「ツユキ仲間」神保露樹

「おじいちゃん、露木が丘団地だって!」
 神奈川県横浜市旭区の詳細区分図を丹念に眺めていたツユキは、素っ頓狂な声を発した。
「横浜の旭区だろう。若葉台団地のあるところだな。それにしてもツユキは、マニアックだよな。横浜といえばみなとみらいとか、中華街とかなのに。旭区なんてマイナーな」
「旭区だからいいんじゃん!」
 頬を膨らませ、顔を真っ赤にしたツユキが、大声で祖父に反論した。
「ほんとにツユキは負けず嫌いだな……」
 呆れたような表情の祖父は、ボソッと呟き、続けた。
「じゃぁ、その、露木が丘団地とやらに、今度の日曜日、行ってみようか」
「やったぁ!」
 ツユキは大声で喜びを表し、祖父に抱きついた。
「おじいちゃん、今まで九年間生きてきて、ツユキ、っていう地名に合うのって、初めてだよ。欲を言うなら、漢字が同じだったら完璧なんだけどな」
「フジテレビだったかなぁ、露木茂、っていうアナウンサーならいたけどな」
「漢字は木の方?」
「ああ」
 祖父の一言に、ツユキは肩を落とした。
「でもよぉ、ツユキなんて名前自体が珍しいんだからいいじゃねぇか。それに、簡単に見つかっちまったら面白くねぇだろうし。……決まったな、ツユキ! お前の目標が」
 ツユキはキョトンとした表情で祖父を見つめている。
「全国のツユキさんを探して訪ね歩くんだよ。もしかしたら、出版社も本にしてくれるかもしれねえぞ」
 今年五十九歳になる祖父は若い頃、当時全盛だったという梶原一騎のスポ根漫画に憧れ、漫画家を目指して新人賞に応募したり、出版社に漫画を持ち込んだりしたが、さっぱり芽が出ず、結婚して父が生まれたことを機に筆を折った。
 そんな祖父にとっての初孫がツユキだ。母方の親戚からは猛反対されたようだが、
「朝露にきらりと輝く露のような存在になって欲しい」
 という意味を込めて、露樹と名付けた。崇拝していた梶原一騎の本名が、高森朝樹ということも、多分影響しているに違いない、とツユキは睨んでいる。
 祖父も定年退職して時間に余裕ができたことから、再び漫画を描き始めてはいるが、
「若い人の感性にはついていけないねぇ」
 といつも愚痴をこぼしている。

 ツユキの祖父は、赤羽台団地に住んでいる。丁度、一九六四年の東京オリンピックの頃に売り出され、最先端の住宅として、当時、マスコミに数多く報道されたらしく、NHKの人気アナウンサーも住んでいて、彼とのツーショット写真が、祖父の宝物だ。
 ツユキの両親は、赤羽一番街で焼き鳥店を営んでいる、赤羽を舞台にした漫画がブレイクしたことも影響したのか、テレビ番組で赤羽が取り上げられることが増えたこともあって、夫婦で営んでいた小さな店も、赤羽ブームの恩恵にあずかり、大いに繁盛している。

――バイトでも雇わないと俺たちの身体が持たないな、お客さんが一杯来てくれるのはホントに有難いんだけどさ。
 と、疲れ切った顔をしている父は、母によく話している。
 そんな事情もあって、週に一度の休みになると、大きないびきをかいて眠っている両親の姿を見ていると、とても何処かに連れて行ってくれ、ということはできず、ツユキの脚は、自然と、坂を上った高台にある祖父の住む赤羽台団地に向かう。祖父と地図や時刻表を広げながら、大好きな旅行の話をすることがツユキの大きな楽しみだった。
 

 待ちに待った日曜日。二人は東京メトロ南北線の赤羽岩淵駅に向かった。最寄りは埼京線や京浜東北線等、複数の路線が交差している、交通の要衝、JR赤羽駅なのだが、混雑を誰よりも嫌う祖父は、余程のことがない限り、東京メトロを利用している。
 朝五時三分に出る始発電車に乗れば、溜池山王までの約三十分、座っていられる。次駅の志茂、その次の王子神谷と、早朝にもかからわず、乗客がどんどん乗って来る。JR京浜東北線との接続駅である王子に着いた時には、座席は全て埋まってしまった。
「みんな朝から元気だなぁ」
 祖父はぼそっと呟いた。
 溜池山王で銀座線に乗り換え、表参道で降りる。どうせ急行は座れないからと、反対側のホームから出ている田園都市線の各駅停車に乗って長津田で降り、横浜線で十日市場で降りた。時刻は六時四十五分。ジャージ姿の高校生で賑わっている。
「おじいちゃん、アメリカみたいな街並みだね」
 ツユキは祖父に言うと、
「行ったこともないくせに生意気な」
 と、ツユキの頭を軽く叩いた。
 十日市場駅が始発のバスに揺られること約十分、若葉台団地に到着した。
「ひとつの街みたいだな。スーパーもあるし。王子にある、豊島五丁目団地にちょっと雰囲気が似てるな」
 理路整然とした口調で祖父が言った。団地で育ったこともあり、祖父は団地には一家言持っている。テンションが上がっているようで、普段色白の頬が、紅く染まっている。
 休日の、しかも、まだ朝八時前ということもあって、バス停脇の階段を降りてみたが、焦店は全て閉まっていて閑散としている、
「さぁ、ツユキ。お友達に会いに行くか」
 祖父はニコニコしながらツユキの頭を撫で、再び階段を昇ってバス停に向かった。
「相鉄の三ツ境駅行きのバスだね」
「ミツキョウ、って地元の人間以外で読める奴いるのかな」
「僕も最初は、ミツザカイ、って読んじゃった」
「どんな街なんだろうな。なんかさ、三ツ境みたいな、地元の客しか利用しないような駅って凄く興味が湧くな」
「三ツ境駅のひとつ前に、つゆきの森、ってバス停もあるから降りてみようよ」
「了解、了解。それにしても、ツユキは勉強熱心だなぁ」
 祖父は愛おしそうにツユキの頭をそっと撫でた。
 ツユキと祖父を乗せたバスは、十人ほどの乗客を載せて定刻通り走り出した。
 バスは森の中を疾走する。
「横浜って広いね」
「山もあって海もあって中華街もある。そんな多種多様なところも、横浜の魅力なんだろうな」
「ズーラシアもあるよ。露木が丘団地見たら、行こうよ」
「ツユキは気が早いなぁ。まだ目的地も見てないのに」
 調子にのったツユキは釘を刺された。
 
 心地よいバスの振動にリズムを合わせるかのように、祖父は大きないびきをかいている。
 ツユキは祖父の身体を揺すり、
「もうすぐつゆきの森だよ」
 と声を掛けたが、祖父は目を覚ます気配はない。
 つゆきの森のバス停を通り過ぎた。白亜の邸宅が数軒立ち並んでいる。ツユキは再び必死に祖父の身体を揺すったが、起きる気配はなく、バスは終点の三ツ境駅に到着した。
 バスが停まって、ようやく祖父は目を覚ました。
「おじいちゃんのバカ! 一緒に、つゆきの森、見たかったのに!」
 ツユキは、顔を真っ赤にして祖父に詰め寄ったが、祖父はどこ吹く風だ。
「わりいな、ツユキ。眠気には勝てんわ。それに、今日の目的は露木が丘団地だろ? 突然、つゆきの森、って言われても、こっちにも心の準備、ってモンがあるからよぉ」
 大きく両手を広げ、欠伸をした祖父には、悪びれた様子はない。祖父の言葉には妙な説得力があり、ツユキは反論する気も失せてしまった。
「そうだよね、また今度来ればいいよね。さっ、早く露木が丘団地へ行こうよ」
 二人はバスを降りた。

 住宅地と個人商店が混在するなだらかな坂道を歩くことおよそ十分。
「あ、あった。露木が丘団地バス停の看板が。……だけど、団地がない」
 バス停の周囲を少し探索してみたが、団地らしきものは見当たらなかった。
「ツユキ、人間、諦めも大切だぞ。バス停の前に立て」
 祖父はそう言うと、ツユキをバス停の看板の前に立たせ、一眼レフのカメラを取り出して、数回、シャッターを押した。
「ツユキよ、一生の記念になるぞ」
「ありがとう。……おじいちゃん、早くズーラシア行こうよ! 三ツ境からバスが出てるはずだから」
「おいおい、あんまり急がせるなよ。ちょっとビール飲ませてくれ」
 祖父はコンビニでビールを買い、反対側の南口のベンチにどっかり腰を下ろし、この世の幸せを独占したような顔をしながら、ビールを一気に飲み干した。暖かい天気もあって、多くの老若男女が二人が座るベンチの前を通り過ぎてゆく。
 ビールを飲み終えたことを確認したツユキは、再び祖父に迫ったが、
「休みだからどうせ混んでるよ。もう疲れちゃったよ。平日にしよう、平日に。都民の日なんかいいんじゃねぇか?」
 アナログ人間のツユキは、手帳を広げると、大きな溜め息を吐いた。
「今年の十月一日は日曜日だよ……」
「じゃぁ、開校記念日はどうだ?」
「来年の五月十三日は日曜日……」
「じゃあさぁ、学校サボっちまえよ。それがいい、それがいい」
 ツユキは大きく首を横に振り、顔をしかめた。
「ダメ、ダメ、ダメ」
「なんでだよ」
「だって、皆勤賞狙ってるから」
「……ツユキ、お前はクソ真面目っていうか、融通が利かないっていうか……」
 そう言って祖父は天を仰いだ。
「今日は疲れた。混む前に、早く帰ろう」
 祖父はスタスタと改札口に向かって歩き出した。
「来年の都民の日に絶対に行こうね」
 ツユキはそう呟き、祖父の後を小走りでついていった。

「あちゃぁー、一杯だ、一杯、鈍行で行こう」
 到着した横浜行きの急行電車は、多くの乗客で混雑していた。
「大和まで行って、そこから小田急で帰る?」
「どうせ小田急は混んでるだろ」
 ツユキの提案は一蹴あれてしまったが、ツユキは食い下がった。
「大和から三つ目の中央林間で東急田園都市線に乗り返れば、赤羽岩淵まで座って行けるよ」
「いいよ、いいよ、面倒くさい。とりあえず、横浜まで鈍行で行こう」
 各駅停車で横浜まで行き、東急東横線に乗り換えて武蔵小杉で再び東京メトロ南北線に乗り継ぎ、昼前に赤羽岩淵駅に到着した。
「やっぱり赤羽に着くとほっとするな」
「おじいちゃん、相模鉄道って、再来年の平成三十一年に、新宿まで直通運転が始まるみたいだよ。楽しみだね」
 ツユキは一気に捲し立てた。
「じゃぁ、ズーラシアにはその時に行くか」
「ズーラシアは来年の都民の日。あと、つゆきの森にも行こうね」
「ホント、ツユキは堅物だなぁ」
 祖父はそう言うと、ツユキの頭を撫で、ツユキの身体を抱きかかえた。
 

著者

神保露樹