「テキストの背表紙」中迫隆博

「賢治、朝よー起きてる?ごはんできてるわよー。」

 母さんは、まだこのリズムに慣れていないのだろうか。もう10分前から起きて準備してるっていうのに。
 綺麗にアイロンがけされたシャツに袖を通し、いそいそとボタンを留める。壁に貼り付けた時間割表を確認し、カバンの中に参考書を放り込む。今日は、英語があるから単語帳にしようかな。
 階段を颯爽と駆け下り、リビングのドアを開けると、母は少しだけ驚いたような顔をしていた。
「あれ?もう準備万端じゃないの。」
「母さんに起こされる前から起きてたよ。着替えたり荷物用意したりしてたから。」
「あら、そうだったのね。ちょっと待ってて、ごはんつぐから。」
 父さんが食べた朝食のお皿をさげながら、いそいそとそう言った。
「賢治、最近早起きだな。早く学校に行って自習でもしてんのか?まあ今年受験だからな。」
 朝刊をカバンにいれ、ジャケットを手に取り玄関に向かう父。それを母が追いかける。賢治、ごはんは自分でついでおいてねと言いながら。
 勤勉な父はいつもきっかり同じ時間に家をでる。そしていつものように駅に向かい、満員電車に揺られ、会社に行っている。母は仕事こそしていないが、毎朝早く起きて僕たちの弁当を作り、家事をこなし、一人家族の帰りを待つ。
 
 僕とて同じだ。
 
 毎朝決まったルートで学校に向かい、大学受験のために知識を脳みそに押し込め、家に帰る。そしてまた次の日もそう。
 はっきり言って、こんな繰り返しの毎日をおくるのは体に毒だ。かつての自分なら、そう思っていたはずだ。まあ、かつての自分と言っても先週までの自分はという話なのだが。

 その日はいつもより早く目が覚めてしまった。特に早く学校に行く理由もなかったが、それ以上に、家に長居する理由もなかったので早めに学校に行くことにした。
 緑園都市駅に向かい、電光掲示板を見上げると、次にやってくる電車の到着時刻が見慣れない時間を指していることに今さらながら気が付いた。
「なんか、いつもより人が少ないような気がするから、今日は座れるかもな。」
 2~3分スマホの画面に目を落としていると、いつの間にか電車がやってきた。次々と人が吸い込まれる様を見ていると、電車が人間を吸い込んで掃除しているように感じてしまい、気持ちが悪くなってしまった。
 乗り込んだ中は、いつも見ている車中のそれとは違い、みな程よく間隔をあけたまま、等間隔に座っていた。予想的中だ。
 眠りこけたサラリーマンとサラリーマンの間に吸い込まれるように腰を落とし、自分も真似をするかのように目を閉じた。車内は、死人で溢れていた。

「上星川。上星川でございます。」

 遠くの方で聞こえる車内アナウンスの声で目が覚めた。賢治は、珍しく早起きしたツケが回ってきたのか、乗り換えるつもりだった駅を通り越してしまった。二俣川で乗り換えて、急行で行くつもりだったのに、これじゃあ意味ねえよ。隣のサラリーマンは、依然として死んだように眠っている。
 仕方ないなと思い、うっすらため息をつき再び眠りに落ちようとしたその時、何かが目を閉じてはいけないと言ったような気がした。
 その“何か”は、僕の目の前に立ち英単語帳を読んでいた。

 3―5 MAYUMI HASHIMURA

 単語帳の裏表紙が、僕に彼女の個人情報をダダ漏らしにしてくれた。そうか、この子俺と同い年なのか。

 次の日も、そしてその次の日も早起きして同じ時刻の電車に乗った。時刻が同じなだけではない。同じ車両の同じ椅子に座った。
 その“何か”はいつも僕の前に立ち、吊革につかまりながら何か参考書を読んでいた。
 僕もあれ以来、電車の中では参考書を読んでいる。まあ、読んでいると言っても、全然頭には入っていかないのでなんの参考もしていないのだが。とにかく、ただただぼんやりと字づらを眺め、模範的な高校3年生を演じていた。その“何か”の前で。
 向こうは向こうでいつも熱心に参考書を読んでいた。顔の前にテキストを近づけ、食い入るように見ているせいで、よく顔が見えない。それが何とももどかしかった。
 そのして、“何か”は、いつも平沼橋駅で降りるのであった。だから、乗車時間はわずか5分。たったこの5分のためだけに、毎朝早起きをし、眠たい目をこすりながら、ふむふむといった顔で参考書に目を落としている。そして、また次のこの時間のために、1日を過ごすのだ。
 
 あんなにも繰り返しの毎日に嫌気がさしていたのに、今はその逆じゃないか。

『このまま、繰り返してくれ。』

 僕は、見ているだけで十分だった。
 いや、違う。本心はそうではない。
 本当は“何か”の名前以外のことも知りたいと思っていた。どこの高校に通っているのか、趣味は何なのか、大学はどこを受けるのか、彼氏はいるのか・・・。ただ、そういったことを聞けるはずもない。なぜなら、僕たちはただ単に同じ電車に乗っているだけの人で、向こうからしたら、僕のことなんて認知すらしていないはずなのだから。
 そして、何より怖いのは、声をかけて不信がられた場合だ。そうなると、向こうは電車の時刻を変えるであろう。友達に電車で知らない男子高校生に話しかけられたと相談するであろう。そうなると、もうこのささやかな幸せも得ることができなくなるのだ。そうなるくらいなら、このまま、このままの日常が繰り返してくれたらいいのになと思った。

 ある日の朝、僕の目の前に知らない人が立っていた。期待したいつもではなかったのだ。まあそんな日もあるかと思い、用意しておいた分厚い紙の束を閉じてカバンにしまおうとしたその時、“何か”がものすごい勢いで電車に飛び込んできた。珍しく焦った様子で、はあはあと肩で息をしながら。
 僕はよかったと胸をなでおろし、しまいかけたものをまた開き、目を落とそうとした瞬間、その“何か”と目が合った気がした。いつもの定位置にいる人の横から、ほんの一瞬だけこっちを見ていたような気がしたのだ。僕は急いでテキストに目をやり、平静を装った。
 しかし、あんなに焦ってくるなんて、この電車を乗り過ごしたら遅刻でもするのであろうか。案外、ギリギリに行くような人なんだな。
 “何か”が慌てた様子を見せたのは、これが最初で最後であった。その日以降は、雨が降ろうが雪が降ろうが、いつも同じ車両の同じドアから、同じ時刻の電車に乗ってきた。まあ、それは僕も同じなのだが。
 
 駅前にある並木道の色が、鮮やかな緑色から暖色混じりの様子に変わりはじめたころ、徐々に賢治の心の中に焦りが出てきた。毎日が繰り返しとは言え、今の賢治にはその毎日の時間をないがしろにすることはできない。その積み重ねが将来を大きく左右するのだから。

「模試の結果どんな感じなの。」
「一応滑り止めの私大はA判定だったよ。いくつかBもあるけど。ただ、やっぱ国立は難しいね。」
 僕はどうしても国立に受かる必要があった。別に学費の問題上とか、将来の進路のことを考えてとかではない。
 僕はどうしても、国立に、横浜国立大学に行く必要があった。
「でも、国立だったら家から通えるんだからさ、がんばってそこ受かるようにしなさいよ。」
「ああ、わかってるよ。俺は絶対来年も家から学校に通いたいんだから。」
 あら、もしかしてマザコンなの?違うよ、単なる親孝行だろ。

 オレンジ色に染まった駅前の木々が、すっかり葉を落としてしまったころ。
「マフラーと手袋は持った?」
「持ってるよ。」
「受験票は?」
「あるに決まってんだろ。」
 今日は、いつもの繰り返しではなく、一生に一度の朝だ。いつもなら横浜駅まで行っていたが、今日は上星川で降りることになっていた。
「あ、あれ忘れてる!」
 母が急いで冷蔵庫に何かを取りに行った。
もう、遅れるんだけど。はいはい、お待たせしましたよ。
「はい、キットカット。」

 緑園都市駅の前が、“緑園”らしくなってきたころ、新しい日常が始まりだした。新しい日常は、上星川駅まで向かう電車の中にある。まあ、基本的に見える景色は高校時代とあまり変わっていないので、そこまで高揚感もないが。
 ただしかし、大きく変わったところがある。それは、いつも目の前にいた“何か”がいなくなったことだ。向こうも高校3年生で大学受験を控えていたはずなので、こういったことは予想ができていたが、いざいつもの景色の中にいた主役がいなくなると、心の中に大きな穴が開いたように感じてしまう。

「上星川。上星川でございます。」

 スマホの画面からふと顔を上げてみる。見知らぬおじさんと目が合った。おじさんは特に気に留める様子もなくすぐに視線をそらさした。
「珍しいな。今日は遅刻なのかな。」
 車内に流れ込んでくる人波をよくよく観察しても、いつもの“何か”はいない。もう少し待っていたらくるかな。
 扉が閉まることを告げるベルが鳴り始めた。いつも聞いていたはずなのだが、こんなにまじまじと聞くことは初めてだったので、なんだか新鮮な感じがした。
「あ、しまった。今日からここで降りるんだった。」
 慌てて席を立とうとしたが、他の乗客から注目をあびるのが嫌だったので、止めることにした。また、もしかしたら“何か”が全力で駆け込んでくるかもしれないと期待したのもあったかもしれない。
 そのまま走り始めた電車の窓から向かいのホームを見渡した。山崎まさよしの名曲ではないが、そんなとこにいるはずもないのにと言ったところであろうか。
 過ぎ去っていく上星川駅のホームをもう一度ながめてみる。なぜだか自分に「サヨウナラ」と言っているような気がしてならなかった。

 朝の電車の中って、なんでこうどんよりした空気なのだろうか。真由美は朝の電車がとても嫌いだった。
 この日もいつものように、決まった時刻、決まった車両に乗り込むために、いつものホームのいつもの場所でいつもの電車が来るのを待っていた。
 今年は大学受験が控えているので、学校に早く行き、自習をするようにしていた。電車の中でも、参考書を片手に、少しでも時間のロスをなくすように努めていた。
 ちゃんと努力をして、そこそこいい大学に入り、まともな会社に入社して、不自由のない生活を送る。それが、真由美の未来だった。ただ、彼女自身がこの未来を望んでいたのではなく、彼女の両親がそういうことを望んでいたのだ。
 子供が不幸になることを望む親などいない。
 では、不幸とは何であろうか。それは人それぞれだが、真由美の親は不幸とは安定していないことだと思っていた。そのため、両親は真由美に安定を手に入れてもらいたいと思っていた。
 真由美は、そんな親の意向を感じ取り、自分が幸せになるためではなく、両親が幸せになるために、自分が幸せになることを望んでいた。そのため、この退屈な日常に身を投じ、繰り返しの日々をただもくもくと消化し続けていた。
 英単語帳をカバンから取り出し、ページをぱらぱらとめくる。赤い透明のシートが挟まっているページからが今日の小テストの範囲だ。赤シートで日本語を隠しながらアルファベットを目で追った。
 ページの隙間に、横風が入ってきた。それと共にいつもの電車がホームに入ってきた。
「形容詞の13番まで終了っと。」
 赤シートを挟みなおし、本をパタンと閉じた。後ろに並んでいるサラリーマンがじりじりと前の方にやってくるのがわかる。
 ゆっくりと止まった電車が真由美とサラリーマンたちを飲み込むために口を開いた。その瞬間、皆が列をなして一気に吸い込まれた。
「上星川、上星川でございます。」
 慌てずゆっくりと乗るように促すアナウンスをしり目に、乗客たちはぐいぐいと我先に精神で奥まで乗り込んできた。
 真由美はいつものポジションめがけて一直線に歩き出した。そこにはいつもなら、死んだように眠ったサラリーマンたちが座っているはずだった。
「あれ、高校生だ。」
 同い年くらいかな。そう勝手に判断したのもつかの間、すぐに脳内はアルファベットだらけになった。平沼橋に着くまでに次のページまで消化したい。

 次の日もデジャブかと思うくらい、朝起きてから学校に行くまでの出来事が同じだった。違ったことと言ったら、朝食で食べたトーストの焦げ目が、ちょっと黒かったことくらいなものだ。あ、あと目の前にいた高校生が、テキストを読んでいたくらいだ。昨日までは読んでいなかったのに。彼も受験生なのかしら。
 次の日も当然焼き増しの日常であった。しかし、この日も部分的に違うことがあった。
「今日は世界史なのね。」
 それにしてもこの高校生、とてつもなく眠たそうだ。横に座っているサラリーッマンが眠りこけているため、そのコントラストでかろうじて起きているように感じられる。ただ、冷静に観察すると明らかに眠たそうで、集中力を感じられない。
「全然ページ進んでいないじゃないの。」
 まあ、朝だからしかたないかもしれないけど、そんなに眠たいのならば、もう少し後ろの時間帯の電車で行けばいいのに。彼のカバンからだらんとぶら下がった定期入れを見つめながら、ふとそんなことを思った。

 その次の日は数学のテキストだった。真由美は自然とではあるが、この男子高校生の小さな日常を観察し始めていた。そして、それをひそかな楽しみにしていた。
 真由美は、彼は一体何を勉強しているのだろうかと考えるようになり、これまでのラインナップから、おそらく文系で、国立大学を志望しているのだろといったプロファイリングまで始めていた。こんなことして、私もとことん暇なのね。

 ある日のことであった。その日は漢文のテキストを読んでいたのだが、なんとなく違和感を覚えた。その違和感が何かを見抜くため、ばれないように自分のテキストの影から、男子高校生の持つテキストをよく観察した。
 すると裏表紙に

 3―7 Kennji Taniguchi

と書いてあった。
「あれ、この前まで名前なんて書いてなかったはずなんだけどな。」
 違和感の正体はこれかとわかり、少しだけすっきりした。ただ、違和感の本質は今までなかった名前が書かれていたことだけではなく、なぜ漢文の教科書にローマ字で名前が書いていたのかということも含まれていることに気が付いた。すると、不思議とおかしくてたまらなくなった。なんなんだろうこの人。
 ある時は、地図帳を読んでいた。なぜそれをチョイスしたのであろうか。地理が苦手なのか、もしくはただただ地図を眺めるのが好きなのか。まあ、どっちにしたって変である。真由美は、彼のことを見たいという気持ちの反面、どうもおかしくて笑いがこらえきれず、テキストで顔を隠すようになった。

 放課後、今日返却された全国模試の結果を眺めながらぼんやりしていると、友人が自分の結果が書かれた紙でパタパタと首元をあおぎながらやって来た。
「てか、大学どうするの。」
「いや、まだ決めかねてる。」
「え、まだ決めてないの。早く絞りなよ。」
「でもね、決め手がないのよね、決め手が。」
「なら、とりあえず東京の大学にしたら?いいじゃん、一人暮らしで東京ライフ。」
 真由美はまだ進路を決めていなかった。友人のなんとも軽い発言に、そんな理由できめたの?と率直な疑問を投げかけた。すると、どんな理由だっていいじゃん。未来は自由だよ?といったショートポエムが返ってきた。
 友人は、その後カフェでバイトをして、年上の先輩と恋に落ちるというプランを語った。
「テストはいい感じなの?」
 結果を見せてもらった。
「まあ、ピンキリよね。」
 志望校の欄にはとりあえず都内にある大学の名前が書いてあった。恥も外聞もなく、ただただ都会で暮らしたいという志望動機が見え見えのラインナップだ。
 真由美にはそんな恥ずかしいことはできなかったが、どんな理由であれ自分の未来を決めることができる友人を少しだけ羨ましいと思った。本当に少しだけ。

 ある日、真由美は10分ほど寝坊をしてしまった。これはまずい。いつもの電車に乗れなくなってしまう。
 とは言っても、別に駅まで走っていくような時間でもない。次の電車でも遅刻はしなのだから。
 ただ、真由美は走った。セリヌンティウスが待っているとかなのであれば話は分かるが、そういうわけでもない。名前しかしらない男子高校生が待っている。いや、向こうは待っているという認識はないのか。こちらが一方的に待っているんだった。待っている側が走って向かうなんて、なんだかトンチンカンな話だな。
 駅の外から、目的の電車が到着しているのが見えた。もうすぐそこだ。おそらく、ギリギリ間に合う。
 カバンからパスモを取り出し、青く光るところにかざす。定期券だが、チャージの残金が表示される。そろそろチャージした方がいいかもな。
 すぐそこで扉が開く音がした。もう一段階ギアを上げてダッシュした方がいい。歩幅を大きくし、ホームへと向かう。

「扉が閉まります。」

 いつにもない跳躍力で、扉が閉まる直前の
車内に飛び込んだ。真由美は、朝からえも言われぬ達成感を味わった。日没直前に、セリヌンティウスの元へ舞い戻ったメロスも、こんな気持ちだったのであろうか。いや、さすがにそれと比較するのは失礼か。
 いつもならば、涼しげな顔でいつもの定位置まで移動し、手に持ったテキストを即座に面前に広げるという流れなのだが、この日はいつもと訳が違った。すでに、いつものところに人がいたのだ。
「だよねぇ。」
 車内は程よく込み合っていたので、例の高校生はおじさんの影に隠れてしまっていた。
 出発時の力で、体が右側に引っ張られる。立っているおじさんも、吊革を持つ手に力をこめながら身をよじらせている。
 その一瞬、おじさんの隙間から彼のことが見えた。
「今日はテキスト・・・あれ。」
 瞬間的にいつもと違う雰囲気を感じた。
 彼もこちらを見ていたのだ。目が合ってしまった。
 しかし、すぐに目をそらした。
 今まで特別な感情を抱いてきたつもりはなかった。少なくとも能動的に、そういった気持ちを持とうとは思わなかった。なぜなら、持ったところで、なのだから。
 しかし、目を見た瞬間自分の中の何かが変わった。正確に言えば、自分から能動的に変えた。
『どんな理由だっていいじゃん。未来は自由だよ?』
 友人のあの時の言葉を、何度も何度も頭の中で唱えている自分がいた。

 時計は朝の9時半を指していた。今日は1限目から授業がない曜日なので、いつもなら10時を過ぎたころにモソモソと家を出ているのだが、今日はレポートを書きたかったのでこの時間に家を出た。
「あれ、今日は早いのね。」
 まあねと言ってさっさと家を出た。いってらっしゃいという声がドアの隙間から漏れて聞こえた。
 いつも通り駅へ向かう。なんとなくいつも立ち寄らない駅前のコンビニに寄ってみた。雑誌を読んだり、コーヒーを買ったりして5分くらい時間をロスした。
「せっかく早く出たんだから、寄らずに行けばよかった。」
 そう言いながら、寄ったおかげで買うことができた甘ったるいコーヒーを飲む。おいしい。
「さてと。行きますかね。」
 コンビニを出てそそくさと改札方面に向かう。足取りは、少なくとも軽くはない。できればレポートなんてやりたくもないのだ。本当ならギリギリまで寝ていたかった。くそっ、来週は朝やんなくていいように、授業中に内職してやるか。
 その時、何か言いようもない既視感を覚えた。
 そこには、いつかの人影から見つめた“何か”がいた。見た目は女子大生風になっていたが、あの時の面影をそのままに残していた。
 賢治は、咄嗟に手元に目をやったが、そこには地図帳も漢文のテキストも英単語帳もなく、視線が空を切るだけであった。
 なぜなのか。この状況を理解できないでいた。一瞬時が止まったように感じ、ずっと彼女の顔を見つめてしまった。理解が追い付かない現状と、そんなことは置いておいて素直に喜ぶべきだという感情で頭の中がぐちゃぐちゃになっていくのがわかった。
 それにしてもなぜなんだろうか。
 あっけにとられている賢治に対し、彼女は少しだけ微笑んだ。そして周りにいた友人と共に、東口方向へと歩き始めた。そこに彼女の日常があるかのような足取りで。

 来週も、この曜日は9時半に家を出よう。いや、9時35分じゃないといけないか。
 だって、彼女は時間に正確なのだから。

著者

中迫隆博