「ノスタルジックブルーバード」砂子 栞

 百円玉と五十円玉を一枚と、十円玉を四枚。わざわざ数えて投入口にいれたのに、百九十円のボタンはどこにもなかった。
「あ、そっか」
 思わず出てしまったひとりごとに、隣でスイカにチャージをしている女子生が不審げな目を向けてくる。なにこのおばさん、変なひと。彼女がそんなふうに思っていることが、視線から伝わってきた。
 実家を離れて一人暮らしを始めてから、思ったことをぽろりと溢してしまうことが増えた。おばあちゃんみたいだからやめたいのに、一度ついてしまった癖はなかなか消えない。生きれば生きるほど、いらないものばっかりが増えて、ほんとうに欲しいものは指と指のあいだをするする通りぬけていってしまう。そんなことを、最近よく考える。
 十円玉をもう一枚、投入口に放り込む。オレンジ色の明かりのともった二百円のボタンを、親指でつよく押す。出てきた切符を握って、わたしは相鉄線のホームに向かった。
 わたしの実家は相鉄線のまんなかあたりにある町で、横浜までは片道百九十円だった。それなのに、わたしが地方の工場に勤めているあいだに、いつのまにか消費税率が上がって、いつのまにか切符も値上がりしていた。記憶と現実の齟齬を埋められないわたしは、こうやってお盆に里帰りするたびに、券売機の前で戸惑ってしまう。
 実家にいくのは純粋にうれしいけど、同時に少しさみしい。
 あの頃ずっといっしょだったはずの街が、わたしを置いて、どんどん変わっていく。
 わたしは大して変われないのに、みんなだけが変わっていく。
 それがときどき、とてもさびしい。
 高校生のあいだ毎日そうしていたみたいに、一番線のホームの、一番下り側のほうに立つ。見慣れた金属の柵が、小綺麗なホームドアに変わったことに、まだ慣れない。ホームに滑り込んでくる新型車両にも、やっぱり慣れない。
 慣れることができない自分のなかの、凝り固まってしまった何かを思い知るのが、一番さびしい。
 ドアが開く。乗り込むのは九号車。わたしの地元、鶴ヶ峰駅の階段にいちばん近い車両だ。

 駅に降りると蒸した空気が額にへばりついた。北海道の製紙工場に勤めているわたしの身体には、横浜の夏は酷だった。
 駅前の小さな商店街を抜けると、バスターミナルに出る。どのバスにも乗らずにターミナルを横切り、さらにその先にある橋を渡る。橋の下を流れている帷子川は、相鉄線と縺れ合うようにして横浜の街を流れている二級河川だ。流れは速くないし、綺麗でもない。しっかりと護岸工事をされていて、人に飼いならされている。ごくふつうの、都会の川だ。
 橋を渡ると、川沿いの道を西谷駅のほうに向かってしばらく歩く。川べりに茂っていた桜の樹は、もう十年近くも前に切り落とされてしまった。新しい樹が植えられたみたいだけれど、まだ細くて、頼りない。
 コンクリートの中の帷子川は、太陽の光を錆びた金属みたいに反射する。
 帷子川は、どんどん変わる街並みのことをどんなふうに思っているのだろう。
 ふと考えて、やめた。
 するする流れていく川は、わたしの感傷を預けるのには心もとなかった。
 むかしスニーカーで駆けた歩道を、ハイヒールで歩く。つかつかと響く足音に、自分が大人になってしまったことを実感する。

「ゆっこちゃん、ひさしぶり」
 家に帰ったら、妹の娘が出迎えた。いつからか、実家のドアを開けたとき、おかえり、ではなく、ひさしぶり、と言われるようになった。
「ひさしぶり、陽子ちゃん」
 パンプスを脱ぎながら答えると、陽子ちゃんはえへへと笑う。奥から母が顔を覗かせた。
「あら、百合子。もうきたの」
「うん。ゆみはもうきてたんだ?」
「いや、由美子のところはふたりとも仕事が忙しいみたいで、陽ちゃんだけ預かってるのよ」
 ふたりとも、の響きが胸にちくりと刺さった。妹の由美子はもう八年も前に結婚しているのに、わたしはまだ独身だ。大手メーカーに勤める代償に、転勤が多くて、あらゆる人付き合いが長続きしない。わたしはそれを言い訳にしている。
「陽子ちゃん、ひとりでお泊りしてるの?」
「もう一週間くらいだよ!」
「そっかあ」
 鶴ヶ峰は、住むには便利だけれど、都会でも田舎でもない中途半端な町だ。子どもがひと夏を過ごすには退屈だろう。
 パンプスを玄関の端に揃えて、ダイニングにいく。戸を開けると古い布の匂いがした。住んでいたころは分からなかった、この家の匂いだ。手狭なダイニングには四人掛けのテーブルが無理やり押し込められている。飾り棚にひしめくように置かれた置物や時計が、かえって貧乏く見えた。
 ダイニングと畳じきの居間は、襖を挟んで一続きになっている。居間にはこたつ机と座布団と、テレビが置かれている。
 わたしへの挨拶を終えた陽子ちゃんは、真剣な面持ちでテレビの前にしゃがみこんだ。最近新しくしたというテレビには、子供向けのアニメが映っていた。カラフルな髪をした女の子が、緊迫した声で話している。彼女たちの住む町はピンチらしい。
「ケーブルテレビでずっと見てるのよ、目に悪いんじゃないかしら」
 母が冷えた麦茶を渡してくる。淹れすぎたのだろう、すこし苦かった。
「外で遊べたらいいんだけれど……」
「なんもないもんねえ、ここ」
 簡単な公園ならある。図書館も近い。でも、それだけだ。帷子川は遊ぶような川じゃないし、アスレチックの遊具もない。車でいけばおおきな森林公園もあるけれど、母は運転ができない。近くに友達がいるのならばともかく、遠くの街からきた子供にとっては退屈だろう。
「もうちょっと田舎のほうが、子供には楽しいのかしらねえ。あんたの住んでるところはどうなの?」
「田舎すぎて、逆にだめかも」
 わたしの務め先は、北海道の東の、人口密度のきわめて低い地方にあった。北海道の郊外は、田舎というよりも、へき地だ。ひとの生活の気配のない膨大な自然は、外から眺めるぶんにはいいけれど、なかにはいって遊び場にするような気にはなれない。野山や雑木林なんて生易しいものじゃないのだ。あそこにあるのは、山岳であり、森林だ。
「あ、そうだ、ちょうどよかった。あんた、陽ちゃん連れて川でも行ってきなさいよ」
「かわあ?」
「そう。陽ちゃん、おばさんが川に連れていってくれるってー」
 母はこっちの返事も待たずに居間へと叫ぶ。陽子ちゃんはテレビの前から微動だにせず答えた。
「これ終わったら、いくー」
「だって。いいわね?」
「ええ? まあ、いいけどさあ」
 遠路はるばる帰省した娘に、もう少しこう、気づかいはないものなんだろうか。それとも、いくら可愛い孫とはいえ、一週間も子供の相手をしていれば疲れるものなんだろうか。
 麦茶の二杯目を喉に流し込む。
 まあいいや。「あんたのところにも子供がいれば遊び相手になるのに」とか言われないだけマシだと思おう。
「あんたむかし、帷子川で、カワセミ見たって言ってたわよね?」
 母が自分のコップに麦茶を注ぐ。水面が揺れると、溶けかけの氷がふたつ、かつんとぶつかる。
「ああ、うん、小学生のときかな」
「陽ちゃんもね、カワセミ見たいんだって」
「ええ? まだいるのかなあ。だってあれ、二十年も前だよ?」
 自分で言って、ぞっとした。ぞっとしたのは母も同じみたいで、女ふたり、わけもなく見つめ合ってしまった。
 ひとは他人から向けられる憐みに敏感で、憐れまれたことそれ自体にも傷つくものだ。わたしがそれを実感したのは、同級生たちの結婚の知らせが増えてきたころだった。
 仕事は楽しい。充実もしている。趣味はない。もう長いあいだ恋人もいない。でも、何も困っていない。十分だ。いまの生活に満足している。
 でも、周囲はそうは捉えてくれない。
 さみしいことがさみしいんじゃなくて、さみしいひとだと思われるのが、さみしい。ひとりであることがさみしいんじゃなくて、ひとりであることを憐れまれるのが、さみしくて、つらい。
 一か月のうち二十九日はなんとも思わない。でも、残りの一日か二日が、どうしようもなくつらい。どこからともなく湧き出た感傷が、心を奔流に巻きこむ。そして、どこにもいけない。わたしのなかを流れる川は、途中で干上がって、霧散して、どこにもたどり着かない。そしてまた一か月後、洪水がわたしを襲う。
「終わった!」
 陽子ちゃんがテレビを消して、立ち上がる。カラフルな少女たちの町は、危機から脱したようだ。天真爛漫な孫の笑顔に、母の頬が緩む。
「陽ちゃん、ゆっこちゃんおばさんが一緒にカワセミ見に行ってくれるって」
「ほんと?」
「うん、いるかわかんないけど」
「ゆっこちゃん、はやく、はやくカワセミ見に行こう!」
「だからいるかわからないって」
「カワセミ!」
 陽子ちゃんはカワセミを見ることを疑いもせずに、意気揚々と玄関に向かう。
 陽子ちゃんは少女だ、と思った。
 叶わないかもしれない期待をしない、とか、諦めて平気なふりをする、とか、そういうずるい小技を身に着ける前の、そのままの少女が、わたしの前にいた。

 昼と夕の中間の空は、曖昧に白んでいた。
 川沿いの歩道を陽子ちゃんと連れ立って歩く。夏の陽の生む濃い影が、ガードレールの付け根や、萎れかけのタチアオイの根元から伸びている。
「カワセミ、どこにいたの?」
「もうちょっと、向こうのほう。陽子ちゃん、カワセミってどういう鳥か知ってるの?」
「おばあちゃんとテレビで見たの。青くてきれい」
 青くてきれい。カワセミを表す、もっとも簡単で、的確な言葉だろう。
 カワセミは中型の鳥で、紺碧の翼が特徴だ。美しい見た目から人気が高く、カワセミが見られるスポットはしばしば話題に挙げられる。スマホで検索したところ、三年前のブログに帷子川周辺でのカワセミの目撃例が書かれていた。
「ゆっこちゃんは、いつカワセミと会ったの?」
 少し思い出すのに時間が要った。それくらい、遠い思いでだった。
「たしか、探検してたんだと思う。そのとき、たまたま」
「ひとりで? それとも、お母さんと?」
「陽子ちゃんのお母さんもいたかなあ。それと、友達何人かと」
 まだ小学生だった。学校の友達や妹たちと一緒に川を探検していたら、偶然見つけたのだ。そのときのメンバーのうちのひとりの男の子を、中学でわたしは好きになった。恋は実らないまま、わたしは高校にあがった。その子のフェイスブックには、小さな息子と奥さんの写真が並んでいる。
「カワセミ、きれいだった?」
 陽子ちゃんが無邪気に問いかける。わたしは掠れた記憶の糸を辿り、必死に情景を思い描く。
 速かった。
 まず、浮かんだのは、その言葉だった。
 速かった。速くて、軽やかだった。風のなかを滑るみたいに飛んで、自在に翼を操って、のびやかに飛びあがった。
「うん、とてもきれいだった」
 美しかった。目の前の少女のように、軽やかで、鮮やかな命だった。
 いくつかの橋の脇を通り過ぎ、川沿いの道を行く。古い家々の煤けた壁に、太陽の光が反射する。帷子川はゆったりと、それでも淀みなく流れていた。取り立てきれいでもないけれど、騒ぐほどの不潔感もない、ふつうの川。あるいは、わたしのなかの「ふつうの川」の基準となった、ふるさとの川。
 帷子川は水量も少なくて、流れもゆるい。けれど、ちゃんと海に流れ着く。横浜駅近辺になると汚れやゴミも目立って、お世辞にも清流だなんて言えないけれど、きちんと海までたどり着く。
 あるべきものがあるべき場所にたどり着くことを、ひとは正しく、幸せだという。
 わたしのたどり着くべき場所を勝手に誰かに決められて、それをもとに評価を下されるのが、仕方ないことなのに、たまに、猛烈にさびしい。
「このへんかなあ」
 道の途中、河川敷に繁みが目立ちはじめたあたりで立ち止まった。川沿いの家のベランダにわたしと同じくらいの年の女のひとが現れて、干された布団をしまっていく。陽は傾きはじめていた。カワセミ以外の何を見せたら、陽子ちゃんは岐路についてくれるのか、考えた。
「ここ、降りていい?」
 川に向かって伸びる階段の前で、陽子ちゃんが振り向く。水量が少ないからか、結構近くまでひとが近づけるようになっている。大きい川だとそうはいかないということに、多摩川を渡って東京にいくようになってから気づいた。
「うん、降りていいよ。でも、川の水は触んないほうがいいかも。むかし、ナメクジが泳いでたよ」
「ナメクジ?」
「うん。もしかしたらヒルかも」
「ヒル?」
「血、吸うやつ。汚い川にいるの」
「うえー」
 陽子ちゃんは気持ち悪い、と言って身体をくねらせながら、笑った。何度も笑った。そして、なんのためらいもなく、川の水に手を突っ込んだ。はらはらするわたしをよそに、しばらくじっとしたあと、ゆっくりと手を水からだす。
 濡れた手を日に透かして、グー、パー、と動かす。ふにふにとした子供の指のさきで、小さな爪がきらりと光る。
「……ゆっこちゃん、ヒル、いないよ。川、きれいになったのかなあ」
 真面目に考え込むのが面白くて、わたしは思わず吹きだした。
「この川にヒルが住んでるからって、陽子ちゃんの手に絶対くっついてくるわけじゃないでしょ」
「ヒルがいても、大丈夫ってこと? じゃあ、はいっていい?」
「だめ。タオルもないし」
「えー」
 わたしは階段に座り込む。服が汚れるかも、という考えが一瞬よぎったけれど、気にしないことにした。わたしの忠告も聞かずに川で遊びたがる陽子ちゃんを見ていたら、他人から見た自分を気にしてばかりいてもしょうがない気がしてきた。
 陽子ちゃんはしばらく川の流れを眺めていたけれど、すぐに飽きて、わたしの隣に座る。通りすがりのひとが見たら親子に見えるのだろうか。そのひとから見たわたしは、幸せに見えるのだろうか。
 帷子川は、人工の石のあいだを、別れたり、合流したりを繰り返しながら、滔々と流れている。海に向かっている。
「あ」
 ずっと川ばかり見ていたわたしの横で、陽子ちゃんが叫んだ。
「カワセミ!」
 え、と口からぽろりと声がこぼれ出た。顔を上げ、陽子ちゃんの視線のさきを辿る。川の対岸、青く茂る草樹のあいだから勢いよく飛び出してきたのは、青く軽やかな鳥だった。
「カワセミだ」
 わたしが呟くと、陽子ちゃんは大きくうなずく。ふたりとも、獲物を捉えた猫のようにじっとして、カワセミを見つめていた。釘付けになるわたしたちなどおかまいなしに、カワセミはあざやかに羽ばたいて、川の上流へと飛んでいった。
「きれい……」
 呟いたのは、わたしのくちびるだった。そこそこ珍しいだけのただの鳥が、目の前を横切っていった。たったそれだけ、それだけなのに、ふしぎなくらいに、心が楽になった。
 横浜駅に降り立ったときから胸を占めていたさみしさが、ほどけて溶けていく。さみしさの鎧の溶けたわたしは、そのままのわたしになって、カワセミの消えた川辺を、キラキラと光を浴びる水面を、川に続く階段を見つめている。
「幸せの青い鳥みたいだねえ」
 陽子ちゃんが呟いた。幸せのかたちについてもきっとまだ深くは考えていないだろう少女が、目の前の美しさをたたえるためだけに、「幸せ」という言葉を使う。
 そうだった。かつてのわたしにとって、幸せ、という言葉は、義務や目標ではなく、ただただ美しい表現だった。この街に住んで、駆けまわっていたころのわたし。帷子川以外の川のことを知らなかったころにわたし。でも、カワセミの青さを知っていたころのわたし。
 わたしは立ち上がって、帷子川へ歩みよる。川辺の桜は切り落とされてしまったけれど、わたしはまだ生きている。履いているのはスニーカーじゃなくてハイヒールだけど、ずいぶん年をとったけれど、この街には滅多に帰ってこないけど、でも、わたしは時折この街を訪れる。
 ただいま。おかえり。
 私の住む家ははもう、ここではなくて、帰るべき場所ももう、ここではなくて、わたしは自力でここではないどこかにたどり着かなければならないけれど。
 わたしはこの街にかつて確かに住んでいて、この街のことを知っていて、だから、この街に来ると、さびしくて、なつかしくて、いとおしくなる。
 わたしは指をそっと川に差し伸べる。陽子ちゃんのものとは全然違う、長く伸びたおとなの手だ。水面は光に満ちている。わたしの指が、川の流れと縺れ合う。
 ただいま。
 夏の川の水のぬるさと心地よさを、わたしの身体が、思い出す。
 わたしのなかの少女が、思い出す。

著者

砂子 栞