「チーコちゃん」石山 喜代

 私にはもう一人のおばあちゃんがいた。
一人は母方のおばあちゃんであり、そしてもう一人は近所に住むおばあちゃんだった。
そのおばあちゃんの話であるが、一匹の子猫を飼っていた。チーコちゃんという名前の女の子だった。
 当時、家の中も両親が共働きで朝から晩まで誰もおらず、通っていた小学校に馴染めなかった私は毎日のようにおばあちゃんの家に遊びに行った。家猫だったチーコちゃんも必ずそこにいた。私の住んでいた横浜市の瀬谷地区では野良猫をそれほど見かけなかったのもあり、余計に猫という動物自体が私には珍しかった。なので私はチーコちゃんと遊ぶのも、おばあちゃんと話すのと同じように楽しかった。
 そんなある日。それまで家から出ようとしていなかったチーコちゃんがふとしたことから、おばあちゃんが玄関を開けた隙にヒョイと外へ出てしまった。
「あっ、チーコちゃんもお外で遊びたいのかなあ」
 と私が驚いて言うと、おばあちゃんはにこにこしながら、
「そんじゃ、チーコも一緒に表で遊んでくるかい」
「えっ・・いいの、おばあちゃん」
 私はたちまち嬉しくてたまらなくなった。
「ええ。暗くならない内に戻っておいで」
 そう言って笑顔で送り出してくれた。
 私はチーコちゃんを抱えながら、どこに行こうかと行く道をうろついた。
「あったかい・・チーコちゃんのからだ」
 天気は快晴だが冬空の下では寒さが堪える。それだけ、おばあちゃんの家の中ではあまりチーコちゃんの体温を感じにくかったが外が寒いだけにチーコちゃんの温かさに私のからだも心も満たされていた。
「チーコちゃん・・ずっと一緒にいようね」
 私は彼女に話し掛けると、やがて小さな公園が見えてきた。
「ちょっと座りたいな・・休もうか」
 ベンチで休む前に、喉が渇いた私は水道へ向かい蛇口を捻ったそのときだった。
 突然チーコちゃんがスルッと私の腕を抜けてすごい勢いで通りの向こうへ走り去ってしまった。
「チーコちゃん、チーコちゃん・・」
 私はくまなく辺りを探し回った。公園はもちろんのこと、おばあちゃんの家から歩いてきた道や、一度も通ったことのない知らない道もひたすら探し回ったがチーコちゃんの姿は一向に見当たらない。
「どうしよう・・どうしよう・・」
 私は半べそをかきながらも、それでも懸命にチーコちゃんを探し続けた。冬の時期だけに日が暮れるのも早く、午後六時を回った頃にはすっかり暗くなってしまった。
「ううっ・・チーコちゃん・・」
 私は一旦探すのをやめて、おばあちゃんの家へと戻った。
「おや、遅かったね。お入んなさい」
 おばあちゃんは何も訊かずに私を迎えてくれた。私の手にチーコちゃんがいないとわかって、敢えて問い詰めなかったのだと私は思った。それだけにただひたすら申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「おばあちゃん・・ごめんなさい、チーコちゃんが・・いなくなっちゃって・・」
「それで、ずっと今まで遅くまで探してたんだね。寒かったでしょ、お茶飲んで温まりなさい」
 いっそ、おばあちゃんに責められた方が気が楽だった。だけどおばあちゃんは別段無理をしている訳でもなさそうで、いつもと同じように私に優しかった。
「心配せんでも、あの子はまたいつか戻って来るよ」
「でも・・今までおうちから出たことないんでしょ。一人で戻れるかなあ・・」
「あの子は、今日が初めてじゃないよ。最近になって外に出たがるようになってねえ。あたしも歳だからあまり構ってやれないし。きっと活発な友達が欲しくなったのじゃ」
「でも・・あたしじゃ、チーコちゃんは嫌だったんだね」
「それは、どうかねえ」
 おばあちゃんは私の頭を優しく撫でながら応えた。

 それから一週間後のことだった。
 私は今までずっと馴染めずにただ時間が経つようにと過ごしていた学校内でも、チーコちゃんの行方にまつわる情報を訊き回った。圧倒的に初めて言葉を交わす子の方が多かったが、チーコちゃんが見つかるならと思うと人と接するのが云々とは言ってられない心理状態だった。
 すると、担任の先生を通じて、隣の組のアヤコちゃんがチーコちゃんを預かっているようだと耳にした。私は早速隣のクラスへと急いだ。
「アヤコちゃん・・あの・・えっと、チーコちゃん・・あ、黒い猫のことなんだけど、今アヤコちゃんのおうちにいるのかな」
 私は必死で教室にいたアヤコちゃんに声を掛けた。
「うん・・うちに来る?」
 私は迷わず、うんと頷いた。

 ところが、アヤコちゃんの家に一緒に来てみると、チーコちゃんはアヤコちゃんのお母さんが目を離した隙にいなくなってしまった。
「ね・・あたしも一緒に探してあげるから、元気出して」
 アヤコちゃんに背中を撫でられながら、私はガックリきた気持ちを必死で奮い立たせようと努めた。
 そして、三日後に同じクラスのタケシ君が新たな情報を伝えてきた。
「希望ヶ丘の駅のそばに、猫が集まる場所があるらしいぜ」
「ほんとに?わかった、ありがとう。早速行ってみるよ」
 その中にチーコちゃんがいるかどうかは果たしてわからないにしても、私は興奮する気持ちを抑えることができなかった。
「でも、夜にならないと集まらないみたいだから、誰か大人を連れて行った方がいいぜ」
 そう言われて一瞬おばあちゃんの顔が思い浮かんだが、さすがにお年寄りに真夜中に遠い場所まで来てもらうことは子供心にもはばかられた。
 かといって、頼れる大人は他にいなかった。どうしようと思ったが、私は思い切って両親に事情を含めて打ち明けた。
「駄目じゃない。よその猫を外に出したら」
「でも・・おばあちゃんがいいって言ったから・・」
「それでも、猫は突然いなくなってしまうこともあるのよ。犬なら賢いから戻って来るでしょうけど、猫だとどうなのかしらね・・」
 母は父と顔を見合わせながら考える仕草をした。
「よし・・これからその猫の集まる場所へ行ってみよう」
 父が立ち上がって、サッサと身支度をした。
「気を付けてよ・・夜道は大人でも怖いんだからね」
 母は幼い弟がいるので一緒には行けないのだと思った。
「行くぞ、ユウミ」
 父に、先ほど学校でタケシ君に教わった希望ヶ丘にある猫の集まる場所を描いた地図を見せると、父もまた横浜市のポケットサイズの地図を片手に一緒に家を出た。
 初めて行く場所だったが、幸い家からは単純な一本道で行けた。
 公園に着くと、二人連れの親子らしき姿があった。
「よお、岡本。黒い猫が三匹もいるからどれだか俺にはわかんねえけど」
 タケシ君が彼のお父さんと一緒に来てくれたのだ。
「ありがとう、タケシ君・・だね。ユウミの父です。ありがとうね」
 父が初対面のタケシ君親子に丁寧に挨拶をする。
 私は、黒猫を一匹ずつ確認していった。
「どうだ、ユウミ。チーコちゃんはいたか」
 私は首を横に振った。
 それからしばらくの間チーコちゃんが来るかと待ち構えたが、とうとうチーコちゃんは現れなかった。
「ユウミ。今夜は遅いし、お前も学校でお父さんも明日会社だから、帰ろう」
「じゃあ、私たちも・・」
 と、タケシ君のお父さんも引き揚げようとする。
「あ。何だったら電柱に貼り紙してはどうかな、ユウミちゃん」
「そうだよ、ユウミ。チーコちゃんの写真を載せて尋ね人の貼り紙を作ったらいい」
 父もタケシ君のお父さんに賛同する。
「人っていうか尋ね猫だけどね」
「そうだったなあ、あははっ」
 タケシ君がボソッと呟くと、コラッとタケシ君のお父さんから小突かれていたが父は豪快に笑い飛ばしたのだった。

 翌日、おばあちゃんの家にチーコちゃんの写真がないかと思って行ってみたが、カメラは持っていないからと写真は一枚もなかった。
そこで私は教室内でチーコちゃんの絵を描いてみたが、どうにも昔から絵が下手で似ても似つかない絵に仕上がってしまった。
「ユウミちゃんが絵を描くなんて、珍しいね」
 横から同じクラスのケイコちゃんが突然話し掛けてきたので、私は慌てて描き終えたクレヨンを落としてしまった。
「ごめん・・驚かせて」
 だがケイコちゃんは落ちたクレヨンを丁寧に一本一本拾ってくれた。
「でも、ユウミちゃんが絵を描いてるところなんて見たことなかったから、ついどんなのかなあって見たくて・・」
「いいよ・・見ても・・」
 このケイコちゃんとも今までほとんど話したことがなかったので緊張を隠せなかったが、絵を見られるのは全然嫌ではなかった。
「あーっ、やっぱ上手く描けないやあ」
 黒猫なので簡単だと思いきや、どうにもチーコちゃんのような顔にならないのだ。
「ね・・ちょっと貸してみ」
 ケイコちゃんにクレヨンを渡すと、ケイコちゃんはリアルにチーコちゃんをサラサラと描き上げていくのだ。
「わ。すごいすごい・・似てる、チーコちゃんそっくりだあ」
 すると、私の声を聞きつけたタケシ君も駆け付けて、
「おっ。これ、誰が描いたんだ」
 と驚く。
「ケイコちゃんだよ。でも、ケイコちゃんはチーコちゃんに会ったことないんでしょ。よく描けたね」
「ん・・へへ、絵だけは得意だから」
 私に誉められてケイコちゃんは満更でもなさそうな表情をした。
「よし。じゃあさ、これコピーしてさ、あちこちに貼り付けようぜ」
 昨夜に公園に行ったからか、タケシ君も俄然張り切っていた。
「うん・・みんな、ありがとう」
 私は思わずその場で泣いてしまった。

 おばあちゃんの家の周辺と学校の周辺に貼り紙をしてから一週間が経った。
「ねえ。何か連絡は来た?」
 昼休みの時間、隣のクラスからアヤコちゃんが状況を訊きに来た。
「んー、まだ。何でもいいから手掛かりがあるといいんだけどねえ」
 さすがに一週間は長かった。
「やっぱ、そうそう上手い具合に見つからねえよな・・生き物ってさ。俺なんか飼ってたインコ逃がしちゃったことあってさ、そんときも同じように貼り紙したんだけどさ、結局見つからなかったよ」
 タケシ君が嘆きながら言う。
「そっか・・タケシ君も見つからなかったんだね」
「鳥だと飛ぶから、探すの難しいよね」
 同調するケイコちゃんも、今やチーコちゃん捜索隊の一員となっていた。
「あの・・」
 と、新たにまた知らない別のクラスの子が声を掛けてきた。
「この貼り紙・・を、見たんだけど・・」
 人見知りをするのか、とても遠慮がちに切り出す。
「あ、うん。子猫を探してて、それで・・」
「あの・・一昨日、この絵とそっくりな猫を僕、見ました」
 と、敬語口調に変わってしまった。
「えっ。本当に」
 アヤコちゃんが大声を出すので、周りが一斉に振り向いた。
「はい・・それで、僕がその子を預かってるんですけど・・」
 今度は私が急に席を立ったのでその勢いで椅子がひっくり返って大きな音がし、またも周りがこちらを向いたのだった。

 その日の放課後、早速その子の家へとメンバー五人で向かった。
「サトル、おかえり。猫は今お昼寝してるわよ」
 サトル君のお母さんがご飯を食べさせたらすぐに寝付いてしまったようだ。まさしく、子猫はチーコちゃんだった。
「チーコちゃん、チーコちゃん・・」
 私は泣きながら名前を連呼することしかできなかった。
「良かった・・ほんと」
 タケシ君もホッと胸を撫でおろす。
「さ。この子が起きるまでうちでゆっくりしてらっしゃいな」
 サトル君のお母さんが言うと、
「うちのかあちゃんのホットケーキ、最高にうめえぞ」
 と、どうにも内弁慶なのか、先ほどの遠慮がちな態度とは一変して、サトル君が誇らしげに胸を張って言うのだった。

 夕方になり、チーコちゃんがゆっくりと起き出した。
「じゃあ。おばあちゃんのところに連れて帰ろう」
 こういうとき、タケシ君が決まって先導を切るのだった。
「僕も、一緒に行っていい?」
 サトル君も私たちに馴染んだのか、普通の話し方に定着していた。
「いいに決まってるでしょ。二日間も世話をしてくれたんだから」
 アヤコちゃんがサトル君の背中をポンポンと叩く。意外にいいコンビかもしれないと、このとき私は密かに思った。
 サトル君の家を出たときには、夕焼けがきらきらと眩しかった。

 あれから三十年の年月が流れた。
 チーコちゃんはそれからもおばあちゃんと共に立派に長生きした。私は、チーコちゃん捜索隊のメンバーとその後すっかり仲良しになり、不思議なことに家でも父や母ともよく話すようになった。おばあちゃんのところには行く回数は減ってしまったが、その代わりに他のみんなもめいめいで好きなときにおばあちゃんの家に遊びに行ったりしてきたので却って以前よりもおばあちゃんの家は賑やかになった。
 チーコちゃんがいなくなったときは本当にどうなることかと思ったが、ある意味チーコちゃんのお蔭で、私は人とまともにコミュニケーションを取れるような立派な大人になれたのだと思っている。
 アヤコちゃんとサトル君は早くも十年後に結婚した。そして、ケイコちゃんは立派な画家になって世界中の珍しい動物を追いかけながらデッサンをして世界を股にかけるほどにすっかり著名人となっていた。
 そして私は今、タケシ君と一緒に暮らしている。チーコちゃんそっくりな猫も一緒だ。三人でよく丘まで夕日を見に行くのが日課だ。

                   了

著者

石山 喜代