゃんの黒く大きな瞳の中に小さく映し出されていた。

   (四)

 「だから朝言ってたじゃんっ。今日は西友でお米が安いから買っといてって。ホントにもう・・・」
 成る程世の女性の環境適応能力は、自分達男共の比では無い事実を、直樹は狐に包まれた感覚の中で確かめていた。
 それ以前に驚かされたのが『コードネーム獏・合言葉は力尽きるまで』なる、遊び心ならぬ遊び半分間すら否めぬライフスタイルへの挑戦が決まった翌朝からの、洋子の群を抜いた行動力だった。
 地図も持たずに駅を越えて運転免許試験場方面へ一人探検に繰り出したかと思えば、三日目には駅北口側の喫茶店でフルタイム勤務のバイトを決めて意気揚々と帰宅。
 最初こそ言葉や文化、そして東西の喫茶店厨房内の常識や仕事の流れに戸惑ったらしくも、半月も経たぬ間に、気づけば新人ながら実質リーダー格で現場をコントロール。
 関東では通常見られぬ、関西の喫茶店のランチの定番メニューの『ソース焼きそば定食』を提案すれば、オーナー以下全員の大絶賛から早速メニューに追加され、既に看板メニューの兆しが顕著だとか。

 対してこれまでとは違い、今回ばかりは無計画に動き回り、無意味に交通費や活動費名目の持ち出しは出来ないと、洋子に指示された買い物と掃除洗濯以外、連日部屋に籠っての独り作戦参謀の毎日を過ごす直樹の五月は、やはり毎日が長く感じられて仕方無かった。
 時折の気分転換で赴くお気に入りの場所、それは駅北側から少し外れた、小さな川沿いの小さな古本屋だった。
 されど風変りな印象が拭えぬ店主は、時に『今日は都合に因りお店致します』の貼り紙の使い回しで臨時休業など、二俣川流らしき高度な笑いを届けてくれるため、直樹はなかなか思うように距離感を縮められずにいた。

   (五)

 それより「ご飯でも食べて行かれますか?まあ頑張ってください」
 音楽雑誌や電話帳など、思いつく限りの資料からそれらしき業者をピックアップからの飛び込み訪問、これが直樹が自問自答の果てに導き出したゲリラ戦法だった。
 経費ならぬ現金節約で、モノクロのディスプレイに数文字だけが反映されるワープロを用いた自作の名刺と、自身のコレクションの年代物の知る人ぞ知る名器のアコースティックギターを一本、大切にケースに入れて抱え持っての行脚の毎日。
 「神崎直樹と申します。超マニアックなコレクションに特化した、大人が落ち着いて集えるショップをいつか構えたいと思って横浜に出て来ました」
 されど訪問された側からすれば、見知らぬ一個人にいきなり意味不明な自己紹介を始められても、現時点では実態が何一つ見当たらぬ以上、迷惑千万どころか警戒心すら抱いて当然。
 まだ耳慣れぬ関東弁での門前払いは、直樹の鼓膜により鋭角的な耳障りを刻み込むばかりも、中には哀れに感じたのか、こんなお声掛けが届けば届いたで、申し訳無さばかりが膨らむ繰り返し。
 飲食も節約必須と、自宅から携えたオニギリとペットボトルに詰めた湯冷ましを、不慣れな大都会のビルの片隅に腰を下ろして喉の奥に流し込んでいると
 「今日これからここで歌われるんですか?僕達も初めてで追い払われては不安なので、一緒に演りませんか?」
 顔を上げてみれば、意を決した中にも仲間を見つけたかの如き、大学生風の路上演奏者の若者二人の親し気な笑顔が並んでいた事も。

 季節は梅雨入りプラス、大阪と比べて降水確率が高く降雨時間が長く感じられる横浜から東京、ビニール袋で綴んだギターケースを守りながらの移動は、連日の門前払いで意気消沈状態の中、正直辛いと感じる場面を増すばかり。
 夕刻のラッシュタイム突入前には相鉄に揺られて帰宅と決めての行脚、視界に入る『こんど』『つぎ』『そのつぎ』の更にその下に『いつか』を探し、ふと不安気な表情を浮かべた自身を無理矢理戒める回数が増え始めていた。
  「今日は自分に元気の素っつーか、心身の栄養補給と行くかな」
 この日の洋子はバイト先の喫茶店の飲み会に参加すると聞いていたので、晩飯は自己調達。
 お気に入りの総菜と缶ビールを買い込み、カッパちゃんと一杯やろうかと、決して広くは無い通路を抜け、上階へと続くエスカレータ―へと進めた。

   (六)

 「ボタン!停止を押せ!早く!」
 条件反射的に両手を広げた全身に、幾つもの段ボール箱が斜め前方から転がり落ちるというより降り注いで来た。
 自身の胸と腹で受け止めた箱が二つと、衝撃を感じた両手が果たして幾つのそれらを左右に弾き飛ばせたであろうか、俄には判断がつかずして当然だった。
 直樹の大阪弁での絶叫に、通りすがりの男性客が素早く対応してくれたお蔭で、降り口直前で急ストップから警報ベルが鳴り始めた。
 
 ストッパーが下ろされていない台車に、崩れなかった数個の荷物が残された風景が、この僅か十数秒間の全てを雄弁に物語っていた。
 担当者がその場を離れた際に勝手に動き出し、降り口前でバランスを崩し、不自然に高く積み上げられていた積載物が、一斉に重力の法則に右へ倣えした、弁解無用の人災だった。
 何とか冷静さを取り戻した直樹は、本来真っ先に気に掛けるべき方向にようやく気づき、恐る恐る後ろを振り返ってみた。
 幼いお嬢さんを抱きしめ身体を丸められたお母様と、彼女の母親らしき年配の女性の一段前すなわち上には、還暦前後とお見受けする、屈強な体格の紳士の凛とした姿が。
 彼がお腹の部分で受け止められたであろう、見覚えの有り過ぎるギターケースに首を傾げる事更に数秒、今更のタイミングで心臓の鼓動が妙な次なる高鳴りを見せ始めていた。
 押っ取り刀的に舞い戻りかけ、自らが招いた惨事に怯んだのか、少し離れた場所で呆然と立ち尽くす運搬担当者に、今にも飛び掛からんばかりで歩を進め始めた直樹。
 それを落ち着いた口調で毅然と制したのも、他ならぬその紳士その人だった。

 「お気持ちは分かりますが、あの調子ではラチが明かないのみならず、余計なゴタゴタに自ら飛び込むようなもの。それよりアナタの大切なギターの中身が心配です」
 「お蔭でワイフもベイビーも無事でした。本当にありがとう。これ以上関わってはなりません。それより勇気あるアナタの行動に何とお礼を申し上げて良いやら・・・」
 ご家族に先に帰宅するよう指示された紳士は、足早にその場を離れるべく、直樹を少し外れた場所へと誘った。
 人通りから影になった場所でギターケースを開くと、英字新聞のクッションで包んだ、年代物の外観上は傷だらけで経年劣化が否めぬ本体が、何ら問題無く普段通りの姿を見せてくれて一安心。
 「こんなにボロボロですが、古くて最初からですから。ほら中身も割れたり折れたりしていませんし」
 コンコンと軽く指先の第二関節で表面をランダムに叩きながら、目に見えぬ部分も大丈夫だと伝える直樹は、それまでとは一変した何やら厳しい表情を浮かべる紳士に気づき、反射的に身構えてしまった。
 「あれっ?俺、何か失礼な事を口走ってしまったかな?」
 沈黙の時間が果たして実際にはどの位の長さだったのか、次に鼓膜に飛び込んで来たフレーズは全ての想定を超越していた。
 それは自ら楽器通を気取るレベルの音楽好きのみならず、看板を抱える楽器店の店員からも発せられぬに違いない、マニアック過ぎる専門用語だった。
 「バナーヘッドにスカンクストライプのブラジリアン・・・なんでこんな凄い物を持ってるんだ!?・・・そうだ、アナタもしかして、神崎さんとおっしゃるのでは?」
 塒ではお腹を空かせたカッパちゃんが待ち疲れて眠りにつき始め、洋子は線路の向こう側直ぐのスナックで、十八番のナンバーを熱唱中の金曜の夜、何かが動き出した瞬間だった。

   (七)

 学歴肩書云々など我関せずと突っ張り続けて二十六年の直樹も、さり気なく差し出されたこの紳士の名刺に刻まれた文字が語る自己紹介の前には、元来自身が感じる筈のない緊張感が否めなかった。
 誰もが知る全国屈指の高級ホテルの経営陣の一人である旨が、あくまでシンプルなデザインの長方形内に収められていた。
 「風の便りでお噂を伺い、いつかお目に掛かれればと思っていました。不謹慎かも知れませんが、こりゃ落下事故に感謝ですな。それより神崎さん、本当にお怪我はありませんでしたか?」
 南北を繋ぐ駅舎北東側の踏切から少し離れた場所にポツンと建つ、洒落たデザインの小さなレストランは、以前から洋子と二人気にはしていたものの、自分達には敷居が高いだろうと一線を引いていたお店だった。
 誘われるままに着席から、横文字とカタカナ記載のメニューの内容もよく分からぬまま、薦められるままにオーダーした料理に舌鼓を打つ以前に、マナー面で粗相しないか、それよりこんな服装ではマズいのではと、まるで入社試験の面接状態の直樹。
 この店の上得意常連さんらしき、奥野と名乗るこの紳士、若い頃からカントリーミュージックが大好きで、留学中には現地アメリカでも演奏活動に興じるなど、俄仕込みで自称マニアを気取る同世代の諸氏とはレベルが違う、生粋の音楽と楽器ファンだった。
 運ばれた料理に口を付けているのか否かすら曖昧な感覚の中、次々と投げかけられる質問に、ただ一生懸命言葉を選んで答え続けるのが精一杯の時間が、ゆっくりと流れていた。
 
 「それは大変でしたね」
 続いて薦められた飲み慣れぬワインに、遂に全力発動させていた緊張感も次第に張りを失い始めたのか、あるいは氏の絶妙の話法故か、次第に饒舌になって行く自身にも気づかなかった直樹。
 おそらく余計な事まで含め、次第に大阪弁が顔を覗かせる回数が増す中、全てを言葉にしてしまっていた。
 時はテレビ番組で火がついた、若者を中心とした空前のエレキバンドブームの真っ只中。
 楽器店店頭は安価でカラフルで前衛的なエレキギターが売り場面積のほぼ全てを占拠し、会社帰りの一定年齢以上の社会人世代は、楽器店や音楽スポットに自分達の居場所を見出せぬ市場状況。
 「この惨状を何とかしたい。女子供初心者は来るな、などと高飛車に構えるつもりはない。多感だった思春期に俺達は精一杯爪先立って背伸びして、大人達の世界に喰らいつこうと足掻いていたから」
 「例えば百万円のギターが一台有って、それが百万円の価値を有する眼力を持つ人が、百万円支払える経済力を用いて手に入れる満足感を堪能する、そんな店を構えたい。安価だからお得でしょ一辺倒の現状では、音楽や楽器の魅力は伝え切れない」
 「卸業者に頼らず、個人輸入で現地の専門店から直接国際宅配便で商品を調達する。勿論一流の修理職人と提携から、単なる中古品ではなく、木工芸術品と楽器を捉えて愛でる市場を独自に構築したい」
 既に閉店時間を過ぎているであろう、結果的に貸切状態の店内で、丁寧口調すら怪しくなった直樹の熱弁を、機を見計らった体内のアルコールがそろそろ潮時と遮り始めたのは、日付変更線を既に跨いでいたのだろう。
 横浜海老名方面行きの、各々の最終列車の到着を告げるアナウンスが、夜風に乗ってこの店の外にも届けられていた。

   (八)

 「私共と一緒に夢の店舗の実現に臨んでみられませんか?勿論経営上身に着けていただきたい指導は厳しくお届けしますが、現場は基本全て神崎さんに一任します。やりましょう!『コードネーム・獏を生きる』を」 
 一着だけ残していたサラリーマン時代のスーツ姿は、結構伸び放題だった髪型とミスマッチなのが一目瞭然も、突然の呼び出しに身だしなみを整える時間も無く。
 我ながら滑稽な風貌だと苦笑いから開き直って向かった先は、奥野氏が経営陣の一画を務める、都内の超高級ホテルの関係者専用の会議室。
 「よろしくお願いします」
 『こんど』『つぎ』『そのつぎ』の下の『いつか』が、一番上の『これから』に飛び級した一九八八年晩秋、内心九分九厘不可能と腹を括っていた夢への扉が、こうもあっけなく開いた現実に、何とも贅沢ながら拍子抜け的な感覚を覚えた自身に、直樹は戸惑っていた。
 「ん? どうかされましたか?」
 突然思い出し笑い的な含み笑顔を浮かべた直樹、この時ばかりは答えを誤魔化し何度も頭を小さく下げるばかり。
 一刻も早くこの夢のような展開の方告を伝えたいと、鮮明に脳裏を過ぎった相手の顔が、洋子ではなく大きなカッパちゃんだったとは、流石に言葉に出来なくて当然だった。

 「お帰りなさい直樹パパ!」
 スーツ姿の揶揄にしては幾分ベタな出迎えに、横浜生活半年で大阪流のギャグが錆びつき始めているのかと、それでも余計な一言は今日ばかりは無用と、スルーを決め込んだその視界内に、大きな段ボール箱がひとつ。
 「直樹パパにお届け物ですって」
 「何だ何だァ?カッパちゃんのパートナーか?」
半年前のリベンジを何もこのタイミングで無くともと、それでも面倒臭い素振りを無理矢理誤魔化し、一応そそくさと開封するも中は空っぽ。
 「何にも入ってへんやないけ!?」
 「よおーく見てよ。ほら、底の方」
 覗き込んでみれば、何やら小さな冊子らしき物体を確かめるも、蛍光灯から届く光の陰に隠れてよく見えず。
 ならばと手を突っ込んで取り出した直樹は、暫しの無言の時間を思いっきり噛み締めた後、照れ臭さに似た得体の知れない感情を誤魔化すべく、深呼吸を大きく二つから
 「カッパちゃん、来年からお姉さんだからしっかりしろよ!」
 「カッパちゃんに続く、我が家二人目の浜っ子二俣川っ子。ようこそウエルカム!」
 クシャクシャの表情プラス意味不明支離滅裂な自身が可笑いやら何やらで、本来真っ先に洋子に聞いて欲しかった昼間の報告もどこへやら。
 
 LPレコード程の面積の頭頂部の黄色いお皿のほぼ中央で、表紙の『母子手帳』の四文字が微かに笑ったかの如く、僅かに揺れて丁度止まったところ。

著者

或 頁生(ある ぺじお)