「ドレスを探して」幸坂環

 とにかく目立たないこと。それが加藤美和の子どもの頃からの一貫した行動基準だった。だから会社に行くときも当たり障りのないパンツ姿、肩までの髪を黒いゴムで縛っていた。化粧は気持ち的に苦手で、同僚の華子にいくら勧められてもファンデーションも口紅も使わない。会社に行ってしまえば顔なじみしかいないのだから、目立つも目立たないもない。しかし今は化粧をしてグレーのワンピースという姿なのは、家を出る前に母親から「横浜に行くのなら、化粧くらいしないと却って浮くわよ」と言われたからで、母親は美和の扱い方をよく知っているということだ。
 美和は横浜駅の相鉄線、発車前の急行海老名行きの座席に座り、先ほどまで眺めた何着かの服を思い浮かべていた。高校時代の友人の結婚式に出席するための服探し。あれは派手すぎるんじゃないか、あるいは丈が短すぎる気がした、生地に光沢があるのはちょっと目立つかもしれない………。百貨店の白く輝くタイルの上、地上数階から地下までショッピングモールなどを彷徨って、結局、選ぶことができず、つい雑貨屋に目を惹かれて上等な石鹸を一つ買っただけで家に帰ることにしてしまった。やっかいなのは、結婚式などの場所では特に、地味すぎると逆に人目に引っかかってしまうことだ。周囲に溶け込み、違和感なく、そして目立たない、それが美和の理想の服なのだ。ここまでこだわるのは逆に自意識過剰ではないか、と自分でも思う。しかしともかく、気になるのは同性の目。異性にどう思われようとそれは自分には関係ない。
 ホームを挟んで向かいに電車が入ってきた。車内アナウンスは、その電車が湘南台行きだということを知らせているが、美和はなぜかわざわざ乗り換える気になれなかった。土曜日の午後、混雑というほどではないが人は多い。発車までの時間、電車の車内の人たちやホームを歩く家族連れなどを眺めながら、服のことはしばらく忘れようと決める。
 向かいの電車は先に発車し、やがて美和の乗った電車も駅から滑り出す。大きな駅舎から出ると秋の午後の日差しはまだそれほど弱まってはいない。列車に並走する帷子川に、大きな建物たちが場所を譲って後ろに控えて立ち並んでいる。と、たちまち川は離れてゆき、普通の住宅や商店、あるいは大きめなスーパーなど、多彩とも言える景色がつぎつぎと流れていく。美和がいつも会社に行くときに降りる駅もあっさりと流れていき、窓の外の見慣れた風景をいつもよりも早いスピードで眺めるのは少し新鮮だった。
 美和は二俣川で乗り換えのために電車を降りた。湘南台行きの連絡がないらしく、ただホームに立っているのもつまらない気がして、階段を登ってみることにした。通勤のときに何度も降りているから、よく知っている空間。コンビニがあるから、そこを覗いてみようか。
 改札口から入ってきて、こちらに向かってくる男の姿が美和の目を引いた。ジーンズに赤いチェックのシャツ、という組み合わせが目立った。ジーンズやシャツの色合い、そして斜めに掛けられたカバンなどが、なかなか見かけないくらいに野暮ったかったのだ。昔のオタクというのがこんな感じなのかもしれない。美和がそう思いながらも、双方の距離は近づき、そのまますれ違うはずが、一メートルほどの距離で同時に立ち止まり、驚いてお互いの顔を見た。
 美和がフリーズしたのは、その男が会社の同僚の結城翔太郎だったから、だけではない。会社で見かける翔太朗とのあまりの違いに驚いていたのだ。会社での彼はセンスよくスーツを着こなし、口調も適度に砕けて仕事もできるから、当然のように女子社員に人気があった。華子が彼をさりげなく食事に誘ったことがあるが、さりげなく断られ、よりいっそう化粧や服装に気合が入っている。そんな翔太朗の、目の前の姿は美和には信じがたいもので、これはもしかして、見てはいけないものを見てしまったのかもしれない、と思った。頭の中では思考が高速で回転していた。結城君はこんな格好を見られてマズいと思っているだろう。結城君だと気づかない振りをするか? いや、もう遅い。というか無理がある。それに、そうだ、あたしは今日は化粧とかしてるけど、これは母に言われて仕方なくなのだと説明しなきゃ。でも、いきなりそんなことを言うのって変だろう。
 「わあ。驚いたなあ」
 翔太朗はすぐに人懐っこい笑顔を美和に向けたので、彼女はとりあえず、彼が自分の服装などを恥ずかしく思っているわけではないのを知ったのだった。
 「あれ、家、このへんだっけ?」
 一息ついた美和は尋ねる。
 「うん。そうなんだ。今日はさ、朝から部屋でゲームばっかやってたから、電車にでも乗ろうと思って、出て来たんだよ」
 「へえ。どこに行くの?」
 「決めてないんだよね。加藤さんは?」
 決めてない? この男は行き先も決めずに駅に来るのか? 美和は驚きながらも、
 「今、横浜からの帰りなんだ。うち、湘南台だから」
 「そうなんだ。じゃ、俺もとりあえず、そっち方面に行こう」
 そう言うなり、彼はホームへ向かって歩き始めたので、美和も慌てて歩き、二人はホームに並んで立った。
 結城君は会社ではだいたい、自分のことを「自分は」とか言っているが、今は、「俺」なんだな。ああ、どうやら私の化粧など気づかないようだ、と美和が心の中で呟いたそのとき、
 「今日は化粧してるんだね」
 と、翔太朗は言う。
 「うん。たまたま」
 「いいね、化粧。血色が良くみえるよ」
 血色? そうか、血色かあ。
 「そう? いや、服を買いに行ったの、友達の結婚式があるから。でも、決められなくて。どれも派手すぎる気がして、でも、地味すぎても浮くでしょ」
 すると、翔太朗はちょっと不思議そうな顔をした。
 「単純に、着たい服を選べばいいんじゃない?」
 その瞬間、美和は絶句して、微妙にショックを受けていた。着たい服を着る。斬新というか、自分には無かった発想だ。ということは、今、彼が着ている服も「着たい服」なんだろうか? どうもそうらしい。では、会社でのスーツのセンスとのギャップはどうなっているんだ?
 「そう言われてみれば、そうだねえ。そういえば、結城君、休みの日はいつもそういう感じの格好なの?」
 「え? そういう感じって、別に普通だけど。家の中ではジャージだけどね」
 「スーツはどうやって選んでいるの?」
 「あ、電車来た」
 美和の疑問は解けぬまま、電車の音が近づき、ホームに滑り込んできた。翔太朗はさっさと電車に乗り込む。
 土曜日だというのに、時間の具合だろうか、車内はそれほど混雑していなかった。結城君と並んで電車に乗っている。美和はなんだか不思議な気がした。楽しい。
 「昔から、雑誌とかで服を見るのが好きでね。スーツは衣装? みたいな?」
 思い出したように翔太郎が答える。
 「なるほど」
 分かったような分からないような。でも、どういう基準で「衣装」を選んでいるんだろう。それを尋ねようと美和が口を開きかけた途端、唐突に翔太朗が美和の方に向き直り、
 「次で降りない?」と言う。
 「え? なんで?」
 「なんとなく」
 美和が考える間もなく電車は駅に到着し、二人は南万騎が原駅のホームに降り立った。
 「この駅、良くない? なんか前に一度、来たことがあるんだよね、たぶん」
 などと言いながら、翔太朗はどんどん歩いていく。美和も歩くのは早いので、遅れることもなく一緒に歩いた。
 改札口は線路の真上にある。
 「えっと、こっち側に、なんか、こじんまりした店があった気がするんだけど」
 翔太朗は独り言のように行って、改札を出て右側に進む。一緒に外に出た美和は思わず、わあ、と小さな声をあげた。
 そこはさっぱりと明るく広々をとした空間が開け、地面は白やグレーのタイルが規則的に貼られていた。大きなケヤキたちが緑を提供し、広場の左はかなり幅の広い通路で、先に向かって高くなっている。と言っても坂道なのではなく、数段の段差と、踊れそうに広い平らな部分が交互にあり、全体として上がっていくのだ。その先は両側に真新しい建物。
 「あれ、なんか新しくなってる。間違えたかなあ」
 翔太朗は辺りを見回し、
 「とりあえず、行ってみよう」
 と、ずんずん歩く。その横を、美和は周囲をきょろきょろ見ながら歩いた。しかし、そこを通り抜けると、道路に突き当たってしまった。こじんまりした喫茶店の類は見当たらない。
 「無いねえ。お店」 
 美和の言葉に、
 「ま、そういうこともあるよ。せっかくだから、もうちょっとだけ行ってみよう」
 と翔太朗は道を右に進む。すぐに下り坂になり、右側に突然、森の入口が現れた。大きな看板が立っている。
 「柏町市民の森、だって」
 「ちょっと行ってみよう」
 もう翔太朗は歩きだしている。両側を木々に囲まれたなだらかな坂を上ると、すぐに落ち葉が敷き詰められた空間がぽっかりと現れた。
 「何もないなあ」と翔太朗が笑い、
 「何もないねえ」と美和も笑う。
 夜にたぬきが輪になって集会でもしていそうだ、と美和は思う。昼間でも一人で来るのは怖いかもしれない。二人は細い脇道にも入ってみたが、やはり雑木林はそれほど広くなく、木の間から外の建物が見える場所もある。けれど、この小さな場所は紛れもなく森で、翔太朗は立ち止まって上を見たり、身を屈めて地面を見てはドングリを指さしたりして、かなり楽しそうだ。美和は会社での翔太朗の様子をふと、思い出す。本当に意外だ。そしてついでに、休日などにもっと大きな森を彼と散歩することを妄想してしまった。
 小さな冒険を終えて入口まで戻ると翔太朗は敷地の案内板に近寄る。
 「なるほどね。人が入れるのは半分以下なんだ。向こうは樹林保護区だって」
 「そうか。なんか、あっけなかったもんね。でも、ここに住めたら最高だよね。駅から数分の森の中なんて」
 美和には、数十分前は横浜の雑踏にいた自分が、今は小さな森の出口に立っているのが可笑しかった。
 二人は駅の方向まで戻り、大きな窓が道に面しているベーカリーに入ることにした。イートインコーナーも広かったからだ。
 向かい合って席に着き、それぞれパンを一つずつと、翔太朗はコーヒー、美和は紅茶を飲む。話は自然と会社のことになった。
 「この前さあ、三原課長と出たんだよ」
 翔太朗は営業なので、課長と出た、というのは営業として取引先に出向いた、ということだ。美和は営業事務という仕事をしていて、二人は同じ営業部ではあるが、美和は内勤なのだ。
 「結城君が運転したの?」
 「うん。でね、課長が急に、『お茶飲もう』って言って、道を指示してくるんだよ。で、課長の家に連れていかれた」
 「家に?」
 「そうなんだよ。それでね、奥さんが出て来てね。課長が俺を紹介したら、『あら、あなたが結城君ね』とか言って、なんか、笑ってるんだよ。
 あれはさ、絶対、三原課長、家に帰ったら会社の事とか奥さんに話しまくってるよ」
 「うわ、そうなんだ」
 「課長、俺のこと、奥さんになんて言ってるのかなあ」
 「うーん」と、美和は答えながら考えた。女子社員に人気? 一見イマドキの若者だけど、実はかなり真面目、とか? しかし、
 「見当もつかないねえ」
 と答えて言葉を続ける。
 「でも、いいね。あたしは愛妻家って、好きだな。なんか、かわいい。そっか。課長に見積りを押し付けられる度に、『たまには自分でやれよ』って思ってたけど、許そう」
 美和は偉そうに言って頷いて見せた。もちろんふざけているのだ。実は美和は見積りの計算は嫌いではない。彼らの会社の営業は物を売るというより、顧客を回って希望通りのものを作るという、専門性が必要なものなのだ。その中でも、人と話して仕事を受注してくるのが得意な営業の中には、見積り計算を営業事務、つまり美和や華子だが実質は美和に、ほとんど任せてしまう人もいる。そして、職人気質というか、専門性に喜びを感じるタイプは自分で見積り計算をするし、人によっては社内の製作現場に足を運ぶ。そして、意外なことに翔太朗は後者だ。彼は暇があればカタログや見本帳、資料の類に目を通しているし、見積りそのものも几帳面で、複数の体裁の見積りを作ることも多い。そしてしばしば、見積り計算のことや、それ以外の技術的な事について美和と相談したり、発見を報告しあっている。
 「そうか。女子には愛妻家は人気なのか」
 「いや、一般的にどうかは知らないよ。あたしがそう思うだけ」
 「でも、いいよな。奥さん、優しそうな人だったよ。三原課長、若い頃はモテただろうしなあ」
 翔太朗が真顔でしかめっ面をしているので、美和は可笑しくなった。結城君は本当に気がついていないのかもしれない。華子と総務課の奈緒は、彼を巡って気まずくなり、彼の知らないところで冷戦状態。しかし、美和はそれを翔太朗に教える気にはなれなかった。
 「結城君だって、女子に人気でしょ」
 とだけ言うと、
 「いや、駄目なんだよ。なんか、自信ないんだよね」
 ますます、情けない顔をしている。華子と奈緒はそれぞれ、さりげなく翔太朗を食事に誘い、二人ともさりげなく断られたと言っていたが、「さりげなく誘われた」ことに、翔太朗が気づかなかったのかもしれない。けれど、知っていてとぼけているのなら、かなりの曲者だ。しかし、美和は知らんふりで話を合わせる。
 「私も。始めから諦めてるもん。小学生の時に、クラスの男の子にブスって言われてさあ。もう、レンアイとか無理だし」
 「それ、真に受けたの?」
 「ほんとだもん」
 「そんなことないよ」
 翔太朗はそう言ってから急に黙り、ふと目玉を上にあげた。何かを考えているような様子だ。そして「珍しいな」と呟く。
 「なに?」と美和。
 「この曲」
 「クラッシックだよね」
 ピアノの音がする、店内のBGMはクラッシックらしい、というくらいは美和にも分かった。グールド、と翔太朗は小さく呟き、それから笑って、
 「あ、いいや。ごめん。何の話だっけ」
 「あたしも忘れちゃった」と美和は小さな嘘をつき、
 「クラッシック好きなの?」と尋ねた。
 「そうだね、どうやら好きみたいだよ。こう見えてロマンチストなんで」
 「意外。なんか、ジャズとか聴いてそうだけど」
 「そうかな。ジャスはなんだか格好良すぎるようでさあ。クラッシックはいいよ。そうだ、今後、コンサートにでも行かない?」
 いきなり誘われた美和は面食らったが顔には出さず、
 「うん。それじゃ、そのうちに」
 と曖昧に答えた。
 「あ、加藤さんは趣味って何?」
 繕うように翔太朗が言う。
 「趣味は特にないなあ」
 「休みの日、何やってるの?」
 美和は答えをためらう。
 「笑うだろうなあ」
 「笑わないよ」
 「食べ歩き」
 「え?」
 「だから、食べ歩き。美味しいお店を回って、ご飯を食べるの」
 「意外! マジ?」
 「マジ」
 「友達と?」
 「うん、友達とだったり、一人だったり」
 「そうか、すごいなあ」
 しばし、沈黙が流れたのは、美和が一瞬、「今度一緒にどお?」と彼を誘う自分を想像したからだ。しかし代わりに、
 「じゃ、そろそろ帰るわ」
 そう言ってカップにほんのすこし残っていた紅茶を飲んだ。
 駅の改札口を入って別れ、ひとり電車に乗った美和は、楽しいような寂しいような、そしてなんだか落ち着かない気分に見舞われた。しかしどうしようもなく、車窓の景色をぼんやりと眺める。二俣川から湘南台に向かうにつれて車内の乗客は少なくなり、景色は緑が多くなり、トンネルがあるかと思えば高架を走る。いずみ中央を過ぎると見晴らしはますますよくなり、高いところから建物や原っぱ、畑などを広く見渡しながら電車は走る。遠くに丹沢の山並みがくっきりと見え、日は傾いて金色に光っている。
 ゆめが丘の駅は空中にあり、空色の鉄筋で組まれたアーチ状の骨組みに透明のパネルが貼られて、周囲の景色はぼんやりとしか見えないが解放感がある。駅にはほとんど人がおらず、車内の窓に顔を近づけて下を見れば、線路とホームのわずかな隙間から地面の畑が見え、そこに植えられている作物まで見えた。周囲の景色からすれば、単線の無人駅であってもよさそうな場所に、少し近未来的なホームが空中に浮いている、この駅を美和はかなり気に入っていた。
 電車が再び走り始める。終点の湘南台までほんの数分。惜しむように美和は窓の景色を見つめる。空気は澄み夕日は紅色を増して光る。美和は動機がする。じっとしていられない。小さな川を一瞬で渡り、景色はところどころ乳白色のパネルに遮られ、やがて電車はトンネルに入りぐんぐんと地面に潜っていく。
 電車が駅に滑り込んでやがて止まり、ドアが開くなり美和はホームに出た。早足で改札に向かう階段を上がる。深い地下から地上へ、早く。
 改札口の手前で美和は立ち止まり、壁際に寄ってスマートフォンを取り出した。さっき、ベーカリーに着いてすぐ、無料通話アプリのアカウントを交換した、そのアプリを立ち上げ、メッセージを打つのではなく音声通話のボタンを押す。数回の呼び出し音がふっつり止まり、
 「はい」
 という翔太朗の声がした。勢いで電話をかけた美和は、一瞬、言葉につまってから、
 「今、どこにいるの?」
 「本屋。二俣川の」
 なるほど、だから小声なのか。
 「あのね、夕日が、綺麗なんだよ。びっくりするくらいに」
 言いながら美和は自分が馬鹿みたいだと思った。呆れられるだろう、とも。
 「そうなんだね。じゃあ、急いで外に出てみよう」
 意外にも翔太朗に呆れた様子がないので、美和は少しだけほっとしたが、さらに思い切って、
 「あのさあ」
 と、話を切り出す。
 「もうすぐ外に出るよ。何?」
 「今度、コンサート、誘ってくれないかな」
 言った、言ってしまった。少しの沈黙。
 「おおっ。もちろん。じゃ、とりあえず軽そうなのを、何か探してみるよ。場所が決まったらさ、加藤さん、近くで美味しい店、連れてってよね」
 「分かった」
 「ああ、もっと離れないと夕日は見えないな」
 「そっか」
 美和は少し、気が大きくなった。
 「もう一つ、いいかな?」
 「なに?」
 「結婚式に着ていくドレス、探すの手伝ってくれない?」
 電話の向こうで笑い声が聞こえた。
 「管轄外だなあ。でも、まあ、いいよ。あ、ちょっと空、見えた。きれいだなあ」
 「じゃ、そういうことで」
 「うん。じゃ、あさって、会社で」
 「うん。じゃあ」
 通話を終える。美和はしばらくその場に突っ立ってから、足早に改札口を通り抜け、そのままの勢いで地下通路を歩いて、少し息をはずませながら地上への階段を昇る。
 商店街にしては整然として道幅の広い通りを、駅を背にして夕日を見ながら美和は歩いた。あさって、自分は会社に化粧をしていく? もしかしたら魔法が解けて、スーツ姿の彼はよそよそしくなっているかもしれない。だから、いつもの通り、化粧もせず、髪を黒いゴムで縛って、目立たない服を着て、けれど、目立たない色の口紅をこっそり塗って、浮かれて同時に臆病になった心を抱えて会社に行くのだろう。そう考えながら、美和の顔は自然に柔らかな笑顔になっていた。

著者

幸坂環