「ターミナル」来戸 廉

「近い駅だったら止まるの?」
 その言葉は、私を眠りの淵から現(うつつ)に引き戻した。その日私は、小春日を背に電車の揺れに身を任せていた。相模鉄道本線、横浜発海老名行きの急行電車。向かいの席に座る、三十代前半と思われる父親に連れられた、四、五歳くらいの男の子が発したものだった。
 『近い駅だったら止まるの?』という表現が面白くて、私は寝不足の目を揉(も)みながら二人の会話に耳をそばだてた。
 まもなく二俣川駅だ。
「そう。駅に近づいたら、ブレーキをかけて、ゆっくりになって止まるんだよ」
 父親は、その質問の意味を理解したらしい。
「わーっ、レールがいっぱいだ」
「この駅は特急も止まるからね」
 しばらくして「一番線から海老名行きが発車します」とアナウンスが流れた。
 子どもは靴を脱いで椅子の上に膝(ひざ)立ちしていた。窓ガラスに顔をへばり付けて、流れる景色を見ていた。
「あっ、ワニさん。ほら見て!」
 子どもの声が弾む。私の席からは見えなかったが、ワニの絵が描かれた看板でもあったのだろう。目で追いながら父親の袖を引く。その刹那(せつな)、上り電車が子どもの鼻先を通過した。
 うわーっ。思わずのけぞる男の子。
「ワニさんも、ビックリしちゃったね」
 父親が吹き出した。
 
 希望ヶ丘駅が近づいてきた。車内にアナウンスが流れる。
「次で下りるの?」
「まだだよ。『次は終点、海老名です』って、車掌さんが教えてくれるよ」
「あれ。ここ、違うよ」
 確かに横浜駅や二俣川駅と比べると規模が小さく、上下線を挟んで両側に一つずつホームがあるのみだ。雰囲気が異なるのは否めない。
「ここで下りるの?」
「まだ。さっき終点で下りるって言っただろう」
 景色を眺めるのに飽きた子どもは、向きを変えて席に座る。父親は靴を履かせた。床に届かない足が、ぶらぶらと暇を持て余している。
 
 ホームに『瀬谷、瀬谷』と放送が流れた。
「ステーションって、言ったの?」
 いきなり英語が飛び出したのには驚いた。
「違うよ。『せや』って、言ったんだよ」
「へーっ。ステーションじゃなくて、『せや』なんだ」
「そう。ここは、『瀬谷』って名前のステーションなんだよ」
「ふうん。じゃあ、ここで下りるの?」
「まだだよ」
 
 瀬谷駅を出た。
「電車って脱線するんでしょ?」
 子どもの話は何とも脈絡がない。
「しないよ。そんなことになったら大変だし、みんなが困るだろう」
 父親は、外れかかった子どもの車輪をレールに戻した。
「ふーん。じゃあ、次で下りるの?」
「終わりまで乗るって言っただろう。終点までって」
「終点って?」
「最後まで乗って行くんだよ」
 父親は男の子の質問に一つ一つ丁寧に答えている。子どもの話は飛んで跳ねて、そのたびに『次の駅で下りるの?』に戻る。おそらく海老名駅で、母親が二人を待っているのだろう。父親と子どもの会話は、噛(か)み合ったりずれたりを繰り返しているが、根っこの部分で繋がっている。そのやり取りが耳に心地よく、微笑(ほほえ)ましくもあり、同時に妬(ねた)ましくもあった。
 ずっと聞いていたかったが、次の大和駅から車内が混み合ってきて、二人の声は届かなくなってしまった。
 
 一昨日、息子から電話があった。
「孝夫、孝夫なの?」
 妻は、息子の名前を連呼するばかりで、終いにその場に突っ伏して泣き出してしまった。妻の手を滑り落ちて宙に揺れる受話器。微(かす)かに声が漏れる。私は急いでそれを取り上げた。
「もしもし」
 私が代わると、受話器の向こう側で息を呑(の)む気配がした。そして何の前置きもなく、
「今週の土曜日、午後三時に海老名まで来てくれないか」
 とだけ、言った。十一年ぶりに聞く息子の声は硬かった。
「今週の土曜日、午後三時、海老名、だな」
 私が一語一語噛みしめるように復唱すると、「ああ。それじゃあ」と一方的に通話が切られた。置き去りにされた不通話音。受話器を凝視する私に、
「今度の土曜日、ですね」
 と妻は涙を拭(ぬぐ)いながら、安堵(あんど)したような顔を見せた。
 
 そんなことがあったからだろうか。私には、先ほどの男の子の姿が、息子の小さい頃と重なって仕方なかった。
「次の駅で下りるの?」
 孝夫はずっと私に問いかけていた。私は最初こそきちんと答えていたが、次第に煩(わずら)わしいと感じ、いつの間にか無視するようになり、ついには五月蠅(うるさ)いと怒鳴(どな)っていた。
 中学生の頃からだろうか、孝夫とまともに口を利いた記憶がない。高校受験、大学受験。孝夫は将来のことを、私に一言の相談もなく独りで決めた。素直に我が子の自立を喜ぶべきなのだろうが、私は面白くなかった。家から遙に遠い大学名を聞いた時、積もり積もった不満が爆発した。
「そんな話は聞いていないぞ」と私は声を荒げた。
「あんたに関係ないだろう」
「親に向かってあんたとは何だ。もういい。勝手にしろ」
 諍(いさか)いは平行線のまま、交わることはなかった。妻はそんな二人の間で右往左往しているうちに疲れ果ててしまった。
 そして緊張だけが静かに高まっていった。決定的な出来事は、高校の卒業式を間近に控えた夜に起こった。直接的な原因は何だったか、もう思い出せない。大方たわいもないことだったのだろう。だが結果は最悪なものになった。
 あたかも過冷却された水がちょっとした振動で瞬時に氷になるように、孝夫と私との関係は一瞬で凍り付いてしまった。
「やっぱ、あんたとはこれ以上無理だ」
「だったら、この家を出て行け」
 私は腹立ち紛れに、そう口走っていた。孝夫は意を決していたように、ボストンバッグ一つ持って家を出ていった。涙ながらに引き留めようとする妻。
「放っておけ。どうせ直ぐ戻ってくるに決まっている」
 そう高をくくっていたが、連絡がないまま一ヶ月が過ぎ、それが半年となり、意地を張り続けているうちに一年が経った。
 もっともその気になれば、捜す手段は幾つもあったはずだ。だが孝夫を捜し出したとしても、私にはどうしたらいいのか分からなかった。そして仕事の忙しさを言い訳に何もしないまま、月日だけが流れていった。
 不可解だったのは、当初は泣き伏せっていた妻だったが、そのうち徐々に愚痴や非難めいたことを口にしなくなったことだ。心配しているような様子も見えなくなった。
 ――そんな簡単に諦(あきら)められるものなのか。
 私は、そう訝(いぶか)ったことを覚えている。
 
「まもなく海老名、海老名、終点です。……」
 車内放送が流れる。大和から十分ほどの所要時間のはずだが、随分長く感じた。
 電車が駅に着いた。開いたドアから吐き出された乗客がホームに溢(あふ)れ、我先にと改札口に群れる。車内は俄(にわか)にがらがらになった。目の前の壁が消え、先ほどの親子が再び現れた。
「さあ着いたぞ」
 父親の声に男の子はドアに向かって走り出そうとする。
「そんなに慌てなくても大丈夫だよ」
 父親は子どもの手を掴んだ。それでも逸(はや)る心が騒いでいる。父親は苦笑しながら、引っ張られるようにして電車を降りていった。
 隣に目をやると、妻は上の空でまだ座っている。夕べはほとんど寝ていないようだ。
「おいっ」
 私は肘(ひじ)で妻の腕を軽くつつく。充血した目をしょぼつかせながら、はじかれたように席を立つ妻。私は妻の背に手を添えて、少し人の波が引き始めたホームに立った。しかし、直ぐに反対ホームに特急が滑り込んできて、再びホームが人で埋まる。私達は雑踏に飲み込まれないようにホームの端に寄ってやり過ごした。
 少しして人がまばらになったのを機に、私達は再びゆっくりと改札に向かって歩き出す。遠く改札口の向こう側に、人々の流れに逆らうように立つ影が見える。孝夫だ。孝夫は、私を認めると右手を挙げた。
 
 定年を迎えて、妻と二人で過ごす時間が増えた。徒然(つれづれ)に話していると、省かれていても明らかに孝夫が主語だとわかる話が多いことに気づいた。短い会話の中にも我が子に対する思いを覗(のぞ)かせる。
 ついこの間もそうだった。朝、花火の音がして「運動会か?」と私が独(ひと)りごちると、妻が「直ぐそこの小学校ですね」と拾う。この辺りでは、小中学校の運動会の朝に花火を打ち上げ、開催を知らせる。
「徒競走、楽しみでしたね。いつも一等賞で。孫も足が速いといいんですけど」
 妻がぽつりとこぼす。私の返事を期待していない口ぶりで。
「そうだったか?」
 案の定、私は孝夫の雄姿を覚えていなかった。
 妻は元々口数が多い方ではなかったが、あの日からずっと妻はそうしてきたのかと思うと、私は慚愧(ざんぎ)の念に襲われた。私が意固地だったばかりに、妻には随分と辛い思いをさせてしまった。妻がいたく不憫(ふびん)に思える。丸めた背が小さく見える。白髪も目立つようになった。無理もない。妻は今月の半ばに還暦を迎える。
 ――今頃、あいつはどうしているんだろうか?
 この所、折に触れそう考えている自分に気づく。そんな時、認めたくはないが自分の老いを感じる。そこには悔いを残したまま人生に幕を引きたくないと切に願う自分がいる。
 そんな折の電話だった。私は孝夫から差しのべられた手にすがった。会って許しを請い、時々でも妻と会ってくれるよう頼もう。そのためには、土下座だろうが何だろうがする。そう覚悟を決めた。
 
 やっと改札口付近の人影がまばらになった。それを待っていたように、孝夫が右手を向いて手招きした。
 あっ。妻が小さく声を上げて立ち止まった。妻の視線を辿る。券売機の脇から男の子が孝夫に駆け寄る。その後を、その母親らしき女性がゆったりとした足取りで追う。
「おいっ、あれって」
 驚きが声に出た。妻が頷(うなず)く。孝夫は中腰で鉄砲玉を受け止め、抱え上げた。
 ――そうか。孝夫もそういう年か。
 そこには私達が知らない、孝夫の過ごしてきた時間がある。そんなことは、自ずと想像できたはずだ。だが私の中の孝夫は、家を出て行った時のままだった。それが一気に目の前の孝夫に置き換わっていく。私はそのことに戸惑いを感じた。
 ――空白を埋められるだろうか。
 ふっと不安がよぎる。しかしそれが無理でも、私は前を向いて歩いていくしかない。
 すぐ横で妻の鼻をすする音がした。少しでも気を抜けば、私の心もそれに引き摺(ず)られそうになる。私は歯を食いしばった。
 改札口を抜けた。孝夫は子どもを下ろして、川の字に並ぶ。母親が小さく頭を下げた。男の子が母親に背を押されて、俯(うつむ)いたまま一歩前に出た。私は母親に会釈を返して、彼の前にしゃがむ。両肩にそっと手を添えた。妻も膝(ひざ)を折る。
「こんにちは」
 妻の声に、「こんにちは」と消え入るような声が返ってきた。
「大きくなったわね」
 妻がしみじみと言う。私は思わず妻を見た。
「お前、知っていたのか?」
「ええ」
 その後に続く言葉を待ったが、妻はそれ以上何か言う様子はなかった。きれいにセットされた髪が目に入る。白髪も染めたようだ。たった今まで気づかなかった。
 妻は先日の電話の後「あなたが怒ると思ったから黙っていたけど、あれから一度だけ孝夫から連絡があったんですよ」と打ち明けた。元気にやっているから心配しないでくれって。家を出て数ヶ月経った頃だったと言う。
 ――そういうことか。
 どうも孝夫からの電話は、一度きりではなかったようだ。私だけが蚊帳(かや)の外だったのは不快だが、それよりも今は孝夫を繋ぎ止めていてくれたことに対する感謝の方が勝っている。
 はにかみ屋さんが母親を見上げる。母親は笑みを浮かべ、小さく顎(あご)を引いた。彼はそれを見て、すぐに私達に視線を戻した。
「僕のジイジとバアバ、なの?」
 私と妻の顔を交互に見ながら尋ねる。ああ、そうだ。胸が迫って、その一言が出ない。私は何度も首を縦に振った。妻は手を伸ばして、その存在を確かめるかのように、そっと頬(ほお)を撫(な)でる。鼻をすする音がいっそう激しくなった。
「明美に健太。健太は六歳になった」
 そう言いながら孝夫は健太の傍(かたわ)らに膝を折る。
 そうか、健太か。目元が父親によく似ている。考えるより先に体が動いた。私は健太をぐっと抱き寄せる。健太は一瞬体をピクッと震わせたが、そのままじっと身を任せた。健太は温かく、日向(ひなた)の匂(にお)いがする。たぶん父親と公園ででも遊んできたのだろう、甘酸っぱい汗の匂いが混ざった。こうしていると健太の熱が体に浸みてきて、心の空白を満たしてくれる。
 どれくらいそうしていたのだろう。知らずに力が入っていたらしい。健太が窮屈(きゅうくつ)そうに腕をもぞもぞ動かす。すまん。私は慌てて手を解いた。明美が健太の頭を撫(な)でて大役を労(ねぎら)う。
「来年、小学校に上がるんだ。だから明美が、その前にどうしても挨拶(あいさつ)がしたいって……」
 孝夫は鼻の頭を人差し指で掻(か)きながら、笑みを浮かべる。
 ――そう、照れくさい時のこの子の癖だった。
 こうして孝夫の顔を正面からじっくり見るのは、随分久しぶりのような気がする。優しい目だ。面構えも中々逞(たくま)しくなった。私は思わず孝夫の肩を掴んだ。そうせずにはいられなかった。
 ――最初からこうすればよかったのか。
 実に簡単なことだった。何も言葉や策を弄(ろう)する必要などなかった。
「すまなかった」
 すっかり肩すかしを食らった私の覚悟とやらは、それだけ言うのがせいぜいだった。
 孝夫は小さく首を振りながら、私の手に自分の手を重ねて、
「母さんとの約束、やっと果たすことができたよ」
 と言う。妻は繰り返し、繰り返し大きく頷いた。
 私は妻の横顔をじっと見る。不意に、最近妻の口から『孫』という単語が出ていたことを思い出した。
 ――あれは確か近くの小学校の運動会の朝だ。そうか、そうだったのか。
 妻は、日頃の会話の中にそれとなく孝夫から得た情報を埋め込んでいたのだ。すぐには思い浮かばないが、そんなことは、たぶん今までに幾つもあったはずだ。情けないことに、私はずっとそれに気づくことができずにいた。
 
「さあ。ここでは何だから、家に来て。少し早いけど、母さんの誕生日のお祝いも用意しているから」
 孝夫に促されて私達は立ち上がった。
「狭い所ですが、どうぞいらしてください」
 目立ち始めたお腹に手を置く明美。気になって、どうしても目がそこに行ってしまう。孝夫がそれに気づいて、
 「三月にはもう一人増えるんだ」
 と、また鼻の頭を掻いた。
「本当はお伺いするつもりでいたんですけど、孝夫さんが私の体を心配してくれて……」
 ご足労を掛けてすみません、と明美は頭を下げた、
 ううん。妻は首を横に振る。
「やっと……ここまで……たどり着いた……」
 途切れ途切れに吐き出した言葉が、途中から嗚咽(おえつ)に変わった。孝夫は思わす上を向く。顔がゆがんだ。
 この日を迎えるまでに、本当に、本当に長い時間を費やした。私は鼻から大きく息を吸って、胸に込み上げてくる熱いものをぐっと抑え込む。
「いいえ、これから新に始まるんですよ」
 はっとして、声を追う。
「ここが始発駅ですよ、お義母さん」
 目を真っ赤にした明美がしっかりと妻の手を取る。私の限界だった。
「親父、随分涙もろくなったな」
 孝夫が目尻を指で拭いながら笑った。
 (了)
 
 

著者

来戸 廉