「ハツミ」山中友恵

 なだらかに続く坂の途中で立ち止まる。いつもと同じ場所、あの頃と同じように遠くに電車が見える。街路樹は真っ白な花を重たそうにつけ、またこの季節が来た事を静かに告げてくれる・・・。
 そう、一本の樹をぬかしては・・・。
 
 駅のトイレで今日は30分も出る事ができなかった。毎朝、謎の腹痛を見越して遅刻しないように早く家をでているのに、30分は予定外だった。いいとこ15分だろう。それにしても謎の腹痛、しかも今日に限っては吐き気というおまけつき。
 一時間目の途中で教室に入る勇気もなく、かといってマックで時間をつぶす図々しさも持ちあわせておらず、仕方なく一時間目が終わるまで隠れていることにした。どこに??
そうだ、屋上なんてあいてないかな・・・。
 古い校舎、四階の先に続く階段、すえた臭い、ほこりっぽい。おさまったはずの吐き気がまたこみ上げてきた。少しの冒険心とあまり持ち合わせていない勇気を振り絞って屋上へと続くドアを開ける。ノブは固く、苛立たしげに動いた。とりあえず鍵はかかっていないようだ。助かった。
 ドアを開けたとたん酸素を欲しがり水面でパクパクする金魚のように新鮮な空気を口にいれた。助かった。チャイムが鳴るまでここに居よう。二時間目が始まる前に何事もなかったかのように席に着こう。
 ん?誰かいる。居るはずのない場所で、居てほしくない人間がこちらを見ている。逆光で顔を確認するまで数秒、確認してから見た事のある人間だと認識するまで更に数秒、やっとのことで出た言葉は
 「おっおはよう。」
完全に間の抜けた挨拶と苦笑い。喉がカラカラに乾いていて自分の声じゃないみたい。そこにいたのは同じ教室で見た事のある人間だった。おそらくは・・・。
「あれ?なんであんたみたいな真面目ちゃんが朝から屋上に遊びに来たの?」
 涼しげな笑顔がなんだか癇に障る。だいたい同じ齢のはずなのに上から目線。
「あっ、ごめんなさい。遅刻しちゃったからここで授業終わるまで待ってようと思って。まさか誰かいると思わなかったもんだから。
だから、うん、もう行くね。」
 どこに行くんだ私。なんでも謝ってしまう哀しい癖を披露しながら捨てられた仔猫のように小さくなってしまった。
「同じクラスだよね?なんで?ここにいればいいじゃん。一緒に青春ごっこしようよ。」
 え?怖い人じゃないの?このまま逃げ出したかったけれど、やんわり断る上手い言葉も思い浮かばず、行く場所もないまま、その青春ごっことやらに付き合うしかなかった。
 どうやら、同じクラスの人間であることは間違いなく、彼女の名前はハツミという事が判明した。
 屋上は春にしては強い陽射しに包まれていて、目がくらんだ。太陽の強い光と春の風。長袖のブラウスには心地よくなじんでいる。
 思った通り眺めがいい。小高い丘の上にある学校の屋上は想像以上に遠くまで見渡せた。
駅前のマンション群、その間を気持ちよく通り抜ける電車、その奥には教会が見えた。もしかしたら、あれは蜃気楼のような新宿新都心かもしれない。
「景色最高だよね。ここ穴場。あんたも気にいった?」
 まるで自分の事のように誇らしげにハツミが微笑む。
「特に電車のすり抜けていく所なんて最高じゃない?ここから眺めていると、この街を征服した気になれるよね。」
 嬉しそうに話すハツミを見て美しい子なんだと気づく。サラサラと揺れる金髪のショートカット。どこまでも白い肌に林檎のような頬(これはチークを塗り過ぎていたけれど)  
私よりだいぶ短くしているスカートが春の風に揺れて、パンツが見えるんじゃないかとこっちが心配になる。切れ長の目の上にはブルーのアイシャドーが涼しげにのっていた。
「青春ごっこにはもってこいの場所。ねぇ恋愛の話しない?青春といえば恋愛っしょ。」
「ごめん。無理、そういう話。」
 恋愛なんてした事ない私が、そんな想像力豊かでもない私が、恋愛の話なんてできるわけがない。
「だと思った。いいよ、言ってみただけ。じゃあ一緒にたそがれよう。高校生活は始まったばかりだ。」
 ハツミが笑うのでつられて笑った。
「笑えるんだ。あんたさっきからくらーい顔していたから笑えない人種なのかと思った。」
 人見知りが激しいだけ。周りからは暗いとか怖いとか言われているのも解っている。でも治らないんだから仕方ないじゃん。だからハツミがこの高校に入学して初めて話す先生以外の人間だった。
 屋上の鉄柵によりかかりながらほとんどハツミがしゃべっていた。それでも私には新鮮だった。私が今まで関わらないできた子の部類にハツミは入る。
 派手な化粧、染めた髪、短いスカート、バカにしていた。そんなのはバカな子がすること。私は違う。自信があった。勉強だけは。だからあんな事が起こるなんて思ってなかった。
「どうしてこの高校選んだの?」
 急にまじめな質問。焦る。
「どうしてって言われると長くなるけど。ハツミさんは?」
「やだ、さんづけやめてよ。ハツミでいいって。同級生なんだよ。あんた本当に面白いね。」
初めて話した人をさん付けで呼ぶのは当たり前の事で、むしろ同級生だからという理由でいきなり呼び捨てなんてできるわけない。ましてや今まで友達でさえちゃんづけでしか呼んだ事なんてないのに、ハードルが高すぎる。
「んっ、じゃあハツミは?」
一ヶ月分くらいの勇気を使ってしまった。声は上ずったけど、どうにか言えた。初の呼び捨てネーム。
「私はね、受験した高校全部落ちたの。頭悪かったから偏差値低い所ばかり受けたのに落ちたの。それで途方に暮れていたら、なんと二次募集している高校発見。しかも私が普通に受けたら間違いなく落ちるレベル。こりゃありがたやありがたやで、うちの高校に拾ってもらったってわけ。だから二次募集で来た子達私含めてこんなんばっかりみたい。今年だけうちの高校偏差値下がったよね、絶対。」
 嬉しそうに笑うハツミを見てつられて笑っていいのか、困って遠くを眺めた。電車はのんびり春の風を運んでいる。
「で、あんたは?もちろん二次募集じゃないよね?」
「いや、二次募集だよ。私も・・・。本命は
S高校だったの。完全に入れるって塾の先生にも中学の先生にも言われていたんだ。だからまさか落ちるなんて自分も周りも思ってなくて、すべりどめとか考えてもいなくて。いつもそうなの。本番に弱いんだ私。試験の日に高熱。名前書くのも必死だった。そりゃ落ちるよね。バカみたい。なんでなんだろ。本当、いつもそう・・・。」
なるべく暗くならないように笑いながら話した。自虐的に。
「S高校。頭いいんだね、あんた。私なんて目指した事もないや。でもさ、結局同じ場所に居る。私がラッキーだったのか、あんたがついてないのか。どっちでもいっか。こうやって今があるじゃないか。」
相変わらず嬉しそうに話すハツミを見ていると自分がうじうじ悩んでいるのがおかしいような気分になる。不思議な子だ。
「二次募集してる高校ここしかなくて、とにかく高校行かないとかだけはさけたかったから。だから、入学した時ビックリした。派手な子が多くてさ。怖くなっちゃったんだ。」
そう、だから行きたくない高校、無理やり入学した高校、髪を明るく染めた子達、朝礼の時間にそろっているのはクラスの約半分、授業中に男子がコンドームをふくらませて作った風船を投げて遊んでいるのを見て心底、驚いた。まさかコンドームを教室で初めて見る事になるとは思わなかったから。しかも授業中に。
「だから、ここにいるんだ?」
当たりでしょ?とばかりに自信満々の顔でハツミが空を進む飛行機を見上げて言った。

 8時45分の朝礼に間にあう日が週に3回あればいい状態だったので必然的に屋上で2時間目を待つ事が多かった。ハツミは居たり居なかったり。気分次第で朝から授業を受けている日もあれば、午後から顔をだしていたり。教室では他の派手なグループの中に居たので私からは話しかける事はしなかった。私は相変わらず一人のまま。ハツミと屋上で会う時間だけがいつのまにか楽しみになっていた事を今なら認められる。

その日も乗り換え駅のトイレからでられず1時間目には間にあわなかった。蒸し暑い日だった。そろそろ梅雨入りしそうな重い空とにらめっこしながら屋上に居た。まだ降らないでね、2時間目まではここに居るんだから。雨も降っていないのに傘を広げるハツミは初めて傘を持つトトロみたいに楽しそうで、私のそんな想いなんて想像もできないんだろうなと横目で見ていた。
「エアー雨っ。」
傘を振り回しながらわけのわからない事を叫んでいる。他に人がいてもやるんだろうな、ハツミなら。暑かったから半袖のブラウス。白くて細い腕。何の気なしにハツミの白い腕を眺めていると、ん?左腕だけに赤い無数のミミズ腫れのような傷。ザワザワした気持ち。悟られないように目を傷からそらす。なんだったんだろう。見てはいけない物を見てしまったような罪悪感が胸に広がる。
ザワザワ・・・・ザワザワ・・・
ハツミが私の不安そうな顔に気づいたように隣に立つ。同じ景色を二人で見ている。どんよりした雲から光が射す。天国に続いているような光がこの街を照らす。ながれていく電車を目で追いながら、呼吸を思い出す。はいて、すって、はいて、すって。
「別に隠してないから。そんな動揺しないでよ。隠していたかったら半袖なんて着てこないよ。自分でたまにやっちゃうの。案外傷って残るんだね。分っていてもまた、やっちゃうの。癖みたいにやめられなくなっちゃったんだ。やばいよね、私。」
二人の間を生温かい風がすりぬける。風が頬にはりつくように、心地悪い。こういう時何か気のきいた言葉をかけられたらいいのに、人生経験の乏しい私は喉の奥に言葉がつっかえたまま声にならない。急に声帯がしぼんでしまったのかもしれない。
沈黙。風の音、湿ったにおい、汗ばんだ手。
私が何も言わないのが分ると(実際には何も言えなかったのだけれど)ハツミがもっと距離を縮めてきた。近い。すぐ隣りから発せられる体温が伝わってきそうな距離。心なしか温度が一度くらい上がった気がした。
「うちね、お母さん中学の時に逃げちゃったの。私と弟を置いて急にいなくなっちゃった。原因はなんとなくお父さんの暴力だって分っていたけど、だからって私と弟おいて逃げるなんて想定外。そりゃあ人並みに傷ついたわけ。お父さん、いつもは優しいのに酒飲むと別人になっちゃうんだ。だんだん、別人になる頻度が増えてきて最近では毎晩別人。もう、見境なくなっちゃったみたいで、私や弟にも暴力ふるうからまいっちゃってさ。今度は私が逃げちゃった。今ね彼氏の家にいるの。もう家にはずっと帰ってないや。お父さん自分に負い目があるから帰って来いとか、なーんにも言わないんだ。親失格だよね。娘ほったらかし過ぎ。お母さんも、お父さんも、ホントそんなんなら子供なんて産まなければよかったのにさ。バカみたい。」
つらつらと耳元でささやくハツミはやっぱり笑っていた。こんな重い話しを笑いながら話せるハツミの精神状態が心配になった。なんで笑えるの?全然分らないよ。
「私になんて言ってほしいの?弟さん置いてきちゃって自分だけ彼氏の所に逃げて、それでハツミはいいの?ハツミは逃げる所あったから良かったじゃん。それなのに、自分の腕傷つけてそれでどうしたいの?誰かに心配してほしいの?全然分らないよ。そんな深刻な話笑ってするの全然分らないよ。」
本当に分らなかったし、無性に腹が立ったのだ。今想えばハツミは悪くない。深刻な話をわざと軽く話して私に余計な心配させたくなかったのかもしれない。それでも、話したかったからこそ笑いながらいつもの軽いノリでつらつらと打ち明けてくれたのだと今なら気づける。ハツミがどんな想いで逃げたのかも・・・。
それでも、あの頃の私にはそんな事を考える余裕も経験もなく目の前の物事を日々処理していくので精いっぱいだった。
十五歳・・・まだ自分の経験したことでしか他人を計れない。自分というものさしが短すぎて。
「ごめん。あんたがそんな怒るとは思ってなかった。あんたでもそんな顔するんだね。勉強になったよ。」
 一時間目が終わるチャイムが鳴る。雨は降らなかった。ハツミが屋上の扉を開け静かにいなくなった。結局何も伝えられなかった。初めて誰かに怒りをみせた興奮状態なのか、しばらく動けずにいた。眼下に広がる街の間からまた、のんびりと電車が通る。私も行かなくちゃ。二時間目が始まる前に。
二時間目は得意の倫理だったけど、先生の軽快なジョークも、真面目な話も何も頭に入ってこない。かろうじて黒板を写すことはできたけど、行き場のないモヤモヤをどうすることもできずハツミの席を見る。いつも通り睡眠中のハツミは私のこのモヤモヤした気持ちなんて絶対にわからないのかと思うと余計モヤモヤした。想っている事の半分も伝えられない自分の語彙のなさと、経験不足に悔しくなった。いつだって想いはうまく伝わらなくて溝は深まるばかりで、本当はこんな事が言いたいんじゃないのに変な言葉ばかり出てきて自分を驚かせる。後になって残るのは寂寥感で途方に暮れる自分。
 それからも、何度も恒例の朝の腹痛に見舞われ、屋上で一時間目をやり過ごしたが、あの日以来ハツミはいなかった。学校でもあまりハツミを見る事がなくなった。そう、ハツミは学校に来なくなったのだ。たまに来てもお昼からで、少し授業に出ていなくなる。さすがに自由な校風のわが校でも先生が気にしているのは分った。このままだと進級が危なくなるからだ。私は出来る事なら、もう一度屋上でゆっくりハツミと話たかった。あの日の事でなくても、ささいな話でいい。駅前の相鉄ローゼンの中にある100均の話でも、ミニストップのハロハロは何味が一番おいしいかでもなんでもよかった。ただただもう一度ハツミと時間を共有したかった。一緒に笑って空を見てまた、青春ごっこがしたかった。でも、私は私のままで屋上以外でたまに学校に来たハツミに話しかける勇気もなく、いつも友達に囲まれているハツミを遠くから眺めるのが精いっぱいだった。
そんなもどかしさを残しながら期末試験が無事終わり、いつも通りトップの成績をキープしてホッとした。一人の帰り道、坂道の途中で珍しく一人で歩くハツミを見つけた。さすがに試験は出席しろと先生に言われたのだろう。成績も付けられなくなる事態はまぬがれたようだ。ハツミが一人だったのでいつもより声をかけるハードルは低く、教室じゃないので万が一の時は逃げ場もある。今日しかない。坂道を走る、暑い、そろそろ梅雨明けかな、今日もいい天気だ。
「はっ、ハツミっ。」
走ったから息切れしているのか緊張から声が出にくいのか、心臓が主張していた。ハツミは驚いた顔で振り向く。金髪の髪がサラリと揺れた。
「おっ、久しぶり。誰かと思った。試験だから来ないとやばいって先生におどされてさぁ、とりあえず名前書きに来たの。できるわけないじゃんねぇ。」
久しぶりの会話。この前のことなんか忘れているみたいに自然に流れてくるハツミの声。
この自然さが嬉しかったけど、でもこの前の事は、まだ流さないでほしかった。伝えてない事が沢山ある。伝えたい事がありすぎる。あれから何度も心の中で練習した。今度こそ、ちゃんと分りあいたい。
「この前いきなり怒っちゃってごめん。なんか自分の気持ちがわからなくなって、でも、これだけは伝えたかったの。私もハツミみたいに逃げたいの。でもね、私には逃げる場所なんてないの。だから、ハツミがうらやましくなったのかも。」
そう、物心つく前からだろうか、小さい頃の記憶は殴られた場面ばかり。あるときはスリッパでお尻を、ある時はビンタを、何度も何度も泣いて謝る私を両親は執拗に痛めつけた。寒い夜、外に裸足のままだされてピンポンを押し続けた事もある。ずっとそれが普通だと思っていた。小学生になったある日、友達に話したら、私だけだった。友達の誰も親にそんな風にはされていなかった。うちはおかしい。そう気づいてから余計に無口になっていった。ただただ、愛されたくて、大好きだって言って欲しくて親の機嫌を伺うようになり、いつしか他人の機嫌も伺うようになり、自分を殺した。私はもういない。愛されるためにいい子になった。
真夏の晴天の帰り道にする種類の話ではなかったが、ハツミは静かに聞いてくれた。途中何も言わなかった。ただただ、静かにうなずいて気が付くと帰り道は終わり駅に着いてしまっていて、それでもまだ話は終わらず二人で駅のロータリーのベンチに座っていた。話し終わった時やっと空腹を覚えた。もうとっくにお昼を過ぎていたようだ。沢山の、着いては人を乗せていくバスを眺めながらハツミがようやく口にした言葉は予想外だった。
「逃げてもいいんじゃない?あんたも。逃げ方なんて人それぞれだよ。あんたらしい逃げ方探せば絶対あるよ。いい子じゃなくても生きていけるよ。さあて、腹が減ったわ。マック寄っていかない?」
勝手に立ち上がり、スタスタと駅前のマックへ歩いていくハツミに半ば強制的についていった。そこには絶対的な安心感と自信があった。今日、ハツミに話したことで何の解決にもならなかったような気もするし、少しだけ前に進めそうな気もした。後者の方の予感が当たっていればいいなと思う。

期末試験が終わればすぐ長い夏休みがやってくる。私にはあまり楽しみもなく、用意された夏期講習に毎日通うだけの義務的な日常が待っている。この高校に入学した時点で私に対する親の失望感は半端なく、以前にもまして居心地の悪い状態が続いていたので私に反発の余地はなかった。もちろんハツミとは終業式以来会ってはいない。自分に課せられている義務を2週間ばかり果たした頃、珍しく家の電話が鳴った。出る気はないので無視をしていた。親がいない時、基本的に電話が鳴っていても私が出る事はない。ただ、今回の電話はいつもよりしつこく、強く鳴り響いている。どうしよう、うるさいな。セールスにしては、なかなか諦めない。倦怠感を引きずりながらどうにか受話器を取った。
高校の連絡網だった。聞きなれない声。名簿順で私の前だという同級生からの言葉。泣いているようなくぐもった声が受話器から漏れる。
受話器を置いた手は汗でぐっしょりで次の人へ電話をしようとしたがうまく声が出なかった。
急に体中が震えだし止まらなくなる。歯がガタガタと静かな居間に薄気味悪い音を響かせていた。どのくらいそうしただろう、電話の前で座り込み長い間震えていた。
  ハツミが死んだ。

 お通夜にはクラス全員で参列したが、誰ともハツミの死を分かち合う事はできなかった。ひどく泣いている女子達を見てうらやましかった。感情を誰かと共有できる事が、感情をそのまま外に出せる事が。逃げられずにいるハツミの弟も、暴力をふるってしまうお父さんも、そして逃げてしまったお母さんもうつむきながら赤い目を腫らしていた。ハツミだけが祭壇でにこやかな笑顔を振りまいていた。それからしばらく私は自分がどういう生活をしていたのかあまり覚えていない。毎日抜け殻が残りの夏期講習をこなしていたのだと思う。
 「逃げてもいいんじゃない?」ハツミの言葉を何度も心の中でリピートした。私らしい逃げ方。私らしい。
 駅へと続くなだらかな坂道の途中でハツミは逝った。例の彼氏が運転するスクーターの後ろに乗りそのまま街路樹に衝突したらしい。スクーターはそもそも一人乗り専用だ。おまけに運悪くヘルメットもしていなかったようだ。スピードも出し過ぎていたのかもしれない、でも運が悪すぎる。彼氏は助かったのに。その後全校集会が開かれ、スクーターを二人乗りしてはいけないとうい注意と、ヘルメットをしないことによる頭への衝撃の恐ろしさを警察の人と先生が涙ながらに訴えた。蒸し暑い体育館の床だけが冷たく感じた。私はまだ抜け殻のままだったけれど誰もそんな事に気づいてはいなかった。私はまだハツミの言葉をリピートし続けていた。
 私らしい逃げ方。私らしい・・・。
 
 あれからもう十五年。未来に居る自分と未来に行けなかったハツミ。毎年夏が来るとここへくる。なだらかな丘、そこから見える相鉄線、あの頃にはなかった新しい車両が走っている。私はあの後、逃げる事にした。自分らしく、そして両親を失望させる事もなく。秋になり交換留学生を学内で募集したのだ。今まで考えてもいなかった事だがこういう形であれば両親から、この生活から逃げられる。世間体、近所からどう見られているかを異常に気にしながら生きている両親だ。娘がカナダへ留学ということで喜んで快諾してくれた。最初は少し怖かったけれど、日本に居るより私でいられた。殺したはずの私は生き返ったのだ、ハツミのおかげで。留学期間が終わり日本に帰国してからも、また海外の大学へ行きたいと勉強した。目標が出来たので色んな事が全く苦にならなかった。現在は、いつかのように相鉄線沿いに戻って暮らしている。やはりここは私の大切な場所、原点。
一つだけ花の咲かない木にむかってそっと手を合わせる。
(相変わらず花を咲かせないわけね。ハツミらしいや。)
夏はまだまだこれからだと言わんばかりに産まれたばかりのセミたちの声が聞こえている。
「ママ、いつまでお祈りしているの?そろそろ行こうよ。」
いつものように温かく柔らかい手を握る。なだらかな坂道を駅に向かってゆっくりと、でも確かに進んでいく。
 
 

著者

山中友恵