「トゲと蜜」祥寺真帆

「イングリッシュガーデンっていうのがあるらしいじゃない?」
 電話に出ると母の声が飛び込んできた。
 二日酔いだ、とおでこを抑えながら時計を見る。
 土曜の朝、八時。
 こちらの気だるい相槌などおかまいなしに母の話は進んでいく。
 ガーデニングの友達、横浜、来月誕生日、スカートを買った、最初の土曜日。
「それじゃあねえ」
 歌うような声とともに電話は切れた。
「十一月の最初の土曜……」
 画面のカレンダーに登録する。再び眠ろうとして、結婚について言われなかったことに気づいた。

 母が変わったというのは弟から聞いていた。
 久しく地元に足を向けていない私と違い、弟は必ず年末年始に帰省している。
 年明けに会ったときのことだ。都内で鍋をつついた。
「母さん、服の趣味が変わってた。カラフルになってた」
「カラフル?」
 白と黒とクリーム色を着ている姿しか知らない。
「断捨離してるって言ってた。古いの二つ捨てて、明るいものを一つ買うって」
「なにそれ」
 私はおたまを持った手を止め、弟を見た。
「なんだろうな」
 お互いに笑い出す。
「何かに騙されてるの? 宗教とか?」
「それはない。俺ものすごくチェックしたから」
 四つ下の弟は今年三十になる。あごのあたりがかさついている。
「もう引きこもりはやめたんだって。友達と出かけてるみたいだよ」
「はあ、友達」
 あの母が。血の繋がっている人以外はよその人、というような母が。
「あの人の性格上、よっぽどのことがないと人と関わらないと思うんだけど」
「叔母さんが死んじゃったのが大きいんじゃないかなあ。じいちゃんもばあちゃんもいないし、ほんと一人でしょ」
 それでもいぶかしがる私に、百聞は一見にしかず、と弟は言った。

 新横浜まで母を迎えに行く道すがら、母は本当に来るんだろうかと半分思っていた。
 遠出して半日家を空けてたくらいで「家がいちばん」という人だ。行ったことのない場所だと、スーパーのちょっと先だったとしても腰が重くなる人だ。
 来るのかも、という残りの半分は弟からの情報である。
 ホームに新幹線が停まる。降りてきた中に母の姿を探す。
 -確かにカラフルだわ。
 母らしき女性の姿を見つけて思う。
 白髪が染めてある。顔全体に色が付いている。紺のフェルト地に花柄のスカート。電話口で言っていた新しいスカートとはこのことらしい。
 あっけにとられている私を見つけ
「久しぶりねえ」
 と母が手を振る。
 娘にではなく、まるで同窓会で会った級友みたいに。

 シャトルバスに乗り、横浜駅からイングリッシュガーデンへと向かう。
 窓の外、駅前の様子をながめながら
「あんたが住んでるのはこのへん?」
 隣に座った母がきく。
「ううん、ここから電車で十五分くらい」
「ふうん。横浜っていっても広いのねえ」
 うなずきながら「東京みたいなもんね。東京も数えるくらいしか行ったことないけど」と続ける。
 私は母の小さくて白い手を見ながら口を開いた。
「ガーデニング、いつからやってるの?」
「いつだったかしらね、メイコさんが教えてくれてね」
「メイコさんって誰?」
「ほら、コーラスの」
「コーラス?」
 バスが停まる。
「着いた。ここね?」
 まわりの人が降り始めたのを見て、母も腰を浮かせる。
 コーラスなんてやってたの、と胸の中でつぶやき、歌を歌いながら台所に立っていた母のうしろ姿を思い出した。

 建売住宅の展示場を抜け、イングリッシュガーデンに入る。
 チケットとパンフレットをもらう。
「いいわよ」
 私が2枚分を払うと、母はそう言って無理やり私の財布に千円札を入れようとする。母の財布は相変わらず黄色だ。金運アップ。
 庭園に足を踏み入れるとバラの香りが私たちを包んだ。大きな緑のアーチ。
 秋の午後、空は高く澄んでいる。
 パンフレットに書かれた推奨ルートをなぞる。
 庭園にいる人はみなカメラやスマホを持って花に近づいている。ベンチに座っている女性二人組。
「こんなに広いと庭師さん大変だろうねえ」
「ガーデナーね」
 私はパンフレットの文字に目を落として言った。
「どう違うの?」
「さあ。それについては書いてない」
 ほんときれいねえと言いながら母はバラの花にスマホを向ける。
「ちゃんとトゲもある」
 シャッター音を響かせ写真を撮る母を横目に、私は弟にメールを打った。
《お母さんとイングリッシュガーデンってところに来てる。横浜》
 三十秒と待たずに返信が来る。
《は? 母さんこっち来てんの? 何してんの?》
《花見てる》
《シュール》
「コスモスもあるみたいよ」
 母の声で画面から顔を上げ、スマホをバックにしまう。何しに来たと思う、目的あるよね、と私はききたかったのだが弟はあてにならないようだ。
「コスモスはこちら」と書かれた看板に沿って左へ向かう。
 一面にコスモス畑が広がっていた。ちょうどその向こうに電車が通っているのが見える。
「百恵ちゃんだわね」
 母が言い「さだまさしが作ったのよ」とこちらを振り返る。
 歌のことだと気づき「あ、そう」と返す。
 母は私の反応など気にせず鼻歌を歌い始める。私たち以外、コスモス畑にお客さんはいない。
 コスモスはバラと比べてなんだか寂しく控えめで、日が短くなる晩秋になると走って家に帰りたくなるような気持ちを思い出させた。
 -わらい話に時が変えるよ、か。
 母が歌っているフレーズの歌詞を思い出す。わらい話に変わったのだろうか、と母の背中を見る。

 元のルートに戻り、バラの小道を歩く。
「チャールズとかアンとか、イギリス皇族の名前みたいなのがついてるね」
 母がプレートに目を落として言う。「誰が決めてるんだろうね」
「さあ」
 母は質問するが、たいして答えは求めていないのだと私はもう気づいていた。
「赤いバラだって。ときめきガーデン」
 細い道なりを歩く。
 折り紙の赤のような、朱に近いバラが続く。色に酔いそうだ、と思ったときだった。
「お母さんね、マレーシアに引っ越そうと思って」
 私は母の顔を振り返った。
 午後のまっすぐな日差しと、散らばる朱色。
「なんで?」
 答えた自分の声がかすれていたことで、しばらく口が半開きだったことに気づいた。
 うしろから「すみません」という声がし、私と母は道を譲った。
「ちょっと、ベンチに座ろう。座って話そう」
 私たちはアーチの通りへ出ると、背もたれにユニオンジャックの描かれたベンチに腰掛けた。
 友人たちがどんどん移り住んでいること、住みやすいらしいこと、世話をしてくれる人や面倒をみてくれる人がいること。
 母は指先をいじりなら言う。
 私は途中から視線を外し、自分の足元を見ていた。自分でも顔が険しくなっていくのを感じる。
 騙されている、ということで頭がいっぱいだった。 
 いつだったか母が電話で、テレビで見たという香港の話をしていたことを思い出した。
 香港は女性の方が強くて、自由で、ダイヤモンドをじゃらじゃらつけていて、結婚しないならあんたも日本じゃなくて香港に行けばいいのにと。まさかあのときからこんな馬鹿げたことを考えていたのだろうか。
「あったかいし、物価も安いらしいし……」
「何言ってるの?」
 自分の声が冷たく、灰色で、コンクリートのようだ。
「意味わかんない。マレーシアなんて行ったことないでしょ? 誰に言われたの? 騙されてるよ」
「誰にも言われてないよ。私が行きたいんだもの」
「私は反対よ」
 アーチの中を歩いていた人がこちらを振り返り、私は口をつぐんだ。小さく息を吐き、声を抑えて続ける。
「ビザとか費用とかわかってるの? 病気になったらどうするの? 食べ物だって違うんだよ、やっていけるわけないでしょ」
 言いながら、私は自分が泣きそうになっていることに気づいた。怒り、腹立たしさ、母の世間知らず。衝動的な感情で爆発しそうだった。
 母の顔に驚いたような表情が広がったかと思うと、慌ててバックに手をやった。こちらにハンカチを差し出す。
 頬が濡れていて、私は寂しいのだと気づいた。

「あとね、あんたらには言ってないけど」
 私は息を止めた。まだ何かあるのか。
「あの人、死んだらしいわ」
 小さく風が吹いて、私は顔にかかる髪を耳にかけた。
「そうなの。いつ?」
「去年の冬」
 離婚した夫の死の連絡がどのようにして元妻のところにやってくるのかわからなかったが、もう父はこの世にいないのだということは事実らしかった。「この世にいないと思って過ごす」ということが身についてからずいぶん経ったけれど。
「なんか、力抜けちゃって」
 そこで母は言葉を切った。
 見返してやろうとか、幸せになってやるとか、子供を立派に育ててみせるとか、そんなところがあったのだろうか。
 去年の冬、か。
 カラフルな服装になったこと、必ず電話の最後に言われていた「で、結婚は?」がなくなったこと。すべてがつながったような気がした。
 ベンチから立ち上がり、白バラを見る。朱より白のほうが好きだな、と思う。
 すうっと一息つき、スマホのカメラを向ける。
「集中すると口を結ぶ癖、今もなのね」
 母が目をほころばせる。

 帰りのシャトルバス乗り場へ向かう。
 バスに乗り込むと、さっき併設のショップで買った土産袋の中からハンドクリームを取り出し、「カサカサの手はダメよ」と私に渡す。
 ああ、母はマレーシアに行ってしまうな、と静かに確信めいて思う。
 家に帰ってこなくなった父、東京へ出た私と弟、そしてこの世界を離れた父、母、姉。
 母はいつも取り残される側だったけれど、最後に取り残す側になったのだと思った。

著者

祥寺真帆