「ドレッシング」三浦吉孝

        1

 誕生日のお祝いは、横浜中華街でのランチだった。二人には黙っていたが、妻のゆかりが引っ越してから元気が無かったので、励ますつもりだった。
「すっごく美味しかったね。でもお父さんの誕生日なのに、お父さんが払ったのよね」
娘の菜央のつぶやきに、笑顔だけ返しておいた。
 老舗の料理店をあとにして、どこかに迷い込んだような赤と青に彩られた通りを、菜央に続いて、ゆかりと吉雄はゆっくり歩いた。しばらく行くと、左手に関帝廟(かんていびょう)が現れてきた。朱色の柱に支えられた門の梁は、金箔が施された細かな彫刻で埋め尽くされ、屋根には極彩色の四頭の龍が宙をにらみ、街を守護していた。
「立派な門ね」
 ゆかりが見上げたので、吉雄も同じように見上げてうなずいた。
 石段の下で静かに手を合わせているご婦人に軽く会釈をして、にぎやかな屋台を覗きながら、通りをさらに進むと、青地に鮮やかな金文字の天長門が見えてきた。
「ここが中華街の東の端で、次の角から普通の通りになるのだよ」
 三人は名残り惜しそうに、いま来た道を振り返った。

 三島家は、この春に相鉄線の二俣川に引っ越してきた。菜央がフェリス女学院へ進学したのと同じ時期に、ゆかりが横浜の百貨店へ転勤になったのを機に、田園都市線の青葉台から移って来たのだった。
「引っ越してきて良かったわね。お友達からも、家が近くて羨ましがられるわ。横国大に通っている川原先輩とも近くになれたし……」
 菜央が微笑みながら吉雄を見上げた。
「菜央にも良かったし、ゆかりも通勤時間がだいぶ短くなったね。それに家賃も結構節約できたかな」吉雄は二人に向かって明るく話した。
「でも、渋谷直通のブランドは無くなったのよね」ゆかりは表情を変えずに小声で呟いた。
「もうすぐ、JR直通と東急直通が開通すれば、相鉄のブランドも上がると思うよ。新宿までなら、むしろ速いらしい」手振りをまじえてやさしく説明した。
「そうなると、そうね」

 ゆかりにようやく笑顔がもどった頃、ビルに挟まれた通りから山下公園に出た。花壇に囲まれた噴水を過ぎると、春の穏やかな青い海が広がっていた。右手に、黒い船体の上に白い船室を乗せた氷川丸が、優雅な姿で停泊していた。船尾の舵を間近に見ながら、隣のシーバス乗り場へ向かい、山下公園から横浜駅東口まで行く便に乗り込んだ。
 船が岸から離れると、氷川丸やマリンタワーがみるみる小さくなっていった。反対側にベイブリッジが次第に大きく見えてきた。白い巨大な橋桁から幾筋も伸びるケーブルで、長い道路を吊っている様子がよくわかる。
「普通の客船はベイブリッジをくぐって、そこの大さん橋に着くのだけど、最近の大型客船は背が高くなり過ぎて、くぐれないものが現れているらしい」吉雄は橋桁を見上げて、船の音に負けないように大きな声で話した。
「どうするの」海風で髪が乱れぬよう片手で押さえながら訊いた。
「向こう側の大黒ふ頭に留めるか、あきらめて神戸まで行ってしまうそうだよ」
「菜央も、大きな客船に乗ってみたいな」吉雄とゆかりの間に割り込んできた。
 みなとみらいの沖をシーバスはゆっくりと進んで行った。午後の日差しが揺れる水面に反射し、若い緑と白いビル群が水辺の風景に溶け込んでいる。落ち着いてくると、ゆかりは家でもよく聞くカーペンターズのBGMが流れているのに気が付いた。振り向くと菜央も気付いている様子で、二人で微笑み合った。
 シーバスは乗客の笑顔と一緒に、横浜駅東口のベイクォーターに滑り込んだ。タラップを伝って下船し、水路にかかる歩道橋を渡ってデパートの入口へ向かった。
「お父さんの会社は、向こう側のビルだった?」菜央が指さした。
「そう、ちょうどこちら側の席なので、いつもベイクォーターが見えて、シーバスに乗ってみたいなと思っていたんだ」吉雄が和やかに答えた。
 地下広場に出ると、ゆかりが本屋に寄りたいと言いだした。
「何を買うの」菜央が近付いて用を聞いた。
「読みかけの本がもうすぐおしまいなので、次を探しているのよ」
 ゆかりがひら積みの本を見ているので、吉雄も同じように見て回った。お勧めコーナーには、作家直筆の色紙や書店員の飾らないコメントもある。流行本だけでなく、時折良書も置かれているようで、何冊か手に取って一冊買い求めた。
 三人は書店を出て広い通りに入った。菜央は高校時代にはあまりおしゃれをしていなかったが、フェリスに入ってから急にきれいになった。フリル付きのブラウスに、白の花柄のスカートが良く似合っている。いつも地味なゆかりも、今日は上品なベージュのジャケットにゆったりしたスラックスと白いヒールの装いで、大人のセンスを感じさせてくれる。吉雄は一緒に歩いていて、なんだか誇らしい気がした。
 駅の西側にある相鉄線の入り口は、デパートに繋がっていて上品でやさしい雰囲気がある。改札を通って、銀色の真新しいホームドアの前に並んだ。
「まだ慣れてないのに、ここに来ると何となく安心するの、何故かしら」
 ゆかりが菜央の方を向いて言った。
「わたしもそうなの。どうしてお父さん?」
「そうだな」吉雄は少し考えてから話し始めた。
「渋谷や新宿に行くと、楽しめるし学ぶことも多いんだけれど、刺激というのは自分にとって異物という側面もあって、緊張を強いるんだ。たぶん、帰りの相鉄線は、緊張が溶けてくるタイミングと重なるのかな」
「それ、免疫の話だったわね。一度読んだことがあるわ」ゆかりが話を合わせてくれた。
「そうかも知れないな」吉雄はやさしく応じた。
「だから、このホームに来ると、何となく安心するのね」
 ゆかりは納得したように頷いた。
 ヨコハマネイビーブルーの真新しい車両がホームに入ってきた。
「今日のお父さんは、紺のジャケットも凛々しいし、言っていることも先生みたくて……」
風と音が高まって、菜央の最後の言葉を、吉雄は聞き取れなかった。
 ドアが開き、三人は革張りのボックスシートにゆったり座った。

      2

 菜央が川原先輩と知り合ったのは、高校三年の学園祭だった。女子部は男子部やホールがある地区とは離れていて、男子生徒が来てくれるのは学園祭の時だけだった。そこで女子たちは機智に富んだ飾りを丹念に作り上げて、おもてなしをするのが慣例だった。受験が迫る三年生はほとんど参加しなくなるが、菜央は軽音楽部の二年生の熱意に引きずられて、リハーサルや発表会の準備を手伝っていた。
 当日も、菜央は発表の出来栄えが気になってステージ横で見守っていた。あと三曲のところで、ボーカルの後輩が突然、「ここで、しっとりした歌声の菜央先輩に、大好きなカーペンターズを歌ってもらいます」と前触れもなく話すではないか。驚く間もなく、伴奏は始まるし、観客も大喜びでサプライズを応援するし、覚悟を決めて歌うしかなかった。
「Close to you 遥かなる影」は、しっとりとした少しせつない曲で、菜央は高校生最後の歌に思いを込めた。エンディングは後輩と一緒に歌い上げ、涙が出てきて、ステージの上で抱き合って終えた。父兄にも涙する人がいた。それに続く二曲は、後輩達が明るく楽しい曲で締めくくった。喝采が鳴り止まなかった。
 後片付けをしていた時、川原先輩がやって来た。「さっきの歌は素晴らしかったよ。僕は今年の春ここを卒業して、いま横国大にいる川原翔太。良かったら付き合って貰えないだろうか」と名刺も渡された。ステージの余韻もあって「はい」と答えてしまった。川原先輩が居なくなると、二年生達が取り囲んできて、「背が高くてがっしりした素敵なOBですね。羨ましい!」と言うものだから、本当にお付き合いが始まった。
 
 川原先輩は、菜央の受験勉強の妨げにならないように、デートは三時間ほどにしてくれた。将来はタンカーを設計するのが夢で、馬車道にある日本郵船の歴史博物館や氷川丸の中にも連れて行ってくれた。だから菜央の受験先は自然と横浜周辺になっていった。フェリス女学院大学のオープンキャンパスで緑園都市を訪れた時、明るくてきれいな駅だなと思った。ゆるやかな坂を少し上がると、緑に囲まれた落ち着いた高層マンションとフェリスの建物が目に入った。帰りに同じ道を下りながら、駅前通りがとてもおしゃれなことに気がついた。コンクリートとガラスで作られた建物が渡り廊下で結ばれていて、道の両側がひとつのアート作品に思えた。フェリスが菜央の第一志望になった瞬間だった。

 菜央が大学に入ってから、二人はゆっくり会うことが多くなった。この日は、海老名の駅前にあるビナウォークで映画を見たあと、広場のベンチに座って余韻を楽しんでいた。広場を取り囲むように建つデパートの二階部分が、大きな通路で結ばれていて、それが駅舎まで伸びていた。ガラスに覆われた明るい通路は、人々がゆったり行き来できるだけでなく、視覚的にも広場と駅の一体感を醸し出していた。
「そこの黄色い大きな屋根と赤い柱、映画の中から飛び出してきた感じだね」
 菜央は「ほんとね」と頷きながら、視線をゆっくり下ろしていった。
「なんだか歩いている人たちも楽しそうね。そういえば、緑園都市の駅前の建物もアート作品みたいなのよ。前に言ったかもしれないけれど」
「それで、少し調べたんだけれど、山本理顕という建築家が八棟ほどデザインしたらしい。フェリス側の建物が、ジスタス、オベリスク、ロッジア」指を折って挙げ始めた。
「駅の向こう側が、アーカス、プラード、アムニス、ジーエフ、最後がコータコート」
 菜央も応援して、声を揃えて全部を言い当てた。
「横国大の教授を十一年も勤めた人らしい」
「おかげで、相鉄線でいちばんステキな駅になったのね」
 菜穂は微笑んで翔太を見つめた。
「和田町とは大違いさ」こころなしか残念そうな顔をした。
 和田町は、横浜駅に近く、横浜国立大学の学生街として活気がある反面、帷子川(かたびらがわ)に沿った駅の周辺は道幅が狭く、周囲を小高い丘に囲まれて坂道が多いこともあり、昭和の街並みのイメージがあった。
「でも、下町のにぎやかさがあって、すごくいいと思うわ」
「そう言われれば……」翔太は思い出したよう呟いた。
「住宅地の中の長い階段が続くレンガ坂を通るとき、いつも応援してもらっている雰囲気を感じるし、駅前商店街のお店に入ると、どこでも国大生さんねと言って、とても親切にしてくれる」
「そうでしょ。下町人情よね!」
 菜央は思わずガッツポーズをした。

 ある土曜日の午後、南万騎が原の駅前にあるタイル敷きの広場には、初夏の心地よい風が吹き抜けていた。菜央はお揃いの緑のジャンパーを着て、野菜市のアルバイトをしていた。いつもは六人で販売するところを、今日は四人しか集まらなかったので忙しい。それでも、いづみ野から軽トラックで野菜を運んでくる農家のお兄さんが、熱心に野菜の見分け方を教えてくれるし、常連のおばさんたちも短いおしゃべりのあとでまとめて買ってくれるので、楽しくて時間がたつのを忘れてしまう。主婦になりたての若い女性が、スーパーで買うか野菜市で買うか迷っている。そんな時、菜央が明るく「さっき地元で採ってきたので、新鮮で甘くて、お安いですよ」と言ってあげると、喜んで選んでくれる。
 アルバイトをまとめている相鉄の社員は、菜央の機転が利くところをよく分かっていて、駅ビルで催されるくじ引きの抽選会やイベントの進行役など、いろいろなバイトを入れてくれる。菜央も頼りにされることがうれしいし、それ以上に、お客さんの良心と通じ合えたとき、すごくうれしい。誰かの役に立って支えている時、喜びを感じる。フェリスで受け継がれている「For Others 他者のために」は本当だと思う。今日はなんだかとても幸せなので、翔太先輩にもおすそ分けしたくなった。あとで、ゆめが丘駅に寄って、希望ヶ丘駅までの「ゆめきぼ切符」を買って帰ろう。
 
      3
 
 翔太が、横国大の海洋学科へ進路を決めたのは、父親がタンカーの船長だった影響と、高校の時に大型水槽で行われたコンテストに参加したことが大きかった。長さ百メートル、幅八メートル、水深三メートルの水槽は、大学としては世界でも最大級のものだ。薄暗い実験棟の中で、鏡のような水面の上を、音もなく切り進む船体の緊張した美しさを見て、翔太はこれしかないと直感したのだった。
 大学に入って、大型水槽を使った授業は三年生まで無かったが、学科の先輩に付いて行って、いろいろな実験を傍らで見ていた。この夏休み中に、プラモデルのラジコンボートを改良して、秋の授業が始まったら大型水槽に浮かせようと相談していた。
 
 この日は、空が高く夏の日差しが強かった。二人は二俣川の駅前で待ち合わせをした。翔太はいつのもリュックに手造りのラジコンボートを詰め込んでやって来た。菜央は細めの白いスキニーパンツに、青いノースリーブと日傘の装いで待っていた。
「ここから大池公園まで一キロほどなんだけど、バスで行かない?」
「そうだね。今日は熱いしね」
 駅前から伸びるおしゃれな並木道を登りきると、一戸建ての落ち着いた住宅地が続き、そこを少し下ると、森に囲まれた大きな池が見えてきた。バスを降り、公園の案内図の前で立ち止まった。
「正式な名前は、こども自然公園なんだね。江戸時代には既に用水池としてあったんだ」
「通称、大池っていう訳ね。ちびっこ動物園やアスレティックもあるわ」
 木立を抜けると、満々と水をたたえた大池が静かにたたずんでいた。水面には夏の強い光に照らされた緑が鮮やかに映り、池の奥に目を向けると、水辺の小道を包みこむ深い森が続いていた。二人は池に近い木陰のベンチに腰かけた。翔太はリュックからラジコンボートを取り出し、樹脂粘土で作った部品を、船首に取り付け始めた。
「どんなテストをするの?」
「船が進むとき、船首で波しぶきが出るだろう。あれは速度や燃費を悪くするんだ。それで波しぶきを抑えるために、前方の水中に、球状船首という突起を付ける」
「テレビで見たことあるけれど」菜央は翔太の手元を見て呟いた。
「水面の波と、水中の波が別々に作られるので、うまく調整すると波同士が打ち消し合うんだ。今日は四種類のテストをしようと思っている」
 翔太は菜央がわかるように、ゆっくり説明した。
「どうやって測るの?」
「携帯電話を三脚に取り付けて、カメラでボートを追いかけていく。そして、リモコンの条件を声で記録しながら、波しぶきを撮影していくんだ」
「教えて! 私、カメラ得意なのよ。高校の時、ステージの写真撮っていたから」
 菜央は急にやる気が出てきた。
 翔太はラジコンボートを池に浮かべ、泳がせ始めた。
「じゃあ。撮影開始、お願いします」
「はい。撮影開始します」菜央は録画用のボタンをそっと押した。
「サンプル1、速度2、直進」
 五秒くらいすると、翔太が撮影停止を指示してボートを折り返した。
「つぎ、撮影お願いします。サンプル1、速度5、直進」
 二人の息が次第に合ってきた。幾つかの実験が終わってボートを岸に戻し、翔太が二番目の部品に取り替えた。携帯の画面で撮影内容を確認し、先程と同じようにボートを池に戻し実験を続けた。菜央は翔太との作業が楽しかった。
「つぎ、撮影お願いします。サンプル2、速度2、右旋回2……」

 三番目のテストを終えた頃、広場で犬と遊んでいた男の子が、犬に引っ張られながら池に近づいてきたと思うと、勢い余って、大きな水しぶきと共に池の中に落ちてしまった。近くにいた大人が駆け寄ってきたが、短いロープしか持っておらず困っていた。一人が管理室に走って行った。
「あの子、大丈夫かしら。手をばたつかせているけれど」菜央が心配そうにつぶやいた。
「ちょっと、まずいな」翔太はリモコンをベンチに置いて、目を凝らした。
 子供の顔が水面から沈んだ。
「かなりまずいよ。助けなくっちゃ」
 そう言うと、Tシャツを素早く脱いで水ぎわまで駆けて行き、両腕を伸ばし耳に付け、弧を描くように体を曲げて、大きな音をたてて池に飛び込んだ。浮き上がってくると、子供に向かって、白いしぶきを上げて泳ぎ出した。大人たちも心配そうに見ている。翔太は子供の近くに着くと、向きを変えて子供の背中に回った。そして、一度大きく息をすって潜るようにして、子供の脇の下に自分の片腕を回し込み、もう一方の腕でひと掻きひと掻き、岸に向かって懸命に進み始めた。池の底に足が付くと、ぐったりした子供を抱えて立ち上がった。
「兄さん、よくやった! あとは俺たちに任せろ、子供を寄こせ!」
 傍にいた大人たちが、子供の腕と足を持ち上げて芝生まで運んだ。
 ロープを持って駆け付けてきた公園職員が、横になっている子供の息と脈と確認して、ほっとした顔で言った。
「心臓は動いている。意識はないが呼吸はしている」
 大人たちは、まだ動かない子供を心配そうに見つめている。
「回復体位で良さそうだな。横向きにして、あごを出して気道を確保すれば大丈夫だろう」
 職員が説明していると、駐車場から子供の父親と姉らしき二人が慌てて走ってきた。
 息を切らせて父親が訊いた。
「すいません。隼人はどうでしょうか」
「気を失っているけれど、呼吸はしているので、救急車は要らないでしょう。心配なら、後で医者に診てもらってください。あの青年のお手柄ですね」職員が指さすと、びしょ濡れのまま放心して座りこんでいる翔太に、皆の視線が注がれた。
「ほんとうにありがとう。隼人を助けてくれて」
 父親は、翔太の手を取って感謝した。
「無事でよかったです」
 翔太は疲れた顔つきで応えた。
 まもなく、子供が咳き込みながら意識を戻した。
 周りの大人たちも、ようやく安堵の表情になった。

      4

「お母さん、今日のバイトは雨であまり売れなかったの」
 菜央が重いビニール袋をテーブルの上に置いた。
「野菜ばかり、こんなにたくさん」ゆかりは微笑みながら、袋の中をのぞきこんだ。
「農家のお兄さんが持って行っていいよって。断ったんだけれど。少しずつなら重くないし、電車に乗ってしまえば大丈夫だよ、って言うから」腕を揉みほぐす仕草をした。
「この街の農家の方は、親切で優しいのね」
 ゆかりは感心して呟いた。
「それに、バイタリティーもあって、農地をこの地域の魅力にするんだって。それで、やさいレシピのコンテストを開くんですって」
 菜央はビニール袋から野菜を取り出し、名前を言いながら並べ始めた。
「かぼちゃ、きゅうり、ズッキーニ、トマト、ナス、ゴーヤ、とうもろこし、みょうが、にんにく、枝豆、これで十種類ね。ししとう、いんげん、おくら、しそ、ピーマン、パプリカ、最後にレタスで、全部で十七種類もあるわ」
 菜央は腰に手を当て少し胸を張って、野菜たちを見渡した。
「日持ちしないから、早く食べてしまわないとね」
 ゆかりはそう言ってカレンダーを見ていると、思い出したように振り返った。
「子供を救出した記事、新聞に出ていたわよ。立派ね」
「その場に居たけれど、子供のお父さんや、周りの人達からもたくさん褒められていたし、翔太先輩、本当にすてきで、わたし、誇らしかったわ」菜央は胸に手を当てた。
「来月、警察署と消防署から表彰されるって書いてあったわよ。お祝いしてあげないとね。そうだ! この野菜使ってパーティーしない?」ゆかりが手を叩いた。
「グッドアイデアね。わたしも手伝う!」菜央は飛び上がって喜んだ。
「野菜は新鮮なうちがいいわね。明日はどうかしら。お父さんも入れて四人で」

 日曜日の昼、駅まで迎えに行った菜央と一緒に、白いシャツを着た翔太が時間どおりにやって来た。少し緊張している。ジャケット姿の吉雄とゆかりが出迎えた。
「はじめまして。川原翔太と言います。菜央さんとお付き合いさせてもらっています」
「菜央がいつもお世話になっています」ゆかりは顔をほころばせて招き入れた。
 廊下から続くダイニングは、リビングとひとつながりの大きなスペースの一角にあって、窓からやわらかい光が差し込んでいた。奥の方から静かなBGMが流れている。
 緑のクロスが敷かれたテーブルの中央には、パイ生地の中でトマト、ナス、ズッキーニが卵液から顔を出し、こんがり焼かれた野菜キッシュが大皿に載っていた。手前にはジャガイモの丸い生地に赤いミニトマトと白いカマンベールチーズが散りばめられたガレットが控え、その横に彩り豊かなマリネが見える。さらにテーブルの奥には木製のボールいっぱいにレタスとキュウリが盛られていた。各々の席には、カットグラスに入ったトマト、パプリカ、おくらのゼリー寄せと、ピーマンの丸ごとオイル煮が並び、手前に、とうもろこしご飯に、かぼちゃの冷製スープが添えられていた。
 皆が席に着くと、代表して吉雄が低く通る声で話し始めた。
「翔太君が子供の救助したことで、感謝状をいただく運びになりました。人命を救うことは大変価値のあることです。そこでささやかではありますが、お祝いをしたいと思います。おめでとう!」四人は乾杯のグラスを交わした。
「今日は内祝いということで、菜央が野菜市のバイトでたくさん分けてもらったので、野菜パーティーにしました。豪華なお食事は賞状をいただいた後でね」
 ゆかりが申し訳なさそうにお辞儀した。
「そんなことありません。カラフルで、おもてなしを感じる料理です」
 翔太が恐縮して頭を下げた。
「わたしも、野菜キッシュとゼリー寄せを手伝いしました」
 ゆかりが野菜キッシュを切り分ける間に、菜央もレタスを小皿に盛って皆に配った。
「我が家では特別な日に野菜キッシュが出てくるけれど、今日は格別に美味しいね」
「せっかく菜央がもらってきた野菜なので、いつもよりゆっくり焼いてうま味を出してみたのよ」ゆかりが得意そうに微笑んだ。
「色々な味が響き合って、深みがあるというか……」
 翔太が相槌を打って、菜央も続いた。
「季節にあったいろいろな野菜を、沿線の人たちに普通に食べて欲しいって、農家のお兄さんたちが言っていたわ」
 吉雄がゆかりを向いて話し掛けた。
「この地で作った物を、この地で食べるってことだね。それにしても、こちらに来てから、街や人や自然に関わる出来事がいろいろあったね」
「私も同じことを感じていたわ。何だかこの街が好きになったみたい」
 ゆかりは吹っ切れたような、晴れやかな表情で答えた。
「僕は、街や人や自然を、相鉄線がゆるやかに結び付けてくれているのだと思います」
 翔太が背筋を伸ばして、しっかりとした口調で言った。菜央も何か続けたそうにしているが、サラダをほおばっていたので、皆はつぎの言葉を待った。
 
「相鉄線って、わたしたちにとって、ドレッシングみたいじゃない?」
 思いがけない言葉に、三人は目を大きくして驚いた。
 そして、菜央は、なごやかな笑顔につつまれた。

著者

三浦吉孝