「ジャズフェスin弥生台」ML440

 相鉄線・横浜駅の三番ホーム。午後十一時を回ったところで、転落防止用ゲートの前に並んだ人並みは、少しまばらになってきた。ゲートが開くと、男と女がドア近くの座席に並んで腰を落とした。女は黒いワンピースに長い髪を無造作に束ねている。長身の男は楽器ケースを足下において深く腰を落とした。二人は今まで食事をしていた。食事の手を止めながら男は女に告げた。
「一人でニューヨークに行きたい」
「どのくらい、行くつもりなの」
「分からない、答えが出るまで」
「…、私を置いていくのね」
男の仕事は横浜駅前のホテルマン、そしてアマチュアのサックス奏者。時々ステージで吹くサックスの演奏はプロ並みで、今日も赤レンガ倉庫のステージでセッションに参加していた。男は本場のニューヨークで自分の腕が通用するのか、試してみたかった。確かにプロのセッションに参加できる程度の巧い演奏はできる。観客の拍手も心地よいぐらいには聞こえてくる。しかし、何か言葉にできないいらだちを、男は感じていた。
いつの間にか動き出した電車の中で、女は正面を見据えたまま口を開いた。
「何をしに行くの」
「自分を見つけるため」
「ずいぶんつまらないことを言うのね、高校生じゃあるまいし」
「すまない。でも自分の演奏を、いや自分自身を見つめ直したい」
「あたしがいくつになったか覚えてる、三十七の女を置いて自分勝手に出て行くっていうのね」
そして沈黙が訪れた。
不服そうな表情の女を残して、男は二俣川で乗り換えた。

 夏も終わりかけているとはいえ、ニューヨーク・ケネディー空港の日差しはまだ強い。到着ロビーを抜けて、冷房の効いた施設から外に出た男は、腕まくりをしてサングラスを頭に乗せた。ニューヨークを訪れた実感をかみしめる間もなく、男はあわただしくイエローキャブに乗り込んだ。アラブ風の運転手に、マンハッタン・ミッドタウンの店の名を告げると、ようやく一息ついた。セッション仲間に紹介してもらったその店のオーナーにまず会って、自分の演奏を聴いてくれる相手を探す。それが最初のミッションだ。そしてその夜、すぐにチャンスが訪れた。

 セブンス・アベニューの脇に入った、地下の小さなクラブ。店のオープン前のステージが、アメリカでの初デビューの場所だ。がらんとしたステージだが、これが最初のステージ。そう気負って数分吹いていると、唐突に演奏を止められた。
「オーケー、もういいよ。日本人にしちゃあ、なかなか巧いじゃないか。ホテルのバーだったら仕事があるかもしれないな。でも、悪いが、ここじゃあ演奏させられない。あんたの演奏からは何も伝わってこないからな。あんたの演奏ははっきり言ってBGMだ。アドリブもどこかで聴いたようなフレーズだし。確かにあんたのプレイは巧いし心地よい、でもそれだけだ。(胸をたたいて)ここが熱くならないんだよ。せっかくミッドタウンにいるんだ、他のミュージシャンの演奏を聴いてみたらどうだ」
言い返す間もなく店を出されてしまった。そして二軒目、三軒目…。
手ごたえのないままに、三週間が過ぎて行った。

 その日も、男はうなだれ気味にセントラル・パークに向かった。ここには、ミュージシャンを目指す者が何人もいる。そして同じ数だけ去っていく者も。
男は『ニューヨークの秋』を吹き始めた。なんでこのメロディーラインじゃダメなんだ、どこが悪いんだ、全く…。しばらく吹いていると、通りがかりの男が声をかけてきた。
「巧い演奏だな、でも何も感じない。おまえは誰なんだ、お前はそこにいるのか。誰もおまえを感じてないと思うよ。向こうのベンチのところで爺さんが歌を歌ってる。それを聴いてみたらどうだ」
その声に促されるように、ベンチにいるという爺さんの歌を聴きに行く。
「アンド・ナウ・ジ・エンド・イズ・ニア♪」
爺さんはシナトラの『マイウエイ』を歌っている。年のせいか音程がぶれているし、声もかすれている。聴いていて美しいという感じはしない…、でも…。そこには爺さんの生き様が詰め込まれている。枯れた声を張り上げようともせず、とうとうと自分の生きてきた道を語っているようだ。そう思って聴いていると、枯れた声には理由があるし、その語り口には爺さんそのものを感じる。だから…、この歌は爺さんしか歌えない、爺さんだけの歌だ。楽譜をたどるような巧い演奏じゃない。でも、爺さんの生き様がしっかり胸に伝わってくる。そうか、自分自身を表現するって、こういうことか。
男の傍らを、ステップを踏みながらラップを口ずさむ子どもたちが通り過ぎていく。人生経験の少ない子どもたちだって、ここでは自分を表現しようとしている。
男はアルトサックスを抱え直して『ニューヨークの秋』をふたたび吹き始めた。最初の四小節こそ楽譜通りの展開だが、そこから徐々に思いをこめる。音程こそ維持しているが、音符の長さやリズムを少しずつ動かし始める。ニューヨークへ来て感じた期待、すぐに訪れた空しさ、やるせなさ、無力感。でもしばらくすると、そんな感情がここで生きる人たちを理解する喜びに変わっていく。それを表すかのように、トーンが明るみを帯びてきた。いつの間にか集まってきた聴衆が立ち止まっているのに、男は気がつかない。最後の音を吐き出した後、男は紅葉の秋を吹いてみたくなった。今、自分が立っているセントラル・パークの銀杏並木の黄色い黄葉に続けて、日本の山並みの紅い紅葉を。男は静かに『もみじ』のイントロを吹き出した。メロディーラインを少しずつ自分の感情で動かし始める。サビの部分は小学校の音楽の先生が目を吊り上げるような泣かせ歌にして。これも秋だ、日本の秋だ。吹き終えると周りからの口笛や拍手の嵐が聞こえてきた。いつの間にか集まっていた観衆から賞賛され、受け入れられている自分に気がついた。そうか自分の気持ちを正直に表せば良かったんだ。俺は俺だ。これが自分のメロディーだったんだ。ここはステージじゃないけど、こんなに俺の生き様を認めてくれた人がいる。十分だ、俺は自分が誰だか分かった。そうだ、日本に帰ろう、俺がいるべき俺の町に。あいつのいる俺の町に。

 男は詫びても駄目かもしれないと覚悟を決めて、女にコンタクトを取った。自分勝手な男に女はあきれていたが、以前は黙ってうなずいているばかりだった男が、自分の考えを伝えようとしているのを見て、女は感じた。「きっと、この人の中で何かが変わったんだわ」。

 少しずつ以前の生活になじみ始めて、新しい季節が訪れたある日、男の友人が現れた。友人は男と時折セッションをするベーシスト。男が帰国してから、また交流が始まった。友人は町でジャズコンサートをしようと持ちかけてきた。男は唐突な提案に驚いたが、まずは友人に尋ねた。
「なんで町なかでジャズコンサートなんだよ。ジャズの相場は夜の酒場と決まってるだろうが」
「それが一人よがりだというんだ。音楽を通して喜びを感じるのは酔っ払いだけじゃないんだぞ。大人も子どもも音楽を楽しめるんだ。大体お前がセントラルパークでえらく感激して吹いたとかいう演奏だって、真昼間の公園じゃないのか」
そう言われると、男には返す言葉もない。友人は続けて言う。
「お前だってニューヨークでいろんな思いがあっただろう。そういうことをかみしめる音楽だっていい、そういうことを忘れる音楽だっていいさ。ただ楽しむだけでもいいじゃないか。おまえ相鉄の弥生台っていう駅、知ってるか。大きな駅じゃないんだけど、ホームの横に桜があってさ、横浜行のホームをステージにして、湘南台行のホームを観客席にしてコンサートをするんだよ。プレイヤーも観客もお互い桜をバックにして、夜の部は桜をライトアップして。絶対盛り上がるコンサートになるぜ」
「あのさ、電車が動いているホームで、コンサートができるわけないだろう。少しは考えて物を言ってくれよ。せいぜい列車の中にプレイヤーと観客を集めるJAZZトレインがいいとこじゃないか」
「いやいや、それじゃあだめだ。ホームじゃないと。これだって町おこしだぞ。相鉄に掛け合ってみるよ。駄目もとで」
「おまえ鉄道って、安全が第一だって知ってるか。コンサートやってるごったがえしたホームで、乗客が乗り降りしたらどうなるか分かるだろう。そうだ、駅前に公園があったろう。駅前公園だっけ。そこなら許可とればいけるんじゃないか。でもなんで弥生台なんだ。そこって、おまえの出身地か何かか」
男がそう言うと、友人は急に言いよどんだ。
「まあ、町を元気にしたいというのは本当だよ。でも実のところは、分かれたあいつにもう一度会いたいんだ。分かれて三年…、三年と五か月になる。一緒に暮らしていた頃あいつは、勤務先で看護士を続けながら、家では親父さんの介護をして…。俺もできる限り手伝ったさ、あいつの親父さんだし。でもそんな生活が二年も続くと、俺は正直いって嫌に、いや疲れてきたんだ。あいつが夜勤の時は、俺が帰ってから面倒をみるんだ。最初のうちは、親父さんがいつか良くなると信じてた。でも、そうはいかなかった。そんな先の見えなくなる生活が続くんだ、ずーっとな。「こんな生活は限界だ」ってあいつが思うずっと手前で、情けないほどずっと手前で、俺は親父さんの面倒をみるのが嫌になった。それが分かれた原因だ。あいつが大変だったのはもちろん分かってた。でも、一緒にいて手伝ってやろうとは、その時はもう思えなかったんだ。自分の時間が、自分の人生が無駄に消えていくみたいで…。だから別れた。その後一人になったあいつも、自分だけじゃ支えきれなくなって、結局親父さんを弥生台の南口にある老人ホームに入れることにしたんだ。親父さんはベーシストとしての俺を理解してくれていたのに…。それよりなにより、俺はあいつと正面切って話し合うことをしなかった。面倒なことから逃げまくってたんだ…。でもお前がニューヨークから帰ってきて、分かれたおまえの女と、しっかりお互いに言いたいことを言って話し合ったと聞いて、おれは恥ずかしかった。だから俺もあいつと、もう一度話し合わなきゃと思ったんだ。許してほしいとは言わない。もとに戻れるかも分からない。でも俺はあいつの思いを、一度だけでも正面から受け止めたいんだ。そうしないと俺は死ぬまで後悔すると思う。あいつは今、老人ホームのそばにある総合病院で働いている。だから仕事のある日は必ず弥生台を通る。そこでバカみたいに大きい音でベース鳴らしてジャズやってりゃ、あいつは顔を出すと思うんだ。だから弥生台でジャズなんだよ」
友人は一気にまくしたてると、ペットボトルの水を口に含んだ。
「分かった。そういうことなら、ともかくイベントを立ち上げよう。セッション仲間を引きずり出すのと、会場を抑えるのと。広報も必要だな。病院にも老人ホームにも、ポスターを張らせてもらおう。そうだ、弥生台の駅長にも町おこしだと言って、相談に乗ってもらおう。やることはうんざりするほどあるぞ。しかも桜の時期のイベントだろ、急がないとな。俺は忙しいんだから、イベントの名前ぐらい、おまえが自分で考えろ」

 しばらくして湘南台の線路沿いのカフェに男たちが集まった。コーヒーの焙煎までマスターが手がける、気の利いた小ぶりのカフェだ。
「場所も抑えたし、ポスターももうじき仕上がりそうだ。金はかけられないからポップやってるやつにボランティアで頼んだ。まあ仕上げはそこそこだろうから、あまり期待するなよ。そうだ、バンドの写真をいれるかどうか聞かれたけど、どうする」
「やめとくよ、これ見よがしなことはしたくないし」
「でもお前が出るとわかったら、あの人達は来てくれるんじゃないか」
「逆だろうよ、会いたくないからきっと来ないさ。顔なしの楽器だけの写真でも入れといたらどうだ」
「分かった、言っとくわ」
しかし仕上がったのは、メンバーの顔写真入りのポスターだった。

 そして当日。
弥生台のホームの脇には、満開の桜がホームの両側に沿って、薄いピンクの回廊を作っていた。会場の駅前公園にもステージを囲むように、負けじと桜が咲いている。ピンク色の桜の花の背景には、すがすがしい青空が広がる、そんな日曜日。桜のせいか、それともポスターの効果のせいか、聴衆が少しずつ集まってきた。
男がベーシストの肩をたたいて話しかけた。
「しかしイベント名が『桜ジャズフェスin弥生台』って、なんのひねりもない名前だな」
「うるせーな、俺に名前をつけろって言ったのはお前だろ、いまさら文句言うなよ」
「そりゃそうだな(笑)」
開始時間の午後三時少し前。前列を占めるのはお昼寝から覚めて早めのおやつを食べたとおぼしき、駅前の保育園にいる子どもたち。
男はまたベーシストに話しかける。
「あのさ、ジャズフェスになんで子どもなんだよ、しかも一曲目が『森のくまさん』ってどういう選曲だよ、洒落にもならないぞ(笑)」
「おまえ、未来のジャズファンに向かって、何てこと言うんだ。ジャズの楽しさを覚えるのは、これくらいの年頃からでいいんだよ。アレンジだって少しはジャズっぽくしようと、デキシーランド風にしただろ。子供たちにも絶対受けるにきまってるさ」
「わかったよ、しかし今日の選曲はなんだってこうジャンルがぐちゃぐちゃなんだ」
「ぐちゃぐちゃじゃなくて、すべての世代に分かってもらう、いや、楽しんでもらうために、いろんなジャンルを入れたんだ。それと最後の曲は俺のベースソロ長めに入れるから、よろしく!」

そうして『森のくまさん』が始まった。子どもたちが一緒に歌うだろうことは予想していたけれど、このノリのいい手拍子はなんだ。そして拍手喝采。ステージのメンバーたちも驚いた。
「えー、こどもにデキシーが受けた!」
「よっしゃ、もう一曲デキシー入れちゃえ、聖者の行進な」
♪♪♪~。
「子ども達の手拍子も上手いけど、リズム感もいいな。変則的な五拍子の『テイク・ファイブ』をやったって、のりのりでついてくるかもな(笑)」

そして進行は進みスタンダートのパートへ。『ワルツ・フォー・デビー』が紹介され、ベースとピアノの掛け合いが始まると、ベーシストは思った。一人じゃこの曲はできない、音色も性格も違う二人の掛け合いがこの曲を成立させる。そしてバックを固めるドラムのリズムがそれをサポートする。
ベーシストは思う。
「これって俺とあいつと親父さんの関係だな。一人が欠けたらもう成立しない。それが分かっていて俺が一抜けしちまったんだ。何も言わずに…。それって…」

 公園の入り口には、車いすの老人と、ショートの髪を栗色に染めた中年の女性がたたずんでいる。老人は少しだけ自由の利く左手で拍子をとっている。
「彼はわしの好きな曲を覚えていたのかな。ベースもさび付いていないようだ。小さい子どもたちを喜ばせる演奏も、彼の人柄を表すようで良い感じだし。彼は音楽から離れられないな。彼が今の生活に満足してるなら、それはそれでいいことだが、しかし、できれば…」
老人の傍らの女性は体を動かすこともなく、ずっと一点を、ベーシストを見ている。
ベーシストは視線を感じて、入り口にたたずんでいる二人を見つけた。女性が手を目頭に当てているのも。
その瞬間、演奏がもどかしくなってきた。早く終わらせて入り口に立つ二人に会いに行きたい。

そして演奏が終わり、ラストの曲に。
ベーシストはマイクに向かって、
「ラストの曲はベースのソロをフィーチャーした名曲『マイ・フーリッシュ・ハート』です、ではお楽しみください。1,2,3…」
しかしピアノのイントロが出てこない。ドラムもサックスもそっぽを向いている。
「おい、どうしたんだ。早くイントロ出そうよ」
それでも演奏は始まらない。サックスを持った男が言う。
「まあ、おまえのためにあるような選曲だけど、今はちんたらベースを弾いてる時じゃないだろう。今を逃がしたら、こんなタイミングはもうこないかもしれないぞ。さっさと行けよ!ハンカチ持って、すぐに入り口のところに行ってこい!いつまでもあの女(ひと)を泣かせるんじゃないぞ。さあ行った、行った」
ベーシストはうなずき、そして投げるようにベースを置いて、聴衆をかき分けていった。
 男はサックスを抱えながら、残ったピアニストとドラマーに話しかけた。
「全くこれ以上はないくらい、あいつにぴったりの選曲だな。二人でしっかり話して、よりは戻せなくても、少しはあいつらの時間を巻き戻せるといいんだけどな。
さてと、ベースはないけどピアノとドラムでカバーしてくれよな。メロディーラインはサックスがいただくぜ。俺、泣かせ歌うまいから(笑)さあいくぞ♪」

著者

ML440