「ハッピーバースディ早希」内野行雄

「好きな人ができた」
横山早希はそう言った。春の暖かな風が早希の髪を揺らし、桜色のコートもよく映える穏やかな春だった。
しかし早希の表情は冷ややかだった。早希は車道に停まっていた黒いスポーツカーに乗り込む。運転席には新しい彼氏と思われる男が乗っていた。
小原沢優介はその様子をただただ呆然と見送った。あれは優介が高校を卒業してから社会人1年目の春、早希にとっては大学1年生の春のことだった。桜が散るとともに優介の恋も散っていった。
あれから12年が経つ。早希は元気で暮らしているだろうか。どこに住んでいるだろうか。
優介は地元を離れず相鉄線沿線の瀬谷駅近くで小さな自動車整備工場で働いている。職場は屋外で夏は暑く冬は寒い。中年オヤジ2人と車に囲まれた生活がもう何年も続いている。あるとき黒い車が修理にやってくるとあの日の出来事を思い出してしまう。この車の持ち主はきっとあのときのあいつ。助手席には早希が乗っていたのでは。いったいどんなドライブデートを重ねてきたのだろうと。
あれから12年、もう30歳、ちょっとしたオジさんだと優介は思う。
夜、汚い職場を自転車で抜け、春の暖かな風を受けながら桜並木を通過し20時に食品スーパーへと辿り着く。
つい2時間前まで主婦たちで賑わっていたであろう店内の客はくたびれた独身サラリーマンと優介ぐらいのものだった。品薄状態になった店内を歩き、30%引きになった残り物の弁当を買い、自宅アパートにつく。
6畳の和室には自分で描いた早希の似顔絵が飾られている。その似顔絵に優介は「ただいま」と言って先程の弁当箱を広げる。そんな毎日だ。もしかしたら早希が突然訪ねて来てもう一度やり直したいと言い出すのではないか。
そんな期待を胸にいつ来てもいいように部屋は綺麗にしている。退屈な毎日をしのげるのは早希との思い出があるから。
早希はきっと戻ってくる。いや、戻ってこない。早希にとって自分など頭の片隅にもないのだろう。
それでもいい、早希が幸せなら。そんなことを思いながら優介は寝床につく。
休日、優介は予約していたケーキを受け取りに駅前のケーキ屋に立ち寄る。
「ケーキを予約していた小原沢です」
店主の中年男が帽子を取り、頭を下げてやってくる。
「できてるよ、毎年ありがとね、まいど」
四角い白い箱を受け取り軽く会釈して優介は店を出た。そして早希と過ごした思い出の河原へと足を伸ばす。あの頃と何も変わっていない風景がそこにはある。鳥の鳴き声、穏やかな川の流れ、今年も桜が綺麗に咲いている。ひとつひとつ噛みしめて歩いていると早希の声が聞こえてきそうだ。高校の行き帰りに相鉄線の中で交わした会話も思い出す。
早希は今も相鉄線に乗ることがあるだろうか。
優介のそばを前カゴに小さな女の子を乗せた30代くらいのお母さんが自転車で通り過ぎていく。
早希も結婚して子供を授かっただろうか。ママチャリに子供を乗せて買物に行くことがあるだろうか。
公園などで子供を遊ばせることがあるのだろうか。優介は河原の土手に座りケーキの箱を開ける。ショートケーキの中央部にはチョコプレートがありHappyBirthday早希とチョコペンで書かれている。今日は早希の誕生日。
早希はどんな誕生日を送っているだろうか。
ロウソクを30本立て、ライターで火をつけようとするも火花が散るばかりで何度やってもつかない。
「これあげる」
その声に顔を上げると5歳くらいの女の子が手のひらにいっぱいの桜の花びらを詰めて優介に差し出している。
「ありがとう」
優介は花びらをこぼしながらも大事に受け取る。
「ケーキおいしそう」
「食べる?」
「うん」
女の子は弾ける笑顔で頷いた。
「サキ!」
叱りつける声で女の子の母親が近づいてくる。
「どうもすいません」
と、早希と歳の近い母親は頭を下げて女の子の手を取って去っていく。女の子は振り返り優介に寂しげに手を振る。
優介もまた微笑んで手を振る。
ライターを諦め、ろうそくの代わりに桜の花びらを30枚、輪にして置いてみる。
これを代わりに使ってとあの女の子が言っているような気がした。
あの女の子は偶然にも早希と同じ名前だった。
もしや5歳の頃の早希と会ったのではとそんなくだらない妄想をしながら優介は思い出の中の早希と一緒に早希の30歳の誕生日を祝った。

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