「ノスタルジックライン」矢ヶ部春菊

桜は春に散る運命なのだと思っていたけど、それはどうやら私の勘違いだったらしい。現に私の桜は散ってしまった。まだ雪が舞っている季節だというのに。
「さいあく。」
都内からJRで帰ってくる間に溜め込んだ涙は決壊寸前だ。多摩川を越える辺りが一番危なかったけれど、どうやら一番の強敵は、この相鉄線の改札だったようだ。唇を噛む力が無意識に強まっていく。泣いたら、だめだ。負けだ。目の前が滲んで思わずしゃがみこんだ。早く立ち上がらなければ、きっと優しい駅員さんに心配されてしまう。とりあえずタオルを、と鞄を探る私に影がかかった。
「桜?平本桜?」
ふわりと香るせっけんの匂い、真っ直ぐな黒のロングヘアと切れ長の二重、ショートデニムからすらりと伸びる脚。高校生の頃から私の憧れを纏い続けた彼女が、そこにいた。
「碧?羽川碧?」
「やっぱり桜じゃん。どうしたの?具合悪いの?」
「あお、あおいだ、あおいだぁ……。」
「え、何?顔ひどいよ。」
碧は私を立たせると、地面に直接置いてしまった鞄を持ち上げて底を払ってくれた。もうかなり使い古した物だから、そんなに丁寧に扱わなくていいのに。
「それで、どうしたの?」
「具合は悪くない。」
「それなら良かった。」
私は大きく空気を飲み込んで、 今日の悲劇について語ることにした。

「失恋した?相鉄まで来たら地元に帰った安心感があって泣いた?それだけ?」
「それだけ、って言ったらそれだけだけど!碧ひどい。高校の卒業式以来だから三年振りの再会でしょ。もっと優しくしてよ。」
「もう三年?……元々お互い用が無いと連絡しないタイプだしそんなもんか。」
碧は唇の片側をつり上げて呆れたように笑うと、私の手を引いて歩き出した。各停電車が停車するホームの方向だ。変わりがなければ彼女は鶴ヶ峰、私は二俣川に住んでいる。だから横浜から一緒に帰る時はいつも両方に停車する快速電車に乗っていた。どうやら話をゆっくり聞いてくれる気はあるらしい。
「……付き合ってたわけじゃないけどさ、大学入ってずっと仲良かったんだよ。二人で映画見に行ったりもしてさ。いや、もしかしたら仲が良いって思ってたのは私だけだったのかな。高校の時からの彼女いるって一言も言わなかったし。でもさ、私にとっては一世一代の恋だった訳ですよ。」
「あんたの一世一代の恋は一年に一回くらいあるから何とも言えないけど、その男も優柔不断だね。あんたのことしばらくキープ扱いしてたようなもんでしょ。」
「しかも本人の口から聞いたんじゃなくて、デート現場に出くわすっていうね。」
「相変わらず見る目無いね。」
うつむきながら、手を引かれるままに車両に乗り込む。碧は少し車内を見回すと、二人掛けの赤いシートに腰を沈めた。
「私だってデートしたかった。」
「したんでしょ?二人で出掛けたって言ってたじゃん。」
「私は、恋人同士の、デートが、したかったの。海老名のららぽでショッピングしたり、湘南台でプラネタリウム見たり、ムービルで映画見た後に近くの店のクレープ半分こしたり、そういうデートがしたかったの。」
「その行動範囲で、よく相鉄線外の大学行ったね。」
「横国とか慶應に行きたかったとは思ってるよ。馬鹿だから無理だけど。」
「あんたは代わりに絵も描けるし手先も器用なんだから、勉強くらい諦めなって。」
確かに私の偏差値が足りていたら、本当に相鉄沿線の大学へ進んでいただろう。残念ながら頭の出来はそこまで良くはない。合格祈願のお守りである”ゆめきぼ切符”でも救いようのないレベルだ。話を元に戻そうと口を開きかけた瞬間、ドアが閉まって車窓の向こうのホームが流れ出す。私は慣性の法則で揺れる吊り革たちの中にオレンジを見つけた。
「あ、そうにゃんだ。」
「は?」
「つり革、そうにゃんの形。」
私は碧の斜め上を指差した。
「あいつ、そうにゃんっていうんだ。可愛いけどタヌキだと思ってた。」
「碧って美術2だったよね。そうにゃんっていえばさ、彼がソウタロウって名前でね、私そうにゃんのスタンプ買ってメッセージ送る時にめっちゃ使ってた。」
「なにその相鉄民以外に伝わらない謎のアプローチ。」
「やっぱ都民相手じゃダメだったかー。」

 数ヶ月振りに乗った各駅停車は記憶より駅と駅の間が短くて、数年振りに会った友人は記憶通り心地良い。 話を聞いてもらうためにこの電車に乗ったのに、私たちは結局あまり多くの言葉を交わすことはなかった。決して気まずくはない。高校時代もこんな風だった。そもそも私の中の碧は友人というより憧れなのだ。頭が良くて、スタイルも良くて、まさに私の理想そのものの女の子。周りに流されてしまいがちな私とは違ったその凛とした後ろ姿を、私はずっと追いかけていた。それを彼女に伝えたことはない。しかし伝えるなら今しかないのでは、という思いが次第に私の中で膨れ上がってきた。本格的に当初の悩みは吹き飛んで、私は彼女の横顔を伺った。
「……何?」
「まつげ長いなって思って?」
しかし伝える、といっても何と言えばいいのだろうか。好きです?憧れです?軽く流されてしまいそうだ。そもそも伝えたところでどうなりたいというビジョンも無い。そうこうしている間に電車は走っていく。あとひとつで鶴ヶ峰というところで碧が私に問いかけた。
「今夜の予定は?」
「え?何も無いけど。」
「同じだ。」
焦る私とは裏腹に電車は鶴ヶ峰に近付いていく。
「久しぶりに桜に会えて嬉しかったよ。」
「私も。あのね、」
「だからね、」
鶴ヶ峰到着して扉が開く。しかし碧は立ち上がる様子は無い。
「碧、閉まっちゃう。」
「だからね、私と寄り道しない?」
「え?」
発車音とともに零れた彼女の微笑で、私の中の彼は本格的にどこかに吹き飛んでしまった。

高校の最寄駅の本屋を一周した後に、改札の中のパン屋で買い食い。それが私と碧のお決まりの寄り道コースだった。私の交遊関係はそれなりに広い方だったけど、その寄り道だけは碧と二人きりだった。帰宅部の友達が他にいなからでもあったし、今考えると無意識に碧との時間を独占しようとしていたとも思える。
「どこに行くの?」
「桜が今考えているところ、たぶんね。」
だとしたら、瀬谷駅だ。何故か碧の予想は外れていない気がした。彼女は私に関することになると優秀な予言者だ。平日の夕方だからきっと見知らぬ後輩たちも大勢いるだろう。そんな目的地を想像するとわくわくしてきた。
「桜はまだ二俣川に住んでるんだよね?」
「うん。」
「じゃあ定期範囲外になっちゃうね、ごめん。」
「全然大丈夫!それより、碧もまだ鶴ヶ峰だったんだ。隣の駅なのに全然会わないね。」
「私は急行に乗らないから。」
二俣川のホームに到着すると、私たちは乗り換え待ちのために降車した。乗りっぱなしでは湘南台方面に連れていかれてしまう。
「ホームからじゃ分からないけど、二俣川ってけっこう開発進んでるんだって?羨ましい。元々免許センターもあるし買い物もしやすかったし、しかもちょっと歩けば大池公園もあるから自然も確保されてるし。それがもっと良い場所になるなんて。」
「進んでるっていうか、もうほぼ完成かな。私は鶴ヶ峰も好きだよ?駅前も便利だし、一本内側の道入るだけで懐かしい感じの商店街あるし。」
「私そこの近くの喫茶店でバイトしてる。」
「本当?すごい似合う!」
構内アナウンスが流れて、定刻通りの急行電車がホームに滑り込んできた。降りる人が多いとはいえ座るのは難しそうだ。
「鶴ヶ峰っていえばさ、」
「畠山重忠公?桜と鶴ヶ峰を歩いたのってあの時くらいだからよく覚えてる。」
「そうそう。夏休みの課題だったよね。博物館でも史跡でもいいから、行ってレポート書けって。行った証拠に自分が写ってる写真付けなきゃいけないやつ!」
「横浜市市外出身の先生だから困惑してたよね、首洗い井戸とか。」
「でも良い成績付いたし、めっちゃコスパ良かったよね。困惑されたけど。」
満員では無いけれど座れはしない。当時と同じくらいの混雑具合の車内で、私たちは確かにあの頃の私たちだった。

瀬谷駅に到着してまず始めに驚いたことは、思い出のパン屋がコンビニになっていたことだった。もし仮にまだあったとしてももう通うことはないだろうに、無くなったものに気付くことはいつだって寂しい。それは人だって場所だって同じことだ。私の知らないところで変わっていくものなんて、きっとたくさんあるのに。
「そんな残念そうな顔しないでよ。私だってちょっと寂しいけど。」
「……うん。」
出鼻を挫かれたような気分だけど、ここだけじゃない。その思いが私を前に進ませた。
結果として、駅では他に目立った変化は見つけられなかった。所々で工事がされていたり、記憶に無い店があったくらいだ。お陰で本当に当時と同じ寄り道をしている気分になれる。私たちの頃と変わらない制服を纏った女子高生とすれ違う度に、自分たちが私服であることに違和感さえ覚え始めた。もう制服なんて着られない年齢なのに。
「どこまで行く?」
「そこまで。」
碧の”そこまで”が一体どこまでかは判らないが、きっと母校までは行かないだろう。バスか徒歩か悩む距離だ。この寒い時期のしかももうすぐ日の入りだという時間に行こうとは思わない。本音ではあの森に沿った道は懐かしくもあるけれど、春には美しい桜並木も今はまだ枯れ木の行列だ。
「碧?」
碧は私の手を引いて、ある場所で立ち止まった。先程から口数がひどく少ない。
「ねえ、碧ってば!」
「桜は覚えてる?」
「え?」
意図の読めない碧の問いに首を傾げた瞬間、まつげを伏せた彼女の肩越しの景色が輝いた。ここは歩道橋の上、バスロータリーに降りる階段のすぐ横だ。冬の朝の静謐な空気の中に颯然とした富士山が見えたことをよく覚えている。だから、この光景は当たり前のことなのだ。
「碧後ろ!夕陽がすごく綺麗!」
思わず碧の横をすり抜けて、手すりから身を乗り出した。
「ねえ、あお、い……?」
碧の方を振り返った刹那、一陣の風がまるで走馬灯のように三年前の光景を見せた。夕陽の中の儚い視線、風に舞い躍る黒髪、石鹸の香り。どうして忘れていたのだろう。
『碧は変わらないでね。』
『碧はそのままでいてね。』
『碧はずっと、』
どうして忘れていたのだろう。たった三年しか経っていないのに。私はあの日あの時この場所で、今思えば残酷であろう言葉を彼女に紡いでいたのだ。憧れていたというただそれだけの事実を上手く伝えられずに、もう少し幼ければ恋愛感情と錯覚してしまいそうなそれを殺しきれずに。それから碧はずっと私の稚拙な祈りを律儀に守り続けていてくれたのだ。
「……その顔は思い出したみたいだね。」
「ごめ、ん。」
「謝ることなんて無いよ。」
碧は視線をこちらに向けないまま、私の横の手すりに両手を置いて話し続けた。
「私ね、桜に憧れてたんだ。」
「え?」
「私と違って友達はたくさんいるし、勉強できなくても周りに可愛がられてて、しかも絵を描くことなんて特技まであって。」
「うそ。」
「嘘じゃないよ。だからね、あの時桜がどうしてあんなこと言ったのかは解らなかったけど、桜が望むなら変わらないでいようって思った。……会えなきゃ意味無いのにね。」
表情は見えないけど、きっと碧は自嘲的な笑みを浮かべているんだろう。毛先を指でくるくると遊ばせている。
それさえも絵になる彼女が私に憧れている?そんなの、
「嬉しい。」
「嬉しい?」
「私が憧れてる碧が、私に憧れてくれてたなんて、嬉しいに決まってるじゃん。」
私が今日涙を溜めていたのは、この時のためだったのだろうか。だとしたら神様はとんだ策略家だ。
「桜が私に?」
「普通そうでしょ。憧れられる側の人間は、私じゃなくて碧でしょ。」
「何言って、」
「私は、碧に、憧れてた。だからこそ碧に私の知らないところで変わっていってほしくなくて、あんなこと言っちゃった。」
変わらない人間なんていないのに。私は写真のように、あの憧れを時の流れから切り取ってしまいたかったのかもしれない。
「でもさ、変わらないものなんて無いよね。パン屋は無くなってたし、私たちは制服を着てない。」
「……そうだね。」
「謝るから、だからあの時の言葉は撤回させて。それで、」
私たちの視線はようやくぶつかった。夕陽はもう沈んでしまいそうだ。
「それで、また今の碧と仲良くなりたい。」
「……。」
「だめかな?」
沈黙は怖いけれど、碧の目に迷いは無かった。
「だめなわけ、ないじゃん。桜はほんともう、しょうがないなぁ。」
「私たち遠回りしちゃったね。」
お互いの両手を握り合うと、どちらからともなく涙が零れた。通行人の視線なんて気にならない。今はすれ違った時間を洗い流してしまおう。そうすれば大丈夫だ。毎日同じ場所で過ごしていた高校時代とは違うのだから、思い立ったらすぐ連絡をしよう。そうしないと会えないことに気付こう。たまには二人で出かけよう。前に一緒に出掛けた場所でもいいし、新しい場所でもいい。寄り道もたくさんしよう。それから碧にシフトを聞き出して、彼女のバイト先に私がコーヒーを飲みに行こう。大学はどう?って話して、それから、それから、
「ふふっ。」
一頻り泣いた後、碧は笑った。大陽が沈みきって気温がぐっと下がったが両手は温かい。
「大人なのに外で泣いちゃった。」
「大人だって泣くよ。」
「そうだけど。ねぇ、桜。」
「何?」
「春になったらさ、またここに来よう。駅から学校までの道を歩こうよ。お花見の代わりにさ。」
「うん、すっごく綺麗だもんね。」

最寄駅である二俣川に戻ると、最近では見慣れた新しい車両のポスターが目に入った。確か昨日、幼稚園児くらいの男の子がとても楽しそうにそのポスターの前で写真を撮ってもらっていた。私もネイビーブルーの車体に出くわすと少しわくわくはしていたけど、実は今慣れ親しんでいるシルバーの車体が無くなってしまうことを考えては寂しさを感じていた。でもそれで良いんだ。昔の黄緑色の車体が私の記憶の中では鮮やかなように、あの子もきっとシルバーの車体を忘れない。
「満月だ……!」
グリーングリーンが無くなって様変わりしていく南口を惜しくも思うけど、高い駅ビルの完成度が気になって上を向くことが増えた。変わっていくことは寂しいことだ。でも、それを乗り越えなければ明日は来ない。桜は散ってしまうけど、まだ見ぬ次の春を待ち焦がれている。それと同じように、すべては”さよなら”だけじゃないのだ。
 スキップしたいくらいの気分で帰路についた私のポケットの中では、碧からのメッセージを知らせるメロディーが鳴っていた。

著者

矢ヶ部春菊